2020年 7月 の投稿一覧

失敗をしない限り、人はクリエイティブにはなれない

失敗をしない限り、人はクリエイティブにはなれない

コーネル大学の数学者であるスティーブ・ストロガッツの言葉です。

何よりもモガキながら進むことこそ重要なんですね。完璧な自分、専門家という自分をいかに手放し、知らないということの好奇心へとつなぐことができるか。

特に算数の授業で起こりがちなこと。「この問題はわからない」「できない」「答えられない」といった恐怖心は、何百万人の子どもたちに共通している感覚なはず。また、自分よりも他の子がより早く問題を解くことで「自分はできない」と思ってしまいがち。これらはその後の数学嫌いへと、しつこくつきまとってくる算数の呪いですね。

算数・数学が苦手なのは、決してその子になにか問題や数学脳の欠損があるわけではありません。そもそも数学脳などはありません。もちろんスピードの問題ではありません。これは個別最適化したカリキュラムを個別のペースで隠したところで、このマインドセットは解決されるものでもなさそうです。

失敗してもいいし、ミスしてもいい。そしてその失敗からこそ、学べることができる、と勇気づけてあげられること。僕は、このへんは思考の習慣だと考えています。一回っきりの教師からの「説諭」でも難しい。日々の授業や生活の中で、くりかえし体験し、その言葉への理解と体験が重なるところまで、日々反復連打し続けることだと思う。

その反復連打の中で「わからない自分がはずかしいと感じている」と正直に言えるようになってほしいし、自分もそうでありたい。その勇気はすごいことだと思う。「わからない。もっと知りたい」と、できない自分を受け入れること。そして、「あ、まちがえた。これはおもしろい!」「なんとかなるさ、これは挑戦だ」と思えること。こういうマインドセットの文化を育てていきたい。

そして、どうして、ここまで失敗の価値が語れるのに、失敗をいかして、もがくことがなかなかできないのか? 僕の中で一つ大きなブレイクスルーがありました。それは、知識を増やそうとする収集心が、今ある手持ちの知識で考えようともがき続けることを阻害してしまっている。そこに気付きました。

ケーキ分割問題という数学界では名の知れた有名な問題があります。ケーキや土地のような連続した物体を、二人以上の間で均等に分けて、それぞれの当事者が満足するように分けることができるか、という問題。これには多様の解法があると同時に、何年間も数学者を魅了し続ける問題でもあるそうです。

そして、このケーキ分割問題を、2人の若いコンピュータ科学者が劇的に解決してしまいました。この2人には、数学者が持っていたような豊富な数学の知識は持っていませんでした。そうなんです。「知らないこと」が、これまでの常識に縛られずに創造的に問題解決にアプローチすることができたのです。

「私たちの成功は、他の人よりもそのトピックについての知識が少なかったことが原因であり、それによって自分たちは違った考え方をすることができた」

と振り返っています。

僕は、この二人はきっともがいたに違いないと思っています。安易に、知識を集めようとせずに、今ある手持ちの知識を組み合わせ、統合させようと、常にぐるぐる考え続けていたんだと思います。

僕に必要なことはここだ!とピンときました。

何か分からないことがあれば、すぐに知識を増やそうとして対応してしまう自分がいます。でもそれって、「知っている」程度の浅いところでしかない。その知識は応用する、統合する、創造するところまで引き上げられていない。くんずほぐれず、今知っている知識でサバイブしようと考えることにコミットすること。これがもがく事なんだと思います。

失敗することはいいことだ。これは誰にでも言えます。一歩だけ推し進めて、失敗してもがき続けるには、「余計な知識を知ろうとするクセを手放せ、今ある知識でもがいてみせろ」。知識を収集することに注力することから解法された気がしました。知識を統合することにこそ、時間を割く必要があると思います。しばらくは、考えることにコミットしてみます。

ちなみに、僕が好きになってしまった数学者の一人、スティーブ・ストロガッツさん。TEDトークにも出ています。なぜ、魚や鳥がシンクロするのか数学的に解明しようとしています。まぁ、それよりも彼が素晴らしいのは、誰もが共通してもっている「微分・積分なんかオトナになってなんの役に立つのか!?」という怒りにも似た問いへ明快に答えてくれる良書があることです。ぜひ!

