2024年 3月 の投稿一覧

子どもの自分らしいエピソードで、卒業式「別れの言葉」の台本ができあがるまで

子どもたちと卒業式にむけて、別れの言葉をつくっている。

子どもの声を大切にしている学校だけに、卒業式での呼びかけも、そのまま子どもの言葉をつかう文化がある。

僕がこれまで経験してきた、格調高い「別れの言葉」になりにくい。けれども、ほっこりする子どものエピソードや、その子ならではのぐっとくる等身大のエピソードが語れて、それがとてもいいと思う。

伝えたいことを文章にして、自分の言葉で話す。その舞台が卒業式であるっていい事だと思う。

もちろん、子どもたちが書いた最初の原稿は全員がほぼ、修学旅行と合宿のことだらけだったりもした笑。何度かブラッシュアップしていくと、少しずつその子らしい文章ができあがってくる。ここはもう個別にカンファランスの繰り返し。

そして、書いた文章は、書き言葉だったりもする。伝えるための文章へと多少の修正、校正はてこ入れするけど、どれもそのままの自分が感じたことや考えたこと、心に残っている言葉ばかりだ。

子どものそのままの声。

そして、どの子の文章をどのタイミングにいれるのか、歌の選曲や順番も実行委員の子どもたちが話し合って決める。遅々として進まなかったけれど、このプロセスは僕にとっても、「誰の」卒業式なのかをじんわりと理解するためにはとても貴重な体験だった。

明日はいよいよ台本のしあげ。追い込みしんどいけど、卒業のテーマである「自分らしく」その子らしく、別れの言葉を作れるように支えていけるといいなぁ。

学校って、授業だけでなりたっているわけじゃないんだなぁ

卒業時期が近づいてきた。来週末にはもう卒業式。

今日は、6年生を送る会があった。この6送会はおもしろくて、4時間目に全校であつまって、それぞれの学年の6年生に向けての出し物がある。お昼をはさんで、午後はたっぷり2時間、各委員会が考えた出店がたっぷりと遊ぶのがとてもいい。

2年生の出し物をみんなでみているときのこと。全校の前にでてきた数人の二年生が、「6年生、ありがとう。お別れがさみしいです。。。。」と言葉につまって、その場で泣いてしまった女の子がいた。それを見ていた、6年生ももらい泣きしてしまう。

2年生と6年生はパートナー制度があって、入学式の時から、一緒に登校してあげたり、これまで2年間ずっと面倒をみてきてあげたから、なおさらこみ上げてくるものがあった。

だから、みんな自分のパートナーをとても大切にするし、2年生もパートナーのことが大スキみたいだ。

こういうことは、通常の授業の中だけでは起こらないことがたくさんある。パートナーがやんちゃな子だった場合は、いろいろ振り回されたり本当に大変だ。けれども、けなげにちゃんとつきあってあげようとするお兄さん、お姉さんはだれもたくましくほほえましい。

あまりにも忙しすぎて、それぞれの行事が慌ただしく過ぎていくこともあるけれど、その中で、ちゃんと気持ちに区切りを付けながら、別れを惜しもうとする姿もうまれてきて、なんだがとてもいい時間だった。

こういう子どもたちの姿をみていると、学校って授業だけで成り立っているわけじゃないんだよなぁと、つくづく感じる。

数学者の時間は「ぶっとんだ授業」

弘前大学教育学部付属小の先生方が「数学者の時間」を2コマ、見学にこられた。自立した学習者をテーマに研究しているそうで、数学者の時間で取り組むワークショップ授業がそれに近いとのことだった。

僕の中にある3学期のテーマは「もの」を使って思考すること。でも、ものを使うと操作がある分、なかなかノートに記述されない問題をどう解決していくか。そこで、今回は、KAPLA積み木を使った授業とマッチ棒を使った問題を選択して、子どもたちと考えあってみた。

子どもたちは、KAPLAについてはすでに2時間かけて、橋を作ったり、橋の上にチョロQを通したり、すでに取り組んできた問題。だから、一般化を求めて「KAPLAを使った問題づくり」を持ち込んでみた。

一方、僕のクラスはKAPLAから離れて、半具体物のマッチ棒を使った「マッチ棒パズル」を扱ってみた。こちらの方が、思考の足跡をメモしやすいと予想していた。毎回同じだけど、朝の朝まで、子どもたちに提示する良問を決められないで悩んでいる。たぶんこれはこの先も続いていくんだろうなぁ。

どちらの授業も、それぞれグループ(KAPLAの数に限りがあるため)で、そして個別(マッチ棒はたくさんあるので、こちらの授業はいつもの雰囲気に近かった)に活動しながら、考えていた。僕は、その途中途中の子どもたちのアイディアが面白すぎて、一緒に考えはするものの、思考をどこかに連れて行こうとするよりも、一緒に楽しんでいた。今回はそういうカンファランスだったと思う。

授業後、先生方との振り返りは2時間かかって話し合った。一番印象的だったのは「ぶっとんだ授業」だと言われたこと。これはこれまでの算数・数学文脈とは、異なった授業だったと好意的に僕は受け取っている(あってるかな?)。 参観されてた先生方は、授業をどうみていいのかはじめよく分からなかった様子で、意図を丁寧に説明し、はじめて理解された様子だった。

たしかに、何かを積み上げる授業ではないため、子どもたちは遊んでいるように見えてしまうことがある。成果がでそうででないその「どうにもならない」時間をどう解釈するのか。僕は知識が生み出されるにはこういう試行錯誤が必須だと思うし、そういう時間を大事にしたい。

何か知識を授けるのなら、的確なアドバイスや指導があるだろうけれども、この時間は子どもと僕も一緒に考えてしまう、そんな授業構造だからどうしてもこのムダに思えそうな「どうにもならない」いろいろ試している時間が必要。それが遊んでいるように見えるからこそ、授業として捉えにくいのかもしれない。でも、遊ぶように学ぶってこういうことなんじゃないかなぁ。こういうことを好意的な雰囲気で授業検討できたことはまたありがたかった。落ち着いたら、改めてフィードバックをいただけるとのことだったので、そのときじっくりと振り返っていきたい。

いかにもこの一ヶ月は忙しすぎた。何かを書き続けるリソースが自分の中でさけないままでいたから、また細々とつづけていけたらいいなぁ。