2023年 2月 の投稿一覧

学習サークルLAFTを再開 「グローバル・ティーチャー賞ナンシー・アトウェルのライティングワークショップ・リーディングワークショップ実践から学ぶ〜」

ずっと、何か、誰かの役に立ちたいと思っていました。昨年の夏に中野にあるポレポレ東中野で中村哲さんのドキュメンタリー劇場版「荒野に希望の灯をともす」を観てからというもの、ずっと世のため、人のため、自分ができること、何かできることを、アクションしていきたいと細々と思ってきました。

けれどもこれといって大それたことはできない。自分にとって「今、できる小さなこと」でいいからはじめてみようと考えました。

そうだ、学びの場をつくろう。もっと子どもたちが夢中になる授業づくりを考えてみよう。もっと先生という仕事のおもしろさを広げていこう。そして、先生たちと一緒に日本の教育を元気にしていこう。

そこで、これまでコロナ前まで細々と続けてきた学習サークルLAFT(Learning Association of Facilitative Teachers)を再開しようと決めました。

今回は半年をかけてじっくりとワークショップ授業を学びたい。そこでテーマを「ワークショップ授業を追求する〜グローバル・ティーチャー賞ナンシー・アトウェルのライティングワークショップ・リーディングワークショップ実践から学ぶ〜」と考えました。

今回のテーマ本は、ナンシー アトウェル著、小坂敦子・澤田英輔・吉田新一郎 編訳『イン・ザ・ミドル』(三省堂 2018)から学びます。

昨今、探究や個別最適といわれる中、学習コミュニティをベースに一人ひとりの興味関心を追求するのはワークショップ授業そのもの。しかし、ワークショップ授業を継続することやその質を高めることの難しさも知っています。それでも、僕は今後、このワークショップ授業で日本の教育を変えていく可能性も感じているし、広げていきたい。

今回のLAFTでは、本書の訳者、研究者でもある風越学園の澤田英輔さんをお呼びして、学ばせてもらう機会も進めています。僕はそれがとても楽しみで仕方がありません。

今回のLAFTは半年ぐらいをめどに、毎月第1土曜日午後に桐朋小学校にて12〜13名前後の少人数にて行います。希望があればオブザーバー参加枠もつくりたい。ゲストティーチャーを呼ぶとき以外は基本、無料としたいです。学びの場はみんなの声でつくっていく、民主的な場にしたい。だから、会を始めるまえにキックオフミーティングを開催して、どんな学びの場にしたいのか、参加者で話し合って決めていけるといいなと思っています。

改めてLAFTについて振り返ってみると、今回はじめるにあたってなんと、116回目になるようです。びっくり。ここに来るまで、100回記念の温泉慰安旅行もありました笑。ほんと楽しかったし。

学びの母体は、埼玉県で勤務していたときの「柏原分校」からはじまり、2012年1月12日よりLAFTという名前に変わりました。当時は、狭山市のメンバーや埼玉県や東京都の先生たちと学び会ってきました。

実践報告をし、よくしゃべり、よくしゃべってきました笑。3週ごとの水曜の夜、おにぎりを食べながら、アットホームでよかったな。辛いことや嫌なことがあれば、愚痴を聞いてもらえる場でもあり、LAFTのメンバーに支えてもらってきた感覚がいまでもあります。支えてもらっている感じがありました。いろんな人が口コミで職場の人をつれてきたりとわりと少人数ながらも継続してきました。

僕が桐朋小に勤務するようになってからは、埼玉は遠くなってしまいましたが(毎週末はバスケでいっているけど笑)、仙川に引っ越してきてからも学びの場を始めていました。5回にわたってジョン・ハッティの本から学び、実践化すること。僕はメンバーと一緒に取り組んだこの学びの場づくりがとても良かったと思います。芯となる本、その著作に関連する先生たちとも連絡を取り合えたことも良かったです。それは最後、コロナで断ち切れてしまいましたが。

コロナでずっと、会えずに画面越しの研修も続いてきました。もうそろそろいいかなとおもって、やっぱり同じ空気を吸いながら、身体を寄せ合って口角泡を飛ばしあいながら教育について語り合えるといい。

また、あの仲間たちと会いたい。けれども、時は更新され、みんなかわってしまっていっているし。だから、また新しい仲間たちと出会って、学びの場をつくっていこうと思いました。今週末にメンバーを公募しようと考えています。いろんな人がまじると面白いなと思っています。縁あって一緒に学び会える仲間を募る予定です。一緒に学び合いませんか。

男らしく? 女らしく? いいえ 自分らしく!

