2023年 11月 の投稿一覧

「地球星歌」を覚えられない

来週が音楽会だ。

それにむけて、教員も歌をうたう。全校生徒と一緒にうたう「地球星歌」だ。作詞は「コスモス」をつくったミマスさん。僕にとっても思い出の深い曲だ。

歌はいい。

その時に担任していた子どもたちの顔を思い出せる。いつまでも思い出はいろあせない。

しかしだ。歌はつらい。

今日は、6年生の学年練習の際、その場にいた3人ほどの先生だけでいきなり「地球星歌」を歌わされた。めっちゃ緊張した。学年の先生は超上手に歌っている。僕は、本来テノールを唄うはずなのに、主旋律のメロディーをついつられてしまって、いつのまにかソプラノで喉を絞って首から背伸びして歌ってしまった。

ツライ。。。6年生の目がいつもよりも厳しい。

子どもたちからの「イガせんの声は聞こえたこなかったな」「小さいな」と様々な率直なフィードアタックをうけた。

そのなかでも「イガせんは声だしていたよ。オレ、聞こえたよ。よかったよ。あれはイガせんの100%だよ」と一人だけ優しい声をかけてくれる少年がいた。ありがとう。針のむしろで救われた。算数の成績満点にしてあげたい。うちの学校生成表ないけど。

うまくいかないときこそ、優しくしてもらうとほんと心がほぐれる。これからは子どもたちにはそう優しくしていこうと思う。今まで追い込みかけてしまっていて、ごめんなさい。

放課後も、子どもたちが特訓をしてくれた。ソプラノパートにつられないように、様々な手を使ってテノールを歌う僕の邪魔してくれた。しかし、なかなかうまく覚えられない。やはり僕は主旋律をつられて歌ってしまう。

ということで、家に帰ってきてからもお風呂で歌の特訓。夕飯を食べ終わってからも特訓。それでもなかなかテノールのパートを歌いきれない。

本番まであと5日。どうなってしまうのか。がんばれおれ。

「沈黙は金なり」まず先生がおしゃべりをやめてみる

新聞を読んだり、ネットニュースを流し見していると、いろいろと意見をいいたくなることがある。今朝も、そういう記事を目にして、自分なりの考えがあふれ出てきた。

けど、いわないことにしておこう。

何かにその場で反応しているときは、これまでふりかえってみても、考えが浅い。このメッセージを伝えることで何をしたいのか、その目的さえも見失いかねない。これは、ろくなことにならないばかりか、ピンチを招き入れることとなる。

たいてい意見を言いたいときは、こちらが「正しい」と思っているとき。そういうときは、とくに相手を説得したり、自分の思うままにあの手この手でコントロールしたくなる気持ちがぶくぶくふくれあがる。

伝えたから、そのまま伝わるなんてない。

理解は人それぞれというように、その人独自の理解の枠組みがある。そこを無視して意見を伝えたとしても、相手には刺さらない。こちらが気持ちいいだけのこと。

同僚と意見が対立しているとき。保護者と話しているとき。特に、子どもと話しているときには気をつけたい。無意識のうちにマウントをとりがちな自分がいる。これは意識してもしすぎることはない。

さすがにこの歳になると、決めつけてものを話していたりはしないが、心からそう思っていないのが眉間のシワからビームが出てしまっている。

「きこう」とすることを頭のどこかで常に忘れないようにしたい。そのためには、まずは「反応的に話す」ことをやめてみること。たったこれだけで、相手の話すスキマがうまれる。

僕の中には僕を育ててくれた尊敬するボスがいて、

「イガキさん、ちゃんと聴けていますか?」

と常に見守っていてくれている。いや、見張ってくれている。

人の意見は氷山の一角。そこにはその人の「経験」や「感情」が埋まっている。そしてそこにはまだ言語化さえもされていない「価値観」がある。そこまで聴き取ろうとして、はじめて相手とのシナジーがうまれてくる。

