2023年 10月 の投稿一覧

「子ども面談」はじめました

そろそろ保護者と個人面談がはじまる。6年生ともあって、進路について話し合う大事な面談。

それに先だって、子どもたち一人ひとりと「子ども面談」を始めることとなった。僕はこれまで一対一で「全員と」話し合うことはこれまでの実践でやったことは無かったかもしれない。

あ、うそ。遠い昔、初任者の頃、やろうとしてあまりの時間づくりのむずかしさに挫折したことを遠い目で思い出した。

本当に聴き取りたいことがあれば一人ひとり面談よりもアンケートをつくってきた。そのほうが焦点をしぼって的確に質問でき、なおかつ時間をもうまく使える。

しかし、書くまでもないことや、書くことに抵抗がある子たちにとってはどうか。対面であることの意味を、今回の子ども面談で考えながら行っていきたい。

昼休みや放課後を使って今日からはじめたが、最初の感覚はとてもよかった。なによりも、話を聞くことは相手への最大のエンパワーメントになる。

そこから話題を膨らんだり、寄り道したり、困っていることを聞きと立ったり、具体的なアドバイスなどもできる。嬉しいのが、その場で相手の反応をすぐに受け取ることができる。これは日々のジャーナルでの意見の交流ではなかなか成立しないこともあっただけに嬉しい。

日頃、なかなかかかわりをなかなか持ちづらい子とも、その機会をつくることができる。思春期まっただ中で、みんなの前ではちょっと反抗期を装っていても、一対一だと、素直になっちゃうところはかわいい。

最初は5分だけといっていたのが、結局いろいろ話を聞いていると面白く、なかなか先に進まないのが悩ましいところ。

こういった面談は実に楽しい。教師は話すことが多いから、よい問いを準備してじっくりと「聴く」ことを大事にしたい。

一緒に桐朋小学校をつくりませんか?

僕は今の学校に来て6年目になりますが、うちの学校に勤務するようになってから、良かったことをふりかえってみると二つほど思いつくことがあります。

それは、「自由な実践」と「民主主義の空気」です。

ひとつめの「自由な実践」、それは本当にやりたいこと、子どもも大人もワクワクすることへ挑戦できる学校です(これは今年の研究テーマでもあります)。

本校は創設68年目。創設当時には、ジョン・デューイから「子どもが構成し、創造し、そして能動的に探究するための作業所・実験室・材料・道具が、いや そういうことに必要な空間」、「伝統的な学校におけるカリキュラムおよび教育方法の画一」を変えることなどを学び、そうした考えを大切にして初等部がつくられてきました。(「」印は『初等部誕生物語』より)。

その文化は脈々と続き、先生方それぞれの独自の実践を大切にしている校風があります。僕はというと、年間通してサークル対話をやったり、低中学年では2年間続けて毎朝、しぜん広場に遊びにいったり、数学ワークショップ「数学者の時間」の実践研究を続けられています。それだけに年間3回ある研究会では、お互いの実践に敬意をもっている職場でもあります。

ふたつめの民主主義。職場の決めごとは基本、話し合いで決まります。それは決してお飾りの話し合いではなく、一人ひとりの声が尊重されます。(だからまぁ、会議は長くなってしまうのですが、納得感はあります)。

自分たちの教育のハンドルを自分たちで持っているということ。これは本当に実感している。これは決して教師だけのことではなく、子どもたちも含めてちゃんと声を聞きとられ、取り上げられていく。自治活動がほんとうに大切にされている学校で、ここがすごいと思うのです。それだけに定期的に、どんな学校でありたいかをよく話し合われています。

僕は民主主義の空気を学校生活を通して、生まれてはじめて感じることができました。この感覚を持てたことは自分の人生の主役になれることと同意だと感じられるようになってきました。

僕の声が、そして、子どもの声が学校の運営に反映される。そんな学校です。もちろん、そのために費やす努力もあるけれど、それはそれで意味のある時間、やりがいとなります。

