読書と学び

社会をよりよくしていくために今、自分ができることはなんでだろう

分散登校がはじまり、1週間が終わりました。

お昼時にニャオタロー(ネコ)に餌をあげよう一度、家に戻ろうと昇降口で靴をはいていたら、前年度の子どもたちと久しぶりに会えました。「いやー!ひさしぶりー」とハイタッチならずのエアタッチ。どうもすかすかして気持ちがわるけど、うれしい。

3ヶ月会わないだけで、声変わりしている子やぐっと背が伸びた子もいました。「なにしてたの?」と尋ねると、「なにも〜」「ごろごろしてたー」と即答。いい時間を過ごせていたようです。

やっぱり、学校はいいなぁ。もうひとつの家族のようで。

今週は、分散登校と自宅でのzoomを使ったオンラインホームルームの交互勤務。自宅時間をうまく使って、これまで参加できなかった企業系の研修にzoom参加しました。以前、NPOでお世話になったゼロックスのフューチャーセンターでお会いした荻原さんの「知識創造プリンシプルフォーラム」。

ここ数ヶ月、創造的な学びについて思案している中、野中郁次郎さんの「知識創造のSECIモデル」にヒントがあるのでは? と行き着きました。そこで、コロナ禍のもと、これからの社会向けて企業が何を創り出していくのか動向を知りたく気軽にzoomウェビナーに参加。ほんと、この時代、とても気軽に研修に参加できるのは、でぶしょうの僕にとってはとても助かります。

気軽に参加したけれど、ドストライクでした。この知識創造世界でのグルであるラリー・プルサックさん(不勉強のため知らなかったので著書を購入、これから読みます)からの動画メッセージに「いかに社会の役にたてるのか?を語ろう」とありました。がーん。実は、これが一番、僕の胸につきささりました。目の前の学級の子どもたち、そして学年、学校づくりそういう視野では考えることはあったけれども、社会的意義については、後は野となれ山となれだったなぁ。。。

本校では「地球市民の時間」という新しい教科を立ち上げました。英語をツール化せずに、人権や差別、世界でおこっている出来事に目をむけながら学んでいきます。僕は、ここに大きな可能性を感じています。しかし、いきなりグローバルな視点ではむずかしいもの。自分が今、生きているこの社会っていったいなんなのだろうか? 僕にとっての社会ってなんなのだろうか? 大きな事でなくてもいいので、身近な生活がちょっとだけでもよくなっていくための問題解決をしていきたい。これは、ラリー・プルサックさんの「いかに社会の役にたてるのか?を語ろう」と、根っこの部分でつながっていることに気付きました。

このコロナ禍で、目の前のことをこなすことや慌ただしさの中で、見失ってしまいがちだったこと、思いださせてくれました。「社会にとっての今の自分」って一体何なのだろう。とても大事な問いをもらったと思いました。しばらくは、いまここでじっくりと考えていきたいと思います。

一方、忘れないようにしたいこと。それは、大きなビジョンを掲げて終わりにせずに、具体的な実践とセットで語れない限り、無力だと感じています。思いを描いて、計画にして、形にしていけるようなこと、これが今の僕にとって、創造的な学びの第一歩なんだと思えてきました。

たった一つでいいと思う。人とのつながりの中で、身近な社会や身近な生活を少しでもよりよく変えていくこと。その問題解決することを、僕自身がまずトライアンドエラーでやっていこうと思う。最初はしょぼしょぼだっていい。あきらめなければ。これこそTQJ(探究自学ノート)になっていくんじゃないだろうかな。そして、これはきっと夢中になる楽しさに没頭する学びとは対立することではないはずだから。こういったことも、のちのち子どもたちと一緒につくっていきたいなぁ。

そのため、まず都知事選挙に行こうと思う。政治家が今、何を語るかよりも、これまで何をやってきたのか、やれなかったのかを鑑みて、慎重に投票しようと思う。民主的であるって事は、こうも自分の頭で考えて、決断しなければならないことが多いとはねぇ。なかなか大変ではあるけれど、大変納得できることでもありますね。

社会をよりよくしていくために今、自分ができることはなんでだろう。何をやりたいんだろう。考え中。

子どもたちに必要なことを語り合えること

このお正月からの休み。何年ぶりだろう? ずっと風邪で寝込んでいました。節々の痛み、喉の痛み、腹の痛み、頭痛、そして倦怠感。高熱だけは出なかったけど、インフルエンザかな? と疑うも、これはきっと予防接種のおかげとおもい、薬も飲まずにおとなしく布団で寝ることにしました。次の日も続くので、寝ることに。その次の日も。そしてその次の日も。なんだかんだいって昨日まで寝ていました。さすがにこのままじゃ職場に行けないと思い、1週間を前に病院に行きました。きっとインフルエンザだぜ!しかも治りかけだぜ!と大きな期待をふくらましつつ検査をすると「インフルじゃありませんね。ただのかーぜ」と肌の荒れた小太りの医者に言われ、なぜか落ち込みながら帰ってきました。ちょ、つまんないの。

そんなこんなで、年賀状の返信や、秘密で5年間書きためてきたブログを読み直したり、1年間のふり返りを書いたり、この1週間で人と会ったり、読みかけの課題本を読み終えたり、原稿書いたり、新学期の準備をしたりと、一切なーんもできずに、今日を迎えました。でもまぁ、こんな年の始まりもいいかな、健康を大切にしようと改めて職場に向かうのでした。