TED「驚くべきシンクロ現象」

探究自学ノート「質問づくり」から知りたいことを

はっぱって、どうしてきせつごとにかわるんだろう? よそう。もしかして、おこりっぽくなったり、なきむしになったりしているのかな〜?

どうしてはっぱって、しゅるいによってかたちがちがうのかな? よそう。なかまがどれか、わかるように?”

子どもたちの質問に予想を書くことで、その問いがどこからくるのか、その子の中にある物語やアニミズムの世界に、少し触れることができた気がしました。

教室で探究自学ノートづくりを進めています。「知っていること」をクモの巣マップで出し合ったので、今度は「知りたいこと」に向けて質問づくりをしました。以下の本を参考に。

この手順で進めていくと、すぐに答えの出るクローズな問いとすぐに答えはだせない・もしくはないかもしれないオープンな問いとの仕分けが出てきます。けど、その問いの仕分けって2年生にはちょっとまだ早すぎると考えました。子どもたちは純粋に、オープンだろうが、クローズだろうが、どっちも知りたい。クローズな問いを見つけるる経験が積み重なっていく打ちに、「こんな問いはツマラン」と気付いて少しずつ、「答えのない問い」へ魅了されていけばいいんじゃないかなぁと思います。

ここで僕がこだわったのは、本にはないけれども「予想」を書き出すこと。見方を変えれば、数学的思考ではこれは決定的に重要なこと。そもそも予想は言葉で捕まえられれば、もう大収穫!この辺りはまたじっくりと「数学者の時間」で語りたい。子どもたちの予想は、きっとこの後の答えを見つけた、見つけられなかったとき、そのギャップに自分の考えに当たりをつけていくように、自己修正する練習にもなりそうです。

子どもたちの様子をみていると、質問を見開き2ページを目安に書き始めました。2つの子もいますし、12個書き出せる子もいます。今は個々での取り組みなので(グループワークで質問出し合ったりはしていません)、差があってもいいと思っていました。それでも、やってみると「質問の数ではないな」と思い直せました。

少ない問いにも、なにかキラリと光るようないいものがあります。いい問いってなんなんでしょうね? 僕は子どもらしい、その子の知りたいことが素直にでてくるものなら、なんでもいいなと思うのです。知りたい対象に働きかけがありそうな問い、調べてみたら驚くようなことが待っているかもしれない。どれも小さな冒険であり、探究の入り口。知りたいことがあるってわくわくすること。

いくつか質問をつくってみて、クラス全体で共有してみました。すると問いのキーワードが浮かび上がってきました。「どうして」「なぜ」「名前のゆらいは」「色」「かず」「たべもの」「すみか」など、問い作りのパーツが集まりました。こういったことを整理して、教室に掲示しておくと、また次のテーマで質問づくりをしたとき、もっと多様な視点での問いづくりが練習できそうです。こういう気づきがうまれるのは、低学年の担任のよさでもありますね。

探究自学ノートでは、こちらから「学習のネタ」を用意することはやめることにしました。いろんなテーマは考えてはいたのですが。そのかわりといってはなんですが、その子の興味関心のあることで勝負をしようと決めました。その子の視点や興味をおもしろがったり、一緒に考え、なにか作ったりおもしろそうなこと、やれそうなことを提案していける、そんな個別カンファランスに舵をきっていこうと思います。

人が学ぶとき、楽しいときって「与えられた何か」ではなく「自分だけのもの」を見つけたり、夢中になっているときなんじゃないかな。「そこにオーナーシップはあるんか?」「女将さん!」と、なにか大切なものは忘れちゃいけないと思いました。

それはオトナも一緒。まず、こういったなにか夢中になる体験をオトナもしないといけないな、と思うのです。その楽しさや難しさを経験していないで、手順書のように学びや遊びをガイドすることはできないはずです。

