学級づくり

映画「オッペンハイマー」は中動態に翻弄された悲しい男の物語だった

クリストファー・ノーランは好きな監督の一人だ。「TENET」「インターステラー」はおすすめ映画にははずせない。ずいぶんと昔、「メメント」を観たが、まったく意味がわからないでつい繰り返しみてしまった。白黒映像を差し込みながら時間軸をうまく操作し、視聴者を引き込む手法は秀逸。今回の「オッペンハイマー」もやっぱり白黒映像が所々に入り込み、観ている観客をやっぱり混乱させてくれる笑。終わってみると「あぁ、なるほとね」「そういうことなのね」と納得感はあるが、やはりみている最中は混乱してしまう。この映画は映画観で3時間、一気見しないと絶対、寝ちゃうやつだ。「十二人の怒れる男」のように、ずっと議論が続くから、考え整理しながらついていくのがやっと。集中力がためされる。登場人物も多く、みんなどこか科学者はにているからなお分かりにくい。

この数年、子どもたちと平和教育についてずっと学んできたからこそ、原爆の父である映画「オッペンハイマー」を好意的に観られるのか懸念があったが、その気負いとは別に、この映画は上等なエンターテイメントだった。ドイツ・ナチスに先越されまいと量子物理学の理論を用いた原子力爆弾の作成には、野心家としてのオッペンハイマーが描き出されていた。本来なら、世界の戦争を終わらせられると信じていたこの原爆も、実際に広島、長崎に落とされることで、その威力のすさまじさとその後の後悔へ進む心理的描写もうなずけた。ただし、広島・長崎の被害については具体的には触れられていない。あくまでもオッペンハイマーの心的情景を中心に進められるので(このあたりは「メメント」と同じ手法)、その人になって映画をみる構造となっていた。一人の男の変化を追っていくそういう物語であって、原爆から平和を考える映画ではなく、あくまでもエンターテイメントだった。

物理学者って個々人の倫理観ってどうなっているんだろう。

これがこの映画の鑑賞後にざらりとのこっていて捉えて放さない。科学者の野心に、世界状況もあっての原爆開発。それでも、この兵器がどう使われるのか少し夢想すればわかることだろうに。知識の不調なのか。自分がやらなければ他の人が代わりに選ばれるだけのこと。それでいいじゃないか。あえてオッペンハイマー自身が地獄の鬼となることを選んでいく。これって「能動的」でも「受動的」でもなく、その場がそうなっていく「中動態」が悪にはたらく場面じゃないだろうか。そうなったとき、科学者集団としての倫理観は対抗できなかったのだろうか。本当に平和を、戦争を終わらせようと思うなら、こういう技術に与しないことを選ぶといい。アインシュタインがそうしたように。ぐるぐる考えてみると、なんと悲しくも力ある男の物語だったと心にのこる映画だった。

マット・デイモンのちょび髭軍曹はうけた。新しい境地を生み出しているのがともていい。

心と身体で感じる野生の主体性を発揮してる?

LAFT中動態のキックオフ。急な呼びかけにもかかわらず、小中、公立私立の校種をこえて、「疲れているけど」12名ほどの参加者が集まった。多くはLAFT留年組(シーズン終わっても継続メンバー)と、ここにまた「中動態」に興味を持つ新しいメンバーが加わり、今期もまた、新しいまぜこぜの場が生まれている。「いつメン」だけに固定されず、テーマによって少しずつ変わるメンバー構成はなんだか心地よく、ゆるやかな集団でいいなと思う。そして12名程度だと、サークル対話でじっくりとお互いの興味関心やその違いやズレを交換しながら進められるギリギリの人数だとも感じた。

それぞれが話したいことを話す自己紹介を終えて、「今、思う中動態」ってどんなものかを思うままに話し合った。いきなり中動態核心へ向かう前に、こういうゆったりとした対話のエンジンをあっためる時間は大事にしたい。

僕のハイライトを残しておきたい。

学校という場は、子どもたちに常に主体性を期待している。子どもが主体性を発揮する前の状態や、受動・受け身でいられることをあまり歓迎されていないのではないかという投げかけがあった。だからこそ今回のテーマである「中動態」メガネをかけることは、子どもたちをよりそのままでいられるように、捉え直すことができるのではないか、という期待感もふくらんでいった。