今日は久しぶりの学校。行きの電車の中で、資料と動画のチェック、午前中に自分が担当の校内研修が一つ。じっくりと先生たちみんなと1時間ほど、ワールドカフェ方式で対話の時間をとりました。そこでどのグループからも共通して出てきたのが

「児童期に大切にしたいことは、まず五感を使った実体験、自己選択・自己決定すること、自分と人とのつながりや関わりを大切にしていこう」という言葉の数々。

僕はこれがとてもいいなぁと思います。さらに、心打たれたのが、何かを表現する方法を身につける前に、何かを表現したくなるそんな気持ちそのものをていねいに育てたいという願いね。

くー。こうくことはついつい忘れがちになってしまい、将来のための準備だったり、未来の不確定な時代や身につけるべきコンピテンシーなど、そのために今ここの子どもたちをふりまわしがち。やはり、地味だけど、今、ここで、このときにしか体験できないことの積み重ねたその先に、その人一人ひとりにとって、本当に必要な力は見えてくるんだと思います。

この先、たくさん迷うと思う。この旗印をもとに、ていねいに進んでいこうと思います。こういう願いを率直に語り合える、いい職場だなぁと心から思います。

うちの学校の6年間の算数で大切にしたいこと。それは、「論理的な思考を育む算数」「感動する美しい算数」「生活につながる算数」の3つ。それらを串ざすものが、今日、話し合われた「五感を使った実体験」と「自分と人とのつながり」になりそう。おしおし。何か新しい未来が見えてきたぞ。

さて、明日はいよいよ始業式。久しぶりに子どもたちに会えます。何しよう?

第1章「脳の最良の学習方法」「Upgrade Your Teaching Understanding by Design Meets Neuroscience」

冬休みばんざーい。ゆっくりと本を読める時間がとれるのがなによりもありがたいです。

さてさて、「Upgrade Your Teaching Understanding by Design Meets Neuroscience」の第1章「脳の最良の学習方法」についてふりかえり。

この章は脳みそがどう動いているか?って話。良くも悪くも脳みそは変化しています。それを脳の可塑性というけれど。目や耳や音や味や触覚など私たちはたくさんの情報にさらされています。けれどもそれが脳みそに入ってくるのはわずか1%だけ! なぜなら脳みそは酸素や栄養素をぜんぜん保存できないから(それでも栄養素と酸素の20%を消費!)、超節約家のけちんぼ。だからこそ、サバイバルにいかせそうな情報だけを取り入れています。それが、パターン!

脳はこのパターンの変化にとっても敏感です。新しいことやこれまでと異なること、予想していなかったことや変化していることなど、これまでのほほんと生活してこれたことに、急遽変化が起こることに大きく反応してしまいます。

私たちの脳みそは、すでにインプットされているパターンに新しい情報を関連付けて知識を増やしていきます。すでにあるものに付け加えることで、脳みそを効率的に動かそうとするからです。まあ!なんてケチなんでしょ!

つまり、脳はパターンを通して理解すると脳にとってもやさしいってこと。けど、それだけだと脳は活性化しません。同じ事の繰り返しで退屈で飽きてきてしまうので、必要な情報として受け付けてくれなくなってしまいます。だから、脳には刺激が必要なんですよね。

脳が活性化するときは、脳はこれまでにあるパターンを使って、この先に何がおこりそうなのか「予想」しているとき。その予想があっていれば、大喜びをしてドーパミン(やる気を高める神経伝達物質)をどぱどぱ出して、大喜びして、さらに強化されていきます。これを繰り返すことで、より正確な予想ができるようになってきます。そして、これがまさに学習に応用できるってことです。しない手はありませんね。

”パターンを予想することによって導かれるこの予測能力は、成功するリテラシー、計算能力、受験、適切な社会的感情的行動、および理解の基盤です。予測の成功は、脳の最高の問題解決戦略の1つです。”

つまり、すでにもっているパターン、ここでは既有知識に結びつけて、新しい知識が獲得されていくため、このすでにもっている知識を使わない手はないってことです。これは、エビデンス本『学習に何がもっとも効果的か』にも繰り返し出てくる話です。

余談ですが、この知識の積み重ねがないと、一体なにに関連づけて教育していくのかわからない。だからこそ、そこまで何を身につけているのかを明確にする6年間の見通しや年間計画が大切になってくるってことなんですね。我、納得。

ちなみに、暗記は最も学習の転移がきかない、限られた文脈にだけしか効果がないことのもっとも悪い例としてあげられていました。短期記憶にいれられた新出漢字も、それが必要な文脈や豊かな体験がないと、長期記憶に送られないどころか、すっかり消去されてしまうということです。おそろしやー。

さて、この脳みそを効果的に使ったある有名な方法があります。そう何か、われわれは体験してきていることです。そう、あの不朽の名作で全世界で最もうれたあのゲーム「○ー○ー○○○ブラザーズ」です。

