2023年 9月 の投稿一覧

「行き詰まり」は数学的思考の向上には欠かせない

今期のLAFT算数・数学では『教科書では学べない数学的思考』をブッククラブしている。

僕はこの本でブッククラブするのはたぶん4回目となるが、繰り返し読み返すことで少しずつ自分の中に数学的思考への理解が深まっている実感がわいている。

一度、読んだだけではわからない程度の読解力のため、繰り返し仲間と読み合うことで少しずつその全容がみえてくる感覚がつかめてきた。

ここにも、いくつかブッククラブ用のメモから考えたことをまとめてみる。興味があったらぜひこの本を手にとって読んでほしい。こういう本はきっかけがないとなかなか手に取れない本かもしれないから。

「数学者の時間」で大事にしたいことは、「誰もが数学的に考えることができる」ということ。そしてこの本の1章にこそ、人はだれもが数学的に考えることができる手順が示されている。その中でも、大切な要素が挙げられる。

最も重要で、覚えて置くべき教訓は「行き詰まり」は大切な状態であり、思考を向上するうえにおいて欠かせない過程であるということです。

『教科書では学べない数学的思考』Pⅱ

これがおもしろい。算数・数学はできることを目指しているはずにもかかわらず「行き詰まり」、スタックすることこそが重要だということ。脳科学的にもできないほうが脳への刺激が豊かだと何かの本でも読んだ記憶もあるが、できないことに焦点を向けることはもっとポジティブにとらえられるといい。そんな算数・数学になるとほんといい。

「わからない〜!」「できない〜!」という経験は誰にでもあることだ。これらの経験から、いかに気づきや数学的思考に変えていくかがこの本に見事示されている。

なぜ、行き詰まりが大切なのか。

それはよく考えるからだ。すぐに答えが得られる問題よりも、なかなか答えが得られないものの方から人は多くを学べるもの。これは人生もしかり。

「うーん」とうねったままになっても「これは学べるチャンスだ」と学習者が捉えている限り、「うーん」と考えることはよいことでしかない。このあたりは、教師にとっても必要な算数・数学観のパラダイム転換だ。

悩み悩んだ問題解決のプロセスはノートに記録される。そのノートを読み返すと、最初の試みが教科書に書いてあるような解法になる事は滅多にない。

人は回り道からよく学ぶ。

その回り道を学びにいかに昇華するのか。そのための数学的思考はつかえるのではないだろうか。

本書P.3 やってみると、驚きの結果が!? その結果からどうして?と確かめたくなる問題

白組応援団長の3人を応援したい

怒濤の1週間がおわった。今週は学級閉鎖もあり、そのツケがまわって応援団や学年競技など、いろんなことが一気に押し寄せてきた。けれども大きな充実感もある。

それは、子どもの思いをとことん受け止められたこと。うちの学校のいいところに「子どものやりたいを大事にする」ところがある。

今日は、5年生をふくめて応援団長を決めた。「イガせん、5年生もいれて投票したら同数なんだけど、どうしたらいい? もう一回やったほうがいいのかな」というので、「いいんじゃない。やりたいって言う人にやってもらうのが一番だよ」ということで、応援団長がなんと3人になってしまった。これは僕の経験でも初めてのこと。

センター団長、右団長と左団長。さらにその脇を固めるのが二人の副団長。5人そろって応援団役員!とお!

僕はこういうことができる文化が、うちの学校の良さだと思っている。団長は一人って決めなければならないとか、応援団は4人までとかこれまで経験したこともあった。そのたびに、子どもたちにはツライ思いをさせてきてしまった後悔もある。

なによりも、子どもたちの「やりたい」を大事にしたい。子どもの声をきこうとすることからはじめられるといい。

正直、応援団長が3人いたら「それどうなの?」「うまくいくの?」って声があがりそうだ。でも、それでいいと思っている。実際に3人は「私はこれやるから、こっちやって」といいかんじにうまくやれているみたいだから、なおさらいい。なにごとも試してみることだ。

みんなやりたいことをやるのが1番だ。「やってみたい」とか「挑戦してみたい」とか「あんな風になりたい」とか、その思いがあるならば、それを全力で叶えられるように環境をつくるのは、本来、大人の役割だ。そのための教育活動のはずだ。それは将来のためではなく、いまここで経験を積み重ねることからはじめられるといい。

