授業づくり

タングラム問題をクラスチャレンジに

最初の1時間目はタングラムとは一体何なのかを紹介しました。そして、全員で同じ一つの問題をといてみる経験を共有しました。約束ごとに、すべてのタイルを使うこと、表裏の指定はしませんでした(裏表があることで難易度があがります)。

次の2〜3時間目では、先日の本を参考に図形問題をいっきに10問ほど提示し、子の中の問題を解くことにしました。一つの問題にスタックしたとき、あきらめずに取り組むもよし、他の問題にもチャレンジするのもよし、それが多くあることのよさかな。

「残りの時間(25分ぐらい)で、クラス全員で①〜⑩の全ての問題を解決しよう!」とクラス全員の達成課題にしてみると、「うおお、やってやろうじゃん」と「手分けしてもいいの?」など、なかなかいい雰囲気で、解き合い始めることができました。やっぱり、こういうパズル系の教材はとかく一人旅になりがちだけど、一緒にやればやるほど楽しいものになる。一方で、友だち関係を引きずって、せまい関係性に閉じている場面も見受けられたため、次からはグループ隊形にしてからはじめることにしました。隊形がかわるだけで、会話の量と対象がいっきにかわるから。

こういうときに、一人一台iPadがあるといいなと思うのです。途中経過やその解答を写真で手軽に記録したり、共有したりもできる。本校は、画面を見る時間よりも五感を使うことを大事にしようと、あえて制限しているけど、便利につかっていけるといい。

問題が解ける度に、ノートに記録するけれど、まだ拡大・縮小していないので、うつすことに手こずる子も数人いました。10問の内、一問でも解決できれば、黒板に名前を書きに来る。それが嬉しいようです。子どもたちは「あと⑫番が解決してない!」と声かけながらやっていました。普段、算数では大人しくしている子が「⑨は私だけできた!」とごまんえつな姿も。それを祝福されて大盛り上がり。この「だけ」というところに集団で学ぶおもしろさがあったり、その後の算数・数学人生を変えるきっかけになるとかならないとか。

放課後、「⑫はだれも解けなかったから、家で自学ノートにやってきたい」と、タングラムを借りにきました。それに触発されて「私も!私も!」と持って帰る子も出てきました。さっそく静かなるタングラムブームが笑。子ども用に厚紙バージョンも配り、各家庭でできるようにしました。

つづく

ヒラメキの授業

タングラムのおもしろさの一つに「ヒラメキ」があります。その特徴は

  • すぐにできそう!でも、なかなか解けない(しかも答えは単純だった笑)。
  • そのやり方が上手くいかないと分かっていても,なかなかそこから抜け出せない(そんな自分をいやというほど知る)。
  • 手を動かしていると、正解が突然ひらめく。

このひらめきに関しては、夏の校内研修で紹介されていた、鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか』(ちくまプリマー新書2022)の第5章に、ひらめき(洞察による認知的変化)について記述があります。

“ひらめきは突然訪れるかのように語られることが多い。しかしひらめきは練習による変化、発達による変化と同じ、つまり多様で冗長な認知リソースとその間の競合による揺らぎが、それが実行される環境と一体となり創発される。そしてその過程の大半は無意識的に進む。だから、ひらめいたときの驚きは、実は自分の無意識的な心の働きに対してのものなのだ。

『私たちはどう学んでいるのか』P.137” 

つまり、タングラムのような単純な問題がとけないのは、私たちの中にキョーレツな思い込みが存在するからであって、その思い込みが頭の目隠しとして機能してしまう。

しかし、その思い込みは思考の枠組みとして、日々の生活の中では考える認知的負荷を下げてくれる役割もあります。悲しい場面で相手の目に涙を見つけたとき、目薬をさしたのか、目にゴミがはいったのかなどと、わざわざ考え直さなないでしょ。

思い込みは問題解決場面においては制約要件として、はたらいてしまうことがこのタングラムからわかってきます。「この四角の角には□を使いたい。こっちの三角はきっと大きい△を使うにちがいない」といったような思い込みが、正答の邪魔をしてしまうのです。

実際に子どもからは「すごい思い込みをしていてできない問題もあったけれど、とけたらこういうことかと納得した」と感想がありました。

ここから抜け出るためには、自分の思い込みを認知し、様々な配置のパターンをためすことでヒントをつかめるようになります。さらに多様性の高い試行錯誤の末、突然、ひらめきに至るのです。

そこで、授業では「ひらめきやすい思考」「だれも思い込みがある」の二つの数学的に考えるミニレッスンを用意しました。最初2時間程度を予定したけれど、子どもたちの熱中、教材のおもしろさに感化され、結果、以下のようになりました。

  •  1時間目・タングラムを知る。全員で数問を解いてみる。
  • 2・3時間目・ミニレッスン:ひらめきをうむ・クラス全員で協力して全ての問題を達成する(2時間目:図形型問題・3時間目:文字型問題)
  • 4時間目・ミニレッスン:思い込みをなくす・タングラム問題をつくる。5時間目・友だち問題を解いて楽しむ祝福タイム。

つづく

タングラムはじめました

今年は学年2クラスの算数を担当しています。のべ100時間の授業がちょうど終わったことになりますが、なかなか思い描いたような授業とはならないことばかりです。とはいうものの、教材研究できる時間に恵まれていて、じっくりと「子どもたちと算数・数学するとは何か」、考えられる豊かな日々を過ごせています。

2学期の最初、面積の導入でタングラムを使って授業をしました。導入のつもりで扱うタングラムだったはずがあまりにもおもしろかったので、ついつい5時間ほど費やし算数・数学する時間を楽しんでしまいました。記憶の彼方に消えていく前にその実践報告をのこしておこうと思います。

タングラムってきっとどこかで触れているのではないでしょうか。昭和世代の人は温泉宿で窓からの景色を眺めながら、たいくつしのぎにやっていたあのパズルのこと。200年程前の中国発祥のパズルといわれており、正方形を7つに分けたピースを全て使って、ある形をつくります。

子どもたちにタングラムの説明すると、「僕もタングラムほしいんだけど、温泉で売っているの?」と聞かれました笑。クリエイティブな質問です。

現在、教科書ではトピック的な扱いでタングラムは紹介されているようです。また、残念ながらタングラムの多くは早期教育の道具として使われ、塾で子どもをパッと燃え上がらせるネタ扱い。いくつか先行実践や実践本を探してみたものの、なかなかよい本も見つけられなかったので、これに特化したカナダの数学教授のRonald.C.Read『TANGRAMS 330PIZZLES』を参考に授業づくりをはじめました(最近では翻訳Deepleもあり本当に、助かっています)。この本は超マニアックで、タングラムの歴史から始まり、その分類とタングラム愛にあふれています。