僕の勤務している桐朋小学校が専任採用の募集1名始めました。よかったら一緒に働きませんか。募集要項が以下となります。

https://shogakko.toho.ac.jp/wp-content/uploads/2023/10/%E5%8B%9F%E9%9B%86%E8%A6%81%E9%A0%85%E5%B0%82%E4%BB%BB%EF%BC%892023%E3%80%8010%E6%9C%88.pdf

桐朋小学校HP https://shogakko.toho.ac.jp

自由と民主主義を標榜とする桐朋小学校。よかったら同僚になって一緒に学校つくりませんか。

今朝は毎年恒例のしぜん広場で、こっそりと柿をもいできました

算数ノートに自分の考えを書けない理由

数日前に、自分の考えをノートにメモすることの価値について書いた。

記録しないなんてもったいない!

http://igasen.xsrv.jp/wp/2023/10/13/記録しないなんてもったいない!/

よいと分かっているのに、なぜ書かないのか、なぜ書けないのか。そこへの洞察が昨日のLAFTのブッククラブであったので、それこそメモしておく。

思考のプロセスを記録することの恩恵は、自分の考えをゆっくりしてくれること。自分の考えを記録することは、自分の思考スピードを落とさせてくれる装置でもある。

自分がどのように思考し、どのように間違いを犯し、どこに解決の糸口がうまっているのか、その記録から立ちあがってくる。

こういう練習を積み重ねることで、ますます自分の内面のできごとに焦点をあてて、言葉にすることに長けてくる。自己モニタリング機能を高める練習にも鳴っている。

思考プロセスを書かない手はない!

にも関わらず、どうしてその過程を自分の考えをノートに書かない子がいるのだろう。

思考を可視化することって、プライドとの戦いだと思う。

・本当はもっとすんなりとスマートに解決にいたりたい。

・自分は失敗しないで巧みにできる。

こういった正答を求めている「かちこちマインドセット」が通底している。それもそのはず、教科書ベースばかりの算数・数学は寄り道するほど時間にゆとりがない。つまり失敗したり、スタックしながらその失敗にこそひらめきの価値があると「自力で」ワイルドに問題解決していく時間が保証されにくい構造となっている(ここに数学者の時間を提供できるその価値があると考えている)。

実際に、ノートに自分の問題解決の足跡をふりかえってみると、言い訳ができない。その言い訳できなおい自分と対峙するしかないのである。中には、まちがえをすぐに消しゴムで消そうとする子もいる。そういう子はかならずといっていいほど、正解/不正解の算数・数学で傷ついている経験がある。

数学者の時間では「うっかりミスは別としても、しっかり考えたことでまちがったところはのこしておいて。本当に消したいところは×だけしておいて」と伝えることが多い。

まちがえても、ミスしても、それがうまくいくコツというリッチな問題解決経験に乏しければ、それはメモすることはおっくうとなる。よりよいノートモデルを示したら、上手くノートを書けるようになるということだけではないことに気がついた。

書くことが自分をよりよくしてくれることに気がつきさえすれば、自然とかけるようになってくるとおもう。これからも授業では書くことにこだわっていけるといい。

このブログも等身大の自分自身の記録だなぁ。まずは言葉にしてまな板にあげる勇気が必要なのかもね。

だれかが木のうろにドロダンゴをかくしてた。よくみたらそのクモの巣の構造が数学的でおもしろい。

過保護すぎる算数問題

今日はLAFTで少しだけ最近の数学者の時間の実践話をした。

昨日の「ロープにつながれたヤギ問題」の価値を再確認できたことが今日のハイライトだった。

実際に6年生の子どもたちだけでなく、LAFTのメンバーであっても次のような問題のミスリードが生まれていたことがわかった。

そもそもヤギは小屋の中からどう出るの?

小屋って柱4本でしょ?

小屋の中には芝生が生えているの?

