2020年 8月 の投稿一覧

たった一人の熱烈なファンが探究を支えてくれる

夏休みに入りました。この夏、本当に自分がやりたい研究をやってみようとはたまた全国の先生達と「探究自学ノート・シーズン3(TQJs3)」で、大人の探究自学ノートを始めました。僕は「ゾーンディフェンスの研究」です。

TQJシーズン1で、探究自学ノートを深めていくためにはその学習内容への専門性が欠かせないことを議論してきました。教科への専門性があればこそ、ネタ教材を入り口により深いところへ学びをガイドすることができるはずと。

TQJsシーズン2では、探究自学ノートを進めていくには、遊び心に併せて探究のプログラムデザインを研究しました。これまでわかっていたようでわかりにくかった逆さまデザイン。探究を学習者に丸投げでは学習者の個々の能力に任せすぎてしまい深まる人とそうなれない人との如実な差がでてしまう。そこを乗り越えるにはやっぱり、探究の明確な見通しが必要で、専門性に加えて何をパフォーマンス課題にするのかをゲーム化したりして考え合ってきました。これはほんとオモシロかった。

そして、TQJシーズン3。今回のテーマは大人が学ぶこと、そして学びをガイドするヒミツとは? つまり学習のカンファランスについて。探究するにはその分野の専門性やプログラムデザインだけでは動きません。振り返ってみると探究を進めてくるときそこには、探究する人を一緒に「おもしろがる」人がいました。けれども、なんでもかんでも誰の学びも「おもしろがる」ことはできません。

僕は今、誰かの学びへ興味をもつことに大きな興味があります。今シーズンを通して(10月まで2週に1回のペースで学習会・その間のブッククラブと大人の自学ノート)、技術だけではない、人として「おもしろがる」要素を明らかにしていけたらいいなと思うのです。

シーズン3の2回目のオンライン・ミーティングで「子どもの頃に夢中になったわくわく原体験」について語り合いました。グループからでてきた意見の中でハッとさせられたことがありました。脳内クリティカルヒット!(毎回、こういった気づきがあるのがこのTQJのおもしろいところ。1回目はデジタルにはない手書きノートの3つの良さなんかは、Evernote生活ずっぽしの僕は忘れたくないことの一つです)

それは、「探究には仲間がいる」ということ。

僕は小学生の頃、友人のことをモチーフにした「青春のゆうじくん」というギャグマンガを描いていました。ゆうじくんというのは、親友のゆうじくんです。彼とは今でも、二人で離島にキャンプしに行く仲です。学校であったおこられた出来事や当時のCMをモチーフにて、おもしろおかしいギャグマンガです。最初はノートの切れ端に。でも、ゆうじくんがめちゃめちゃ喜んでくれるので、スケッチブックにもストーリーマンガを描くようになりました。

「早く次がよみたい」と、なんども催促してくれるので家に帰っては夢中になって描いたのを覚えています。できあがった作品をゆうじくんに読んでもらっているときのわくわく感。クスって笑ってくれるうれしさ。たった一人だけだったけど、まぎれもないファン1号でした。僕はゆうじくんが僕のマンガを喜んでくれるのを本当に楽しみにしていました。そして、その頃の僕の将来の夢はマンガ家でした。

学習者の探究を支えてくれることってなんだろう? 自分の小学校時代のわくわくしていたことを掘り起こしたとき、このファンになってもらえた体験があることに気がつきました。そうなんです。探究するを支えてくれるのは、面白がってくれるファンがいることなんです。そして、きっとだれもがその原体験をもっているのだと思うのです。

ごくまれに、誰からも評価されずともひとりコツコツと山に入り蝶を集めたり、自分だけの石を集めたりする人もいます。本当に魅了される世界を見つけた人は強いですね。多くの人は自分が何に興味があって、その対象のもつ世界の深さも知りません。そこを一緒に「おもしろがってくれる人」がいることこそ、探究を推進する力となるのではないでしょうか。そう、探究心に火をつける人が必要だったんです。きっと他者と一緒によろこんでいた探究が、少しずつ自分の探究へと昇華されていくのでしょう。

