2021年 6月 の投稿一覧

本を自然と手にりたくなる文脈づくり

本校にも脈々と語り継がれてきた蚕実践があります。まずは図書室にて蚕について本探しから始めました。図書館司書の先生が本をいくつかみつくろってくれました。蚕初心者の僕としてはどれもとても良さそうな本ばかりです。

その中でも蚕の文化そのものを語り次がれるそのよさが際立っているのが大西暢夫さんの『お蚕さんから糸と綿と』(アリス館)でした。まゆをびろーんと広げて、綿ができるといいな。教室読み聞かせも使わせてもらいしました。

スケッチのモデルにはこの本が秀逸でした。アトリエ・モレリ作絵『かえるよ!カイコ』(リブリオ出版)。観察ってついiPadでパチリと撮って記録したくなるんだけれど、それだけじゃもったいない。じっくりみて嗅いでみたり触ってみたり、それをとことんスケッチするよさが伝わってきます。そういうよいモデルとなった本でした。

そして、国語の説明文としてもっとも読み応えと内容も充実していてすばらしい本がこれ。岸田功『科学のアルバム カイコまゆからまゆまで』(あかね書房)。なんと僕といっしょの1977年出版(僕は出版物じゃありませんが)!「学年で使って今後も使い続けるから〜」とお願いをしてクラス人数分を複本として購入してもらいました。ありがたし。

その後、国語の説明文として、カイコの成長と併せながら、少しずつ読み進めてきました。この次の展開や、どういう仕組みになっているのか、ワクワクしながら読み進めることができました。

まず図鑑から!と知識をついつい注入してしまいがちですが、日々の活動の中でカイコを育てていくその興味関心の延長に、それを支えてくれるものが書物だったりするものだなと思うのです。その逆をやってしまいがちなため、本を自然と手にりたくなる文脈づくりがカイコ実践にはありますね。

自分の責任で自由に遊ぶ

今朝、土曜授業のお手伝いで出勤したら、机の上にA4に引き伸ばされた写真に「おつかされまでした」と一言添えられて置いてありました。ほんとうにいい職場です。朝から笑いました。泥だらけの僕ですね。


昨日は、のびにのびた春の遠足。自分の責任で自由に遊ぶプレーパークに歩いて行ってきました。雨模様でしたが、どうせ遊びに行くプレーパークは真っ黒になるんだし、天気は曇り(学年で判断するときは2つ見たけど、他の3つの天気予報は雨でした)決行。こどもたちとのびのびと、徹底して遊んできました。


お手製滑り台には柵もないけれど、それなりに危険を冒しながら遊べる貴重な場所。成人の儀式のように屋根の上に立って、度胸試しの飛び降りの儀をしている子たちもいます。僕も実際に上には立ってはみたものの、急に肉離れが痛くなってやめました。それさえなければやれていたかもしれないかもしれない。


一人が泥にまみれると、伝染するかのように、一人また一人と泥人間になっていきます。泥には人のマインドを解放する力があります。ありがたいことに「イガせんのために温泉を作ってあげているよ」とその少年少女たちは、午前中の全てをかけて、全身全霊で泥沼温泉作りに熱中していました。これまで見たことのない役割分担の効率の良さで、シャベルや一輪車、たらいに大量の水が準備されます。こういう時に高いモチベーションとチームワークが発揮されることも学ばせてもらいました。


僕はというと、入るか入らないかの葛藤は少々で「ここで行かねば教師が廃る」と、手ぬぐい片手に飛び込みました。思っていたよりも深く、腰まで使って泥パック。いつもは優しい目をした子どもたちも、ここぞとばかりに、泥を肩から頭、そして顔面にパックしてくれました。ちなみにシャワーはなく、水道水で行水です。

このプレーパークは面白いところで、何をやっても自由。本校でもずいぶん前は使っていたようですが、ここ最近は使っておらず、コロナでどこも利用に躊躇している施設も多く、本当に気持ちよく貸してくれた場所でした。


本来なら、子どもたちとお湯を沸かしてカップラーメンを弁当がわりにする予定でしたが、コロナのため、残念ながら火おこしだけは禁止でしたが、あとはなんでもOK。井戸水は出るけど、飲めるのかと聞くと「美味しくないよ」問いう返事。「自分の責任で自由に遊ぶ」このモットーは最高です。そういうことも理解して、地域の人も小さい子を遊びに来させているようでした。その子たちも真っ黒でしたね。


実行委員の子どもたちはこの2週間本当によく準備していました。遠足の学年プレゼンテーションから、当日の司会進行、そして青年の主張も良かったです。「僕にはやりたいことがあーるー!」「なーにー(みんな)」「高いところから飛び降りたーい!」「頑張ってー!(みんな)」笑。ほっこりしました。