この休校中は、探究自学ノートづくりの研究を2シーズンにわたって協同研究してきました。これまで教材を準備することに重きをおいてきましたが、心機一転、ちょっとベクトルを変えてみようとチャレンジしてみます。これからは「その人の中にあるなにか」から、遊ぶように学ぶタネを見つけ、いっしょに育てていこうと。言葉にするととても美しくなっちゃう笑。けれど、かなりしんどいことだと予想しています。

そして、夏休み前の今、オンラインでも全国の先生達とも探究自学ノートづくりシーズン3に着手しました。おかげさまでコアメンバーは一日待たずに満席。あざっす。オブザーバーの募集を始めました。また、熱いメンバーが金曜日の深夜のzoomに集まることでしょう。2ヶ月の間、もがいていこうと思います。みんなでモガッキーになります。

もがくこと。それは脳の発達にはとても効果的だと脳科学でも証明されています。僕が今、受講しているスタンフォードの数学オンラインコースでも、度々、紹介されています。失敗することや、できないこと、わからないでもがき続けることこそ、脳に効果的なんだとか。もがきのないスルスルとした(繰り返しのパターン計算練習のような)学習だけでは、せっかくつながった神経細胞のルートも消失するようです。

この本に出会って(特に、母親の癌を克服するために娘が親身になって調査するモガキのエピイソードは必見)、理解することにはモガッキーになることが必要だと分かってきました。それまでは、どこか避けてきたところがあったのに! 

とはいうものの、こういった脳科学で証明されていてもそのモガキからの脳みそ成長は「実感」が伴いません。エビデンスを示されたところで「よし!ナイスな情報!明日からはもがきまくるぞ!オイラのなまえはモガキじゃ!」とはなかなかなれません。どこか懐疑的な自分がまだいます。

この科学的な根拠と自分の実感との穴埋めはやはり慎重でないといけない。エビデンス・リテラシー向上にむけ「疑いを持ってリソースにあたってみる」と現在、研究中です。このあたりは、LAFTの勉強会で、一度、エビデンスにじっくりとっくんでみたので、その組み手がわかってきました。

少しずつ、僕の中で、まわりでも、学びのスイッチが起動しはじめました。この夏休み、大切にすごして、深く学んでいこうと思います。ちなみに僕の個人的なテーマは「2−3ゾーンディフェンスの理論と実践」ですから!マニアックー!

Appleペンシルに負けるな!子ども時代に体験しておいてほしいこと

Appleペンシルになくて、鉛筆にあるもの、なーんだ?(答えは最後)

うちの学校には肥後ナイフの学習があります。僕はとてもいいものだと思います。ナイフは使い方によってはとても便利なもの。でも、自分を傷づけることもあるし、人を傷つける道具にもなり得ます。それだけに、子どもにどのタイミングで刃物体験がふさわしいのか、悩ましいところです。うちの学校では、その肥後ナイフを使う授業が1年生からあります。今回はコロナで少しだけしかできずに、2年生でも取り組むことにもなりましたが。

学校で刃物の使い方をちゃんと学べること。しかも小さいうちから。ここに僕はいいなと思うのです。肥後ナイフで鉛筆を削っているときには緊張感もあり、上手に削れたときには、「見て見てー!」と自慢もしたくなるし、「いいじゃんそれ!」となれば一人前として認めてもらえる。その経験は子どもにとって計り知れない自信となっているようです。その成長のとば口に立てる経験が肥後ナイフで鉛筆削りです。

僕も子どもの頃、じいちゃんから肥後ナイフをもらいました。使い方なんてよくわからなかったけど、かちゃかちゃ刃物がでるのが不良みたいで格好良かったのを覚えています笑。ちきり(ナイフの背にある突起で、これを押さえないとナイフが折りたたまれてしまい、柄を握っている指を切ってしまう)の使い方など自分で確かめていきました。それでミニ四駆を改造したり、心を静めようとお地蔵さんも彫ったりもしました。もちろん、何度も指を切り、少しずつ上手なケガの仕方を知り、ナイフの力加減も身につけていきました。今思うと、そういう体験こそが何かつくるときに「なんでもつくれそう」という感覚があるんだと思います。

先月。3年生の子どもたちが鉛筆の削り方を教えに来てくれました。子どもたちにとってはシャカシャカけずるお兄さん、お姉さんはキラリと輝く憧れの存在。自分も上手に、削れるようになりたいなと。初めて削った鉛筆はまだでこぼこだけど、どこか美しいものです。