4年生までの既有知識として、正方形、長方形の面積の求め方は知っている子どもたち。平行四辺形の面積を求めるには、これまで知っている長方形に意図的に作り替えて求積する必要があります。図形領域は得意・不得意の個人差がでやすいもの。遊び感覚で「ふれて」楽しめるしかけとして、一人一つのタングラム(木製200円のもの)を用意しました。タングラムは図形の構成要素である辺や角、垂直、平行などの位置関係への理解を深めることにとても有効になりそうです。

軽い導入の扱いのつもりだったのが、子どもたちの熱中する姿に魅了されてしまいました。そのタングラムがもつおもしろさに「ヒラメキ」があります。

つづく

たった一人の熱烈なファンが探究を支えてくれる

夏休みに入りました。この夏、本当に自分がやりたい研究をやってみようとはたまた全国の先生達と「探究自学ノート・シーズン3(TQJs3)」で、大人の探究自学ノートを始めました。僕は「ゾーンディフェンスの研究」です。

TQJシーズン1で、探究自学ノートを深めていくためにはその学習内容への専門性が欠かせないことを議論してきました。教科への専門性があればこそ、ネタ教材を入り口により深いところへ学びをガイドすることができるはずと。

TQJsシーズン2では、探究自学ノートを進めていくには、遊び心に併せて探究のプログラムデザインを研究しました。これまでわかっていたようでわかりにくかった逆さまデザイン。探究を学習者に丸投げでは学習者の個々の能力に任せすぎてしまい深まる人とそうなれない人との如実な差がでてしまう。そこを乗り越えるにはやっぱり、探究の明確な見通しが必要で、専門性に加えて何をパフォーマンス課題にするのかをゲーム化したりして考え合ってきました。これはほんとオモシロかった。

そして、TQJシーズン3。今回のテーマは大人が学ぶこと、そして学びをガイドするヒミツとは? つまり学習のカンファランスについて。探究するにはその分野の専門性やプログラムデザインだけでは動きません。振り返ってみると探究を進めてくるときそこには、探究する人を一緒に「おもしろがる」人がいました。けれども、なんでもかんでも誰の学びも「おもしろがる」ことはできません。

僕は今、誰かの学びへ興味をもつことに大きな興味があります。今シーズンを通して(10月まで2週に1回のペースで学習会・その間のブッククラブと大人の自学ノート)、技術だけではない、人として「おもしろがる」要素を明らかにしていけたらいいなと思うのです。

シーズン3の2回目のオンライン・ミーティングで「子どもの頃に夢中になったわくわく原体験」について語り合いました。グループからでてきた意見の中でハッとさせられたことがありました。脳内クリティカルヒット!(毎回、こういった気づきがあるのがこのTQJのおもしろいところ。1回目はデジタルにはない手書きノートの3つの良さなんかは、Evernote生活ずっぽしの僕は忘れたくないことの一つです)

それは、「探究には仲間がいる」ということ。

僕は小学生の頃、友人のことをモチーフにした「青春のゆうじくん」というギャグマンガを描いていました。ゆうじくんというのは、親友のゆうじくんです。彼とは今でも、二人で離島にキャンプしに行く仲です。学校であったおこられた出来事や当時のCMをモチーフにて、おもしろおかしいギャグマンガです。最初はノートの切れ端に。でも、ゆうじくんがめちゃめちゃ喜んでくれるので、スケッチブックにもストーリーマンガを描くようになりました。

「早く次がよみたい」と、なんども催促してくれるので家に帰っては夢中になって描いたのを覚えています。できあがった作品をゆうじくんに読んでもらっているときのわくわく感。クスって笑ってくれるうれしさ。たった一人だけだったけど、まぎれもないファン1号でした。僕はゆうじくんが僕のマンガを喜んでくれるのを本当に楽しみにしていました。そして、その頃の僕の将来の夢はマンガ家でした。

学習者の探究を支えてくれることってなんだろう? 自分の小学校時代のわくわくしていたことを掘り起こしたとき、このファンになってもらえた体験があることに気がつきました。そうなんです。探究するを支えてくれるのは、面白がってくれるファンがいることなんです。そして、きっとだれもがその原体験をもっているのだと思うのです。

ごくまれに、誰からも評価されずともひとりコツコツと山に入り蝶を集めたり、自分だけの石を集めたりする人もいます。本当に魅了される世界を見つけた人は強いですね。多くの人は自分が何に興味があって、その対象のもつ世界の深さも知りません。そこを一緒に「おもしろがってくれる人」がいることこそ、探究を推進する力となるのではないでしょうか。そう、探究心に火をつける人が必要だったんです。きっと他者と一緒によろこんでいた探究が、少しずつ自分の探究へと昇華されていくのでしょう。

僕はカンファランスし続けることは、専門性やカリキュラムデザインだけではないことに気がつきました。もしかしたら、面白がってくれる人がいることが、それよりも強力なことなのかもしれません。ファンを見つけること。ファンになること。自分の探究自学ノートのファンになってもらえること。こういったことが、僕の小学校時代にぎゅっとつまっていたんだと分かってきました。これはきっとみんなにあることだと思います。

たった一人でいいんです。再生回数が何百万回である不特定多数の人ではない、自分にとって特別なファンがいてくれる、自分の好きなことを応援してくれている、楽しみに待っていてくれる、ここにファンの持つパワーがあるはずです。

そして、私たち大人はなんでもかんでもファンに決してなれるわけではありません。だからこそ、それをスキルでカバーできないか考えています。キャシー・タバナー他著・吉田新一郎訳『好奇心のパワー:コミュニケーションが変わる』はコミュニケーションの本です。しかし、これはカンファランスの本だと僕は理解しています。ここには、相手に好奇心を発揮するための3つのスキルがあります。

①「今、ここ」に集中し、相手に焦点を合わせる。
②聴き方を選択する。
③相手への興味関心を示すオープンな質問をする。

しばらくは、TQJシーズン3のメンバーとこの3つのスキルを使って、お互いの探究自学ノートのよき理解者となり、ファンになれるように練習していこうと思います。グループ内ファン体験。それがそのまま、教室・職員室で、子どもの興味関心に興味をもてる資質につながっていけるんだと思っています。それと同時に、だれが何を探究しているのかを可視化して、子ども同士の興味関心をつなげてあげればいいんだと。先生がマッチングアプリ先生になればいいんです!あは!まいっちんぐ。

一方、自分に感心がありすぎる人(僕はこの傾向が強いね)、人との比較や優劣でものごとをみてしまいがちな人やそういうタイミングにある人は、素直にファン似なれないんじゃないかなと思っています。かといって、評価されたり上から目線で面白がられてもなんだかしゃくにさわるし。このファンになる事って、もっと純粋に他者や対象をおもしろいって思える「仲間」感覚が必要なのではないかな。小学校の友達関係は、こういった仲間感覚があったなぁ。いつもなにか開かれているマインドをもっていたのが子ども時代だったのかもしれません。

さぁ、ファンになっちゃうぞー!?