だから、しゃべっているヒマなんてないのかもしれない。

ただ、僕は仲間うちではけっこう「おしゃべり」だ。それは僕の中で、腹を割って話せる人だからと、信頼しているからだ。対話の作法をもちいるまでもなく、誤解もおそれずに率直に、話し合える仲間がいることは本当にありがたい。

でもこうやってSNSにはこっそりいいたいことを書いてしまう笑

いいたいこともいえない世の中じゃポイズン。なのかもしれないけど、いいたいことを言うには、手順があるってことね。

付き合っている子をおしえてもらったり、『ラピュタカルタ』をやったり、子どもと遊ぶと発見が多い

個人面談がおわった。いっきにいろんなことが終わっていく。そしてまだ怒濤の一月。やることが目白押しだ。もうひとふんばり。

最近、子どもたちがよく遊びに誘ってくれる。嬉しい。

6年生ともなると、僕と一緒に遊んでいる子はほとんどいない。みんなよい友だちとなんかやっていて楽しそう。そのために学校きている子がほとんどだったりして。それでいいし、それがいいと思う。

「イガせんひとりでいるから遊びにさそってあげよう」なんて声もきこえてくるけど、僕は一人でいい。仕事も進むから。

空き時間に教室でパソコン仕事をしていると、一人の子が入ってきて机に両手をのせながら「イガせん、知ってる? ○○と△△がつきあっているんだって! あ、でもこれ絶対だれにも言っちゃだめだからね。あとね、★★は□□のことが好きで、私は好きな人がいないんだけど、あ、でもこれ絶対だれにもいっちゃだめだからね」とく延々と続く秘密の話。

僕はあまり子どもたちの関係に首を突っ込んだり、多くを把握しようとしない先生だとおもう。だから、たまにこういう話をきくと驚くべきカップルの組み合わせに新鮮さを覚える。

しかしだ。

勉強ができても、パートナー選びがうまいとは決していえない子もいたりして、なぜなんだと自問。そして、これはこれでよい勉強だと一人でこっそり思ってしまう。

今日は中休みに職員室でパソコン仕事をしていると、隣のクラスの子から「イガせん、こっちおいで」と呼ばれた。犬じゃないしとけむたそうに行ってみると「カルタやろ」と誘ってきた。

6年生にもなってカルタかい。と思っていたことが顔にでてしまっていたようで「ただのカルタじゃないよ。イガせんがよろこぶ『ラピュタかるた』だよ。教室でまってるから」

ふむ。なにそれ。楽しそう。

子どもに誘われたときは素直についていくようにしている。教室に行ってみると、すでに「ラピュタかるた」はセッティングされていた。

なんとあのラピュタの名作場面がセリフとともに読み札と絵札になっている。なんと気分アガルことか! 僕は夢中になって

「私の名はロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ」

「みろ!人がゴミのようだ」

「めがぁ〜、めがぁ〜」

と夢中になって声をあげてしまった。

そして、みんなで

「「バルス!」」と。

最初3人でやっていたカルタも、いつの間にか僕のクラスの子たちもまざってみんなで競い合った。一番、とれたひとはもちろん持ち主で23枚。僕はというとたった2枚。勝ち負けじゃない。楽しかったからそれでいい。

そこで中休み終了。

時間になったので僕の算数授業となった。いきなりの切り替え。子どもたちはこうもズバッといきなりチャンネルを切り替えるのか。すごいな。

僕はというと、

「このカルタ、他のシリーズないのかな」

「僕だったらナウシカのあの場面はマストだな」

とまだ休み時間の中にいたりして。

若い頃、ずっと休み時間、子どもたちと遊んでいたことを思い出した。放課後もずっとサッカー、バスケしたりして。いつからだろう。そういう時間がなくなってきて、そういうことに時間をさけなくなってきたのは。なんだかさみしい大人になったなぁ。