無理に挫折を味わわせたり、規定されたルールの中で生きていくことを課すのであれば、そこで学ぶこともあるかもしれない。けど、傷を残すことはさけられない。そんな辛い思いよりも、やりたい応援団長やって上手くいかない経験をして、どうすればうまくいくのか思い悩んだ方がいい。

うちの学校は「なんで団長が3人もいるんですか? 一人にしぼってください」なんていわれる学校ではないと信頼している。「ああいうの、面白かったねー」と言ってくれそうな学校だとそう思っている。そしてそういう学校であり続けたいと願ってもいる。

人はやりたいことは一生懸命やれるもの。でも、そのやりたいこを見つけることは本当にむずかしい。それをすでにもっている子には応援したい。僕は応援団長こそ応援したいと思う。

この指とまれ方式で子どもがやりたいクラブ活動を

僕が今の学校に赴任してから毎年、これいいなと思っていることがある。それは、団活動。いわゆる「クラブ活動」のことで、このつくり方がとても魅力的だ。

一般的にクラブ活動はどのクラブをもちたいか「先生の」希望やその特徴で決まっていた。すでにどんなクラブがあるのかはすでに決まっている。一応、昨年度に子どもたちから入りたいクラブアンケートをとってその傾向をつかんでいるのはいいほうだった。

しかし、団活動はちがう。「子どもの」希望できまるこの指止まれ方式だ。つくりたいクラブを自分で声を挙げて、その魅力をうったえる。

「1年生から6年生までの民舞をおどれるようになりませんか? ぜひ民舞団にはいってください」

「競技かるたって知っていますか。1000年以上の歴史があって〜」

どの紹介も、自分たちがやりたい思いが困っているから熱がこもる。

タグラグビー団は「情熱」と書かれたカードをかかげ、「ファミリーになりましょう!」と呼びかけていた。

「パティシエ団では、和菓子も作れますか?」

という質問があり、それにその場で回答しなければならない。

今日、行われたのは後期の呼びかけ集会。新しくつくりたい団活動を紹介する会だ。前期は6年生が見本をみせるが、後期は5年生も団活動に声を挙げられる。体育館にあつまった子どもたちの約半数が、新しく作りたい団の呼びかけるため、待機しているさまは圧巻だった。

もちろん、呼びかけたからといって全てが成立するわけではない。5年、6年がある程度の人数がそろわないと団は成立しない。成立した団のポスターにはお花紙が飾られる。それをみる子どもたちは一喜一憂している。成立しなかった団の呼びかけ人は何を感じ、何を学ぶのか。

子どもたちの主体性を〜、子どもから声を〜とよく聞くが、本当にその声を聞こうとするなら、とことんやるといい。その仕組みと文化が今の学校にはある。子どもたちは民主主義のよい練習ををしているなと思う。

クラスに帰ったら、くりくり坊主の少年が「和菓子がくいてぇ」とパティシエ団を第一希望に書き直しているのをみて、こういうのいいなとおもってしまった。それってパティシエ団あらため、和菓子職人団じゃん。

アンラーンに必須の認知4点セット

僕には相手の話をすぐに評価判断してしまうクセがあった(①意見)。

あったというのは過去形で今ではだいぶそれがアンラーンできている。これは嬉しいことだ。熊平さんから直接、教わったことが今、生きている。

特に、教育実践の話を聞いているときに「よい実践」と「自分にあわない/残念な実践」とピピンと嗅ぎ分けてしまっていた。自分の教育観と異なる実践話には、瞬時の評価判断が入ってしまい、パタンと耳にも心にもフタをしてしまう。

そのため、自分の中に新しい気づきや相手との間に創造的なアイディアが生み出しにくくなってしまっていた。これはゆゆしき問題だであり、教師マルトリートメントみたいなものだ。きっと周りを嫌な思いもさせてきたはず。伝えないまでも創造的な関係になるチャンスもたくさん逃してきてしまった。

「人はだれからでも学べる」とは頭では分かっているが、実際にできていなかった。これは切実にアンラーンしたい。

そこで、この評価判断クソヤロウをアンラーンするために、最初の一歩はメタ認知からはじめた。自分の中にある「②経験」「③感情」「④価値観」を見つめ直すことからだった。

②経験とは?