これらはどれも素直な反応で、決しておかしなことではない。以前似たような問題を解いたことが合って、自分の中に問題の形式がストックされるような一般化されていない子にとっては、こういった理解は普通に起こってしまう。

本来考えるべきはずの問題の本質と違うところで躓いてしまう。問題の持つ特徴に行き着けないことが問題だと思っていた。こういう反応が起こってしまうことは、そもそも問題の設定がまちがっていると捕らえていた。でも、それはちがうのかもしれない。

それこそ『教科書では学べない数学的思考』を読むことで、わかってきたことがある。それは「特殊化(ためす」ことの重要性だ。

問題に出会って、実際に解き始めるとき、上のような反応があっていいし、そう予想たてて実際にノートに書き始めたり、ためしたりし始めることこそが、特殊化の一歩のはず。これこそ歓迎され、認められることだ。

問題の意味を確かめるために、特殊化して問題を自分に引き寄せていると理解すべきだった。

そう思えなかったのはなぜだろう。それは、いつも解きやすいやわやわの問題を与えられているからなのだとおもう。この整然とされて迷うことのない条件文と求答文の問題ばかり!解いていることが、「よく分からない問題をよくわらかないまま、自分のものにしようと試行錯誤する力」を奪っていたのかもしれないことに気付いた。

普段から、教科書問題にならされ過ぎてしまっている人にとっては、「ロープにつながれたヤギ問題」は、初めて読んだ時、これ問題なのか?と思うのが自然な反応だとおもう。

特殊化試すことで、問題を自分に引き寄せるこのプロセスを経験することから始める。それは数学的にとても意味のあることに気付けた。

これまでこういう問題を提示したとき、子どもが勝手な解釈をし始めることで授業にのれないで失敗だと思っていた。そのため、教師が問題の入り口でしっかりと「わかっていること」「もとめること」を規定してあげることが必要だと理解していたけどそうじゃなかった。

問題を自分に引き寄せるための特殊化が足りなかったのかもしれない。とことに気がついた。

たまにはこういう不親切なもんだいもいいものだ。そしてそういう問題こそ、オーセンティックで日頃私たちが触れている日常の問題だからだ。世の中の問題はそもそも何が問題かもわからない。今ある条件をフル稼働させ、特殊化して問題の感触を自分に引き寄せることで、問題を理解する。こういう野生の力が必要なのだと分かった。問題も過保護すぎるとよくないな。とわかったのが1番の収穫。

教室の戸締まりにいくと、机の上に秋の収穫がおいてありました

数学者の時間 特殊化(ためす)から問題解決を

ちょうど円の面積を学習している。そこでブッククラブ用に読んでいる『教科書では学べない数学的思考』からの問題を扱った。

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この良問のおもしろいところは、問題が不親切なところ。一度読んだだけではとてもわかりにくい。だからこそ「特殊化(ためす)」をやってみて、問題が解けそうだと身近に感じられるようにする経験ができるよいリッチな問題だ。

今日のミニ・レッスンでは、図や表、数値や記号、ものをつかって特殊化をすることを確認した。

ときはじめている子どもたちの様子をみていると、同じようなつまずきをみせた。

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ひとつの角をもとに、6mの円をえがいてしまう。つまり、小屋を壁のある小屋と認識せずに、柱だけの小屋として理解している様子だ。(昭和世代には当たり前の犬を小屋の外につなぐイメージは令和の子どもたちにはなく、ヤギも小屋の中で飼うイメージだとか)。

そもそも小屋って中に草ないし! だからあとで小屋分の面積をひくらしい。

しかし、小さな端数の面積がでてきてしまい、どうしていいか途方に暮れる。これを解くにはピタゴラスの定理が必要となるのでクラスの秀才でも「チョットむり」だそうだ。

そこで、立ち返る。この特殊化ではだめだったことが。そこにカンファランス。僕はなんと声をかけていいのか思案していた。

とてもいいスタック(まちがえ)をしている。自分なりに挑戦してみて、どうもうまくいかないことがわかる。このスタックをもっとわかりやすいスタックとしてどうわたしていけるのか。そのための支援ってなんだろう。できないことを楽しむってどういうことだろう。

