なんのために蚕を飼うのか? それが問題だ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

子どもたちは、蚕は繭になって茹でられてしまうことをうすうす知っているようでした。蚕を飼い始める前に、「知っていること」を出し合いました(僕は学習始めには既有知識を一度棚卸しするのがとても好きです)。

子どもたちは、まゆから絹糸が取れることも知っていました。そして、後々、それぞれが飼っている蚕が繭になり、茹でられて死んでしまうことも。


そこで「じゃぁ、僕らはどうする? 蚕を飼うか?/飼わないのか?」を話し合いました(ちなみに飼わないのかと言われたら細々と僕が勝手に飼おうと思ってもいました)。


「死んじゃうかもしれないけどやってみたい」と多くの子たちは飼ってみたいと興味があります。子どもの残酷な一面も見えます。一方で、「かわいそうじゃん」と一見優しさを醸し出すけれど、本当は虫嫌いだったりして。その議論を聞いていて面白い。


ある子が「蚕にとっての幸せを考えてみようよ」と投げかけました。


僕の中にも、家畜として人が養蚕しやすいように人工的に作られてきた蚕、そして絹糸を取るために死んでしまう前提で生き物を飼うことってどうなんだろう?とずっと考えてきた問いの一つです。


蚕にとっての幸せは「長生きすること」「(人の)役にたつこと」、蚕にとっての不幸せは「みんなゆでられること」。ここからがおもしろく、「どっちにしろ死んでしまうから、、、」、「蚕の世話をやりきること」と「保護をする」の二つになっていきました。しかし、蚕を毎回育てていくと、1年もすると50億近い蚕が産まれてしまう計算でした。困った困った(だから養蚕には資格があったし、蚕をむやみやたらに放してはいけないきまりもあるようです)。

結論。


蚕の役割を果たすため、まゆになるまでせわをやりきる。


蚕は蚕のミッションがあり、その通りに生きていくのが幸せだろう、僕らは飼うし、殺して糸も取る。だから最後までちゃんと世話をすることが僕らに課せられたミッションであると。蚕のミッション!? 言葉のチョイスがオモシロイ。
この、「みんなで飼う」ところに、意味が今後出てくると思っています。それぞれの興味に応じてではなく、好きも嫌いも含めて、一緒に同じことをやる。その制限の中にドラマや学びも生まれるはずです。


「よし、ではそれぞれの蚕の命が全うできるように卵を今からわけわけしましょう!」と言った矢先、もうすでに卵が孵化しちゃってるじゃん!という前回の話に続くのです。


なんのために生き物を飼うのか。結構大事な問い。蚕がまゆになった時にもう一度、話し合ってみたいと思っています。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

最近のコメント

    コメントを残す

    *