長く教員をしていると自分の成功体験から、ついアドバイスしてしまうがちだった。説得もしていた。だがその人の実践の場、つまり子どもたちの実態を把握せずに聞いていることが多く、自分の文脈に置き換えて聞いてしまっていることが多かった。

③感情とは?

この経験と結びついている感情には「教えてあげなければ!」とか「それは違うよ」という親心からきているものがありそうだ。そして、自分は相手よりも分かっている、知っているという優れているといった感覚をもってしまう。結果、相手との協働を阻害してしまっている。

こういった感情は、自覚する前に出てしまうこともあるし、でてこないことも多くあるため、こうやってふりかえっていかないと、なかなか感知しづらいものだった。

④価値観は?

この経験や感情から見えてくる僕が大切にしている価値観は「教師は、優れた実践から学ぶ必要がある」と考えていることだった。人はどんな実践からも学ぶことはできるはずなのに。

その時代や環境、子どもの実態、保護者の様子、自分の状態などいろいろな要素が絡まり合って教育が執り行われていく。一つでもそれが異なれば、教育の様態はすべて異なるはずだ。結局は完璧な教育存在しないはずなのにエラソウだった。

この価値観が相手との対話を邪魔していたんだと、気がつくことができた。自分の成功体験や価値観をアンラーンできないと、新しいフェーズには入れないことを知る。

ここまで自分を棚卸しできれば、アンラーンの半分が進んできたはず。つぎのステップは、実際にアンラーンするための対策へ。続きは次回。今日はここまで。

相手と同じところをみようとすること

朝トレはじめたら初日でメンタル無敵になった話

朝方がだいぶ涼しくなってきた。布団の足下に愛猫が入り込んでくる。あったかい湯たんぽみたい。さっと布団をかけてあげて僕はそのまま身支度をして、家の外にでた。6時前のこと。

今朝はトレーニングに出かけてみた。

昨日、同僚と校庭の整備をしているときに「伊垣さんはトレーニングを週に何回ぐらいしているの?」ときかれた。今年は6年担任のせいか、特に仕事をうまくまわせずになかなか早く帰れないでいる。そのためトレーニングできないこと自体がしんどかった。

この歳でバスケを続けるためには、日々の体幹トレーニングとランニングは欠かせない。これまでは、週に2〜3回は筋トレできてたし、バスケも週に2回はできていた。それが今年はかなわない。

夜になるとその時間をつくりづらくなってしまうので、朝に変えてみようと思った。そして朝トレをはじめることにした。

僕は何かを続けると決めたら、比較的継続した習慣をつくるのが上手な方だと思う。そのコツは1つだけ、それは「無理をしない」こと。

最近、毎日の出来事を書くようになって、そろそろ1ヵ月になる。これまでしっかり書こうとして書き切れずにおわってしまっていたことが多かったので、800字ぐらいで気軽に書こうと思ってはじめてみた。気軽さが一番の継続のもと。

習慣になってくると、自然と書きたいことにアンテナが立ってくる。続けてきたことが、今日も継続するためにどう動いたらいいのかっていうマインドセットになっているので、後はほっといても継続できていることが多い。

僕はトレーニングをやるときには比較的しっかりやってしまう方だ。だからハードルが高くなっている。これを無理しないで、1回45分間ときめて、種目を減らしてセット数を増やしてしっかり追い込む。それを週に数多く通ったほうがいいのではないか。バスケの休息日をいれて週に6回毎日通ってみたい。

今の生活リズムなら、朝の時間なら無理しないで続けていくことが可能だと思う。新しい習慣を1つ手に入れたと思うと、なんだかワクワクして楽しみである。今朝も少年のように勝手に早起きしてしまった。

そして、朝の方がトレーニングルームは空いていて気持ちが良かった。身体も頭もまだ寝ているから丁寧にウォーミングアップをしないと、怪我してしまう。いつもよりじっくり丁寧にアップを入れていく必要がある。どこのエリアも空いているので気兼ねなく取り組めて、気持ちがいい。

習慣づくりの面白いところは常に工夫ができるところだ。

「どうすれば面白くなるのか」

「どうすれば負荷なく続けられるのか」

「どうすれば朝のメラトニンをふやし、ノルアドレナリンをおさえることができるのか」

「どうしたら続けることで意味のあることができるのか」

この辺はとても面白いと思うので自分とむきあっていきたい。

ということでメンタルだけ無敵です笑。そして、ここに継続していくことを誓います。その結果、バスケパリ五輪に行くことを誓います(観客も含む)。

みなさんはどんな習慣づくりしたいですか?