この章では「ビデオゲームモデル」を例に、生徒の学習を強化できると解いています。それは以下の4つ。

(1)望ましい目標の確立
(2)達成可能な課題の提供
(3)特定のフィードバックによる継続的な評価の提供
(4)最終目標に至るまでの進捗と達成の確認

マリオにあてはめると(あ、いっちゃった!)、
① ピーチ姫を助けるために(明確な目標)
② 繰り返し練習すればクリアできるコースで(達成可能な課題)
③ Bダッシュで穴をこえれば進めるし、落ちれば死んじゃう即座のフィードバックがあって(形成的な評価)
④ 今、8ー2まできた!と、どこまで進んでいるかが分かる仕組み(達成の確認)

この④のコースをクリアして、今8の2のBダッシュで越えなければいけない大きな穴のところまで来た!ってときに、それを越えたときに、ドーパミンをどぱどぱでるそうです。そう、少年ナオトはどぱどぱ出していたんですね。はずかしい。

”学習目標、その達成の証拠、および特定の目標が自分にどのように関係しているかについて明確に理解している場合、学生は関与して努力する可能性が高くなります。言い換えれば、目標は、脳が注意を集中し、エネルギー資源を適用し、課題が生じたときに持続するように動機付けるため、すべての学習にとって重要な要素です。”

ふむ。その通りです。ゲームに気付かずしばられていた仕組みがわかってきました。そこで、気になりなり、あの頃のゲームってそんなに考えられて作り込まれていたのでしょうか? 急遽気になったら、止まらない。この本を読んでみてすごい納得。

実なぜ少年ナオトがマリオやドラクエに夢中になってしまったのか? 実は巧妙にそうなるようにデザインされ、誘われていたことを今知る衝撃! マリオには明確な目標は設定されておらず(ピーチ姫を助けるの説明書を読んで後付けで知る)、右に進みたくなるようにデザインされていたってこと。あぁ、この本のアイディアも上手に使いながら、学習を予想とそれに反することをリズミカルにデザインしていけるようにしたいものです。

あー、楽しかった。

明日の第2章へと続く。

冬休み読書は探究の探究

冬休みに入りました。教室の4ひきウーパールーパーズも実家に連れて帰り、いよいよじっくりと「読む」時間を確保。

今年の冬休みのテーマは「探究」です。数学者の時間では、数学的思考を身につける問題解決のサイクルのミニレッスン10の単元計画に見通しがついてきました。これは現状の算数・数学授業をよりよくしたい先生たちに、自信をもって提案できそうです。

以前、数学者の時間を開発し始めた頃は、多くの問題を子どもたちにばらまいてしまっていました。今は、たった一つの問題に焦点をあてて数学的に考えることにしたら、あら不思議! 理想としていたことが全てつながり、ひとつの授業の落とし込めるようになってきました。いいすぎ!? 仲間の力も借りながら、自分で数学的に考える意図をもって確かめていく。子どもたちは、小さな数学者のようですね。少し興奮していますが、そういうことです。来年の秋に発刊できますように。

子どもたちが数学的な思考をわかりかけてきたことで終わりにしたくない! それを使ってさらにダイナミックに学んでいきたい! 生活と繋いだり、より抽象的にしたり、いっそうの算数活動に入っていきたく、この冬休みは「探究」をテーマにじっくりと読んで考えていきます。

この数学者の時間はチーム研究で取り組んできました。このチームも6年目。改めて先のステージへ進みます。それぞれが自立した学び手であること、または、自立した学び手であろうとすること。お互いがリソースとして高め合っていくには、やっぱりそれぞれが読んだり学んだり、考えて、やってみて、ふりかえってのプロセスを共有していくことが大切。自分の学びは他者の学びに責任があると思えているか。教わるつもりじゃいけない。講座や研修とはちがうのはここ。僕自身もこの冬休みにしっかりと学んで、いい学びを子どもたちとつくっていきたいと思います。

数学者の時間をいっしょに開発・実践しているメンバーたちは、チャールズ・ピアス著『だれもが〈科学者〉になれる!探究力を育む理科の授業』を読んで、探究の本質について研究しています。僕もそうしようと思ったけれど、あえて別の角度から多様な探究を見つめ直そうと思い、この本に挑戦。


Jay MacTighe, Judy Wills, M.D「Upgrade Yout Teaching Understanding by Design Meets Neurosience」

知識のつくり方で参考になる本だからと、先生仲間のりえこさんに紹介にされた本。しかも英語だし! ご多分に漏れず、夏で積ん読になっていたので、いい機会だから1章ずつ読み解いていくことにしました。今年出版されたばかりの、「逆さまデザイン+脳科学」の本です。今の僕の興味にばっちり重なり、数学者の時間の探究ユニット「算数アドベンチャー」授業には、逆さまデザインを使ってじっくりと授業計画をしてみます。


と、グーグル翻訳を使いながらも読み始めたはいいけれど、おもしろすぎてついつい関連の本も読み始めてしまい、なかなか進まず。第1章は脳科学に基づいた「脳にとって最良の学習方法」。脳みそ言葉が難しいので、すんなり読めるガイド本を別にさがすことにしました。

脳科学者の池谷裕二さんがなんともわかりやすい! 