他の子の特殊化は実際に「もの」をつかってやっていた。スズランテープを使って実際にやっていた!そこで、ロープは小屋を越えて伸びることはないことに気づけたようだ。特殊化の勝利。これはこれでいいと思う。

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こういう力技は好物です。どんどん特殊化していってほしいです。特殊化のよさを味わえた良問でした。

次回は、この問題の特徴を使って問題づくりへと進む予定。

帽子をかぶらないという思春期

今朝、朝スポをやっているときに、ふと気がついたことがある。

本校では、朝の時間はいわゆる全校朝会とよばれるものがない。クラスで話し合ったり、自治活動で委員会の子どもたちが御用聞きにきたり、漢字の小テストしたり、算数テキストを進めたり、のんびりスタートしている。これはとてもいい。朝から全校一斉にあつまるのって時間的にも1日のサイクルでもしんどいものだ。

ちなみに、うちのクラスは毎週木曜日が朝スポといって、朝、体育館でクラス遊びをしている。これは子どもたちの楽しみの一つだ。

リレーをやったり、鬼ごっこやったり、バスケやったり、オリジナル遊びだったり。今朝は恒例のドッジボールだった。子どもたちをみていると、ふと気付いたことがある。

それは、体育用の紅白帽子をかぶっていない子が増えてきたことだ。係の子達が「赤と白にわかれてやってねー」と言っているが、かぶらない。ドッジボールをするのだから、ゲームの運営上不都合が生じる。

かぶらないメンバーの顔をよくみていると、最近、急におしゃれを意識するようになってきた子だちだ。ヒマさえあれば、鏡の前で前髪をミリ単位でマッシュルームに整えている子。姫毛に命をかけて、お手入れしている子。みんな思春期まっただ中だ。

帽子をかぶると、髪型がくずれてしまう。これはドッジボールの命よりも命取りだ。実におもしろい。

しかし、手には帽子はもっている。このあたりがかわいい。一応、ルール上チームカラーには属しているようだ。

これまでの僕の学校経験では、全校朝会のときには帽子をかぶっていなければこれこそ命取りだった。しっかり教師の指導力が行き届いているか、帽子着用は教員の指導力のバロメーターと化していた。名札もそう(ちなみに本校に名札の着用もないしそもそも名札をもっていない)。僕はまぁ、お付き合い程度にはやっていたが、内心、どうでもいいと思っていた。

一方で帽子を目深にしっかりかぶり、ドッジボールに汗をながしている子たちをみると、それはそれでいい。そして少しずつ、周りに巻き込まれながら、自分自身をみつめていく思春期に突入していくんだと思うと、なんだがほっこりする。

これからもかっこよさやかわいさをそれぞれ追求し続けてほしい。まぁ、登下校の制帽をかぶらないのは気になるところ。声はかけるけどさ。

忙しいとオモシロいことがはじまらない

さて、今週末にLAFT(174回目)で算数の実践報告をする予定になっているんだけど、まだ何も手がつけられていない。

修学旅行がやっと終わってその報告会づくりの計画を始めたり、会計報告やったり、学校便り報告書いたり、職員会議用の修学旅行報告書書いたり、報告書だらけかい! と、今はあれやこれやとゆとりがない。

人はひまな時間がないとクリエイティブになれない。そんなの当たり前田のクラッカー。ゆとりがなければ、おもしろいことは思いつけない。だから、ひまってとても大切にしたい。

よく「頼み仕事の忙しい人に任せるといい」と言われるけど、そんなブラック企業なことはやめてほしい。忙しい人は忙しいが為にせっせと働いているのに、そこに塩をぬるように、さらに忙しくしないでほしい。