けんじもトレーニングで日々努力している人。
こないだ彼が着ていたTシャツ、算数テキストの昭和テイストなタッチと同じで笑えた。

芝生の上から狂言と能

仕事終わりに、狂言と能の能楽「森の薪能」を堪能してきた。

会場は、秋を感じさせる新宿御苑の夜。心地よい風と涼しさと鈴虫の音。能楽には珍しい屋外講演だった。いよいよかがり火がたかれ、能の舞台が整った。

僕は日本古来700年続く身体表現に興味がある。野村萬斎の登場はやはり、すり足からだった。すり足とは、地面から出てくる悪魔を払い、清める所作。

狂言は、かけ合いの対話が説明調でわかりやすい。庶民の僕でも十分楽しめるものだ。演目は「茸(くさびら)」。山伏が、神通力で祈れば祈るほど、とってもとってもはえてくる茸に翻弄される滑稽話。昔の人はこうやって、立派で地位のある人達をおかしみにかえてしまう。

野村萬斎口調で「おびただしいくさびらだ!」「ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」とくるくるしながら逃げていく様は滑稽そのもの。あの口調はついついマネっこしたくなる。

だいたい狂言の次には能がくる。「いよーぉー」「ほっ!はっ!」ぴーひゃららら♪のあれである。演目は「一角仙人」だ。シンプルな空間に上半身がまったくぶれない腰の据わった舞。降り立つ龍神。

しかしだ。まったく意味がわからない。目をこらし、耳を澄ませてみようとも、解説なしには全く理解できない。能は今回がはじめてじゃないけれど、毎回、昔の人に思いをはせておわってしまう。昔の人は一体これをどうやって楽しんでいたのだろうか。庶民の僕にはわかrなあい。わからないから、また観に行こうと思う。

文化的な生活にはまだ及ばないが、たまにはこういう秋夜の過ごし方もいい。

でもアマプラやNetflixもすきよ。

評価されない時間があったっていいんじゃない?

僕は学校の中に、子どもたちがなんら評価されない時間があったっていいと考えているし、そういう時間を大切にしたいと思っている。

どの教科においても、常に評価にさらされたり、できる/できないを要求される場ってどうなんだろう。きっと息を抜けないんじゃないかな。とくに勉強が苦手な子や嫌いな子にとっては。

そのうち文科省は、休み時間も評価の対象にしてしまうのではないだろうか。「ナオト君は勝手な一人遊びが多いので、集団あそびができません。評価1。留年決定」みたいな。おおこわ。

授業の中で、できる/できないを求められない授業ってなんだろうと思うと、今できている時間はやっぱり数学者の時間だと思う。

数学者の時間で、良問(答えが一つではなかったり、考え方が多様であったり、自分の力量よりもちょっと難しい問題など)を解いている時間だけは、評価から解放されている時間になっていると思う。

もちろん、数学者の時間であってもパフォーマンス課題(各自がつくった問題や算数ものづくりなど)があったりするが、自分の頭で考えてみること、それを楽しもうとする時間こそ、大切にできるといいなと思っているから、わかった/わからない、できた/できないを要求することはないなぁと、ふりかえってみて思う。

問題をとけるともちろんうれしいが、とけなくたって、考えることをぜんぜん楽しめている様子だ。この問題はできないといけない、わからないといけない、といったプレッシャーにさらされることがないため、子どもたちは算数の評価に踊らされていないから、楽しめているのかもしれない。