楽しい遠足でした。家でお風呂に入ったら耳の中から泥が止めどなく溢れ出てきました。びっくりしました。

チャレンジ・バイ・Noチョイス やるしかないとき

蚕が大きくなるにつれて、いろんなドラマも生まれてきますね。

一番は「虫を触れない子」が苦労しています。もちろん、人ですので、苦手なことがあっていいもの。その苦手とどう向き合っていくのか、いきなりレベルの高い挑戦が続きます。

ひとりひとつがタッパーに蚕を飼っていて、毎朝、しぜん広場から遊んだ後、理科園にしげっているクワの葉を数枚とって教室にもどります。朝の会が始まる前に、かいこっちの部屋掃除です。

興味関心が高く、虫が得意な子はすいすい片付けてしまいます。一方、固まっている子も数人。「助けてー」と気軽に言える子は世渡り上手ですね。こういうときにプライドがジャマして、身動きがとれないときもあるものです。教室に入ってくれている支援員さんも「ニガテもあるけれど、自分でちょっとだけやってごらんよ」と背中を押してくれています。まぁ、触らない子はそのままそれでいくのもありですが、掃除はしてほしい。

担任の僕は僕で、のこりの大量の蚕の世話をしてるので、その世話に大変忙しい。自分のことは自分でやるって昔の養蚕はこんなかんじだったのかもしれません。

こういうときに、気のいい子たちが「おれやってやるよ」「わたし蚕だーいすき♥」と近づいてきてくれると、こわばっていた顔がほころび、「ここは自分でやって」「はい」といわれるがままに掃除をしているようでした。

チャレンジ・バイ・ノーチョイスでやるしかないとき。人は窮地に立たされる。それを支えてくれるのは、仲間の気遣いだったりするんですね(これは大人も一緒。こういうときだからこそケアする心を大切にしていきたい)。そして虫を触れない子はこのまま毎回、固まっていくのでしょうか。今後の変化が楽しみでもあります。見守っていこうと思います。

学級集団がどういうコミュニイティでありたいのか。自分たちでつくりあげている最中です。

なんのために蚕を飼うのか? それが問題だ

子どもたちは、蚕は繭になって茹でられてしまうことをうすうす知っているようでした。蚕を飼い始める前に、「知っていること」を出し合いました(僕は学習始めには既有知識を一度棚卸しするのがとても好きです)。

子どもたちは、まゆから絹糸が取れることも知っていました。そして、後々、それぞれが飼っている蚕が繭になり、茹でられて死んでしまうことも。


そこで「じゃぁ、僕らはどうする? 蚕を飼うか?/飼わないのか?」を話し合いました(ちなみに飼わないのかと言われたら細々と僕が勝手に飼おうと思ってもいました)。


「死んじゃうかもしれないけどやってみたい」と多くの子たちは飼ってみたいと興味があります。子どもの残酷な一面も見えます。一方で、「かわいそうじゃん」と一見優しさを醸し出すけれど、本当は虫嫌いだったりして。その議論を聞いていて面白い。


ある子が「蚕にとっての幸せを考えてみようよ」と投げかけました。


僕の中にも、家畜として人が養蚕しやすいように人工的に作られてきた蚕、そして絹糸を取るために死んでしまう前提で生き物を飼うことってどうなんだろう?とずっと考えてきた問いの一つです。


蚕にとっての幸せは「長生きすること」「(人の)役にたつこと」、蚕にとっての不幸せは「みんなゆでられること」。ここからがおもしろく、「どっちにしろ死んでしまうから、、、」、「蚕の世話をやりきること」と「保護をする」の二つになっていきました。しかし、蚕を毎回育てていくと、1年もすると50億近い蚕が産まれてしまう計算でした。困った困った(だから養蚕には資格があったし、蚕をむやみやたらに放してはいけないきまりもあるようです)。

結論。


蚕の役割を果たすため、まゆになるまでせわをやりきる。


蚕は蚕のミッションがあり、その通りに生きていくのが幸せだろう、僕らは飼うし、殺して糸も取る。だから最後までちゃんと世話をすることが僕らに課せられたミッションであると。蚕のミッション!? 言葉のチョイスがオモシロイ。
この、「みんなで飼う」ところに、意味が今後出てくると思っています。それぞれの興味に応じてではなく、好きも嫌いも含めて、一緒に同じことをやる。その制限の中にドラマや学びも生まれるはずです。


「よし、ではそれぞれの蚕の命が全うできるように卵を今からわけわけしましょう!」と言った矢先、もうすでに卵が孵化しちゃってるじゃん!という前回の話に続くのです。


なんのために生き物を飼うのか。結構大事な問い。蚕がまゆになった時にもう一度、話し合ってみたいと思っています。

コロナで自分へ勝手に規制をかけてたかも

今日で2週にわたって取り組んできた学年の地域探検がおわりました。白地図とコンパスもって各々のグループが事前に計画したルートにそって、迷いながらも自由に探検してくる。もちろん保護者にも快く協力してもらい、安全をみてもらいました。僕は自転車ぐるぐる回って、出会ったグループにスタンプ。