クラスの子が「イガせん、このHPみてみて」と紹介してくれました。

https://rebitlgbt.org/

のぞいてみると、LGBTQのこと。全ての子どもたちがありのままの自分で大人になれる社会を目指すNPO法人のものでした。

「この人たちをぜひ授業によんでほしいんだよね」と。最近、図書室で『みんなちがってみんなステキ』を読んだ様子。このことについてはクラスの中にも、課題意識をもって生活している子が増えているようです。

ちょうど2学期末に、多様性に関する保健の授業を実習生と共に授業を行いました。性は他人が決めることではなく、自分できめること。性を決めるのは、男女の二つではなく、人の数だけあること。「好きになる性」「心の性」「表現する性」「体の性」の4つがグラデーションでその人の数だけあります(それらの頭文字をとってSOGI)。決めるのは自分自身であって、大切にされなければなりません。

8時だよ!全員集合にも当時、ゲイを馬鹿にする笑いが普通にあったし、今、観るとそこに違和感をもてるようになってきました。アンケート用紙をみる度に「男・女」に分かれていることもそう。一番は、席替えを男女の数が整うようにしている自分に、何かいいようのない矛盾を感じています。3学期になってからは僕は「君」づけをしなくなり、できる限り「さん」づけとなりました。けど、まだつい「君」がでてしまうこともあるけれど。

多様性教育についてはわからないこともいっぱいあるし、もしかしたら気付かずに僕は誰かを差別しているかもしれない。一人ひとりのちがいがあって一緒に生きていること、みんなで生きることは同じはずなのに「みんな」がつくと、同調圧力になりやすい。みんなは誰かを指しているわけではないから。学校の中で「ふつう」と思うことが、いざ視野を広げてみれば「ふつう」じゃないこともたくさんある。

わからないことがたくさんあるけれど、相手を思いやり、一人ひとりを尊重する人権にたちかえってみれば、少しずつ前に進んで行けそうです。

ちなみに、日本のジェンダーギャップ指数(男女の違いで生じている格差や観念により生み出された不平等)は146か国中116位だそうです。むむ。

第3章にあたる実践者である星野さんの「第3限 包括的性教育について学ぼう」から、私たちの生活の中には意識していない差別あがることや、性の多様性がその人の生き方であることなど、たくさんのことを学ばせてもらいました。知的に理解するだけでなく、クラスの中で情的に理解する手立てが紹介されています。ぜひ手に取ってみてください。この授業実践は、子どもたちだけではなく、バイアスをつくっている私たち教員や保護者にとても大切なものです。

何かを身につけるために学んでいる?

数学者の時間では何を評価しているのか。今朝の数学者ミーティングでそうきかれて、テストの点でもないし、何かの能力を身につけることを目指している感じでもないし、ちょっと違和感があったので、考えてみることにしました。

数学者の時間を経験することは、問題解決サイクルの技術を身につけるため、数学的思考を身につけるため、なにか、○○力を身につけるためにやっているかというと、そうではなさそうです。これらのことは、数学者の時間をやってその結果ついてしまったオマケのようなもののような気がしてきました。

そもそも何かを身につけるために学ぶという前提、その考え方がちょっとちがっているのかもしれません。

3学期に入って、子どもたちとは毎週金曜日、数学者の時間でひたすら紙と鉛筆で良問を解いてつくる時間を過ごしてきました。そこでは、問題解決力、数学的思考力、そして、コミュ力など、何かを身につけるためにやっていないなぁと思います。もちろん問題解決サイクルは身につけてほしいことなのですが。そのためだけにやっている訳じゃなさそう。

では、何を目的とし、評価し、何を見取っているのか。僕は、子どもたちが本気になったり、夢中になっているかどうか。じゃないかなぁ。真面目にタスクをこなしているとか、与えられた課題を忠実に消化しているとか、そういう姿をあまり期待していないようです。もちろん、基本的にはそういうことは大切にして欲しいとは思っているけれど、教育の真ん中はそれじゃないと思う。

この間の金曜日のこと。ある問題を解いていて、本気でくやしがっている子どもたちがいました。それは、本気でまちがえたこと。真剣に考えたその答えがまちがっている。人はそういうときに「絶対、解いてやる!」「自分の何がおかしいのか!?」何、本気のスイッチが入るようです。