その主体性にも野生の「主体性A」と知性の「主体性B」があって(この辺りは久保健太『写真と動画でわかる!「主体性」から理解する子どもの発達』に詳しい)、本当に心から感じることを、行動しようとしてできているのか。

ちなみに

主体性A:様々な感覚がその人の中に湧き出てくること。快も不快も、心が動く主体性のことを指す。

主体性B:主体性Aの感覚を整理しながらする/しないを決めることで、頭が動く知性の主体性のことをさす。OECDのいう行為主体性エージェンシーに近いかな。

中動態を学ぶことで、期待している学びの場において「いいこと思いついちゃった」と子どもが自由な主体性を発揮し、その場にいるメンバーを巻き込みながら、創造的なアイディアが生まれていく。でも、それ以前に本当に心から、子どもが心から、身体からやりたいことを発していられる野生の主体性Bが発揮されているのか、LAFTメンバーはそれぞれの教育環境への自問が始まった。

僕はこういうアイディアが創発的に到来してくる場は、しっかりとした授業設計が必要だと思う。どういう学習環境や子どもたちの関係性があるとより中動態する場となるのか見極めていきたい。同時に「あそび心」が許されないと、こういったクリエイティブな学び合いは生まれてこないこともわかってきた。無駄や寄り道、サボったり休憩することこそが、授業の中にすでに含み込まれて設計されているのかどうか、この辺りはもっとじっくりと考えていきたい。

じっくり4時間、対話が終わってみると不思議で、なんだかすでに『中動態の世界』や『子どもの遊びを考える: 「いいこと思いついた!」から見えてくること』を読み終えてしまったかのような清々しい錯覚に陥ってしまう。まだ読んではいないけど笑。

次回のLAFTは6月14日を予定しているので、中動態で見る授業に興味がある方は一緒に学べるといいですね。このゴールデンウィークはじっくりと課題図書となった『中動態の世界』を読み直していこうと思います。ためしに『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』を読み始めたら、おもしろすぎてとまらない。

子どもの自分らしいエピソードで、卒業式「別れの言葉」の台本ができあがるまで

子どもたちと卒業式にむけて、別れの言葉をつくっている。

子どもの声を大切にしている学校だけに、卒業式での呼びかけも、そのまま子どもの言葉をつかう文化がある。

僕がこれまで経験してきた、格調高い「別れの言葉」になりにくい。けれども、ほっこりする子どものエピソードや、その子ならではのぐっとくる等身大のエピソードが語れて、それがとてもいいと思う。

伝えたいことを文章にして、自分の言葉で話す。その舞台が卒業式であるっていい事だと思う。

もちろん、子どもたちが書いた最初の原稿は全員がほぼ、修学旅行と合宿のことだらけだったりもした笑。何度かブラッシュアップしていくと、少しずつその子らしい文章ができあがってくる。ここはもう個別にカンファランスの繰り返し。

そして、書いた文章は、書き言葉だったりもする。伝えるための文章へと多少の修正、校正はてこ入れするけど、どれもそのままの自分が感じたことや考えたこと、心に残っている言葉ばかりだ。

子どものそのままの声。

そして、どの子の文章をどのタイミングにいれるのか、歌の選曲や順番も実行委員の子どもたちが話し合って決める。遅々として進まなかったけれど、このプロセスは僕にとっても、「誰の」卒業式なのかをじんわりと理解するためにはとても貴重な体験だった。

明日はいよいよ台本のしあげ。追い込みしんどいけど、卒業のテーマである「自分らしく」その子らしく、別れの言葉を作れるように支えていけるといいなぁ。

学校って、授業だけでなりたっているわけじゃないんだなぁ

卒業時期が近づいてきた。来週末にはもう卒業式。

今日は、6年生を送る会があった。この6送会はおもしろくて、4時間目に全校であつまって、それぞれの学年の6年生に向けての出し物がある。お昼をはさんで、午後はたっぷり2時間、各委員会が考えた出店がたっぷりと遊ぶのがとてもいい。

2年生の出し物をみんなでみているときのこと。全校の前にでてきた数人の二年生が、「6年生、ありがとう。お別れがさみしいです。。。。」と言葉につまって、その場で泣いてしまった女の子がいた。それを見ていた、6年生ももらい泣きしてしまう。