その後、毎朝の10分間、自分の鉛筆や色鉛筆をピンピンに削ってきました。日々のカオスである教室は一変し、この時間だけはしーんとした空気がながれます。朝のマインドフルネスです。すごくいい。月曜日の朝が落ち着かない都市伝説はこれで変わりますね。

僕が「すごいな」と思ったのが、指を切ったりする子がいないこと。それは切らない指導法が徹底されているから。そして、刃物の危険やその安全な使い方を学べるから。このへんは昭和からの歴史と伝統を感じるし、それがあっての実践。子どもたちは「僕にも安全にできる!」そんな気持ちが持てるようになっています。なんてったって、ナイフは動かさずに鉛筆だけ動かすことからなのです。

先週末、その肥後ナイフの試験をしました。「集まれ!肥後ナイフの森10」プリントをつくって、先生達と相談して10の評価基準を共有してはじめました。はやりに乗っています笑 

そして、練習ではやっぱり思ったようにうまくいかない。最後の最後で、芯がポキッとおれてしまう。刃が削り幅に深く入ってしまう。指先にぐっと神経を集中させ、芯を削り出そうとするけど、ぼこぼこしてうまくいかない。これはほんとうに粘り強さがためされます。指先の巧緻性、やっぱり小さいうちから刃物に触れておく体験は大切だなと思うのです。なにより、手作業は子どものやりたいという気持ちを引き出してくれます。

鉛筆削り試験の途中、緊張のためか深呼吸が何度か聞こえてきました。いつもゆるりと家族のような教室で、たまにはピリリとこういう時間もいいものです。ピンピンにとがらせ、床に削りかす一つものこさず、片付けるところまで。やりながら向上していくのを見越して、8/10点以上を合格としました。そして、みごと全員が合格。帰りの会が終わって、下校の時間。最後の最後に一人となっても削っている子もいました。こういう姿を見られたこと、またいいものです。

合格したらいよいよ一人一本、肥後ナイフをラインドセルのチャックがある所しまう約束で持って帰ることができます。成人したらナイフを長老より手渡されるヒゴナイ部族のようです。なんか、厳かでした。子どもたちは「わーい。家の宿題で鉛筆削りができる!」と喜んで帰って行きました。

これまで僕は教室で刃物を扱うことにとても慎重派でした。子どもたち、しかもやんちゃな子ほど、ちゃんと扱おうとするし、それを通して落ち着きを身につけていることが分かってきました。ときには厳しい口調で注意するときもありますし。武道にも通じるものがあるんじゃないでしょうか。

先日、オンラインへの心配についてポストしました。誤解のないようにいっておきます。僕はICT大スキです! 便利な物はどんどん使っていけばいいと思っているプラグマティックな部分があります。それだけに、もっと多くの人とちゃんと子ども時代のコロナ時代のオンライン授業について議論していかないといけないなと、思いを新たにしました。小学校時代に、自分の世界や少し視野を広げて世の中、社会よりよくしていくためにできることを考え合っていける、そんな時代にしたいです。このあたりはまたじっくりと。

子ども時代、臨界期前に身につけることは一体どんなことでしょう。iPadの操作、腕一本の行動範囲でヴァーチャル世界にどれだけの時間をかけたらいいのでしょうか? 僕が思うに、子どもたちの指先感覚、ちょっとヒヤリとする経験から物事に慎重に、そして自分も人をも傷つける力を持っている怖さも、学んでいってほしいなと思うのです。

小学校時代に体験しておいてほしいこと。五感を使って経験すること。少し前はこういった当たり前だったこと、忘れないでいたいです。昭和かよ! っていわれそうだけど、たまには親指クリックだけじゃないことに目を向けて、真剣に取り組むのもいい時間です。小学校時代に、鉛筆一つ削れるかどうか。削ってきたかどうか。学力では試されないかもしれないけれど、なにか大人より上手に削れている子どものへへんとした顔はかっこいい。そして次は、また学年をまたいで1年生に教えに行くのが楽しみです。こうやって学校の文化をうけとっていくし、よりいいものにしていくんだと思います。