もっといえば、問題にとけないでスタックしている様子やできない姿をみて「ふふふ。しめしめ」と伝えているぐらいの僕は悪い先生だ。でも子どもたちもそれを喜んでいるようだし、決して教わりたいと思っていないようで自分で考えたいとのこと。

ただ、そこには問題をネタのように解いているわけではなく、問題解決のサイクル(数学的思考)がはたらいていることが大切だ。このあたりは、今じっくりと原稿にしているので、機会があったらそれを読んでもらえるとうれしい。

この問題解決のサイクルを子どもたちはどうつかっているかは、気になるところで、子どもたちにはもっと思考のあしあとを残してほしいと思っている。このあたりはまだまだ課題が多いが、続けていけば解決される問題だと思う。

そして何よりも、数学者の時間は「ワークショップ授業」ということ。ここあたりを理解できないと、数学者の時間もただのコンテンツやネタの提供となってしまい、ひとつの教科の枠をこえた学びとなっていかない。

数学することを通して、ワークショップ授業で、どうやって人と学び合い、弱さも含みこんで一緒にいきていく集団、コミュニティをつくっていくのか。このあたりは継続してLAFTで追求し、言葉にしていきたい。

学校はもっと居心地のいい場所にしていけるようになるといいなぁ。

算数のできる/できない問題には、答えはあるのか

学習サークルLAFTの算数編がスタートした。算数ギライがあつまるはずなんだけど、算数好きもあつまってなかなかおもしろい場になった。

こういう公立と私立の枠をこえて、そして小中高の校種もこえて、一緒に学び合えるのはうれしいもの。お互いの刺激になります。

今日は、算数ができないことへの生きづらさが語られた。

「できないと高校も進学できない。算数・数学は自分の進路に大きくかかわり将来を規定するものでもある。楽しいとかいっているとムカムカしてくる!」と。怒りにもににた本音の声だ。

これをどうメンバーでひきとってかかわっていくのか。これからためされる。

たしかに音楽とか歌はへたでも大きな声で歌えば認めてもらえるけれども、算数は大きな数字で書いたところで○はもらえない。どうして算数・数学はこうもできる/できないことをつきつけられるのだろうか。

この能力を身につけるているかどうかを測る教科には算数・数学はわかりやすい。けれども、この能力ってそもそも、個人のできる/できないに本当に帰属させてしまっていいのだろうか。

僕は、能力を発揮する時なんて、友人がいてくれたり、仲間がいてくれたり、そこでの関係性や文脈があってパフォーマンスがはじめてあがる。嫌なことを言ってくる人や仲間を尊重できない人がいれば、僕の華麗なるその能力はまったく発揮することなんてできない。これは誰もがありうることだろう。

このできる/できない問題を、個人にかえすのではないものの見方ができないものだろうか。もし個別の責任を越えることができるなら、現在の能力を高めることにのみ力点が置かれる教育は見直されるはずだ。

僕はこの算数・数学はできる/できない教科の価値を相対的にバランスするためにも、「数学者の時間」で本来の数学する考える楽しさを味わえることに光明を見いだしたい。

こういう話をずっと聞いてくれる仲間、考えを深める問いをなげかけてくれる仲間がいることに僕は自分の力を伸ばすことができている。仲間に恵まれていて幸せだし、これまでもこれからもいっしょに付き合っていきたい。

さて、ブッククラブチームも決まり、僕自身の実践発表も決まった。子どもが楽しく学ぶためのモデルとなれるように、大人も本気で楽しく学ぼうとおもう。

ウクライナから『戦争が町にやってくる』絵本作家をおまねきして

Добрий день.(どーぶりでーに)、こんにちは。

今日はウクライナから『戦争が町にやってくる』の絵本作家であるロマナ・ロマニーシンさんとアンドリー・レシヴさんをおまねきしてウクライナの今を教えてもらった。

アンドリーさんは徴兵の義務もあるという。その中で文化啓発活動の一環としてなんとポーランド経由で長い時間をかけて訪日してくれた。それを支援したのが出版社であるブロンズ新社(ヨシタケシンスケさんの本やたにかわしゅんたろうさんなどだれもが一度は手に取っているはず)だ。