探究自学ノート「質問づくり」から知りたいことを

はっぱって、どうしてきせつごとにかわるんだろう? よそう。もしかして、おこりっぽくなったり、なきむしになったりしているのかな〜?

どうしてはっぱって、しゅるいによってかたちがちがうのかな? よそう。なかまがどれか、わかるように?”

子どもたちの質問に予想を書くことで、その問いがどこからくるのか、その子の中にある物語やアニミズムの世界に、少し触れることができた気がしました。

教室で探究自学ノートづくりを進めています。「知っていること」をクモの巣マップで出し合ったので、今度は「知りたいこと」に向けて質問づくりをしました。以下の本を参考に。

この手順で進めていくと、すぐに答えの出るクローズな問いとすぐに答えはだせない・もしくはないかもしれないオープンな問いとの仕分けが出てきます。けど、その問いの仕分けって2年生にはちょっとまだ早すぎると考えました。子どもたちは純粋に、オープンだろうが、クローズだろうが、どっちも知りたい。クローズな問いを見つけるる経験が積み重なっていく打ちに、「こんな問いはツマラン」と気付いて少しずつ、「答えのない問い」へ魅了されていけばいいんじゃないかなぁと思います。

ここで僕がこだわったのは、本にはないけれども「予想」を書き出すこと。見方を変えれば、数学的思考ではこれは決定的に重要なこと。そもそも予想は言葉で捕まえられれば、もう大収穫!この辺りはまたじっくりと「数学者の時間」で語りたい。子どもたちの予想は、きっとこの後の答えを見つけた、見つけられなかったとき、そのギャップに自分の考えに当たりをつけていくように、自己修正する練習にもなりそうです。

子どもたちの様子をみていると、質問を見開き2ページを目安に書き始めました。2つの子もいますし、12個書き出せる子もいます。今は個々での取り組みなので(グループワークで質問出し合ったりはしていません)、差があってもいいと思っていました。それでも、やってみると「質問の数ではないな」と思い直せました。

少ない問いにも、なにかキラリと光るようないいものがあります。いい問いってなんなんでしょうね? 僕は子どもらしい、その子の知りたいことが素直にでてくるものなら、なんでもいいなと思うのです。知りたい対象に働きかけがありそうな問い、調べてみたら驚くようなことが待っているかもしれない。どれも小さな冒険であり、探究の入り口。知りたいことがあるってわくわくすること。

いくつか質問をつくってみて、クラス全体で共有してみました。すると問いのキーワードが浮かび上がってきました。「どうして」「なぜ」「名前のゆらいは」「色」「かず」「たべもの」「すみか」など、問い作りのパーツが集まりました。こういったことを整理して、教室に掲示しておくと、また次のテーマで質問づくりをしたとき、もっと多様な視点での問いづくりが練習できそうです。こういう気づきがうまれるのは、低学年の担任のよさでもありますね。

探究自学ノートでは、こちらから「学習のネタ」を用意することはやめることにしました。いろんなテーマは考えてはいたのですが。そのかわりといってはなんですが、その子の興味関心のあることで勝負をしようと決めました。その子の視点や興味をおもしろがったり、一緒に考え、なにか作ったりおもしろそうなこと、やれそうなことを提案していける、そんな個別カンファランスに舵をきっていこうと思います。

人が学ぶとき、楽しいときって「与えられた何か」ではなく「自分だけのもの」を見つけたり、夢中になっているときなんじゃないかな。「そこにオーナーシップはあるんか?」「女将さん!」と、なにか大切なものは忘れちゃいけないと思いました。

それはオトナも一緒。まず、こういったなにか夢中になる体験をオトナもしないといけないな、と思うのです。その楽しさや難しさを経験していないで、手順書のように学びや遊びをガイドすることはできないはずです。

この休校中は、探究自学ノートづくりの研究を2シーズンにわたって協同研究してきました。これまで教材を準備することに重きをおいてきましたが、心機一転、ちょっとベクトルを変えてみようとチャレンジしてみます。これからは「その人の中にあるなにか」から、遊ぶように学ぶタネを見つけ、いっしょに育てていこうと。言葉にするととても美しくなっちゃう笑。けれど、かなりしんどいことだと予想しています。

そして、夏休み前の今、オンラインでも全国の先生達とも探究自学ノートづくりシーズン3に着手しました。おかげさまでコアメンバーは一日待たずに満席。あざっす。オブザーバーの募集を始めました。また、熱いメンバーが金曜日の深夜のzoomに集まることでしょう。2ヶ月の間、もがいていこうと思います。みんなでモガッキーになります。

もがくこと。それは脳の発達にはとても効果的だと脳科学でも証明されています。僕が今、受講しているスタンフォードの数学オンラインコースでも、度々、紹介されています。失敗することや、できないこと、わからないでもがき続けることこそ、脳に効果的なんだとか。もがきのないスルスルとした(繰り返しのパターン計算練習のような)学習だけでは、せっかくつながった神経細胞のルートも消失するようです。

この本に出会って(特に、母親の癌を克服するために娘が親身になって調査するモガキのエピイソードは必見)、理解することにはモガッキーになることが必要だと分かってきました。それまでは、どこか避けてきたところがあったのに! 

とはいうものの、こういった脳科学で証明されていてもそのモガキからの脳みそ成長は「実感」が伴いません。エビデンスを示されたところで「よし!ナイスな情報!明日からはもがきまくるぞ!オイラのなまえはモガキじゃ!」とはなかなかなれません。どこか懐疑的な自分がまだいます。

この科学的な根拠と自分の実感との穴埋めはやはり慎重でないといけない。エビデンス・リテラシー向上にむけ「疑いを持ってリソースにあたってみる」と現在、研究中です。このあたりは、LAFTの勉強会で、一度、エビデンスにじっくりとっくんでみたので、その組み手がわかってきました。

少しずつ、僕の中で、まわりでも、学びのスイッチが起動しはじめました。この夏休み、大切にすごして、深く学んでいこうと思います。ちなみに僕の個人的なテーマは「2−3ゾーンディフェンスの理論と実践」ですから!マニアックー!