明日も誰かに誘われたら、一緒に遊ぼうと思う。時間にケチな大人になっちゃいけないなぁ。

井本さんと研修の打ち合わせをしたら、その打ち合わせが研修をこえるおもしろかったという話

「できるようにしようとする目標があるかぎり、学びなんておこらない」

「自分の考えたプロセスに興味をもってくれていれば、あっという間に子どもはかわる!」

どれもイモニイが話してくれた言葉。イモニイこと井本陽久さんとのLAFT研修会の打ち合わせが先ほどおわった。

イモニイが先に退席された後、参加者のみんなが一同に「うううむ。おもしろかったねえ」とうなった。この打ち合わせだけで、ひとつの研修会になるほどの内容でもあった。僕は大満足。

LAFTでは井本陽久さんを呼んでの研修会を計画中。研修会はちょうどクリスマスの週末。参加者のみなさんに、ステキなクリスマスプレゼントになるはず。

参加者に焦点があたってそれぞれの問いから研修がつくられる予定。それだけに自分と向き合うことにもなりそう。これまでしみついてしまった学校や学びのこりかたまったあり方、自分のいきづまりを問い直すことにもなりそうだ。まっすぐに自分と葛藤することを大切にしたい。

あと10名ほどの参加枠がのこしておきました。興味のある方、ご参加お待ちしております。すぐにうまっちゃうからお早めに!

https://www.kokuchpro.com/event/061715a68ab00c85872395612c4a68dc/

「マスマティカル・カード(発売あり?)」から、数学探究の種をみつける

「数学者の時間」では、それぞれの興味関心をもっと広げられる「数学探究」を計画している。今朝の数学者ミーティングでは、宿題にしていた日常にある算数・数学を紹介しあった。

  • 予算と場所を決めての旅行計画づくり
  • お手伝いから稼ぐ子どものお小遣いの稼ぎ方
  • 太陽の高さと影と図形(影の多くは平行四辺形になることが多いが、ある一点だけ長方形になるときがある!)
  • ドブルカードからカードゲームづくり

などなど、僕ひとりではおもい付かないようなおもしろいアイディアが語られた。そのどれもが、いわゆる学術的知識を使って、学際的知識を活かせる探究にふさわしそうだ。

僕は最近、読んでいた本から探究の入り口づくりを紹介した。

Tracy Zager「Becoming the Math Teacher You Wish You’d Had」

https://amzn.to/3uByiSo

「この写真からどんな質問がおもいつきますか?」★一枚のオレオの写真から、思いつく限りの質問をたくさん挙げあった。

racy Zager「Becoming the Math Teacher You Wish You’d Had」 7章「数学者は質問する」より

★著者はこの写真はダン・メイヤーのブログからヒントを得たもの。ダンメイヤーといえば一時、TEDトークで話題となっていた人だ。 

https://www.101qs.com/

算数・数学がいざ授業になると、自分で質問し、自分で問題を提起し、自分でアイデアを出し、自分で観察し、自分その見つけたパターンや理論を試すことはほとんどなくなってしまう。

このような学習を何年もつづけていると、中学生になる頃にはかつての好奇心は枯れてしまい、みごとなまでの受動的で無気力な「数学ぎらい」が誕生してしまう。

この質問づくりでは、まちがえはないし、よかったら探究の種にもなりそうだ。ぜひ、授業のウォーミングアップにもいれていきたいほど。続けていくことで「いい質問」のセンスがみについてくるかもしれないし。

そこで、我々数学者の時間研究メンバーでも朝から、いろいろ質問を出し合ってみた。

  • どっちがおいしいか?
  • どっちもおなじオレオなのか?
  • 値段が高いのはどっち?
  • おなじオレオをつくるには?
  • クリームの量はどれくらい?
  • かたさは一定なのか?
  • 重ね行ったら同じ高さになるのは何枚?
  • 重さでも同じになるのは?
  • はずして食べるか、どう食べるか?
  • 上から見た写真は?もしかしたら後ろ側にはクリームしきつまっていないかも!