これはまさに僕にために書かれたビジュアル脳のしくみ本。イラストや写真がいっぱいでこういうの大好き! 理科・生物の復習かな、と思って手に取ったけどぜんぜん当時と変わっていて、今はこんなに脳のことがわかってきたんだ〜と素直に感動。あっさり併せて読めました。


さて、この冬、算数アドベンチャーのはじまりです。

自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 3/3

今日は、今後、私たちはどのようにエビデンスとお付き合いをしていけばいいのか? 僕なりの考えをまとめていきます。昨日は、「ハッティの主張」まで書こうとおもっていたけど、通勤電車内「作家の時間」も終ってしまいかけずじまい。今日は、そこから。

ハッティはエビデンスにとても慎重派

意外にもハッティ自身は、エビデンスに対してとても批判的です。ランキング表を拙速に使うことを懸念しています。独善的な教師の経験だけに固執し続けることなく、エビデンスに基づいて、教師のふりかえりを批判的に行わなければならないとしています。この振り返りの中にこそ、エビデンスを活用することが重要なのです。エビデンスを批判的ふりかえりの参照として活用していくことが、オレオレ実践や凝り固まってしまっている思想に一度、ブレーキをかけて、見つめ直す機会をくれるのではないでしょうか。

「実践者の判断の過信を排し、自らの実践を批判的にするための視点を提供するもの。高いエビデンスリテラシーを持った教員が現場にいて、実践者の価値観や教育実践の具体的な場面とつなげることではじめてエビデンスは教師の批判的省察の基盤としての機能を発揮する」

熊井将太『「エビデンスに基づく教育の闇を探る」教育学における規範と事実をめぐって』9章271頁より

批判的に扱うためにも、エビデンスリテラシーをもった教師として成長しなければならないんですね。

しかし、教育エビデンスを批判的に捉えることにはまってしまうと、せっかく教育研究で生み出された知見であるエビデンスをいつまでたっても授業づくりやふりかえりに活用できずに終わってしまいます。これは、教育研究者にとっても本望ではないはず。エビデンスに沿って今後、教育を進めていくことについては、研究者も授業実践者も同意できるところ。

問題は、そのエビデンスを導き出した集める方法やそのエビデンスの取り入れ方にあります。そのためには、教育研究分野と教育実践分野での活かし方を分けて考える必要がありそうです。

教育研究と教育実践に分けて考える

エビデンスの活用のあり方を「教育研究」と「教育実践」で分けて考えると扱いやすそうです。文科省の教育施策の大きな方向性を決定するには、量的な成果エビデンスを活用します。今後、文科省の教育政策の決定には、それぞれの経験や勘といったものよりも、エビデンスをもとに予算配分をしていくこととなっていきますね。

それにしても今回の新学習指導要領改訂は、「現場の専門家としての教師はつくづく信頼されていないなぁ」と感じてしまうのです。具体的でわかりやすい指導要領と引き換えに、自分で考え、判断して育っていく教師を漂白してしまっているからです。文部科学省が「私、失敗しないので」と、教育平均値の量的な底上げのためエビデンスに基づいて、教育政策の方向性を決めていくとこういうことになってしまうんですね。指導要領がよくできてしまっている分、トレードオフで学校現場ではよりよく考えにくくなる・考える必要がなくなる。言われたことをカバーするだけといった構造が生まれてしまっているのではないかと考えています。

考えようとしない/考えなくてもすんでしまう仕組み

ここから、教育委員会や管理職から言われたことを上意下達に「ハイ、ハイ、アイアイサー」とやろうとする扱いやすい教師を増やしてしまっているトリックがあるんだと僕はにらんでいます。本当の民主主義を支える教育は、指導要領を越えて何を教えるのかということさえも自ら考え出していく自覚だと密かに思っているくらいです。

学校を管理する立場からしてみれば、こういう扱いやすく、言われたことを何も考えないでそつなくこなしてくれる教師は人気がでます。そういう人は、(支障なく運営される)学校のためになる!と「人事評価もAプラスをとれるんだぞ!」と校長室で以前、言われました。僕の経験からも人事評価Aプラスをもらっている人は大概、人当たりもよく、「学校を(1年間そつなく)まわしていく」こと(だけ)に長けていて、なんでもいうことを聞いてくれる人でした。

エビデンスの活用にひるがえって考えると、エビデンスに飛びついて活用してしまうことは、同じ事が起こりかねません。「これは学習効果が高いから学校全体でやるべし」と学校スタンダードが教育委員会から掲げられてしまう(現状では、「返事ははい!」とか「姿勢良く座る」そういったものが多くを占めていて助かっていますが)。すると、それを一方的に受け取ってしまい、自分とクラスの子どもたち、学校の子どもたちに引き寄せて考えてみることができません(本当に効果が高いものであったとしても、ちゃんと自分の教育現場で扱えるものかどうかを各教師の責任で考えていくことは必須)。自分では判断を何もしない無責任な教師になってしまう予想しています。

正解だけを求めて「あの実践家がそういうから」「学年主任がそろえましょうというから」などと、だれかの後追いをしているだけの人にはエビデンスは毒にしかなりません。エビデンスについて、調べていけばいくほど、結局は「自分で考え・判断する教師」が必要だと確信に近いものを持つようになりました。

僕自身が「本当に面白い人だなぁ」と思って付き合っている人は、やっぱり自分で考えて、試行錯誤して、失敗しながらも成長の中にいる人です。そういう人たちにはたいがい「やりたい・やってみたい」があって魅力的です。そういう人の授業も熱量があって、授業でも同じように子どもたちを魅了しているのだと勝手に想像しています。