Appleペンシルに負けるな!子ども時代に体験しておいてほしいこと

Appleペンシルになくて、鉛筆にあるもの、なーんだ?(答えは最後)

うちの学校には肥後ナイフの学習があります。僕はとてもいいものだと思います。ナイフは使い方によってはとても便利なもの。でも、自分を傷づけることもあるし、人を傷つける道具にもなり得ます。それだけに、子どもにどのタイミングで刃物体験がふさわしいのか、悩ましいところです。うちの学校では、その肥後ナイフを使う授業が1年生からあります。今回はコロナで少しだけしかできずに、2年生でも取り組むことにもなりましたが。

学校で刃物の使い方をちゃんと学べること。しかも小さいうちから。ここに僕はいいなと思うのです。肥後ナイフで鉛筆を削っているときには緊張感もあり、上手に削れたときには、「見て見てー!」と自慢もしたくなるし、「いいじゃんそれ!」となれば一人前として認めてもらえる。その経験は子どもにとって計り知れない自信となっているようです。その成長のとば口に立てる経験が肥後ナイフで鉛筆削りです。

僕も子どもの頃、じいちゃんから肥後ナイフをもらいました。使い方なんてよくわからなかったけど、かちゃかちゃ刃物がでるのが不良みたいで格好良かったのを覚えています笑。ちきり(ナイフの背にある突起で、これを押さえないとナイフが折りたたまれてしまい、柄を握っている指を切ってしまう)の使い方など自分で確かめていきました。それでミニ四駆を改造したり、心を静めようとお地蔵さんも彫ったりもしました。もちろん、何度も指を切り、少しずつ上手なケガの仕方を知り、ナイフの力加減も身につけていきました。今思うと、そういう体験こそが何かつくるときに「なんでもつくれそう」という感覚があるんだと思います。

先月。3年生の子どもたちが鉛筆の削り方を教えに来てくれました。子どもたちにとってはシャカシャカけずるお兄さん、お姉さんはキラリと輝く憧れの存在。自分も上手に、削れるようになりたいなと。初めて削った鉛筆はまだでこぼこだけど、どこか美しいものです。

その後、毎朝の10分間、自分の鉛筆や色鉛筆をピンピンに削ってきました。日々のカオスである教室は一変し、この時間だけはしーんとした空気がながれます。朝のマインドフルネスです。すごくいい。月曜日の朝が落ち着かない都市伝説はこれで変わりますね。

僕が「すごいな」と思ったのが、指を切ったりする子がいないこと。それは切らない指導法が徹底されているから。そして、刃物の危険やその安全な使い方を学べるから。このへんは昭和からの歴史と伝統を感じるし、それがあっての実践。子どもたちは「僕にも安全にできる!」そんな気持ちが持てるようになっています。なんてったって、ナイフは動かさずに鉛筆だけ動かすことからなのです。

先週末、その肥後ナイフの試験をしました。「集まれ!肥後ナイフの森10」プリントをつくって、先生達と相談して10の評価基準を共有してはじめました。はやりに乗っています笑 

そして、練習ではやっぱり思ったようにうまくいかない。最後の最後で、芯がポキッとおれてしまう。刃が削り幅に深く入ってしまう。指先にぐっと神経を集中させ、芯を削り出そうとするけど、ぼこぼこしてうまくいかない。これはほんとうに粘り強さがためされます。指先の巧緻性、やっぱり小さいうちから刃物に触れておく体験は大切だなと思うのです。なにより、手作業は子どものやりたいという気持ちを引き出してくれます。

鉛筆削り試験の途中、緊張のためか深呼吸が何度か聞こえてきました。いつもゆるりと家族のような教室で、たまにはピリリとこういう時間もいいものです。ピンピンにとがらせ、床に削りかす一つものこさず、片付けるところまで。やりながら向上していくのを見越して、8/10点以上を合格としました。そして、みごと全員が合格。帰りの会が終わって、下校の時間。最後の最後に一人となっても削っている子もいました。こういう姿を見られたこと、またいいものです。

合格したらいよいよ一人一本、肥後ナイフをラインドセルのチャックがある所しまう約束で持って帰ることができます。成人したらナイフを長老より手渡されるヒゴナイ部族のようです。なんか、厳かでした。子どもたちは「わーい。家の宿題で鉛筆削りができる!」と喜んで帰って行きました。

これまで僕は教室で刃物を扱うことにとても慎重派でした。子どもたち、しかもやんちゃな子ほど、ちゃんと扱おうとするし、それを通して落ち着きを身につけていることが分かってきました。ときには厳しい口調で注意するときもありますし。武道にも通じるものがあるんじゃないでしょうか。

先日、オンラインへの心配についてポストしました。誤解のないようにいっておきます。僕はICT大スキです! 便利な物はどんどん使っていけばいいと思っているプラグマティックな部分があります。それだけに、もっと多くの人とちゃんと子ども時代のコロナ時代のオンライン授業について議論していかないといけないなと、思いを新たにしました。小学校時代に、自分の世界や少し視野を広げて世の中、社会よりよくしていくためにできることを考え合っていける、そんな時代にしたいです。このあたりはまたじっくりと。

子ども時代、臨界期前に身につけることは一体どんなことでしょう。iPadの操作、腕一本の行動範囲でヴァーチャル世界にどれだけの時間をかけたらいいのでしょうか? 僕が思うに、子どもたちの指先感覚、ちょっとヒヤリとする経験から物事に慎重に、そして自分も人をも傷つける力を持っている怖さも、学んでいってほしいなと思うのです。

小学校時代に体験しておいてほしいこと。五感を使って経験すること。少し前はこういった当たり前だったこと、忘れないでいたいです。昭和かよ! っていわれそうだけど、たまには親指クリックだけじゃないことに目を向けて、真剣に取り組むのもいい時間です。小学校時代に、鉛筆一つ削れるかどうか。削ってきたかどうか。学力では試されないかもしれないけれど、なにか大人より上手に削れている子どものへへんとした顔はかっこいい。そして次は、また学年をまたいで1年生に教えに行くのが楽しみです。こうやって学校の文化をうけとっていくし、よりいいものにしていくんだと思います。