などなど

僕は、やはり「重ね行ったら同じ高さになるのは何枚?」こういうのはいいなぁと思ってしまう。ただ質問を出し合うだけだと、問いが散乱する。数学メガネをつけることで、日常の身近なものの中にも数学が隠れていることがわかるといい。

そこで、「日常から算数・数学をみつけよう。写真編」ということで、次回までに、ダンメイヤーさんに習って、おもわず考えたくなってしまうような、問いが吹き出してしまうような数学的な写真を集めてみようと宿題になった。

それをこっそり集めて、どの学年でも授業の導入に数学的問いづくりを楽しむ時間を演出できる「マスマティカルカード」として売り出せば、きっと僕は億万長者になるにちがいない。数学的期待値を鑑みてもきっとそうなるはずだ。だれか一緒に作りたい人はいないだろうか。今だったら、山分けだ。

そういう話はさておき、いよいよ授業では立体の体積や表面積の単元に入る。なにか探究的な学習をつくりたいと考えているがまだスポンと良きアイディアがうまれてきていない。もう少し粘って考えてみようと思う。

新算研の全国大会から、午後は認識的知識について考える1日

今日は新算研の全国大会に参加してきた。午前中に6年生の算数授業を2本参観。こういう時間は自分にとって、とても大切な時間だと思っている。今の算数教育のスタンダードがどういうものなのか、ちゃんとキャッチアップできるからだ。

どちらもとてもよい授業だった。全国大会だけ合ってよく準備されていて、やりたいことがしっかりと練られていた教材だった。子どもたちも1時間の算数授業の二連続に披露を隠せなかったが、とてもがんばっていた。

共通の問題をといてから、問題を拡張していく場面では、数学者の時間の「問題づくり」と同じようでワクワクしてみていた。授業ではおさえるべき所はしっかりとおさえられていて、観ていても算数が苦手な子もちゃんとついていける技術も随所にみられた。

ぼくだったら同じ教材をつかったらどう扱うだろう。

せっかく作りたい問題を共有したのなら、それぞれのやってみたい問題づくりを保証してあげたいと思う。

もし全体で共有したい熱がでてきたらそうするだろうし、そうならなければ、たんたんと次に進むだろうな。だから、どうしても1時間を見合っての研究授業にはなかなか適さない授業をしているのかもしれない。少なくとも3時間みてもらわないと笑。

ここのところ面談つづきで少しリフレッシュしたいなと思っていた。午後の公演は参加せずに、お昼はカフェでコーヒーを飲んで、トレーニングをして帰ってきた。

小学校以来の旧友と連絡をとった。この冬どこか寒いところにキャンプへ行こうとそんな話にになっていて、今はそれは楽しみだ。

そして新しいコーチングのプロジェクトを始めることになった。これはこれでずっと楽しみにしていたこと。どうなるだろうか。

昨日から、認識に関する知識(Epistemic Knowledge)がよく理解できなくてFacebookになげてみたら、意見をいただいた。SNSは本当に助けてもらっている。感謝、感謝。

つまり、学術的知識、学際的知識、そして手続的知識は、特定の内容や方法に焦点があてられる一方で、認識論的知識は、これらの知識がどうやって知ることができたり、つくられるのか。そして、その正当性が確かめることなどということのようだ。

例えば、算数のある学術的知識「三角錐の頂点の数」がどのようにしてその解答を得られたのか、その解答が信頼できるものなのか、この考え方のプロセス(数学者のように予想しながら修正して相談して解へ辿り着くといった)のつくり方を認識的知識といえそうだ。

だとすると、普段の授業の中で普通にやられていることなのかもしれないな。

まだ気になっているので、次の本を購入してみたので、じっくりと秋の夜長に読んでみたい。すぐ寝ちゃいそうだけど。

『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』

https://amzn.to/3uwNMHc

4つの知識とは ラーニング・コンパス数学2023を読んで②

ラーニング・コンパス数学2023を読み進めてみると、ちょうど3章「教育の目標」のところがとくにおもしろかった。その中でも知識を4つに分類しているところに興味がわいたので気になったところをメモしておく。