こんな時期だからこそ、学校にはいろいろ要求されます。今、子どもたちと相談しながら、身につけておいてほしいことを考え合っていきたいです。やるべき勉強は、あたらしいものだけでもプログラミング教育や英語教育と、時間とり合いだし、せめぎ合いです。小学校時代に、なにを大切にして、その時間を使っていくのか、その「核となる規準」をおちついて考え直してみてもいいなと思います。勢いに流されてしまっている自分にならないように。核となる規準をもっていれさえすれば、それにそぐわないことでも、オカミの言うことでも多少のことは上手に流せるんじゃないかな。

『この世界の片隅に』のすずさんのように、鉛筆一本をあたりまえのように大切にする気持ち。子どもたちに忘れずに持っていてほしいと思います。教室には、鉛筆がコロコロ落ちていたりするから。今度、子どもたちの中からモニター募って「筆箱中身、えんぴつ1本プロジェクト」をやってみたいな。提案してみよう。それだけで、いろんな気づきが生まれるんじゃないかなぁ。オモシロそーだ。

さて「Appleペンシルになくて、鉛筆にあるものなーんだ?」の答え。Appleペンシルはけずれませんから!と思った人いたでしょ。でもね、答えは、僕が思うに世界中とのつながりです。興味がある人はこちらの絵本をどうぞ。僕も毎年読んでいるいい本です。

『いっぽんの鉛筆のむこうに (たくさんのふしぎ傑作集)』

ちなみに僕はもういい大人なのでAppleペンシル2を購入しました笑。大人はいいんです。自己責任なのだから。

探究自学ノートをはじめました「知っていることを描き出すクモの巣マップ」

「わ〜!わたしすっごいたのしみ!はやくやりたーい!」と、素直な子からの嬉しい言葉にほっこりします。「えー、そんなのやりたくなーい」と、とんがり坊主に「こんにゃろめ、みておれー」とこれまたやる気に発破をかけられます。教室にはいろんな子がいていいし、いてくれることで深まっていくんだと。いよいよ学校が帰ってきたなぁと実感しています。

本格始動の探究自学ノート。これまでの学力やテストとのバランスをとる「自学ノート」とは少し方向転換。学習する人が、ほんとうにやりたいこと、知りたいこと、とことん楽しむための探究自学ノートを子どもたちと一緒につくっていこうと思います。休校中の3ヶ月、zoomで多くの先生達と交流しながらねりねりしてきました。満を持して、いよいよ実践スタート。

今年は2年生。1cm方眼ノートはちょっとまだ使いづらそう。そこで、12mm×17マスのさんすうノートを学年で購入。表紙には「さんすうノート」って書いてあるけど、気にしないことにしました笑。

この一月の間、国語の説明文で「ほたるの一生」から「問いと答え」と「順序よく説明」を学習してきました。そのパフォーマンス課題として「学んだこと(問いや順序)をいかして、自学ノートに自分の好きなことについて、調べて紹介しよう」としました。「事前に図書の時間(本校にはとってもすばらしいスーパー司書教諭がいて、こんな自学ノートやりたいんだけど、っと相談するとちゃんと形に整えて授業にしてくれちゃう)に、調べてまとめる練習を2回。いよいよ自分の興味関心のある本を1冊借りておいて、探究自学ノートづくりをスタートしました。

記念すべき1回目はノートを配って表紙に名前を書いたり、落書きしたり、自分だけの研究ノートをつくっていこうとわくわくする時間でおわってしまいました。それもまたよし。

そして、今日が探究自学ノートづくり2回目。クモの巣マップを使って「知っていること」のあらいだしです。これは、数学者の時間の数学的思考プロセス「問題解決サイクル」の計画段階にある「①分かっていること(知っていること)」「②もとめること(知りたいこと)」「③使えそうなこと」から、運用してきました。