自分で考え、判断して切り開いていく教師

学校に、今、目の前の子どもたちに必要な教育目標を同僚と考え合い、自分が大切にしている教育理念や教育哲学、思想をもって、子どもたちと向き合っていく。教材を通して知識や人との関係性をつむいで学びをつくっていく。今は、この狭い教室文脈にしか言えないかもしれない。けれども、こうやるといいんだよ、大切なことだよ、と自分で考え、判断して切り開いていく。ここに教育実践を積み重ねる教師としての矜持があるはずです。

本当は『子どもがとっても楽しくしかもより深く学ぶ教育エビデンスをいかした授業のつくり方』(こんな本あったらとぶように売れるだろうな(笑))を、知りたいですよ。教育に対するこの気持ちがないと言えば、嘘になります。けれども、そういう「知ってるくん」では役に立たないんです。

若かりし頃の僕は、知識の量で経験の差をカバーしようとたくさん本を買い集めていました。1年目からだってスーパー教師になれるはず!と。けれども、そんなことはありませんでしたね。結局、残ったのは積ん読本の数々と、あまりの重さで床がしなってしまったことぐらい。何にも考えてなかったんですね。

いい先生、できる先生に焦ってなる必要はぜんぜんなくて、1年目の教師であったとしても、自分なりの考えや判断をもちながら、失敗もしながら修正し、試行錯誤を通して少しずつ力量をつけていけばよかったんです。教師は時間をかけてゆっくりと教師になっていく。焦ってすぐにスーパー先生になる必要もなく、なれるはずもありません。

教育実践におけるエビデンス・リテラシーって自分を疑い考え続けること

エビデンス・リテラシーが0ポイントだと、「エビデンスはなんだかうちの教室で効果があるかよくわかんないけど、きっと効果があるんだろうからやる!」と何も考えずに飛びついてしまいがち。そうではなくて、自分の実践やあり方が独善的になっていないか、自分の成功体験や経験を信頼しすぎていないか、チクチクと自己批判できるような視点を提供してくれるのがエビデンスであり、エビデンスのいかし方だと考えます。

実践におけるエビデンスの活用はレパートリーを提供するのみである。

(石井2015:35)

僕は、これを積極的にうけとめて、ふりかえりの批判的な視点として、考えていこうと思います。考え方に偏っていなかったか? 批判的に振り返ったり、または、エビデンスそのものを「本当かな?」と自分の教室文脈でためしてみるため慎重に授業計画を練ってみる。ときにはそのエビデンスにNOを実践現場の教師から突きつけることで、さらにどうしてエビデンスが効果がないのか、エビデンスそのものに問題があるか、または、エビデンスの扱い方に問題があるのか、より深まっていきそうです。そういうときにエビデンスは効果的に活かすことができるんだと思います。

研究者と現場の教師が一緒に学ぶ

先日、算数の全国大会に参加しました。そこでは研究職の方たちが、リアルな子どもたちを前に、自分が主張するエビデンスや教育施策を、右往左往しながら授業している姿がありました。僕はこういう同じ釜の飯を食らおうとしてくれる姿に心打たれてしまいます。

苦労して導き出したエビデンスを、研究へのリスペクトをもっていかしていく。僕らはそれに応えられるように、エビデンスや研究成果をうまく使いこなしていく。そのために、ゆるやかにいっしょに合同研究できていくといいです。僕が勤務している学校では、幼稚園と大学教授と共同研究しています。一緒に話を聴かせてもらう機会がありましたが、これは相互依存のシナージーが生まれ、教師がバランスよく学び続けていく仕組みなんだと改めて気付かされます。

とりとめもなくなってしまいましたが、ここが「今」僕がわかっていること、こうしたいことです。もしかしたら、また大きく変わるかもしれない。そうであると、それはまたそれで学びが進んだことなんでしょう。次のステップはいよいよエビデンスを慎重に現場にどう活かしていくか、そのために考え続けていこうと思います。ようやく楽しくなってきそうです!苦笑

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/

自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 2/3

前回は、ハッティさんの研究概要と、エビデンスを安易に使おうとすることにちょっとまった!をかけました。

今回はエビデンス研究の問題点を、研究者側からとエビデンスを活用していく学校現場側から、まとめておきます。そしてハッティはその批判をうけて、どうエビデンスを活用していくのかでしょうか? その提案まで考えます。

大学や研究機関による教育研究側からのエビデンスの問題点

① RCTやメタ分析では、教育のプロセスを空洞化してしまう

まずは前述したRCTによるエビデンスの価値を鉄壁にするためのこの調査方法に批判があります。RCTにより原因と結果を明らかにしてエビデンスを示したかもしれないけれど、それ以外の因果関係や要因をすっかりと関係ないも都市、空洞化してしまっています。

教育は原因と結果の間のプロセスにこそ重要な意味があります。

効果があるなしの結果であるエビデンスに焦点をあてすぎてしまうと、その結果に至るまで子どもたちがどのように学んだり、悩んだり、そこをどうクリアしてきたのかといった学習経験が不問とされてしまうからです。教育で大切にしている学校目標や学年、学級目標、さらには学習内容、扱った教材、カリキュラムが不問とされてしまうのです。ハッティは、教師の資質能力や授業方法を追求していますが、一方、学習内容といったものが軽視されすぎてしまっている批判があります。