  • 学問的知識(Disciplinary Knowledge)
  • 学際的知識(Interdisciplinary Knowledge)
  • 認識に関する知識(Epistemic Knowledge)
  • 手続き的知識(Procedural Knowledge)

学問的知識(Disciplinary Knowledge)

これは特定の分野における、特定の知識をさす。算数数学における基礎となる教科内容としての知識。この知識は、学習者が他のタイプの知識を発展させるための基盤となり、教育のカリキュラム設計において重要な要素となる。日本では特にここの系統性がよく整理されている。それだけに、いかにこの学問的知識以外の知識をバランスするかが日本の数学教育の大きな課題だと考えている。

学際的知識(Interdisciplinary Knowledge)

多くの学問分野にまたがる概念やアイデアの転移、およびそのつながりを理解する知識のこと。最近でいう教科横断型の「探究」学習がこれにあたるだろう。例えば、フィボナッチ数列と自然界のパターン(0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, …)は、植物の葉の配列、花びらの数、果物の種の配置など、自然界の様々な形態に現れる。学習者は、これらの自然界のパターンを観察し、数学的な概念を学ぶことができるだろう。

認識に関する知識(Epistemic Knowledge):

「認識に関する知識」とは、科学においてどのように知識が構築されるかを理解するために必要な知識です。科学においては、問いを立て、観察し、理論を構築し、仮説を立て、モデルを作成し、論理的な議論を行うことで、信頼できる知識を構築していきます。また、専門家同士の相互評価が重要であり、科学的な知識構築において不可欠な概念や特性を理解することも重要です。つまり、「認識に関する知識」は、科学的な知識を構築するために必要な考え方やプロセスを理解するための知識です。

塩瀬隆之, 後藤崇志, 加納圭 科学的リテラシーに必要な認識に関する知識をどのように評価するか P.61 参照

わかったようで、よくわからない。そこでいろいろ調べてみたがどうも具体例をあげて理解するところまでにならない。ラーニング・コンパス数学2023には、「数学者と統計学者がどのように数学的知識を学び、発展させるかということ」「表現し伝える、視覚化する、データのパターンを特定する」などと記載されていたが、知識を獲得するプロセスのことなのだろうか。もしそうだとしたら、その方法は以下に述べる「手続き的知識」のプロセスとどう異なるのか。また、これらは上で挙げた「学術的知識」の概念とどう異なるのか。

はてはて。どなたか算数数学において、認識に関する知識とはどのようなものなのか、よい例を教えてほしい。

手続き的知識(Procedural Knowledge)

計算のアルゴリズムや問題解決のプロセスといった、ものの使い方やノウハウなど、行為に関する知識を指す。「分かる」というよりは練習によって身体化された「できる」といった表現だろう。いわゆる日本でいう「技能」にあたるのか。

ただおもしろいのは、このラーニング・コンパス数学2023では、システム思考の一環として数学的に考えることが挙げられていた。こういう視点はとてもいいなと思う。すべては部分をこえた全体とのつながりの中にいかに考えられるか。

おぼろげながら少しずつ書かれていることが理解されはじめてきた。また細々と読んでいこうと思う。

「ラーニングコンパス数学2023」を読み始めた①

OECDのラーニングコンパス数学を読み始めた。日本語版はないが、ここ数年、驚くほどの翻訳機能が高まっているので、今までの苦労がビックリするほど負荷がさがって読めるようになってきた。DeepL様には大変おせわになっていて感謝してしきれないから、年間会員となってしまっている。

THE FUTURE OF EDUCATION AND SKILLS OECD Learning Compass for Mathematics

https://www.oecd.org/education/2030/OECD-Learning-Compass-for-Mathematics-2023-13-Oct.pdf