僕は、ニコニコしながら「頭の目隠しを外してご覧よ」というだけ。一気に知恵を集結し、夢中になって考え合う、力強いすがたが生まれました。こういう場面に出くわす度に、学びのありたい姿が見られた気がして、とても嬉しくなります。いつも、この通りに上手くはいかないけれど、教員経験と共に割り切れることが増え、こういう時間がうまれることが増えてきたなと思います。まぁ、いろんなものを手放しているっていることなのでしょうか。

数学者の時間で評価しているもの、みているもの。

それは、子どもたちが夢中になって算数・数学しているか楽しんでいるか、その姿がまずは一番大切にしているなと気がつきました。目標→活動→評価といった直線的な学びでは捉えきれない子どもの姿があります。それこそ、探究→活動→表現といった右往左往しながら考える子どもたちをまるっと理解しようとできるはずです。

ちなみに、子どもたちが本気でスタックした問題は、1000年ほど古来より解かれ続けてきた論理問題。それをもとに2018年に生まれた問題です。僕も最初、同じようにひっかかりました。考えるっておもしろいですね。紙と鉛筆だけで学びは駆動しています。

この問題、ひっかかりませんか?

参照本

東京学芸大学付属世田谷小学校の研究発表に行ってきました


「学びを自分でデザインする子」とテーマをうった東京学芸大学付属世田谷小学校の研究発表に行ってきました。4年生〜6年生を縦割りにして、それぞれの個別テーマ研究を行う「ラボラトリー」をみてきました。このセンスはとてもいいなぁと思います。5年前から学校規模で改革ができることが素晴らしい。

僕は算数に興味があるので算数Laboをみてくると、13人ほどの子どもたちがいました。後楽園ドームの座席において推しの見え方が一番いい座席を数値化している子、鶏の美しい絵を描いて黄金比を使って表す子、そして水平線の見える長さをひたすら計算している子など、それぞれがテーマを持って研究していました。しっとりとしていていい時間でした。

僕はこのバラバラ30人以上の算数テーマ探究学習を前任校でやったことがあります。

うずまきコンパスの発明 「数学者の時間」で学べること

http://igasen.blog22.fc2.com/blog-entry-602.html

学会発表会と銘打ってそれぞれの発表会もしました。それはそれで面白かったのですが、個人追求では、どこかクラス全体のダイナミックな協働性が生まれなかった。そのため、今回は個別テーマで追求するラボラトリーに興味がありました。

算数laboでは、あの一人一人のiPadがかなりの一人一人を支えていることに気づきました。先生が子どもに個別カンファランスしている間、当然、他の子はほったらかしとなります。僕はこの問題を探究では共通テーマ設定にすることで、ピアカンファランスが生まれるように、情報交換を促進するように補っているのですが、世田谷小の算数laboはそれぞれ個別すぎてそれができません。そのため、かなりの部分をネット情報に頼ることになっていましたが、まさにGIGA時代を写した実践。情報を駆使することで、ここまで行けるのかぁと、実感。このあたりについてはもう少し慎重に考えていきたいところです。

学校ってほんとに多忙。それにも関わらず熱量もって学校規模で研究発表していくマンパワーに刺激を大いにもらいました。帰りは世田谷「たこ坊」でペッパークイーンを食べながら帰ろうっと。

夢中になる

一面展開図に熱中する子たちが一気に増えました。

このときばかりは黙々とそれぞれの作業に没頭している。それぞれの場所で、小さな相談も生まれています。1年間の実りの時期だなぁとしみじみと思うのです。

「おばあちゃんに鉛筆立てをあげたい」と、あまりにも夢中になりすぎて、家ですでに完成させてきてしまう子も! 残りの時間で数学アートに向けて、どう改良していけるか相談中。

「初音ミク(?)にツインテールをつけたい!でもどうやったらいいのかわからない」としばらくスタックしていましたが、実際につくって、たしかめてと、予想をつかまえてさらにつくってみる(これぞ数学的思考)。いろいろと試行錯誤していと、ひらめていたようです。結果、展開図をまさかの二重巻きにすることで、頭のツインテールを「あとづけ」して付け加える工夫が生まれてきました。

これはまさに創造的な解決方法! これぞ数学アートか!? 展開図って一枚でしあげるものだと思っていた僕にとっては、あまりにも衝撃的な解法でした。みんなに共有してみると、よい作品や工夫を知ると、だんぜんやる気がちがってきます。