また、ハッティが教師の資質能力や授業方法を強調することにより、教師の責任が増してしまい、そこを逆手にとって教師の権限がさらに強まってしまう指摘もあります。

ハッティに限らず、PISSAテストも、各国のカリキュラム事情をなきものとして、テストスコアでくらべっこしようとする点では同じ延長線上にありますね。

② 扱っている論文そのものの古かったり、偏ってたり

そもそも研究調査で扱った原点資料の時代が古すぎたり、一定に国の研究結果に偏っていてバランスが悪い指摘もあります。ハッティがメタ分析で扱ったRCTはほとんど含まれていませんでした。また欧米の文化圏の実証研究であり、日本はそれにはふくまれてはいないようです。調査した3分の2が1980年代までの研究であり、今日的な教育課題を解決していくためには扱った情報が古すぎるのです。こういった、バランスの悪さも、教育の地域的な要素や時代的な要求などによって変わってくる文化差については、慎重に言及されないといけませんね。

とはいうものの、最近では3年に1度の頻度でハッティランキングは更新さいれていますが、時代を超えても効果の高い主な要素は更新されても、その本質は変わっていないとハッティは説明しています。

それにしても、エビデンスの信頼度という面では、慎重に考えながら上手に使っていく方法を模索しなければなりませんね。

学校現場による教育実践側からのエビデンスの問題点

① エビデンスを無視する独善的な教師となってしまう

「自身の経験や個人的な試行錯誤から学んだことに大幅に依拠する」(ハーグリーブス2007)

私たち教師は、教授経験の成功体験から得た知識でもってのみ、教育活動を行う傾向があり、エビデンスを参照しないという独断的な態度をもちがちです。そう、あーい、でぃどぅ〜ま〜いうぇーい♪(尾崎紀世彦風)です。

こういった教師は、エビデンスを使うことを嫌い、教師のもつ実践の自由が失われてしまう懸念から独善的な自分エビデンスに陥ってしまいがちです。

最近、僕自身がエビデンスについて調べてみるにつれて胸をつまされるのがこの問題。いかにこれまでの自分が自分の成功体験に頼って、教育実践を語ってきてしまっていたか!その罪の深さを思い知ります。教育とは先生と一人ひとりの子どもたちとの血の通った物語のようなものです。だからこそ、そこに思い入れが強くなってしまい、自分エビデンス(ぼくは印籠エビデンスと呼んでいますが)そのようなものができあがってきてしまうんでしょう。「今年も例年通りで」といったパターンも、どこかこういう流れが関連しているのかもしれませんね。

しかし、もし自分の経験を信じもせずに、教育現場にエビデンスによって定められた形式的で効果的なことを強制されるのなら、教師の自由な試行錯誤や自由志向に規制をかけられてしまう恐れがあります。

とはいうものの、教師の自由な裁量を保持することこそが教育の目標でもなく、エビデンスに基づく教育を批判すれば、旧態依然の学校権利を擁護する恐れがあります。このことは、以下の参考文献に挙げておいた今井康雄(2015)の論文にわかりやすくまとめられていました。

② エビデンスを振りかざし、判断しなくなる

この効果のあるエビデンスを使っているんだから、だからもうおれえずぇ〜んぜんOK!ふふふん。といった問題が起こってしまいます。悪いのはうまくエビデンスの通りに示してくれない相手の問題、子どもたちのせいだ、という自己陶酔。

「研究のエビデンスによって裏打ちされ明示的に定式化された手続きに従っているとアピールすることで、外部の人々に対して自らの実践の詳細について申し開きをする、という状態に帰着する。このような「エビデンスに基づいた説明責任」は、実践家の専門的判断を意気阻喪させ掘り崩す。」(ハーマスレイ2007)

この問題には、「このエビデンスがききます」といった安易な使い方では、実践のプロである教師が自分で考えて教育のプロセスをつくっていく判断や選択を矮小化させてしまうことになるんですね。

どのようなエビデンスが、個々の教室事情に適合するか否かを決めてられるのは、やはり実践的専門家でもある教師なんです。

エビデンスに対する批判はまだまだあり、今回はほんの一部です。これらに関しては、下の参考文献であげる今井さんの論文(PDFで手に入れることができます)、先日、出版された『エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって』に詳しくまとめられています。

エビデンスにおっかなびっくり近寄らず、批判ばかりしても、研究者やハッティたちがせっかく示したことを使えるようにならないのは、とてももったいないです。次回はいよいよ僕が思う、今のエビデンスにどういかしていけばいいのか?について、考えていきます。

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/

自分が効果高し!と実感していた教え方は実はエビデンスが低かった(その逆もあり)!こととの乖離はどう埋めていくのだろう?