こんな時期だからこそ、学校にはいろいろ要求されます。今、子どもたちと相談しながら、身につけておいてほしいことを考え合っていきたいです。やるべき勉強は、あたらしいものだけでもプログラミング教育や英語教育と、時間とり合いだし、せめぎ合いです。小学校時代に、なにを大切にして、その時間を使っていくのか、その「核となる規準」をおちついて考え直してみてもいいなと思います。勢いに流されてしまっている自分にならないように。核となる規準をもっていれさえすれば、それにそぐわないことでも、オカミの言うことでも多少のことは上手に流せるんじゃないかな。

『この世界の片隅に』のすずさんのように、鉛筆一本をあたりまえのように大切にする気持ち。子どもたちに忘れずに持っていてほしいと思います。教室には、鉛筆がコロコロ落ちていたりするから。今度、子どもたちの中からモニター募って「筆箱中身、えんぴつ1本プロジェクト」をやってみたいな。提案してみよう。それだけで、いろんな気づきが生まれるんじゃないかなぁ。オモシロそーだ。

さて「Appleペンシルになくて、鉛筆にあるものなーんだ?」の答え。Appleペンシルはけずれませんから!と思った人いたでしょ。でもね、答えは、僕が思うに世界中とのつながりです。興味がある人はこちらの絵本をどうぞ。僕も毎年読んでいるいい本です。

『いっぽんの鉛筆のむこうに (たくさんのふしぎ傑作集)』

ちなみに僕はもういい大人なのでAppleペンシル2を購入しました笑。大人はいいんです。自己責任なのだから。

オンライン学習への心配

今週からスタンフォード大学のオンライン学習を始めました。前々回のハーバード大学「学習の可視化」、前回の「マスマティカル・マインドセット」と併わせれば、これで3回目のオンライコースを受講することとなります。我ながら地味によくやるものだと関心です。


MOOCs(Massive Open Online Courses)はオンラインで海外からでも学習に参加できる利便性はあるものの、その達成率はわずか10%だとか。僕は幸運にも仲間に恵まれ、なんとか単位を取得してきています。履歴書に「最終学歴ハーバード大学・スタンフォード大学(オンライン)」って書けるみたい笑。ウソっぽい。

 
そもそもどうして、やりたいはずの学習が9割の人もが脱落していくのでしょうか? オンライン学習のシステムそのものに問題があるとはなかなか思えません。なぜながらどこからでも場所を選ばず、時も選ばず、人も選ばず、しかもかなり格安で学ぶことができるから。それでも多くの人がコンプできません。


僕は、これまでと今の自分のオンライン学習の取り組みをふりかえってみて、少しわかってきたことがありました。それは「本当に自分にとって必要なものは何なのか?」、実は学習者自身が自分は一体何を学ぶべきなのかが、よくわからないんじゃないかなと、予想しています。


僕が思う人が学ぶことって、巻き込まれ、憧れて、影響されてってそういう相互作用の文脈や状況の中で、学びが躍進していくものだと理解しています。なにか、自分にとって「事前に学ぶべき事」が明確になっていて、それを「身につける為に学ぶ」のは10%の程度なのではないのかな。


僕自身がそうだったかと思います。きっと、管理職コースのオンライン学習を受講していたら、そっこーやめていたことでしょう。あ、これってやりたくないことが明確だからその例ではないかも!? 友達にさそわれるままにハーバードの学習の可視化はうまくいきました。そこには学び合う場(Ba)があったから。けれども、一人旅だったら、どうなっていたのでしょう。やりたいことのはずだったのに、いつのまにか優先順位がかわり、やり続けることがおっくうになっていたかもしれません。


おしなべて、今、教育現場で行われようとしてる小学校段階でのオンライン学習について、大いに疑問があります。僕は反対。やはり人が学ぶって、その「場(Ba)」を共有するものだと考えるからです。教室という場(Ba)の中で、こっちでは調べものをしている子がいて、あっちでは相談しつつおしゃべりして、そしてものづくりをしている音が聞こえてくる。そういう空気感が漂う中で、耳をピントそばだてながら、お互いの存在を感じながら「同じところ」にいることが、学びを誘ってくれるんだと思う。


zoomしていると、それが感じられない。陰で、チャットしていたり、関係のないHPをのぞいていても(よくある)、その行動さえも感知できません。僕が懸念しているのは、こういう人の存在をスクリーンからしかキャッチするアンテナを求められないこと。


オンライン学習は便利だし、このコロナの状況下で学校が休校して「しかたなし」にやることは、ほんとーにしかたないと思います。けれども、子どもたちが画面を嬉々としてのぞき込みながら、音声を聞き取ってやりとりしているのは、違和感がずっとあります。


一方、僕自身はApple製品、ガジェット大スキ。そういうのを新しく手に入れたときは、脳からアドレナリンがどばどばでてきます。でもそれが、いけないんだと思う。僕はもういい大人なので、自分で選んでやっています。画面に向き合う時間を、人と顔を合わす時間にしていかないとまじいけないなと思っています。


最近、高校生や大学生から相談のメールやzoomがありました。そこでは、オンライン授業があたりまえ。彼ら、彼女らはzoomづかれもしているし、なにか買い物クリックのように講座をとっている感覚に、人の学ぶことを選ばされているかんじ。オンラインとオフラインのバランスをくずしているから、悩みもより複雑になってしまう。人と会える「場」が、これまでちょっと話し合えたり、ほっと温かい言葉をかけあえたりする、顔をみられるだけで、いやされていたんだとわかってきました。


今、この状況からは、逃げることはできない。よりよいオンライン授業のあり方を模索していきたい。それまでは批判的にみながら「ホンモノにふれる体験」「人とぶつかり合う体験」といったガジェットやアプリではなく、五感というコスモを感じること、フル活用していきたい。


学校では、そういうことを大切にしたいな。最後まで、こだわっていきたい。オンライン授業に頼るざるを得ないときまで、タネをまいておきたい。それぞれの家庭でも探究をつづける自学ノートとか、模索していきたい。完全に休校継続となったら、そっちに舵を切るかもしれないけれど、それまでは、とことん人と会う力を信じて、もがいていこうと思う。


僕は若い頃、不登校の子どもたちとかかわる仕事をしていました。そういった子たちにはオンライン学習はとてもいいなと思う反面、はやり、人は「会って癒やされたい」ということを彼らから学んでいます。絆創膏としてのオンライン学習はあるかもしれませんが、根本的な問題解決にはならないと思っています。


大人であっても、本当に自分の学びたいことはわからない。シラバスだけでも人は学べない。それなのに、子どもたちへは、オンライン授業を推し進めていこうとすること。少し立ち止まって考え直したいです。もっと、議論しないといけない。こういうことを今、話題にあげにくい風潮になっていないかなぁと、懸念もしています。人の評価を気にせずに、自分のアンテナ感度を高めて、話し合っていきたいです。