帰ってくると、「迷子でたいへんだったー!」嬉しそうに抱きついてくる子。森でカブトムシげっとした子。お寺のお堂で南無南無してきた子。それぞれの冒険があったようでなによりでした。

最初、緊急事態宣言が出され地域探検も延期する案もありましたが、もう以前のように大人の都合で、子どもたちに悲しい思いをさせたくない。

春の遠足だって緊急事態宣言の中、延期しました。だれに迷惑かけるわけでもなく、春の川ぞいを歩いて、公園で真っ黒になって遊ぶ。最後の最後まで、行くつもりでいましたが、断念。今はその判断は間違ってはいなかったと思うけれど、社会の目を過剰に気にしすぎていたかもしれない。子どもたちができることを、大人が勝手にせばめてしまっていることに、そういう自分がいることにも悲しくなる。

遠足延期については学年集会を開いて、子どもたちからの率直な意見も聞かせてもらった。延期して良かった意見、やっぱり行きたい意見、様々でてきたけれど、こういう子どもの声をききながら、もっと学校をつくっていかなければいけないと思う。コロナの今だからこそ。

今日の探検は隣のクラス。雨にふられてしまった学年の先生をねぎらい、駅前のおいしいクリームパンとコーヒーでふりかえり。こういう時間に、案外、これから大切にしたいことが決まっていく。こういうこともコロナ禍で失ってきたことのひとつだなあと思う。

こうやって、不安をかかえながら、さぐりさぐり行事をつくっていく。今後も続くと思うけれども、あきらめないで行こうと思う。

あしたは実行委員の子どもたちが延期されていた遠足のプレゼンテーションをする日。練習は自分たちですすめていました。楽しみです。

蚕を育てています

今年は蚕の研究をしています。卵からていねいに育てている自称クワ男です。

たまごっち→かいこっち→まゆっち→シルクっちになる予定です。週明けに卵を観察しようと思っていたら、雨が降った次の日、いっきに暑くなり、蚕の卵が、いっきに孵化しまくっていました!

うぎゃー!

生命尊重、最高です。

算数の時間は急遽中止となり、子どもたちと算数補助員さんも支援員さんもみんなで、孵化したての蚕をぎゃーぎゃー言いながら、仕分け作業。それぞれの「かいこっちケース」に4~5匹しまいました。

うー、目がしばしばした。

虫好きな子はアゲアゲでしたが、芋虫ぎらいな子は固まっていました。さて、どうなることやら。

ちなみに蚕の卵は500つぶで2000円でお買い得。

幼稚園の雑誌座談会に参加してきました

本校の幼稚園へ呼ばれ、ある子ども雑誌の座談会に参加してきました。エリクソン研究の久保健太さんと幼稚園の先生方、そして小学校代表?(たぶん一番幼稚園へジャマしに行っているから)の僕とが、子どもの動画を元に、語り合う場でした。3歳児の男の子が木の実を集めるエピソード、これがまたとってもほっこりして最高に癒やされます。

詳しくは対談集にゆずりますが、幼児期における何かに夢中になることや遊びのその価値について、考え合いました。子どもの姿で話しが始まったのですが、いつの間にか、我がクラスのドロダンゴ団の遊びから我が生い立ちまで話が逸れるにそれ、それはそれはカオスでしたがきっとすばらしく編集でなんとかしてくれることでしょう(笑)。

最後のオマケのトークで、「日本/アジアでは本当の意味でチャレンジが難しい国だ」という話がおもしろく、南北イタリアの信頼観のちがいについて教えてもらいました。

北イタリアはレッジョ・エミリアにみるように「一般的信頼」と呼ばれる成熟した市民社会や民主主義が台頭しています。一方、南イタリアにおいては、僕が大好きなドン・コルレオーネ率いるゴッドファーザーの世界であり、そこには多様性などといったものはなく、ボスが黒といえば黒となる「特殊的信頼」の世界だそうです。

ちなみに、僕はコロナ前のここ数年、南イタリアへ遊びに行き「レモンチェッロが最高〜!」としか覚えておらず、その特殊的で信頼な風を全く感じることなくとても残念であります。

この、チャレンジすることへの多様さを認めてもらえないこと、なにか声をあげたり、変えようとすること、新しくたくらもうとすることへ、ことごとく風当たりが強く、我が身にも覚えがあるところです。その意味で言うと、本校は、アジア枠ではあらじ、チャレンジと自由の台頭する民主的な学校と自負しています。

民主的でありたいと願う「一般的信頼」は即決できない多様な意見を引き取るだけに、時間もかかるしそれぞれの成熟度が求められます。汐見稔幸さんはそれを「(白黒つかず)決着をつけないしんどさ」と言っていたそうです。いつか汐見さんとも直接、お話が聞けるといいなぁ。

普段とまったく違うフィールドの人たちと、話をするとおもしろいなぁ、というなんとも落ちのない投稿でした。