今、世界的に算数・数学は何を問題ととらえ、どこに向かおうとしているのか。気になっていたので、じっくりと読むことにした。40ページ程度のものなので、なんとかなりそう。今回はそのサマリーと読書メモをいくつか抜粋。

OECDの「ラーニング・コンパス2030」は、生徒の主体性を重視し、数学教育のカリキュラムを現実世界の問題解決に重点を置いて、再設計することを提案している。これは国際的な教育改革の一環として、未来志向の教育を目指すものである。

OECD Learning Compass for Mathematics(P.4~)

この現実世界とのつながる問題解決という視点は、これからの算数数学において、とくに大事にしていきたいところ。

OECDのE2030プロジェクトは教育の役割を再定義し、単なる職業準備以上のものとしている。学習を以下の要素のような多層的なシステムとして捉えている。

・コンピテンシー(知識、技能、態度、価値観-競合する概念ではなく、相互依存的に育成されるべきもの)

・コア・ファンデーション(デジタルリテラシーやデータリテラシーを構築するための、読み書きや計算能力を含む認知的基盤)

・変革的コンピテンシー(新たな価値の創造、緊張とジレンマの調整、責任の取り方)

・予測、行動、ふりかえりのサイクル(Anticipation-Action-Reflection (AAR) cycle)

特に数学教育では、21世紀の経済、政治、社会生活に不可欠な数学的思考と推論を強化することが重視されており、AIなどの進展における数学の役割も強調されている。

1. Education 2030: a shared vision(P.4~)

このあたりはラーニングコンパス2030に詳しいかな。

教育が単に社会で働くための準備教育ではないというところが首がもげるほど首肯した。そして、2019年あたりにラーニングコンパス2030のこの多層的なビジョンにシンパシーを感じていた。「責任ある市民」となるために必要な知識、技能、態度、価値観を身につける。人生の主人公となる「ねっこ」を育てていくのだ。

社会の急激な変化に伴い、将来の労働市場はオートメーション化と新技術により変貌し、労働者にはこれまでにない数学的能力が求められる。教育は、フォーマル(学校や訓練機関によって提供される)、ノンフォーマルコミュニティ・グループや組織によって提供される)、インフォーマル(友人、家族、職場の同僚との交流を通じて経験するな学習を通じてこれらのスキルを育成する必要がある。

デジタル化の進歩は日常生活にも影響を及ぼし、環境問題や人口動態の課題に対する数学的リテラシーの重要性が高まっている。これらの変化により、数学教育の再設計と生徒のスキル開発の必要性がいわれる。

2.Need for new solutions in a rapidly changing world(P.5~)

学習を学校にのみ閉じ込めておかない視点はその通りだと思う。実際に教師教育は学校の中にのみ存在しない。僕を育ててくれたのは、職場であり、職場以外であったから。

具体的にどんな数学が求められていて、一人ひとりの人生をどう豊かにしていくのか、気になるところ。先の3章「知識」は読み応えがありそうだ。

教育相談の本質は歩く速さにある

それはどういうことなのだろうか。

僕はよく自分の歩き方を他の人に真似される。今朝も同僚に「こうでしょ?」とやられた。また、僕のいないところで、子どもたちもその真似をしているようだ。

取り立ててそんな特徴があるわけではないと自分では思っている。ただ「ゆっくり」なだけだ。

昨日なんて妻が持っているスーパー袋を持ってあげようと声をかけようとしたが、追いつけなかった。そして振り向きざま一言「おいてくよ」。競技種目が違いすぎる。

なにも最初から僕はゆっくりではなかったはず。

以前、公立学校で勤務していたときの市内の全体研修会の中で、ゲストだった諸富義彦さんがこんな話をしてくださった。

「教育相談の本質はゆっくり歩くことです。教員がトローンとしているのがいいんですよ」

会場はどっと笑っていたが、僕は「なるほどな」とひそかに思った。

やはり相手の心にチューニングするためにはまず、自分自身の身体が開いていることが前提だ。その受ける姿勢をつくるためのゆっくりさ。そう解釈した。もしかしたら違うかもしれない。