僕はカンファランスし続けることは、専門性やカリキュラムデザインだけではないことに気がつきました。もしかしたら、面白がってくれる人がいることが、それよりも強力なことなのかもしれません。ファンを見つけること。ファンになること。自分の探究自学ノートのファンになってもらえること。こういったことが、僕の小学校時代にぎゅっとつまっていたんだと分かってきました。これはきっとみんなにあることだと思います。

たった一人でいいんです。再生回数が何百万回である不特定多数の人ではない、自分にとって特別なファンがいてくれる、自分の好きなことを応援してくれている、楽しみに待っていてくれる、ここにファンの持つパワーがあるはずです。

そして、私たち大人はなんでもかんでもファンに決してなれるわけではありません。だからこそ、それをスキルでカバーできないか考えています。キャシー・タバナー他著・吉田新一郎訳『好奇心のパワー:コミュニケーションが変わる』はコミュニケーションの本です。しかし、これはカンファランスの本だと僕は理解しています。ここには、相手に好奇心を発揮するための3つのスキルがあります。

①「今、ここ」に集中し、相手に焦点を合わせる。
②聴き方を選択する。
③相手への興味関心を示すオープンな質問をする。

しばらくは、TQJシーズン3のメンバーとこの3つのスキルを使って、お互いの探究自学ノートのよき理解者となり、ファンになれるように練習していこうと思います。グループ内ファン体験。それがそのまま、教室・職員室で、子どもの興味関心に興味をもてる資質につながっていけるんだと思っています。それと同時に、だれが何を探究しているのかを可視化して、子ども同士の興味関心をつなげてあげればいいんだと。先生がマッチングアプリ先生になればいいんです!あは!まいっちんぐ。

一方、自分に感心がありすぎる人(僕はこの傾向が強いね)、人との比較や優劣でものごとをみてしまいがちな人やそういうタイミングにある人は、素直にファン似なれないんじゃないかなと思っています。かといって、評価されたり上から目線で面白がられてもなんだかしゃくにさわるし。このファンになる事って、もっと純粋に他者や対象をおもしろいって思える「仲間」感覚が必要なのではないかな。小学校の友達関係は、こういった仲間感覚があったなぁ。いつもなにか開かれているマインドをもっていたのが子ども時代だったのかもしれません。

さぁ、ファンになっちゃうぞー!?

今年のテーマは「算数する?」 算数メガネで日常世界に再発見

コロナ禍もあり、今年の算数は余剰時間が十二分にとれなさそうです。それを今更、嘆いていても始まらないので「今年はどうやったら、昨年度までのような問題解決のサイクルを学び、それを使った算数探究へ突入することができるか?」を考えていました。

しばらく一人でゆるりと考えていましたが、あんまりよいアイディアはひらめかない。それでもしばらく考えようと、頭の片隅においときながら数日をすごしていました。すると、閃きは急にやってきました。

数学者の時間の研究メンバーと週末の朝、ミーティングで2学期以降の計画を検討していたときのことでした。「これまで通りができない今年度なら、年間通して一辺にやってしまえばいいんじゃない!?」と閃きました。

独力で考える時間は大切です。それには手書きノートがいいと思います。これについては、探究自学ノートを大人で取り組み始めた。一人で考える時間がある程度あるからこそ、対話したときに閃きが降りてくると思います。対話はそこをつなげてくれる装置です。ただし、思考したことを自由につなげられるかは、信頼できるかメンバー構成の対話に大きく影響されますね。

昨年度まで、丁寧に学期ごとにステップを踏んできたことを、ぎゅっとシュリンクさせてよりダイナミックに年間通して一辺にやってしまおうという魂胆です。算数授業において、「年間算数テーマ」で串ざして、算数の時間でも数学者の時間でもいつでも同じように年間算数テーマを追求していく。

イメージとするとPA(プロジェクト・アドベンチャー)でビーイングを作り上げるようなもの。抽象度の高いもの(例えば「フルバリュー」とか「算数する」とか)を試行錯誤することで、より具体的にしていくプロセスに焦点を当てながら、その年間算数テーマをそのクラスやその子に応じて定義づけていけばいいじゃん。これおもしろそう。