自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 3/3

今日は、今後、私たちはどのようにエビデンスとお付き合いをしていけばいいのか? 僕なりの考えをまとめていきます。昨日は、「ハッティの主張」まで書こうとおもっていたけど、通勤電車内「作家の時間」も終ってしまいかけずじまい。今日は、そこから。

ハッティはエビデンスにとても慎重派

意外にもハッティ自身は、エビデンスに対してとても批判的です。ランキング表を拙速に使うことを懸念しています。独善的な教師の経験だけに固執し続けることなく、エビデンスに基づいて、教師のふりかえりを批判的に行わなければならないとしています。この振り返りの中にこそ、エビデンスを活用することが重要なのです。エビデンスを批判的ふりかえりの参照として活用していくことが、オレオレ実践や凝り固まってしまっている思想に一度、ブレーキをかけて、見つめ直す機会をくれるのではないでしょうか。

「実践者の判断の過信を排し、自らの実践を批判的にするための視点を提供するもの。高いエビデンスリテラシーを持った教員が現場にいて、実践者の価値観や教育実践の具体的な場面とつなげることではじめてエビデンスは教師の批判的省察の基盤としての機能を発揮する」

熊井将太『「エビデンスに基づく教育の闇を探る」教育学における規範と事実をめぐって』9章271頁より

批判的に扱うためにも、エビデンスリテラシーをもった教師として成長しなければならないんですね。

しかし、教育エビデンスを批判的に捉えることにはまってしまうと、せっかく教育研究で生み出された知見であるエビデンスをいつまでたっても授業づくりやふりかえりに活用できずに終わってしまいます。これは、教育研究者にとっても本望ではないはず。エビデンスに沿って今後、教育を進めていくことについては、研究者も授業実践者も同意できるところ。

問題は、そのエビデンスを導き出した集める方法やそのエビデンスの取り入れ方にあります。そのためには、教育研究分野と教育実践分野での活かし方を分けて考える必要がありそうです。

教育研究と教育実践に分けて考える

エビデンスの活用のあり方を「教育研究」と「教育実践」で分けて考えると扱いやすそうです。文科省の教育施策の大きな方向性を決定するには、量的な成果エビデンスを活用します。今後、文科省の教育政策の決定には、それぞれの経験や勘といったものよりも、エビデンスをもとに予算配分をしていくこととなっていきますね。

それにしても今回の新学習指導要領改訂は、「現場の専門家としての教師はつくづく信頼されていないなぁ」と感じてしまうのです。具体的でわかりやすい指導要領と引き換えに、自分で考え、判断して育っていく教師を漂白してしまっているからです。文部科学省が「私、失敗しないので」と、教育平均値の量的な底上げのためエビデンスに基づいて、教育政策の方向性を決めていくとこういうことになってしまうんですね。指導要領がよくできてしまっている分、トレードオフで学校現場ではよりよく考えにくくなる・考える必要がなくなる。言われたことをカバーするだけといった構造が生まれてしまっているのではないかと考えています。

考えようとしない/考えなくてもすんでしまう仕組み

ここから、教育委員会や管理職から言われたことを上意下達に「ハイ、ハイ、アイアイサー」とやろうとする扱いやすい教師を増やしてしまっているトリックがあるんだと僕はにらんでいます。本当の民主主義を支える教育は、指導要領を越えて何を教えるのかということさえも自ら考え出していく自覚だと密かに思っているくらいです。

学校を管理する立場からしてみれば、こういう扱いやすく、言われたことを何も考えないでそつなくこなしてくれる教師は人気がでます。そういう人は、(支障なく運営される)学校のためになる!と「人事評価もAプラスをとれるんだぞ!」と校長室で以前、言われました。僕の経験からも人事評価Aプラスをもらっている人は大概、人当たりもよく、「学校を(1年間そつなく)まわしていく」こと(だけ)に長けていて、なんでもいうことを聞いてくれる人でした。

エビデンスの活用にひるがえって考えると、エビデンスに飛びついて活用してしまうことは、同じ事が起こりかねません。「これは学習効果が高いから学校全体でやるべし」と学校スタンダードが教育委員会から掲げられてしまう(現状では、「返事ははい!」とか「姿勢良く座る」そういったものが多くを占めていて助かっていますが)。すると、それを一方的に受け取ってしまい、自分とクラスの子どもたち、学校の子どもたちに引き寄せて考えてみることができません(本当に効果が高いものであったとしても、ちゃんと自分の教育現場で扱えるものかどうかを各教師の責任で考えていくことは必須)。自分では判断を何もしない無責任な教師になってしまう予想しています。

正解だけを求めて「あの実践家がそういうから」「学年主任がそろえましょうというから」などと、だれかの後追いをしているだけの人にはエビデンスは毒にしかなりません。エビデンスについて、調べていけばいくほど、結局は「自分で考え・判断する教師」が必要だと確信に近いものを持つようになりました。

僕自身が「本当に面白い人だなぁ」と思って付き合っている人は、やっぱり自分で考えて、試行錯誤して、失敗しながらも成長の中にいる人です。そういう人たちにはたいがい「やりたい・やってみたい」があって魅力的です。そういう人の授業も熱量があって、授業でも同じように子どもたちを魅了しているのだと勝手に想像しています。

自分で考え、判断して切り開いていく教師

学校に、今、目の前の子どもたちに必要な教育目標を同僚と考え合い、自分が大切にしている教育理念や教育哲学、思想をもって、子どもたちと向き合っていく。教材を通して知識や人との関係性をつむいで学びをつくっていく。今は、この狭い教室文脈にしか言えないかもしれない。けれども、こうやるといいんだよ、大切なことだよ、と自分で考え、判断して切り開いていく。ここに教育実践を積み重ねる教師としての矜持があるはずです。

本当は『子どもがとっても楽しくしかもより深く学ぶ教育エビデンスをいかした授業のつくり方』(こんな本あったらとぶように売れるだろうな(笑))を、知りたいですよ。教育に対するこの気持ちがないと言えば、嘘になります。けれども、そういう「知ってるくん」では役に立たないんです。

若かりし頃の僕は、知識の量で経験の差をカバーしようとたくさん本を買い集めていました。1年目からだってスーパー教師になれるはず!と。けれども、そんなことはありませんでしたね。結局、残ったのは積ん読本の数々と、あまりの重さで床がしなってしまったことぐらい。何にも考えてなかったんですね。