スキの多さ、ムダの多さ、そういうものこそ、日々を豊かにしてくれる。それを体現するのが僕にとってはゆっくり歩くことだったのだ。

果たして、これが教育相談にどれだけ効果的に寄与しているかはわからない。けど、僕はそれが自分にとっての癒し、身体をゆるめること、つまりは教育相談になっていると思う。

そして、僕は今夜も妻の横においつけず、後ろ姿を眺めながら歩いている。

個人面談終わってのしぜん広場の夕暮れの木々

勝つことよりも、仲間と楽しく長くつづけるには

この週末にバスケ大会が2つあった。ひとつは1勝1敗の得失点差で優勝、もうひとつの練習試合は1敗。今回は、どちらもいいバスケはできていたと思う。

マンツーで最後までしっかり守り切った。これで負けたのなら仕方ない。ピックにはハードショーでしっかり守ること。一人ひとりがよいショットセレクションをして打ち切ること。基本的なことを約束事としている。しかし、やはりこの基本がやっぱり難しい。奥が深い。

チームは創設20年目になろうとしている。紆余曲折あって、勝利至上主義の勝つためバスケは目指さないことにしている。そのせいあって、毎週末には人数が集まるチームとなってきた。

世代は学生から高齢者まで、幅広いメンバーで活動している。現在、月会費メンバーは25名ほど。バスケは人がいないとはじまらない。毎週末に10人があつまり続けることはなかなか難しいことだ。よくぞつづけてこれた。職場で祝う永年勤続20年に併せて僕も祝ってほしいくらい。いや、そうじゃなかった。参加するみなさんのおかげで今のチームがある。

僕は40代シニアチームをメインとしている。シニアといっても、バスケを40代で始める人はまずいない。バスケを続けてきた人が40代になっても続けている人達と相手にしている。つまり、みんなデカいし、上手い人ばかり。全国大会とか出た人とやりあって、やり玉にあげやれたり、やっつけたりできる世代なのでさらに楽しい。

でももう個人技では歯がたたない。だからうちのシニアチームは、チームとしての課題も共有されている。問題は、あとはできるかできないか、老いとの戦いだ。

走れない。

疲れると思考することができなくなる。バスケは目の前のディフェンスだけでなく、その先の仲間、そのディフェンス、全体のフロアバランス、いろいろ考えながらプレーしなければならない。

疲れてくると、プレーが単純になってしまい、シュートが入れば勝てて、入らなければ負けてしまう、そんなチームになってしまう。

そのためにいいおじさん、おばさん毎週末、がっつりと練習している。ここ数年で僕もだいぶ上達してきた。そのためにも毎朝トレーニングを欠かしていない。

四捨五入すれば50歳のとしになろうとするのにもかかわらず、まだバスケやっているなんて、と我ながらあきれてしまうが、バスケの魅力に勝てない。

やはりチームスポーツは楽しい。そのあとの打ち上げはもっと楽しい。プレイタイムわずか20〜25分程度しかないのにもかかわらず、反省会と称した飲み会は6時間とつづく。一体なにを反省しているのか。毎回、同じ反省にいきつく。

走ろうぜ。

でも、だんだん動けなくなってくる選手がいると、厳しいアドバイスも飛び交う。そういうときは「勝ち」にこだわってしまっているときだ。その勝ちにこだわってしまうと、長くチームは続かない。人が離れていってしまう。難しい問題だ。

僕は、ずっとやってきた仲間とこの先も一緒にやっていきたいと思う。だから、一人ひとりのパフォーマンスをもとめつつ、チームのメインテナンスもできるといい。よくばりでありたい。

なにができるだろう。話をすること。きくこと。やっぱり、1対1のコミュニケーションからだ。

あ、バスケはやっぱりチームじゃなく1on1なのか!?

本日は面談8人がおわった。職員室にもどると校長からの「おつかれおやつ」がおいてある。こういう心意気がありがたい職場。