僕は忙しいときほど仕事をしたくなくなる。ふとんをかぶってねてしまいたくなる。できるだけそっとしておいてほしい。どうしてもやらねばならないときに、ふだんの120%の力を発揮するから許してほしい。

ということで、いろいろなことが手つかずで、追われる身となっているハリソンフォードの気分を味わっている。そのやり場のない気持ちをWowWowと叫びたくなる。

でも、せっかくだから実践報告では普段の算数とは異なる考えることが楽しい時間を過ごせていること、それが個人の活動を越えて、コミュニティというあつまりで生まれていること、その価値をあらためて提起し直したい。忙しくてできないかもしれないけど。その気持ちはあるとだけ表明しておきたい。

ということで、はやめに寝ることにする。おやすみなさい。

心のビタミン剤、それはねぎらいの言葉

今朝、教室に顔を出すと、机の上に連絡帳がおいてあった。

朝から、教員の机に連絡帳があるのはゆゆしきこと。悪運立ちこめるそんな1日の始まりの合図だ。これは警戒しないといけない。

開いてみると、なんてことはなかった。修学旅行中に声をかけていた保護者の方から感謝の言葉があった。

ふむ。

こちらは当たり前だと思ってやっていたことだけど、声をかけた子は家に帰ってからそれが嬉しかった、安心できたことだったらしい。

たまには人の役に立つこともしている自分をほめたい。

連絡帳に感謝の言葉、たったそれだけのこと。それだけで、1日が気持ち良くスタートする。先生ってそんな仕事。

それだけに、ほんの一言だけでもねぎらいの言葉をかけることは大事なことだと思う。

僕は小まめに伝える方ではないので、目力で伝えたいと思っている。しかしそもそも視力も弱いのであまり効果がない。やはり言葉で伝える事は大切だ。だから、せっせと子どもたちのジャーナルに返信を書いている。自学ノートもみられるときは返事を書くようにしている。

僕ら教員はだれかに認められるためにやっていることはそんな多くないと思う。多くの仕事は自分の自己満足が多い。

もちろんお付き合いの仕事もあることはあるが、結局はそのさじ加減は自分が決めている。それだけに、誰かから感謝されたりすることは最初から期待していない。

けれどもやはり、がんばったらがんばったなりにお褒めの言葉をもらいたいものだ。教員とはそういうものだ。覚えておいてほしい。僕らはもっとエネルギーチャージされてしかるべきなのかもしれない。

ここまで書くと、やることやってから言えといわれそうだが、あえて言ってしまおう。

ふりかえってみると、いい管理職や信頼できる学年の先生たちは、必ずといっていいほど、ねぎらいの言葉を自然とかけてくれていた人達ばかりだった。そしてこれまで出会ってきた保護者の中にもそういうモデルとなる人がたくさんいてくれた。

今朝、職場に顔を出すと、多くの先生たちから「修学旅行おつかれさまー」と声をかけてもらった。いい職場だと思う。

やってもらって、やってあげてあたりまえと思わないこと。僕も少し意識して感謝の言葉を伝えていこうと思えた朝の一幕だった。

この修学旅行で一番うまかった肉玉そば。

健康診断のショウモナイ話

今日は修学旅行の代休。でも職員向けの健康診断が学校であるので行ってきた。

毎年、くりかえされるんだけどいつもそれって「ダメじゃん」っておもっているショウモナイ話。それが聴力検査。

その聴力検査用の部屋に入ると、音が入ってこないようにするためか、ていねいにおばちゃん看護士さんがドアをしめてくれた。僕は気を利かせてヘッドフォンをかぶろうとすると、おばちゃん看護士さんがとっさにとめて「私がつけますよ」とおもむろにかぶせてくる。