ドストライクでした。これまでの算数では、①算数の授業で学習内容を学び、②それを使って数学者の時間でさらに理解を深められるように、テーマを設定してものづくりをし、算数探究をして発展させていくといったような、二つを並行して扱っていくデュアル・プログラムでした。これを融合させて、一辺にやってしまうアイディアで、よりダイナミックな学びになるはずです。

そこで、年間算数テーマに「算数する」を設定することにしました。残りの2学期間を通して、どの教科書単元も数学者の時間の算数探究でさえも、「算数するとは?」を明らかにしていく、そんな学習テーマにしました。

そもそも算数するってどういうことなんでしょう? 教科書を学んでいるときは、算数している? うーん。どちらかといえば、「算数できる」になっているかもしれません。それを使ってみるといった視点はつい欠けてしまいがち。

この算数するって、算数メガネ(形状は絶対に丸メガネ設定で)をかけることなんだと思います。これまでは自分の世界の周りにはまだ見たことのない知らない算数世界が隠れていて、それを海賊王になるかのごとく算数探究をしてさがしにいく、そんなイメージでした。

でも、それはちょっとちがう。たくさん予習をして、どんどん先に進むことが学びを豊かにすることとは僕は思っていません。先取り先取り、知識を過剰なまでに増やそうとすることに加担したくはないのです。それよりも、今ある少ない知識を上手につかうことで、いろんな発見や問題解決ができること。そのほうが、安心して知らないでいられる。考える楽しさもあるし、大人になってからでも知識がないことへのコンプレックスもなく、知らないことは頭をひねることで、必要なら知識を増やせばいい。そのぐらいに思えた方が、人生楽しい。

「算数する」ことを考えたとき、今ある自分の世界やこれまで経験したことのあることやものを広げるではなく、算数メガネで見直すことで世界を再定義する。つまり、これまで知っていた世界がまた別の世界として観られること、そこに豊かさを感じています。

少ない知識であれこれ使って、創造的な問題解決の練習をする。知識を増やしていくアプローチではなく、いまある知識を使って見え方を豊かにしていくことなんでした。ここに僕は先日、投稿をして、本意があるんです。

「知る」だけではだめで、やっぱりそれを「つかう」こととセットなんです。「できない」「わからない」などの知らないことへの不安はすぐに換気されますが、知っていること使っていない事への不安は起こりにくいからこそ、なおさらです。

そこで、学期の最後に子どもたちと「2けたー2けた(または2けた+2けた)」の問題づくりをしました。そこでは、ただの「2けたー2けた」をつくるのではなく、生活の中から、または、実際にありそうな数を見つけて、問題づくりをすることにこだわってきました。

子どもたちは問題をつくる楽しさをいっぱいに感じています。すると「2年西組が86人います」と誰もがつくろうとします。より大きい数を扱って、問題を少しでも難しくしたいんですね。でも「西組86人もいませんから〜!」と。みんなで笑いました。

けど同じ問題は他にもでてきます。バナナだって86本もふつう買わないし、86こもケーキは買わない。このさじ加減がが難しい。ここからが苦しむとこでした。実は「86ー29」なんて実生活の中で、なかなか見つからないし、そういう目でそもそも生活をみたことがない。ここに算数メガネで見直すおもしろさがあると思うんです。

それでも、子どもたちはサクッとそこを乗り越えていきます。一人で考え、友だちとも考え合い、なかなか面白い問題でも生まれます。この時期だけにコロナの病人数問題は100に近い数として実感がありそうです。また、子どもの世界でありそうな繰り下がりのある妖怪問題(妖怪は絶対にいる!そうです笑)なんてのもありました。

これらの問題は、印刷して夏休みのドリル宿題にしました。学年みんなで取り組んだので、問題数は学年人数分です。算数プリントの宿題が一番多い学年でした。笑。

算数するってなんだろう? 

今年は算数メガネをかけて、今いる世界を算数で再定義していくことに探究していく、そんな実践を子どもたちと模索していこうと思います。