それを参考にしたのか、軽トラックをつくっていた子は、同じようにタイヤを付けられない問題にスタックしていましたが、二重巻き展開図で解決する子もでてきました。こういうところが、みんなで同じテーマで、多様なアイディアをいかしながら学び合えるよさだと思います。

子どもたちの姿を見ていると、あぁ、やっぱりクラスは分けではいけないし、マスターラーニング化された個人作業もいけないなぁと思うのです。ゆるやかに人とつながり、学び合うには、やはり共通テーマを追求していることなのです。

とはいうものの、立体となるとニガテという子もでてきます。不思議なことに、うまくつくれなくたって、自分なりのおもしろさを追求しているようです。数学アートは、「できた/できない」評価を越えて、本当につくりたい自分の作品にむきあうための自己評価が駆動しているようです。

考えをメモするために効果的な「考え聞かせ」という方法

数学アートで一面展開図のような「ものづくり」をしていると、つくることに楽しさが加速され、気付いたことをわざわざノートにメモとりづらく、どんどん作業を進めたくなってしまう。また、メモをとることで、ふりかえりの際に、新しい気づきを与えてくれるの、そういった経験が少ないからだと考えてしまいます。

ただの記録とはちがい、ノートに気づきをメモすることは、思考のスピードを落として、落ち着いて考え直す効果が高く、電子端末があれば写真をとって解決いうことはできないなと思う。やはり、鉛筆使ってメモすることが問題解決の役に立っていると確信。

だからこそ、そのメモをとるよさが子どもたちに伝わるように、実際に僕が自分の数学者ノートにどんなメモを書いてみる姿をみせました。いわゆる、「考え聞かせ」をやってみせました。実際に、問題解決に必要なメモ過程を生中継することは、何をどういうプロセスで書くのかが明確に伝わり、子どもたちからはわかりやすいと好評でした。

このあたりは、この本が大変参考になっています。

実際に子どもたちに話をしたこと

みんなは、ノートには、どんなことをメモしていますか。算数授業では、まずは「先生が黒板に書いた」ものをうつしたりしていますね。

数学者のノートには、そこに「自分の考えの筋道」が書かれているものです。

でも、ものづくりをしているときは、ついつい、早く次に進みたい。どんどんやりたいからメモはしないでOK!じゃん、なんてことも。

でもちょっとまって。

考えをノートにメモしないで、あわただしく進めてしまうことで、繰り返し同じ失敗をしてしまったことはありませんか。または、せっかく問題を解けたのにしたのに、どういう風にそこにたどり着いたのかが、よく思い出せずに、もう一回やろうとしてもできないことってありませんか。

考えをメモすることは、ゆっくり考えるきっかけをつくってくれます。どういう筋道で考えたのか、どういう風に失敗したのか、それまで瞬時に考えて進めてしまっていたことにブレーキをかけてスピードをコントロールしてくれます。

メモすることは、今まで気づけなかったヒラメキが生まれたり、予想がうまれてきます。こんなに便利な学習法法のメモしない手はありません!

でも、実際に何を書いたらいいのかな。ここでイガせんがやってみますので見て参考にしてください。

そういって、実際に書きながらメモをすすめる姿をみせてみました。

僕はわりかし、こうやって授業を整え、整え、子ども中心の活動が増えたとしても大きく崩さないように子どもたちに必要なスキルをミニ・レッスンで示していることが多い先生なんだと思います。こういうことの積み重ねなんだろうな。授業って。

これまでは、子どもたちのノートや作品、授業の感想をつかって問題をつくったり、授業を展開していたけれど、それはすべて事後的な結果の作品のみを見せていました。やはり、ライブでその実際にやっている生中継してみせることのエンパワーメントは計り知れないと思います。

でもまぁ、知っていると、できるとの間には大きな隔たりがあります。学習者のモニタリング能力が求められています。しばらくは定期的にふりかえり、練習していく必要がありそうです。

「考えるのが、めんどくさい」という子

じっくりと考える問題を解いたり、年度の初めに算数アンケートをとると、必ずといってもいいほどこういう回答をする子がクラスに数名います。

「考えるのが、めんどくさい」

もちろんそういった子たちでも授業にはちゃんと問題を解いてはいるし、中には算数が得意な子もいます。それでも心の底にはじわじわと「めんどくさい気持ち」が流れているのでしょう。

でも僕は、この「めんどくさい反応」を起こしている子とかかわるのがわりと好きです。だって、脳みそにとって、そもそも考えることはとてもめんどくさい作業だし、その身体信号に素直だから。

よくよく話を聴いてみると、塾や計算ドリルで徹底的反復練習によって鍛えられている子が多い。算数は「計算を早く、多く解く」ことだと誤解してしまっている。算数・数学の問題は、おまえはもうすでにわかっている問題を北斗百列拳のごとくあたたた解かされたり、はたまた、自分の力量にあっていない問題集を与えられた仕事をただただこなすよう努力する消費型タスク問題となってしまっていることがわかります。ひでぶ!

