オンライン学習への心配

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今週からスタンフォード大学のオンライン学習を始めました。前々回のハーバード大学「学習の可視化」、前回の「マスマティカル・マインドセット」と併わせれば、これで3回目のオンライコースを受講することとなります。我ながら地味によくやるものだと関心です。


MOOCs(Massive Open Online Courses)はオンラインで海外からでも学習に参加できる利便性はあるものの、その達成率はわずか10%だとか。僕は幸運にも仲間に恵まれ、なんとか単位を取得してきています。履歴書に「最終学歴ハーバード大学・スタンフォード大学(オンライン)」って書けるみたい笑。ウソっぽい。

 
そもそもどうして、やりたいはずの学習が9割の人もが脱落していくのでしょうか? オンライン学習のシステムそのものに問題があるとはなかなか思えません。なぜながらどこからでも場所を選ばず、時も選ばず、人も選ばず、しかもかなり格安で学ぶことができるから。それでも多くの人がコンプできません。


僕は、これまでと今の自分のオンライン学習の取り組みをふりかえってみて、少しわかってきたことがありました。それは「本当に自分にとって必要なものは何なのか?」、実は学習者自身が自分は一体何を学ぶべきなのかが、よくわからないんじゃないかなと、予想しています。


僕が思う人が学ぶことって、巻き込まれ、憧れて、影響されてってそういう相互作用の文脈や状況の中で、学びが躍進していくものだと理解しています。なにか、自分にとって「事前に学ぶべき事」が明確になっていて、それを「身につける為に学ぶ」のは10%の程度なのではないのかな。


僕自身がそうだったかと思います。きっと、管理職コースのオンライン学習を受講していたら、そっこーやめていたことでしょう。あ、これってやりたくないことが明確だからその例ではないかも!? 友達にさそわれるままにハーバードの学習の可視化はうまくいきました。そこには学び合う場(Ba)があったから。けれども、一人旅だったら、どうなっていたのでしょう。やりたいことのはずだったのに、いつのまにか優先順位がかわり、やり続けることがおっくうになっていたかもしれません。


おしなべて、今、教育現場で行われようとしてる小学校段階でのオンライン学習について、大いに疑問があります。僕は反対。やはり人が学ぶって、その「場(Ba)」を共有するものだと考えるからです。教室という場(Ba)の中で、こっちでは調べものをしている子がいて、あっちでは相談しつつおしゃべりして、そしてものづくりをしている音が聞こえてくる。そういう空気感が漂う中で、耳をピントそばだてながら、お互いの存在を感じながら「同じところ」にいることが、学びを誘ってくれるんだと思う。


zoomしていると、それが感じられない。陰で、チャットしていたり、関係のないHPをのぞいていても(よくある)、その行動さえも感知できません。僕が懸念しているのは、こういう人の存在をスクリーンからしかキャッチするアンテナを求められないこと。


オンライン学習は便利だし、このコロナの状況下で学校が休校して「しかたなし」にやることは、ほんとーにしかたないと思います。けれども、子どもたちが画面を嬉々としてのぞき込みながら、音声を聞き取ってやりとりしているのは、違和感がずっとあります。


一方、僕自身はApple製品、ガジェット大スキ。そういうのを新しく手に入れたときは、脳からアドレナリンがどばどばでてきます。でもそれが、いけないんだと思う。僕はもういい大人なので、自分で選んでやっています。画面に向き合う時間を、人と顔を合わす時間にしていかないとまじいけないなと思っています。


最近、高校生や大学生から相談のメールやzoomがありました。そこでは、オンライン授業があたりまえ。彼ら、彼女らはzoomづかれもしているし、なにか買い物クリックのように講座をとっている感覚に、人の学ぶことを選ばされているかんじ。オンラインとオフラインのバランスをくずしているから、悩みもより複雑になってしまう。人と会える「場」が、これまでちょっと話し合えたり、ほっと温かい言葉をかけあえたりする、顔をみられるだけで、いやされていたんだとわかってきました。


今、この状況からは、逃げることはできない。よりよいオンライン授業のあり方を模索していきたい。それまでは批判的にみながら「ホンモノにふれる体験」「人とぶつかり合う体験」といったガジェットやアプリではなく、五感というコスモを感じること、フル活用していきたい。


学校では、そういうことを大切にしたいな。最後まで、こだわっていきたい。オンライン授業に頼るざるを得ないときまで、タネをまいておきたい。それぞれの家庭でも探究をつづける自学ノートとか、模索していきたい。完全に休校継続となったら、そっちに舵を切るかもしれないけれど、それまでは、とことん人と会う力を信じて、もがいていこうと思う。


僕は若い頃、不登校の子どもたちとかかわる仕事をしていました。そういった子たちにはオンライン学習はとてもいいなと思う反面、はやり、人は「会って癒やされたい」ということを彼らから学んでいます。絆創膏としてのオンライン学習はあるかもしれませんが、根本的な問題解決にはならないと思っています。


大人であっても、本当に自分の学びたいことはわからない。シラバスだけでも人は学べない。それなのに、子どもたちへは、オンライン授業を推し進めていこうとすること。少し立ち止まって考え直したいです。もっと、議論しないといけない。こういうことを今、話題にあげにくい風潮になっていないかなぁと、懸念もしています。人の評価を気にせずに、自分のアンテナ感度を高めて、話し合っていきたいです。

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