僕の中に、問題を解決するときはいつも同じ思考スキルが使えるんだなってことが一つつながった

経験でした。これでますます、算数授業や数学者の時間がやりやすくなりそうです。

さて、各自がすでに選んでいる興味関心のあるテーマをもとに「分かっていること(知っていること)」をクモの巣マップで棚卸しからはじめました。最初はまず、僕から最近飼い始めてきたニャオタローのクモの巣マップで学習モデルを示すところから(まぁまぁいいかげんなモデルでOKとし、これを越えていってもらえるといいなと思っています)。

これを見た子どもたちの様子がこの冒頭のやりとりでした。子どもたちの反応はすこぶるよかったです。素直な反応が飛び出てきます。

  1. ノートの見開き2ページ、真ん中に拳骨大にテーマのイラストをかきます
  2. そこから知っていることを枝でつないで、どんどんのばしていきます。めざせ3回!

ただ、これだけのこと。中心のテーマから「枝だし」するには、その大分類と小分類との親子関係を理解するのが難しい子も数人もちろんいましたが、ニャオタローモデルとクラスの子たちからのアイディア「しゅるい」「とくいなこと」「いろ」「たべるもの」など、紹介しあうことでお互いフォローできました。次の時間は、この「枝だし」の親子関係をわかりやすいように(しゅるい > ざっしゅのネコ > 白と黒)カードを作っておこうと思います。

2年生なりにもぐちゃぐちゃしながら描いているのはとってもいい。きれいじゃなくたって、知りたいことを出すことで、知らないことやもっと知りたいことを見つけるおもしろさを感じてもらえるといいなと思っています。最後は、お互いのノートをギャラリーウォークで見合っておわり。自由に質問したりしている子もいました。

帰りの会のとき「本を持って帰ってはやく知りたい」とうずうずしている男の子がいました。「次の時間、質問作りをするからまだ、学校においといて読みたいのをがまんしておいてよ」と声をかけましたが、かくれてこっそりもってかえっていました笑。その子は、短い休み時間にも本を開いて恐竜のイラストを真剣に写していました。なにかはじめると、それにひびいてくれる子どもがかならずいる。そういう姿につきうごかされて、またがんばれるんだなぁと思うのです。

いやー、いいスタートがきれました。学びのスイッチがすちゃッと入るかんじがしました。

今回の探究自学ノートの取り組みで、これまでの自学ノートの概念を更新していけるといいなと思っています。休校中でも、自分で勝手に夢中になれる学び方を手渡せるといいなと思うのです。学校からの請負仕事(宿題)からいつか開放されて、本当に夢中になってやってみたいこと、知りたいこと、そういうことをとことん学ぶしくみやそのコミュニティを学校の中につくっていきたい。

以前のNHKでやっていた「ぼくの自学ノート」はまさにそれだったと思います。とてもステキな取り組みでした。

受験勉強にはムリ!?梅田君の探究的自学ノートで学んでいることとは? 「ボクの自学ノート~7年間の小さな大冒険~」 から

http://projectbetterschool.blogspot.com/2019/05/blog-post.html

あー、楽しかった。

オンライン学習への心配

今週からスタンフォード大学のオンライン学習を始めました。前々回のハーバード大学「学習の可視化」、前回の「マスマティカル・マインドセット」と併わせれば、これで3回目のオンライコースを受講することとなります。我ながら地味によくやるものだと関心です。


MOOCs(Massive Open Online Courses)はオンラインで海外からでも学習に参加できる利便性はあるものの、その達成率はわずか10%だとか。僕は幸運にも仲間に恵まれ、なんとか単位を取得してきています。履歴書に「最終学歴ハーバード大学・スタンフォード大学(オンライン)」って書けるみたい笑。ウソっぽい。

 
そもそもどうして、やりたいはずの学習が9割の人もが脱落していくのでしょうか? オンライン学習のシステムそのものに問題があるとはなかなか思えません。なぜながらどこからでも場所を選ばず、時も選ばず、人も選ばず、しかもかなり格安で学ぶことができるから。それでも多くの人がコンプできません。


僕は、これまでと今の自分のオンライン学習の取り組みをふりかえってみて、少しわかってきたことがありました。それは「本当に自分にとって必要なものは何なのか?」、実は学習者自身が自分は一体何を学ぶべきなのかが、よくわからないんじゃないかなと、予想しています。