こういうトレーニングを続けていれば、算数・数学のもつパターンのおもしろさやその世界の広がりには気づけません。もちろん、最低限の計算能力は必要ですが、本当に夢中になってときたい問題と出会えれば、必要感が生まれてドリル問題であっても「ふつう」におつきあいできるようになってくるものです。ぎゅうぎゅう詰め込む必要はありません。ぎゅうぎゅうは焼き肉屋で十分です。既にわかっているのに、ただただ繰り返し出される問題の数々に、考えることをめんどくさいものと思わせてしまった教え手や問題の渡し手のほうに責任があります。

「考えることがめんどくさい」と言っている子たちの中には、問題をスラスラと解答できる子も多くいます。基礎的な知識の抜けが多く、解くことにまだ時間がかかっている子もいます。その子たちだって、算数・数学を好きになる可能性があります。

子どもたちに欠けている経験を補ってあげること。それは、「解きたいな」と思える魅力的で自分にあった問題と出会えること。しかもそれが選択できること。そして、「一緒に考えたい」と思える仲間に出会えること。それらを「数学者の時間」で支えているなと、やってみて改めて思うのです。

考えることが好きな子は、いつまでもこういうことを繰り返しています。

火起こしから再生エネルギーについて考える

三学期がはじまり一ヶ月。クラスのわんぱく坊主たちがようやく成し遂げたことがあります。それはそのへんにおちているものでやる火起こし。ようやく、煙をあげて(これ簡単)、火種を作り(これかなり難しい)、炎までつくる(これ経験ないと最難関)ことができる子がでてきました。

火起こしは本能に訴えるのか、子どもを夢中にさせますね。ほっておいてもずっと火起こし。ひまさえあれば、煙をだす鍛錬を積み重ねてきました。まぁその都度、朝、休み時間、放課後と、僕は付き合わされてきましたが、それがまたオモシロかったのです。正統的周辺参加で、いつの間にかつい口をだしたくなってしまい、一緒になって大人も本気モードになってしまう魅力がありました。

火がつけば、しぜん広場にいたみんなで大喜び。これぞ人類!という瞬間に立ち会えました。

子どもたちの技術も日進月歩で、舞いきり式から、行き着いた先は、ペアで火起こし。一人が棒を押し込み、もう一人がひもで棒をまわす(どちらも校内のひろいもの笑)。これによって縦と横の圧力を同時にかけて摩擦の強化ができます。まだ、子どもたちにはこの縦と横の同時にまわす操作がとても難しい。ましてや棒一本で火起こしするなんて困難さの極み(ちなみに僕はできます。エヘン)。

一番最初はこんな道具。これじゃむずかしい。

ペア火起こし、これはすごくいいアイディア。グループで協力していくと自然とこの形になってきました。子どもの日記を読んでも「火起こし仲間が増えた」とその輪の広がりを見せて楽しそう。

改良を重ねてここに行き着く

火を使えるようになったことで人類は暖をとることに加え、これまで生でしか食べられなかったものが火を入れることでその消費期限が延びるようになりました。燻製にすることもできました。その人類の発展プロセスを体感しない手はありませんね。ライターやマッチ、ましてやAmazonサイトの火起こしセットなんてなくたって、いつでもどこでも火をおこせる技術を手に入れました。これで、きっとどこでもサバイバルできることでしょう。

このことは、子どもたちと今、一緒にとりくんでいる再生エネルギーの学習の一貫なのです。だから堂々と楽しんでいます。そして、今、私たちが安易に使っている火力発電ベースの電気をなんとか再生可能エネルギーに代替するため、自家発電できないかを思案中。そして、原子力発電についてはもっと批判的に検討していけるといいです。

とまぁ、学校の中でこういうダイナミックな取り組みには、実は緻密な準備も必要で。この一月、ずっと小まめに着く気配のない火をまちのぞみ火気使用願を提出したり、保護者印をもらった火起こし検定証をしたり、あの手この手で安全には十分配慮してのリスクテイクなのでした。

算数の個別指導と数学者の時間の個別指導ってどうちがうの?