いい先生、できる先生に焦ってなる必要はぜんぜんなくて、1年目の教師であったとしても、自分なりの考えや判断をもちながら、失敗もしながら修正し、試行錯誤を通して少しずつ力量をつけていけばよかったんです。教師は時間をかけてゆっくりと教師になっていく。焦ってすぐにスーパー先生になる必要もなく、なれるはずもありません。

教育実践におけるエビデンス・リテラシーって自分を疑い考え続けること

エビデンス・リテラシーが0ポイントだと、「エビデンスはなんだかうちの教室で効果があるかよくわかんないけど、きっと効果があるんだろうからやる!」と何も考えずに飛びついてしまいがち。そうではなくて、自分の実践やあり方が独善的になっていないか、自分の成功体験や経験を信頼しすぎていないか、チクチクと自己批判できるような視点を提供してくれるのがエビデンスであり、エビデンスのいかし方だと考えます。

実践におけるエビデンスの活用はレパートリーを提供するのみである。

(石井2015:35)

僕は、これを積極的にうけとめて、ふりかえりの批判的な視点として、考えていこうと思います。考え方に偏っていなかったか? 批判的に振り返ったり、または、エビデンスそのものを「本当かな?」と自分の教室文脈でためしてみるため慎重に授業計画を練ってみる。ときにはそのエビデンスにNOを実践現場の教師から突きつけることで、さらにどうしてエビデンスが効果がないのか、エビデンスそのものに問題があるか、または、エビデンスの扱い方に問題があるのか、より深まっていきそうです。そういうときにエビデンスは効果的に活かすことができるんだと思います。

研究者と現場の教師が一緒に学ぶ

先日、算数の全国大会に参加しました。そこでは研究職の方たちが、リアルな子どもたちを前に、自分が主張するエビデンスや教育施策を、右往左往しながら授業している姿がありました。僕はこういう同じ釜の飯を食らおうとしてくれる姿に心打たれてしまいます。

苦労して導き出したエビデンスを、研究へのリスペクトをもっていかしていく。僕らはそれに応えられるように、エビデンスや研究成果をうまく使いこなしていく。そのために、ゆるやかにいっしょに合同研究できていくといいです。僕が勤務している学校では、幼稚園と大学教授と共同研究しています。一緒に話を聴かせてもらう機会がありましたが、これは相互依存のシナージーが生まれ、教師がバランスよく学び続けていく仕組みなんだと改めて気付かされます。

とりとめもなくなってしまいましたが、ここが「今」僕がわかっていること、こうしたいことです。もしかしたら、また大きく変わるかもしれない。そうであると、それはまたそれで学びが進んだことなんでしょう。次のステップはいよいよエビデンスを慎重に現場にどう活かしていくか、そのために考え続けていこうと思います。ようやく楽しくなってきそうです!苦笑

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/

自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 2/3

前回は、ハッティさんの研究概要と、エビデンスを安易に使おうとすることにちょっとまった!をかけました。

今回はエビデンス研究の問題点を、研究者側からとエビデンスを活用していく学校現場側から、まとめておきます。そしてハッティはその批判をうけて、どうエビデンスを活用していくのかでしょうか? その提案まで考えます。

大学や研究機関による教育研究側からのエビデンスの問題点

① RCTやメタ分析では、教育のプロセスを空洞化してしまう

まずは前述したRCTによるエビデンスの価値を鉄壁にするためのこの調査方法に批判があります。RCTにより原因と結果を明らかにしてエビデンスを示したかもしれないけれど、それ以外の因果関係や要因をすっかりと関係ないも都市、空洞化してしまっています。

教育は原因と結果の間のプロセスにこそ重要な意味があります。

効果があるなしの結果であるエビデンスに焦点をあてすぎてしまうと、その結果に至るまで子どもたちがどのように学んだり、悩んだり、そこをどうクリアしてきたのかといった学習経験が不問とされてしまうからです。教育で大切にしている学校目標や学年、学級目標、さらには学習内容、扱った教材、カリキュラムが不問とされてしまうのです。ハッティは、教師の資質能力や授業方法を追求していますが、一方、学習内容といったものが軽視されすぎてしまっている批判があります。

また、ハッティが教師の資質能力や授業方法を強調することにより、教師の責任が増してしまい、そこを逆手にとって教師の権限がさらに強まってしまう指摘もあります。

ハッティに限らず、PISSAテストも、各国のカリキュラム事情をなきものとして、テストスコアでくらべっこしようとする点では同じ延長線上にありますね。

② 扱っている論文そのものの古かったり、偏ってたり

そもそも研究調査で扱った原点資料の時代が古すぎたり、一定に国の研究結果に偏っていてバランスが悪い指摘もあります。ハッティがメタ分析で扱ったRCTはほとんど含まれていませんでした。また欧米の文化圏の実証研究であり、日本はそれにはふくまれてはいないようです。調査した3分の2が1980年代までの研究であり、今日的な教育課題を解決していくためには扱った情報が古すぎるのです。こういった、バランスの悪さも、教育の地域的な要素や時代的な要求などによって変わってくる文化差については、慎重に言及されないといけませんね。

とはいうものの、最近では3年に1度の頻度でハッティランキングは更新さいれていますが、時代を超えても効果の高い主な要素は更新されても、その本質は変わっていないとハッティは説明しています。

それにしても、エビデンスの信頼度という面では、慎重に考えながら上手に使っていく方法を模索しなければなりませんね。

学校現場による教育実践側からのエビデンスの問題点

① エビデンスを無視する独善的な教師となってしまう

「自身の経験や個人的な試行錯誤から学んだことに大幅に依拠する」(ハーグリーブス2007)

私たち教師は、教授経験の成功体験から得た知識でもってのみ、教育活動を行う傾向があり、エビデンスを参照しないという独断的な態度をもちがちです。そう、あーい、でぃどぅ〜ま〜いうぇーい♪(尾崎紀世彦風)です。

こういった教師は、エビデンスを使うことを嫌い、教師のもつ実践の自由が失われてしまう懸念から独善的な自分エビデンスに陥ってしまいがちです。

最近、僕自身がエビデンスについて調べてみるにつれて胸をつまされるのがこの問題。いかにこれまでの自分が自分の成功体験に頼って、教育実践を語ってきてしまっていたか!その罪の深さを思い知ります。教育とは先生と一人ひとりの子どもたちとの血の通った物語のようなものです。だからこそ、そこに思い入れが強くなってしまい、自分エビデンス(ぼくは印籠エビデンスと呼んでいますが)そのようなものができあがってきてしまうんでしょう。「今年も例年通りで」といったパターンも、どこかこういう流れが関連しているのかもしれませんね。

