過保護すぎる算数問題

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今日はLAFTで少しだけ最近の数学者の時間の実践話をした。

昨日の「ロープにつながれたヤギ問題」の価値を再確認できたことが今日のハイライトだった。

実際に6年生の子どもたちだけでなく、LAFTのメンバーであっても次のような問題のミスリードが生まれていたことがわかった。

そもそもヤギは小屋の中からどう出るの?

小屋って柱4本でしょ?

小屋の中には芝生が生えているの?

これらはどれも素直な反応で、決しておかしなことではない。以前似たような問題を解いたことが合って、自分の中に問題の形式がストックされるような一般化されていない子にとっては、こういった理解は普通に起こってしまう。

本来考えるべきはずの問題の本質と違うところで躓いてしまう。問題の持つ特徴に行き着けないことが問題だと思っていた。こういう反応が起こってしまうことは、そもそも問題の設定がまちがっていると捕らえていた。でも、それはちがうのかもしれない。

それこそ『教科書では学べない数学的思考』を読むことで、わかってきたことがある。それは「特殊化(ためす」ことの重要性だ。

問題に出会って、実際に解き始めるとき、上のような反応があっていいし、そう予想たてて実際にノートに書き始めたり、ためしたりし始めることこそが、特殊化の一歩のはず。これこそ歓迎され、認められることだ。

問題の意味を確かめるために、特殊化して問題を自分に引き寄せていると理解すべきだった。

そう思えなかったのはなぜだろう。それは、いつも解きやすいやわやわの問題を与えられているからなのだとおもう。この整然とされて迷うことのない条件文と求答文の問題ばかり!解いていることが、「よく分からない問題をよくわらかないまま、自分のものにしようと試行錯誤する力」を奪っていたのかもしれないことに気付いた。

普段から、教科書問題にならされ過ぎてしまっている人にとっては、「ロープにつながれたヤギ問題」は、初めて読んだ時、これ問題なのか?と思うのが自然な反応だとおもう。

特殊化試すことで、問題を自分に引き寄せるこのプロセスを経験することから始める。それは数学的にとても意味のあることに気付けた。

これまでこういう問題を提示したとき、子どもが勝手な解釈をし始めることで授業にのれないで失敗だと思っていた。そのため、教師が問題の入り口でしっかりと「わかっていること」「もとめること」を規定してあげることが必要だと理解していたけどそうじゃなかった。

問題を自分に引き寄せるための特殊化が足りなかったのかもしれない。とことに気がついた。

たまにはこういう不親切なもんだいもいいものだ。そしてそういう問題こそ、オーセンティックで日頃私たちが触れている日常の問題だからだ。世の中の問題はそもそも何が問題かもわからない。今ある条件をフル稼働させ、特殊化して問題の感触を自分に引き寄せることで、問題を理解する。こういう野生の力が必要なのだと分かった。問題も過保護すぎるとよくないな。とわかったのが1番の収穫。

教室の戸締まりにいくと、机の上に秋の収穫がおいてありました
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