2年生と6年生はパートナー制度があって、入学式の時から、一緒に登校してあげたり、これまで2年間ずっと面倒をみてきてあげたから、なおさらこみ上げてくるものがあった。

だから、みんな自分のパートナーをとても大切にするし、2年生もパートナーのことが大スキみたいだ。

こういうことは、通常の授業の中だけでは起こらないことがたくさんある。パートナーがやんちゃな子だった場合は、いろいろ振り回されたり本当に大変だ。けれども、けなげにちゃんとつきあってあげようとするお兄さん、お姉さんはだれもたくましくほほえましい。

あまりにも忙しすぎて、それぞれの行事が慌ただしく過ぎていくこともあるけれど、その中で、ちゃんと気持ちに区切りを付けながら、別れを惜しもうとする姿もうまれてきて、なんだがとてもいい時間だった。

こういう子どもたちの姿をみていると、学校って授業だけで成り立っているわけじゃないんだよなぁと、つくづく感じる。

数学者の時間は「ぶっとんだ授業」

弘前大学教育学部付属小の先生方が「数学者の時間」を2コマ、見学にこられた。自立した学習者をテーマに研究しているそうで、数学者の時間で取り組むワークショップ授業がそれに近いとのことだった。

僕の中にある3学期のテーマは「もの」を使って思考すること。でも、ものを使うと操作がある分、なかなかノートに記述されない問題をどう解決していくか。そこで、今回は、KAPLA積み木を使った授業とマッチ棒を使った問題を選択して、子どもたちと考えあってみた。

子どもたちは、KAPLAについてはすでに2時間かけて、橋を作ったり、橋の上にチョロQを通したり、すでに取り組んできた問題。だから、一般化を求めて「KAPLAを使った問題づくり」を持ち込んでみた。

一方、僕のクラスはKAPLAから離れて、半具体物のマッチ棒を使った「マッチ棒パズル」を扱ってみた。こちらの方が、思考の足跡をメモしやすいと予想していた。毎回同じだけど、朝の朝まで、子どもたちに提示する良問を決められないで悩んでいる。たぶんこれはこの先も続いていくんだろうなぁ。

どちらの授業も、それぞれグループ(KAPLAの数に限りがあるため)で、そして個別(マッチ棒はたくさんあるので、こちらの授業はいつもの雰囲気に近かった)に活動しながら、考えていた。僕は、その途中途中の子どもたちのアイディアが面白すぎて、一緒に考えはするものの、思考をどこかに連れて行こうとするよりも、一緒に楽しんでいた。今回はそういうカンファランスだったと思う。

授業後、先生方との振り返りは2時間かかって話し合った。一番印象的だったのは「ぶっとんだ授業」だと言われたこと。これはこれまでの算数・数学文脈とは、異なった授業だったと好意的に僕は受け取っている(あってるかな?)。 参観されてた先生方は、授業をどうみていいのかはじめよく分からなかった様子で、意図を丁寧に説明し、はじめて理解された様子だった。

たしかに、何かを積み上げる授業ではないため、子どもたちは遊んでいるように見えてしまうことがある。成果がでそうででないその「どうにもならない」時間をどう解釈するのか。僕は知識が生み出されるにはこういう試行錯誤が必須だと思うし、そういう時間を大事にしたい。

何か知識を授けるのなら、的確なアドバイスや指導があるだろうけれども、この時間は子どもと僕も一緒に考えてしまう、そんな授業構造だからどうしてもこのムダに思えそうな「どうにもならない」いろいろ試している時間が必要。それが遊んでいるように見えるからこそ、授業として捉えにくいのかもしれない。でも、遊ぶように学ぶってこういうことなんじゃないかなぁ。こういうことを好意的な雰囲気で授業検討できたことはまたありがたかった。落ち着いたら、改めてフィードバックをいただけるとのことだったので、そのときじっくりと振り返っていきたい。

いかにもこの一ヶ月は忙しすぎた。何かを書き続けるリソースが自分の中でさけないままでいたから、また細々とつづけていけたらいいなぁ。

「数学者の時間」でKAPLAを使ってみた

ここ数回の数学者の時間は「もの」を使って考えることと、子どもがつくるルールや「問題づくり」にこだわってきた。

昨年末のLAFTで、井本陽久さんの話に、木製ブロックのKAPLAを使った数学実践があった。これはおもしろそうだったので早速取り寄せてみて、子どもたちと何ができるか、遊び始めた。