ウクライナのキレイな町並み、実際の戦争を題材にした絵本の作り方、そして、「日常の大切さが、戦争でわかった」と通訳のエレーナさんを介して話してくれた。

今の戦争は、ミサイルが飛んでくるとそれぞれの携帯アプリでその位置を確認してから仕事を片付けてシェルターへ避難する。シェルター内の子どもたちは、歌をうたったり勉強をしたりもする。

こういう戦争下だからこそ、笑顔でいたいと二人のアトリエでうまそうなアイスをほおばる写真もみせてくれた。その心もちに子どもたちと心を揺さぶられた。

建物が破壊される。すぐにまたそれを復元し建て直す。それはすでに元の建物ではないことも伝わってきた。「壊れやすいものほど意思は固い」と話してくれた。

ウクライナの実情の一つを知った。でもこれはウクライナだけのことではなく、ロシアで生活している人も同じく、戦争下で苦しんでいるだろう。

これは僕にとっては、どちらの国を支援するといった問題ではない。国を越えてつながりのあるロマナさんとアンドリーさん、戦争下にいる人を支援するつもりだ。

これまで平和教育について考えてきたからこそ、子どもたちからたくさんの質問がでてきた。感想も豊かだった。お二人やブロンズ社の方たちからも、子どもたちの自由な様子、よい学びの雰囲気のこと、ほめられたりもした。

今回、声をかけてくださったのはブロンズ新社。本校のHPのこれまでの平和学習の活動をみてくれたのがきっかけ。だから、この取り組みはこれまでの桐朋の歴代の子どもたち、先生たちがつないでくれたもの。

ブロンズ新社の方々はこの日まで、本当にていねいな打ち合わせをしてくれた。別れ際に目頭が熱くなってしまった。とても気持ちのいい人たちだった。

翻訳界であの有名な金原瑞人さんに直接お会いできたのも貴重な体験。図書室には金原さん翻訳本をずらりと並べていたのもステキ。

トラブルあっていいじゃん! ピンチはチャンス

子どもたちの生活の中では、トラブルはつきもの。学校がはじまり、1ヶ月もしてくると、授業以外においていろんなトラブルがはじまってくる。人と人がいっしょにいるからこそ、対立や葛藤がうまれる。

僕はいつもそれでいいとおもっている。これは次の関係へと変わっていくきっかけにしていきたい。

トラブルは正直いえば、ないままでいてほしいし、平和でいたい。でもトラブル0が平和だとは最近そういえなくなってきている。日々のトラブルをちゃんと自分たちの成長の糧とできるように、話し合って解決していけることこそが平和なのかもしれない。

もちろん、怪我をするような安全がおびやかされるトラブルは絶対になくさないといけない。

子ども同士の健全なトラブルから学ぶことは本当にたくさんのことがあるはず。だいじなことはこのトラブルから逃げないこと。

僕の尊敬するボスが生前「ピンチはチャンスだよ」と何度も言ってくれていた。僕が当時、担当してた生徒に殴られたその日でさえも。ピンチ過ぎるのにぃ。

でも、そうだとおもう。トラブルをていねいにほぐして聞いて、ときにホワイトボードにメモしてあげながら、ちゃんと話し合っていくと、少しずつ変わっていけることも知っている。

その渦中にいるときは苦しいし、逃げたくなる。これはみんなそう。自分を守ろうとしてしまうこともある。相手を責めたくなる気持ちもうまれてしまう。

そういうときは、そういう気持ちになりかけている自分を受け止めて、落ち着いて話をきくことからはじめる。それしかないと思う。相手の言い分をちゃんときく。何をおもっているのか。どうしたいのか。

これってしんどいといわれるとそうだけど、そのうち、ケロッとして「あのときあんなことあったね。あはは」と笑えるときがくると信じているし、たいていそうなってきたし、この先もそうなると思っている。

一人の子とじっくり相談した。この時間がとても大事だったとふりかえってみてそうおもう。ちゃんと受け止め、ここから何を成長していけるのか、ただただ聞いて、いっしょに考える。

子どもは純粋培養で育ってきた子よりも、たくましくいろんなトラブルをのりこえてきたほうが強い。だから僕だって強くもなれる。

ということで最近、ピンチだらけなので、チャンスだらけということ。

しぜん広場でこっそりまつっているネコ神様