ははん。聴力検査の成績を上げようとわざと耳からヘッドフォンをずらそうとする輩がいるんだな。僕はそんなズルはしないでおこう。

自分で微調整をするけれど、いつもつかっているボウズのヘッドフォンとは着け心地がまったくことなり、どうも耳にフィットしないで着け心地が悪い。そもそもデザインもウルトラ隊基地でつけているような昭和感満載のヘッドフォン。

いよいよだ。おばちゃん看護士さんがマシンを操作する。僕はそのマシンを背にして座っている。

「音が聞こえたら手を挙げてくださいね」といわれ、おばちゃんはマシンのボタンをカチッとおしてしまう。おしてしまうので、「あぁ、いまからあのピーという音が僕にきかせてくれるのだ」という心がまえが事前にできてしまう。そしてそのとおりになり、言われるがままに僕は手を挙げる。

こういう時に優秀さを示そうと、カチっと同時にサッと手を挙げてしまう自分がいた。

カチ、サッ!ピー。カチ、サッ!ピー。

はい。反対

カチ、サッ!ピー。カチ、サッ!ピー。

リズム良く手を挙げて、僕とおばちゃんとのセッションが終わった。

あの聴覚検査、意味ないよね。ボタンの音とそのリズムでわかるじゃん。そしておばちゃんも分かっていてもうそのリズムでよしとしているし。

このショウモナイ話。毎年かんじていたことだけに、今日、ここにこのタイミングで供養できてよかった。

ほんとはまだまだあるのよ。レントゲン両肩おしつけ地獄とか、聴診器診察時目線気まずい問題とか。


大久野島から本島へ変えるときの船内。これってとれちゃダメなやつじゃん。

修学旅行なのに!校長先生のビンゴ大会と大漁釣果

広島へ3泊4日の修学旅行にいってきた。二日間は広島市の平和記念講演でみっちりと平和教育について考える時間を。のこりの二日間は大久野島へわたり、被害だけではない日本軍の加害についても、その場に行って学んできた。

あまりにも戦争のことが一気にふりかかってくる日程だったため、気持ちがなかなか追いつかない。子どもたちも同じだようだった。

だからおもいっきり遊んだり、自由な時間がじつはとても大事な時間だったと振り返ってみておもう。

「食事のあとに10分だけもらえないかな?」と校長がお願いしてきた。「ビンゴ大会やって、みんなで楽しもうよ」とお土産コーナーで子どもたちが喜びそうなぬいぐるみやキーホルダー、ご当地スナックや文房具を楽しそうに選んでいた。もちろん校長の自腹だ。

いろんな修学旅行はあるにせよ、校長自らが率先して楽しんでいる学校ははじめて。最初は「そんな時間ありなのー?」とびっくり。でも、あまりにも重い歴史と事実に触れ続けて、みんな心が疲れていた。子どもたちがふっと楽しんだり、盛り上がったりする時間がやっぱり大切なんだと、やってみてわかった。

もちろん、食後の抽選会はおおもりあがりだった。

僕はといえば子どもたちとは昼間一緒に釣りにいった。「これまでの経験で1匹つれればいいほうだよ」と聞かされていたから「ならば、夕食のおかずに一品ふやしてやろう」と釣りに興味のある子どもたちと気合いをいれていった。

今年の子どもたちは魚愛が強すぎる子たちばかり。防波堤から竹竿をたらすと、すぐに入れ食いだった。海の神様が微笑んでくれた。ベラ、カワハギが大量に釣れた。「こんな経験はじめて!」とみんな嬉しそう。小さめのオコゼやフグもつれたが逃がしてあげた。バケツいっぱいの海の幸にめぐまれ、調理場にたのんで夕食に唐揚げでだしてもらうこととなった。

白身魚のベラやカワハギは実は高級魚。身がやわらかくて本当に美味しかった。子どもたちは自分たちがつった魚がほんとに夕飯にでてくるとは信じていなかったようで、目の前に大量の唐揚げがでてきたときには、大興奮だった。

学ぶことって、バランス。息抜きがないとよりよく学びにむかえないなぁ。