最初に、今回の課題本『学習に何がもっとも効果的か』を選定した思いを、教育エビデンスが抱える光と闇と称して(別に称してなかったけど)語りました。

  • エビデンスのもつ信頼度や強度の話
  • エビデンスと政策資金や方向性、知らず知らず形成されるコンピテンシーの話
  • 教師にとって都合のよい印籠エビデンス(これでもかー!と金科玉条のごとくかかげるエビデンス攻撃)
  • 結果としてのエビデンスでは価値あるプロセスを語れないこと

などをふまえ、自分の授業づくりのまたはマインドとのふりかえりにエビデンスを自己の批判的視点として、慎重扱っていこうと話し合いました。

P29にあるエビデンスの効果が高い、中くらい、低いものを仕分けして話し合いました。これは、すごくおもしろかったです。それぞれのあり方を垣間見ることもあったりして。けど、勉強不足で教育単語の翻訳のため?項目の意味がまだよくわからないものもありました。

ジョン・ハッティ著 原田伸之訳者代表『学習に何が最も効果的か』P29より

そこで、僕の中で刺さったことは、自分が効果高し!と実感していた教え方と実はエビデンスが低かった(その逆もあり)!こととの乖離はどう埋めていくのだろう?ということ。

今、自分が実践していてやっていて、効果があることでエビデンスが高いと、やっぱりうんうんと納得しちゃって思考停止するな。

「生徒の学習スタイルと教え方(d=0.17)」はこれまで、マルチプルインテリジェンスや一人ひとりをいかす授業の学びから、効果が高いと思っていました。実は、それほどでもなく、教師の力量に大きく左右されるもの。この内実を知りたい。

また、漠然と(他の項目と相対的に考えて)効果がなさそうだと思っていた「語彙力促進プログラム(d=0.67)については、実はとても効果があったりした。自分の中に納得感もって授業に組み込めるのかなぁ。もしくは、すべて効果の高いエビデンスを無理に組み込む必要はないのかもしれない。

都合のよく印籠エビデンスごとくつまみぐいしていくだけではだめで、自分にとって都合の悪そうなこと、つまりエビデンスの効果を低く見積もっていたものでも、実は効果が高かったものについて、慎重に学習していかないといけない。単純に、知るところからはじめていこう。

今は、まだ頭の中と言葉での空中戦でしかないので、これをもう少し具体的な実践案といった計画にうつしていったときに、少しイメージがたちあがって意味があるものとなりそうです。今後の自分たちに期待!ということで。

ただ、ここで慎重に語られることは、「汝、己の影響を知れ!」という、教師の学習者に対する理解です。それはとりもなおさず、教師の影響が与えられる学習者、クラスの子たち一人ひとりの様子をみていくことです。自分に焦点化しすぎず、かかわりや授業の影響について真摯にエピソードとして記述していけるといいですね。この延長線上に、自分をふりかえるヒントがありそう。

今回、エビデンス実践者でもある森さんからも、オンラインでいくつかレクチャーをいただきながら、エビデンスについて概要を整理してもらいました。今後、課題本の訳者である原田さんを紹介してくださるということだったので、みんなで「はらださんにききたいことおてがみ」を作ってみたいです。チャンスがあれば、ワークショップでじっくりエビデンスについて考える一日をつくってみたいな。

さて、LAFT2回目に向けて、オンライブッククラブ、フィードバック、授業案づくりなどまだまだ続きます。次回は11月15日(金)です。

LAFT1回目 すたーてぃん!

いよいよ満を持してLAFT再開です。今回は5回を1シーズンとして「教育のエビデンス(客観的根拠)」について研究。

会場の仙川まで来るのに、中には2時間かけて集まってくれるメンバーもいます。こんな遠くまで申し訳ない気持ちと、雨の中でもよく来てくれました!と、その情熱に頭が下がります。オンライン参加もあるんだからそっちでいいじゃん!と、実は思っていたかもしれない。けど、実際に会って話すことで、新しい発想やシナジーが生まれやすいんですね。そして、それに刺激をされて、僕もがんばろうと思うのです。

今回はオンラインでのオブザーバー参加もありました。遠方で直接はこられない。またはスケジュールが厳しい。でも、今回の学びに興味がある。基本、聞き役として参加してもらいましたが、今後、そこでの対話もよりうまく進んでいくといいなと思います。コアメンバーでここを運営していくのはちょっと煩雑になってしまうので、記録同様(今回、編集社の方に記録をしてもらいましたが、まとまっていて要点をおさえててすごい!)、オンライン参加のオブザーバーの中から、管理者をしてもらえると、自立して運営できて助かるなと思います。

また、今後、会場でのリアル対話とオンライン対話との往還も検討していきたい課題です。会の運営は、こういう役割が基本、ボランティアで成り立っている組織。参加者の協力やコミットが欠かせません。参加する人の、なんのためにやるのか大切にしたいなぁと思うのです。

なにはともあれ、1回性の学びにはあんまり効果はないと思っています。もんもんとしている時間やもがいている時間こそ、その後に一気に人の成長を引き上げてくれる力がある。そう思うと、じりじりと引きずりながら学び続けること、そこで一緒に、悩んだり考えたり、笑ったり、専門的な知識を交換しあったり、刺激し合えるメンバーがいることは本当にありがたいことです。

つづく「自分が効果高し!と実感していた教え方は実はエビデンスが低かった(その逆もあり)こととの乖離はどう埋めていくのだろう?」

秋の夜長におすすめマンガ つい2巻以降を買ってしまった9タイトル

「夏休みの移動中、おすすめの本はないですかー?」とSNSで尋ねたところ、なんとなんと!80タイトルほどお知らせいただきました。ご協力ありがとうございました。みなさん、ほんとよくマンガ読んでらっしゃる! 暇だからマンガを読むのじゃありませんよ。マンガは文化だから読むんです。そう、僕らは文化の継承者なんです。