しかし、ただの同じ形のブロック(1:3:15の木製ブロック)でしかないため、どういう数学的な場面設定をつくるか、よく分からない。しかたないので、自分なりにいろいろ試しながら問題の場づくりを考えてみた。

まず思いついたのは「高さ」。できるだけ高く積むにはどういう数学的なパターンが必要なのか。これはおもしろそうだったが、「より少ないブロックで」といった条件を付けたときに、積み上がったタワーからブロックを抜くなどの修正がしずらい点もあり、問題としてあまりふさわしくない。

やはり橋のように渡してみるのはおもしろそうだ。自分でもやってみたが、橋をわたす幅とその最小ブロック数にはどうもパターンもかくれていそうでおもしろい。さまざまな幅で最小を競ってみてもいい。問題の提示の仕方によれば、橋をつくるだけから、隠れたパターンを探すことができそう。さっそく授業化してみた。

今回はKAPLAを使って、その2回目。前回ではより少ないブロック数で深い渓谷に橋を渡したが、今回はその橋の上を車を通す場面設定とした。その車は、平面しか走らない。これがなかなかよくて、子どもたちは熱中していたし、よく考えて話し合っていた。

橋が完成するたび、僕は呼ばれて一緒にチョロQが橋を走りきれるか息をのんで見守った。けれども数秒後、子どもたちの悲鳴とともに橋が崩れ落ちる。最高だ。考えることはこういうことの連続なのかもしれない。

ちなみにチョロQはすでに生産中止となっていることをはじめて知ることとなった。代わりにダイソーシリーズで手に入れられたが、なんだか大事な子ども時代を一つ失ってしまった気がして、ものさみしいなぁ。

次回は、子どもたちにもっと楽しくなるためのKAPLAをつかった場面設定を「問題づくり」として考えてもらおうと思う。これはこれでとてもおもしろそうだ。

このKAPLAを使う数学。やってみると決定的残念事例が起こる。活動に夢中になりすぎて、数学者ノートへの記述がいっさいなくなってしまう。

しかし、それでもよく考えていることは事実。証拠はないが、よく考えている。

これをどう捉えていくのかは、今後また検討していきたい。ふりかえりの感想にもう少し、そのプロセスを振り返って記述してもらってもよかったかも。

でもこうやって授業を考えているときは、本当におもしろいなぁ。

雪の中で火起こししてからの焼きマシュマロうまし

予想通り、今朝は2時間遅れのスタート。その日の出授業を組み直したら、予定をみた校長さんが「いいの? 雪遊びをしないで。僕の授業はいつでもできるからさ」と、わざわざ雪遊びを誘ってきた。

校長さんは、クラスの子どもたちに、時間割りが変更になったことを6時間目にクラスに来て話してくれた。「この間、みんなが火起こししている様子をみてたら、本当に楽しそうでいいなと思ったんだ。だから、よりよい方を提案してみたんだ。みんなもいいなと思うことはどんどん提案しよう」と。

そういう学校です。

ということで、雪遊びもそこそこ、火起こし道具(七頭舞の棒、板きれ、去年どこからか見つけてきたロープ、麻紐、バケツ)もって、しぜん広場にやってきた。

こういう雪の中でわざわざ火起こしして、マシュマロを食べようとたくらむこと。とてもいい。これまでの火起こしで一番ハードモードだ。熱も入る。

実は火起こしってものすごく繊細な配慮が必要。すりあわせる板と棒の素材もそうだけど、ほんの小さな失敗で火がおこらないことがほとんどだ。子どもたちがやりがちな失敗は、つい土にその棒先をおとしてしまい温度を下げてしまうとか、種火を集められないとか、ものすごく繊細な「気づき」の積み重ねで成り立つのが火起こしだ。

決して力業では、ただ煙だけおきて、つまらない代物。マシュマロ焼きだって、ここ一ヶ月挑戦しているが、なかなかマシュマロを焼けるところでは来ていない。

別にライターがあればことすむことだけど、自分で火をおこせるスキルをもっていると、なんだか人類の英知を受け継いだ気がしてしまう。そこに子どもたちも魅了されるのかもしれない。そして、身につけてみて初めて知る、自分の身体への圧倒的な信頼感。これに勝るものなし。こうして、やんちゃキッズは魅了されていく。