しかし、もし自分の経験を信じもせずに、教育現場にエビデンスによって定められた形式的で効果的なことを強制されるのなら、教師の自由な試行錯誤や自由志向に規制をかけられてしまう恐れがあります。

とはいうものの、教師の自由な裁量を保持することこそが教育の目標でもなく、エビデンスに基づく教育を批判すれば、旧態依然の学校権利を擁護する恐れがあります。このことは、以下の参考文献に挙げておいた今井康雄(2015)の論文にわかりやすくまとめられていました。

② エビデンスを振りかざし、判断しなくなる

この効果のあるエビデンスを使っているんだから、だからもうおれえずぇ〜んぜんOK!ふふふん。といった問題が起こってしまいます。悪いのはうまくエビデンスの通りに示してくれない相手の問題、子どもたちのせいだ、という自己陶酔。

「研究のエビデンスによって裏打ちされ明示的に定式化された手続きに従っているとアピールすることで、外部の人々に対して自らの実践の詳細について申し開きをする、という状態に帰着する。このような「エビデンスに基づいた説明責任」は、実践家の専門的判断を意気阻喪させ掘り崩す。」(ハーマスレイ2007)

この問題には、「このエビデンスがききます」といった安易な使い方では、実践のプロである教師が自分で考えて教育のプロセスをつくっていく判断や選択を矮小化させてしまうことになるんですね。

どのようなエビデンスが、個々の教室事情に適合するか否かを決めてられるのは、やはり実践的専門家でもある教師なんです。

エビデンスに対する批判はまだまだあり、今回はほんの一部です。これらに関しては、下の参考文献であげる今井さんの論文(PDFで手に入れることができます)、先日、出版された『エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって』に詳しくまとめられています。

エビデンスにおっかなびっくり近寄らず、批判ばかりしても、研究者やハッティたちがせっかく示したことを使えるようにならないのは、とてももったいないです。次回はいよいよ僕が思う、今のエビデンスにどういかしていけばいいのか?について、考えていきます。

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/

自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 1/3

先日の学習会LAFTの参加はオンライン参加を含めて計17名。次回は11月18日。いよいよ具体的な授業づくりに活かす計画です。興味があったら、声をかけてください。告知終了〜。

エビデンスの昨今

「授業に教育エビデンスを活用するには!?」と、その是非を含めて勉強しはじめました。エビデンスとは「科学的根拠」とのこと。。最近のビジネスシーンでは「エビデンスを示せ!」と怒号!?が飛び交うようです(学習会参加者談)。スラビンという研究者が2002年に、エビデンスに基づく教育(Evidence-Based Education,EBE)を提唱し、今、到来しつつあるのは「教育における科学革命」らしいです。世界でも、この科学的根拠に基づいて教育をしていきましょうということが昨今の流れになりつつあります。エビデンス? カニデンス? ピザーラお届けではありませんよ。

ハッティブーム

今回のテーマ本は、オーストラリアメルボルン大学のジョン・ハッティさん『学習に何が効果があるのか』です。これを半年の間、5回にわたって読み込んで授業にどのようにいかせるのか、いかせないのかを検討していきます。ハッティさんは、教育エビデンスを示し、授業方法や教師のはたらきかけといった現場サイドにまで踏み込んだ具体的な提案をした人で、少し前には賛否両論含めてハッティ・ブームが世界では起こっていたようです。はい。日本ではあんまりそういう風は残念ながら感じられませんでした。僕だけかもしれませんが。。。

ハッティの研究内容

ハッティさんは、宿題や少人数指導、フィードバックなどの様々な教育的要因や介入に対して、なぜ効果があるのか、またはなぜ効果がないのか、教育心理学をもとに説明を試みました。これは、「エビデンスはこれこれこういうものですよ!」と効果のある品目を示して終わりの研究とは、明らかに異なり、エビデンスを扱うことに対して、とても慎重にしている点がとても好印象。そして、本の中では、教師が学習者に対する影響力(汝影響力を知れ!)と、フィードバックを授業の中心におきました。

ハッティの研究方法

ハッティの功績は、エビデンスを求めるに当たって、英米圏の50000もの実証研究をメタ分析をして、統合的にエビデンスに効果量を当てはめました。

強力で信頼度の高いエビデンスを明らかにするため、ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial,RCT)とそれらを統合的に分析するメタ分析をしました。RCTは医療研究の分野では、とても信頼厚い調査方法です。RCTは、無作為に選んだ2グループにプラシーボ(にせ薬)と本物の効果ある薬を与えて、原因と結果を明確にした、それ以外の影響することを排除した、効果のあるエビデンスを示していく方法です。そのRCT調査された論文を集めまくって、平均値や共通項をみつけるメタ分析を行いました。ハッティの圧倒的な量の量的研究に頭が下がります。

また、ハッティはその明らかとしたエビデンスに効果量を当てはめました。例えば、

「学級規模(d=0.21)」が学力に与える効果は一貫して低い(Hattie、2006)

ことが示されています。なぜなら、「小規模学級を担当する教師が大規模学級でおこなってきたことと同じような方法による指導を行い、小規模学級の利点が活かされていない(Finn,2002)」からでした。教室の人数が少なくなることで、明らかに学習環境は使いやすいものにはなりますが、教え方がいつまでたっても変わらなければクラスを少人数にしても学習の効果は変わらないということです。

このようにハッティは、教育エビデンスの効果量に数値基準を示しました。d=0.2以下が効果が低く、d=0.2からd=0.4が効果が中程度であり、指導する人によって差がでてくるものです。d=0.4以上が非常に効果が高いものです。

エビデンスを使うにはリテラシーが必要

「んじゃ、細かいこと言わないで、効果の高いものをじゃんじゃんエビデンス使って授業すればいいじゃん!」ってなりそうですが、実は、そんな簡単なことではなさそうです。

結論を言ってしまうと、自分で考え、判断する教師がこそが、エビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができるからです。

実は、これらのエビデンスの扱い方は本当に様々な批判も多くあり、現場の教師がエビデンスを有効に活用してくためには、まずは、エビデンス・リテラシーを身につけていく必要がありそうです。エビデンスを活用する教育には、かなり慎重にならざるを得ない現状です。その批判を大きく分けると、研究機関による「教育研究側の問題」と学校現場での「教育実践側の問題」があるからです。次回は、この二つの点について考えていきます。

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/