今朝の数学者の時間ミーティングでダイジから話題にあがった「算数の個別指導と数学者の時間の個別指導のちがい」がかなり面白いなと思いました。

同じ個別指導といっても明らかにちがう。はて、どこだろう。

どちらも1on1の同じ形成的評価にちがいありませんが、決定的にちがうところがあります。

一斉指導における算数授業における個別指導(最近では、一斉指導もかなり少なくなってきたのでは?)は教師にとっての確認の意味が大きい。個別指導は、そこまでの授業展開を理解しているのかを一人ひとりの進度や理解を確かめ、教えるためでもあります。

★筑波付属小の授業をみていると、それを全体の中で発表しあったりして、一人のつまずきを全体に返して、取りこぼさないように慎重に授業をすすめる高度な技術がみてとれます。

一方で、ワークショップにおける数学者の時間も同じく、個別指導(この場合は個別カンファランスと呼んでいます)も一人ひとりの進度や理解確かめる為でもあります。

けれども決定的に異なることは、前者の一斉指導における算数授業は「教師にとっての」教えたいねらいにそって個別に相談が展開される一方で、数学者の時間ワークショップでは「学習者にとっての」やりたいこと、考えてみたいことや解法を実現できるためのコーチングのようなものです。

★数学者の時間のカンファランスでは、「目標と現在地」「次に進みたいところのゴール設定」「そのためのスキル選択肢」のアドバイスが行われています)。

一昨日の数学者の時間で、良問を解いていたとこのこと。僕が自信まんまんに子どもがつくった問題を解いて「答えをみたい人は参考にどうぞ!!」とどや顔をしていました。僕の数学者ノートには「スッキリ!」とメモまでしてあるじゃありませんか。

けど「イガせん、それ18通りじゃなくて、20通りじゃない?」と指摘されました。すると、一気に4〜5人が集まって、「どこがまちがっている?」「足りないところがあるんじゃないの?」「一緒に考えてあげるよ」と大盛り上がり。このときが一番の学びの最高瞬間学習風力が巻き起こったときでした。

その後、「一つ一つ順番に確かめていくのはいいけど、どれを数えたのかモレや重なりがでてくるから、パターンの数を書き出せた方がいいね」とぼそっと言われました。

まさに! わかっていらっしゃる! この算数・数学で問題を消費するのではなく、まさに! 数学的構造を理解していらっしゃる!

それに比べ。。。

僕の本気の間違えに最初は本気で「はずいよ!」と思ってしまったけれど、子どもたちが懸命に解き方を一緒に考えてくれてサポートしてくれました。この場合は、子どもたちが教師である僕を個別カンファランスという個別指導をしてくれ構造となりました。なんだか、すごく問題に熱中して考える時間だったし、温かく、楽しい時間でした。

個別指導って、これまで「子どもにとって」と思っていたけれど、教師としての僕と同じように、学ぼうとする人たち全員「学習者にとって」、個別指導が必要なんですね。

同じ個別指導といっても、主体が変わることで、授業の様子はこんなにも変わってくるものなのですね。

つくって考えるはおもしろい

こういう「ものづくり」授業は本当にたのしいものです。活動中は、一緒に考えようと机を移動する子、必要とあれば立ち歩いて展開図の組み合わせを話し合うなど、自然と意見交換が行われます。多くの子は「自分で考えたい」とひとりで取り組もうとしている姿もまた魅力的。テキスト中心にカバーする授業では、こういったゆるやかな教室空間を引き出せすのは難しくあります。子どもたちは、明らかに夢中になってあそんでいるみたいでした。この原動力はなんだろう。

「できるかわからないけど、とても楽しかった」

「トイペの空洞に苦労している」

「雲のもくもくを創りたいけど難しいな」

「考えるのがむずい。家でも考えます」

「水曜だけなのは残念」(展開図「数学アート」は毎週水曜日に取り組んでいます)」

授業終わっても「持って帰って家でやりたい」と画用紙追加してくるので、まるめて持って帰らせてあげました。これもまたほんわかとしていいエピソード。

最初の計画でつくりたいものがきまってつくりだしたり、つくりながら考え始めようとする子もいたり、どんな展開図が展開されるか楽しみでなりません。あー、先生やっててよかった笑。