僕がすでに読んでいるものもあり、自分ではあまり手に取ることのない本も数多くあったので、薦められたほぼ全てはチャレンジしてみました。約40タイトルほど、すべて1巻だけKindleで購入。キン肉マンと聖闘士星矢に育ててもらったからこそ、今、少しマンガ界に貢献できたかな。

その中でも、もう続きが気になってしまい、旅先でポチポチして、ベッドでゴロゴロして、読みふけってしまった本をご紹介します。「あのマンガがはいってねーじゃん!」という方、安心してください。すでに僕は読んでしまっているからです!(たぶん)。


まず、もう留まらなかったサスペンス系。3つ。『サマータイムレンダ』『夢で見たあの子のために』『寄生獣リバーシ』

表紙を見て『 BOYS BE…』を期待していた人は水をぶっかけられる衝動があります。はい。僕はそうでした。僕の好きなタイムリープ系。「時をかける少女」「君の名は」で、こうくるかー!って思った人には、はずれません。『寄生獣』の作者である岩明均の『七夕の国』を彷彿とさせるような恐ろしさもありました。これがジャンプで連載ってところがまたいい。

三部けい『僕だけがいない街』にはまった人なら、この作品は外せません。この作者はよくこういう「双子、記憶共有」なんて設定が思いつくよな。Kindleでページめくりの指がとまりませんでした。


しぶかった月刊誌アフタヌーンで連載していた『寄生獣』好きにはうれしいスピンオフマンガ。展開があまりにも遅すぎる!3巻まで読んで、1巻分くらい。けど、そこに見合うキャラ設定がたまりません。寄生獣との共存はなりたつのでしょうか?

科学もの2つ

『ブルーピリオド』『Dr.STONE』

この夏の一番のヒットはこれ。僕は最近、現代アートに興味がありました。けれども、なんともあの作品群をどう理解していいのかサッパリ。このマンガは国立の美大(東大より難関!)を目指す美術部高校生の受験勉強で葛藤する繊細な話と、抽象的なアートの世界の見方・描き方を学べちゃうすぐれもの。こういう本を読みたかったんだな。

子どもたちの心を離さない、「友情、努力、勝利」に加え、化学が入った3500年ほど後の地球のジャンプ王道マンガ。理科のことこれからたくさん学べそう笑。文明が滅びた世界に、あったまいい少年が、最強高校せいをぶったおすために、科学文明を起こしていくお話。比べて読むなら、『創世のタイガ』かな。こっちの方はより原始時代にワープしてしまった学生がリアルに描かれています。僕はiPhoneのコンセントがないとこういう世界は生きられないかも。

歴史もの2つ『イサック』『乙嫁語り』

こういう史実があったんですね。火縄銃を持った日本人がヨーロッパで戦かったって。設定もおもしろいけど、なにより主人公イサックの火縄銃の腕前、城を守る戦略には引き込まれます。その展開のおもしろさと画力によって、ついついポチポチしてしまった!

美しい。どのページを見ても、それ一つで作品になっています! 何よりも描き込まれる絨毯や民族衣装がすごすぎる! もう心はイスタンブール。中央アジアのペルシャ世界。隣の村に嫁いでいったお嫁さんの日常のお話。一日の最後、心をほっといやしながら一緒に眠りたいマンガです。

なんといっていいかわからない。『不滅のあなたに』

これ1巻読んだだけでは、全くわからない。薦めていいのか? けど強烈に薦めたい! 主人公がなんなのか。誰なのか。雪の世界に最後の一人。仲間を探そうとひたすら歩き続ける少年?犬? この設定で1巻を乗り切って、よくぞ連載勝ち取った!と作者、出版社に感服。これまでにない展開のおもしろさがあり、つい2巻目以降を購入してしまいました。不老不死をテーマに『火の鳥』を彷彿とさせるお話。

医療系マンガ。『フラジャイル』

治療方針を決める病理医のお話。お医者さんのこういうプロ仕事に対して理屈っぽいのは好きだな。リアルな話っぽくてこれはこれでとても好き。理屈っぽいのに『ミステリと言う勿れ』があるけど、そっちもかなり好き。併せてどうぞ。

「ちゃんとオススメ本教えたんだから、何がおもしろかったのかおしえろよ」という強い圧力に屈し、ご紹介しましたが、いかがでしたか? 読んだら、ぜひいっぱい飲みながらマンガクラブしたいものです。秋の夜長にぜひ!


お断りしていくけど、これらは僕の強い興味関心と結びついているので、改めてリストアップしてみると万人うけするものではなさそう。でも、読んで損はありません。まだ、他にもオススメあったら、ぜひ教えてくださーい!

診断的評価で確かめるべき3つのこと『一人ひとりをいかす評価』 3章 診断的評価

一人ひとりをいかす教え方、そのための診断的評価ってなんだろう? これまで、レディネステストってやってきたけど、それも研究授業とか特別な授業のときぐらいだったなぁ。

そのときは、まだ既知をいかして、つなげながら学ぶよさを理解していなかったし。ここ数年は、プレアセスメントといったやり方で、オリジナルテストをつくってしまって、「事前に」何を知っているのか、何がまだわかっていないのか、単元前にテストをしてから進めたりもした。

「You、テスト、単元前にやっちゃいなよ!」のプレアセスメントという学習方法やいかに!?


今回は、このへんのことが、もう少し丁寧に理解できて、より一人ひとりに寄り添えるような学びとなっていくといいです。

 

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