僕が思う人が学ぶことって、巻き込まれ、憧れて、影響されてってそういう相互作用の文脈や状況の中で、学びが躍進していくものだと理解しています。なにか、自分にとって「事前に学ぶべき事」が明確になっていて、それを「身につける為に学ぶ」のは10%の程度なのではないのかな。


僕自身がそうだったかと思います。きっと、管理職コースのオンライン学習を受講していたら、そっこーやめていたことでしょう。あ、これってやりたくないことが明確だからその例ではないかも!? 友達にさそわれるままにハーバードの学習の可視化はうまくいきました。そこには学び合う場(Ba)があったから。けれども、一人旅だったら、どうなっていたのでしょう。やりたいことのはずだったのに、いつのまにか優先順位がかわり、やり続けることがおっくうになっていたかもしれません。


おしなべて、今、教育現場で行われようとしてる小学校段階でのオンライン学習について、大いに疑問があります。僕は反対。やはり人が学ぶって、その「場(Ba)」を共有するものだと考えるからです。教室という場(Ba)の中で、こっちでは調べものをしている子がいて、あっちでは相談しつつおしゃべりして、そしてものづくりをしている音が聞こえてくる。そういう空気感が漂う中で、耳をピントそばだてながら、お互いの存在を感じながら「同じところ」にいることが、学びを誘ってくれるんだと思う。


zoomしていると、それが感じられない。陰で、チャットしていたり、関係のないHPをのぞいていても(よくある)、その行動さえも感知できません。僕が懸念しているのは、こういう人の存在をスクリーンからしかキャッチするアンテナを求められないこと。


オンライン学習は便利だし、このコロナの状況下で学校が休校して「しかたなし」にやることは、ほんとーにしかたないと思います。けれども、子どもたちが画面を嬉々としてのぞき込みながら、音声を聞き取ってやりとりしているのは、違和感がずっとあります。


一方、僕自身はApple製品、ガジェット大スキ。そういうのを新しく手に入れたときは、脳からアドレナリンがどばどばでてきます。でもそれが、いけないんだと思う。僕はもういい大人なので、自分で選んでやっています。画面に向き合う時間を、人と顔を合わす時間にしていかないとまじいけないなと思っています。


最近、高校生や大学生から相談のメールやzoomがありました。そこでは、オンライン授業があたりまえ。彼ら、彼女らはzoomづかれもしているし、なにか買い物クリックのように講座をとっている感覚に、人の学ぶことを選ばされているかんじ。オンラインとオフラインのバランスをくずしているから、悩みもより複雑になってしまう。人と会える「場」が、これまでちょっと話し合えたり、ほっと温かい言葉をかけあえたりする、顔をみられるだけで、いやされていたんだとわかってきました。


今、この状況からは、逃げることはできない。よりよいオンライン授業のあり方を模索していきたい。それまでは批判的にみながら「ホンモノにふれる体験」「人とぶつかり合う体験」といったガジェットやアプリではなく、五感というコスモを感じること、フル活用していきたい。


学校では、そういうことを大切にしたいな。最後まで、こだわっていきたい。オンライン授業に頼るざるを得ないときまで、タネをまいておきたい。それぞれの家庭でも探究をつづける自学ノートとか、模索していきたい。完全に休校継続となったら、そっちに舵を切るかもしれないけれど、それまでは、とことん人と会う力を信じて、もがいていこうと思う。


僕は若い頃、不登校の子どもたちとかかわる仕事をしていました。そういった子たちにはオンライン学習はとてもいいなと思う反面、はやり、人は「会って癒やされたい」ということを彼らから学んでいます。絆創膏としてのオンライン学習はあるかもしれませんが、根本的な問題解決にはならないと思っています。


大人であっても、本当に自分の学びたいことはわからない。シラバスだけでも人は学べない。それなのに、子どもたちへは、オンライン授業を推し進めていこうとすること。少し立ち止まって考え直したいです。もっと、議論しないといけない。こういうことを今、話題にあげにくい風潮になっていないかなぁと、懸念もしています。人の評価を気にせずに、自分のアンテナ感度を高めて、話し合っていきたいです。