二度ほど失敗はあったが、炎を作ることができた。僕も今回は焼きマシュマロたべたいからけっこう、口を出していた。けど、みんなで起こした火からうれしくて、うれしくて、小6男子が大きな体を揺さぶって喜んでいる姿はいい。

火があがると不思議で、これまで焚き火に興味を示さなかった雪遊びをしていた子達が「なんか食べられそう」と集まってきた。その子達にも焼きマシュマロをわけて、おいしいほっこりとした時間となった。

学校ってどういうところなんだろう。

もっと自然と一緒に生活したり、味わったりできるといい。学校は、勉強だけでない経験もできるところなはず。カリキュラムはあっていいけど、カリキュラム通りと、しばられちゃいけないなぁ。まぁ本当は、予定通り授業をすすめたいけど、「今」しかないことがあるし、そこに意味があるはず。

次はホットココア(マシュマロ入り)を飲もうとなった。ココアは温める時間がかかるので、マシュマロに比べてかなり上級だが、雪の中でも火がおこせれば、もはや敵はいない。

煙にいぶされ1日くさかったなー。

入試が終わり、雪が降る

東京に雪が降った。去年よりも積もった。放課後は子どもたちと校庭ですごした。

いつも注意されている子はもちろんのこと、普段、あのやさしい子までが目の色を変えて、僕に雪玉のねらいすましていた。なんだろう。雪は人を狂わしてしまうのか。

午前中、授業の合間に放送で「先生方は職員室へ、集まってください」と連絡が入った。教室から「いえーい!」「もしかして休校!?」「やっほーい!」と早とちりした叫び声が、職員室で仕事をしていた僕にもれ聞こえたきた。子どもってそういうもんだとおもうし、僕もこっそり休校を支持している。

通常通りの登校だったら、雪遊びもそうだけど、雪の中で火起こしをやってみようかな。今朝のしぜん広場では、あまりにも寒くて火がおこせなかったそのリベンジ。マシュマロ焼きがいつまでたってもおあずけだ。

中学入試もここのところでようやく終わった。インフルエンザが流行しはじめ、一時はどうなることかとヒヤヒヤしたけど、なんとか食い止まり、ほっと一安心。これでようやく卒業に向けて、落ち着いてもろもろに取り組める時期がやってきた。

入試問題はなかなか難しいものが多い。「なにこのイジワル問題!?」みたいなのもあるけれど、中には考えるにふさわしい、おもしろい問題もいくつか見つけることもできる。

子どもたちには、せめてそういう問題を見つけて、楽しんで解いてきてほしいと伝えてきたし、この2年間は、子どもたちとはそういう考えたいと思うことを大事にしてきた。

今回、受験についてはいろいろ思うことがあった。しばらくしたら、ちゃんとふりかえりたい。

さぁ、どんな1日になるかな。いってきます。

早く行きたいなら一人で行こう。遠くへ行きたいならいっしょに行こう。

学びは継続にこそ、意味があると思う。最近、忙しくなるとなおさらその学びの時間をどう工面するかが悩ましい。

コロナの時はもっと難しかった。そこで、なにか自分にもできること、世のため人のため出来ることはないかと思い、学びの場LAFTを再開した。

僕は先生は本を読む人でありたいと思っている。けれども、教育書ってそもそも、読みにくいしわかりにくいし、翻訳書は意味が入ってこない。

だから、本について仲間と少しずつ話し合いながら、実践に移そうと挑戦してみる場が必要だ。さらにはその著者から直接話をきければ、最高じゃん。

そう思って再開したLAFTもそろそろ一年が経とうとしている。ここでしか出会えない人たちと知り合って、本当に楽しい。

一人では続かない学びも、人といっしょなら学び続けることができる。これ真実。

数学者の時間の研究もそうだったし、LAFTでの学びもそうだった。仲間がいたからできたことだ。元来、SSBシンドローム(スーパーさぼりたい症候群)を患っている僕にも、学び続けることができる自信をもらえた。

今週末、LAFTがある。今回で178回目だ。長く続けてこれたのは、まちがいなく参加メンバーのおかげだ。だって、主催しても僕が休んでも、進めてくれてたし笑。

今回は、LAFTで知り合った仲間、数学者でずっと研究してきた仲間、それぞれの算数実践発表だ。先月の井本さん研修会、KAIさんの研修会、そこでの学びのふりかえりやそこで考えたことの共有もしたい。そして『教科書では学べない数学的思考』のブッククラブもある。

僕は、学ぶことは続けることだと思っている。

だって次の日にはほとんど忘れちゃうし。

知ったところで、すぐにできないし。

何かを身につけようとするのなら、地味に時間がかかるし。

だから、継続した学びの場が必要だと思う。

そして、一番は学び合う仲間がそこにいること。何か知ろうと考えようとする人と一緒に話すのは本当に楽しい。「オレもがんばらなくちゃなー」って思える出会いが毎回ある。

さて、LAFTは今週末の土曜日、一緒に学び、遠くへ行きませぬか。

折り紙4回追って、4回切り込みいれて、線対称かつ点対称の算数アートをつくりました。

急遽、研究授業で「数学者の時間」カードゲームのルールづくりをやった

今日は研究授業日。僕が担任するクラスが残って「対称」を活かした算数と美術のコラボ授業「イカスクラス家紋をつくろう」だった。

のはずだった。

美術の先生が体調不良で休まれた。さて、どうしたものか。ということで、急遽、算数で僕が研究授業をやることにした。

たまたま1・2時間目が空いていたので、これまで温めておいた、年末に井本さんから学んだ「カードゲームのルールを子どもが考える」授業を計画してみた。そう、数学者の時間だ。

この空き時間に指導案をちゃっちゃと2枚ほど書き上げた。職場の人から羨望のまなざしで「仕事できる人だ」と言われたけれども、そんなことはなく、いい加減なもんだ。そもそも指導「案」であってないようなもの。あんまり気にしていないからいくらでも書けてしまう。頭の整理にもってこいだった。

どんな良問にしようか少し悩んだが、この本からの引用とした。結果、おもいもしなかった「創造的カンチガイ」が生まれて、面白い授業となった。

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これまで授業では、様々な問題を使って特殊化(小さく試す、系統的に試す、表にしてみるなど)はやってきたので、今度はみっちりと一般化の練習をしようと考えた。一般化とは「カードゲームの必勝パターンをみつける」ことにした。

問題のパターンをみつけるために、何度も試してことで機能的に一般化する「経験的一般化(まずジャンケンに勝つ、相手を勝たせないように邪魔するカードをとる、5を先にとるなど)」から、上記の発見を使ってこのゲームをさらにオモシロくするルールを付け加える「構造的一般化」をこころみた。

提示した良問も、ちょうどいい難易度だったので、残りの時間はたっぷりと「問題づくり」もとい、カードゲームの「ルールづくり」にあてることが予定どおりできた。

全て15になる3つの組み合わせを系統的に表にする子がでてきた。さらには、5をとると手詰まりがなくなりそうなことも見つけている子もいた。中には、2や6のほうが扱いがイイという子もいた。これはこれでまだ特殊化が足りずその過程にいるからでそれももちろんOK。

研究授業っていつもクラスでやんちゃしている子が輝くあるあるがある。

「3つのカードで15をつくればいいんでしょ。ならこのカードの間に÷と×を書いて」と自分の机に鉛筆で÷と×を書いて、15をつくりはじめた。これはおもしろかった。たしかに問題には、「足し算で15をつくれ」とは書いていない。

このアイディアは、ゲームのルールづくりにもってこいと、みんなの前で紹介してもらった。ちょっとそのタイミングがはやかったこともあり、みんなはまだピンと来ていなかったようだが、ルールの多様さは少しずつ広がっていった。

子どもたちは必勝法(負けない方法)を見つけるにつれ、ルールづくりを始めていた。持ち札を5枚にしてみたり、合計を30を目指したり。ワイルドカードでジョーカーをいれている子もいた。次回もこれを続けていくので、どんなルールが出版されるか楽しみだ。

その後の研究協議は、子どもたちの名前とエピソードが飛び交う時間だった。うちの学校のいいところだ。そして参観した先生たちとで、トランプをしながら、先生ルールを一緒に考えて楽しんだ。僕にとってはこれが一番学びの多い時間だった。

あわただしかったけど、最近、入試の練習ばかりが続いていたので、なにかに夢中になれる数学者の時間ができてほんとうによかった。