学級づくり

奈良教育付属小の問題は、教育現場の自由実践の抑圧にならないか

奈良教育付属小学校の履修問題に関して、文部科学省は各付属校に通知を発行した。この事態を受け、僕は教育現場における自由な実践が躊躇され、萎縮するような状況が生じてはならないと懸念している。

研究の本質はその性質上、ガバナンス(組織統治)とは相容れないもの。全国で一律の管理下では、イノベーションが生まれる余地はほとんどありえない。

公教育における管理職の重要な機能の一つは「平等」の実現にある。これは、北は北海道から南は沖縄に至るまで、どの地域でも一定水準の教育を提供することを意味する。でも、このような管理を強化すればするほど、教育現場は息苦しくなってしまう。なぜなら、教員個々の「自由」な実践の保証が失われてしまうからだ。

平等と自由はしばしば対立する概念だ。管理職は教員への配慮を心がける必要があり、同時に、教員も管理職の役割に理解を示し、互いに協力し合う姿勢が求められる。今回の件は、職場における基本的な思いやりが欠けていることが、問題の根底にあるのではないかと想像してしまう。管理職も現場教員も同じ仲間集団でありたい。人に優しくありたい。

文科省が通達を行ったとしても、日本の教育が著しく改善されるとは思えない。革新的な教育実践は、教員一人ひとりの独自性と自由に基づいて成し遂げられると僕は考えている。振り返ってみても、管理職の指示に従っているだけでは、子どもたちにとって必要な新しい教育実践を創造することはできなかった(単に自分に力量がなかったのだが)。

このことは管理職が無能であると言っているのではなく、単に彼らの役割が異なり、現場の教員には子どもとの直接的な関わりを通じて得られる教員固有の教育手法があるということだ。

僕が懸念しているのは、教育現場の教員が、指導要領、カリキュラム、教科書に沿った教育を、無意識のうちに過度に忖度し、重視してしまう風潮が今後ますます強まることだ。これにより、教育の革新と多様性が失われる可能性があると危惧している。

僕は教育実践において自由を重視している。「数学者の時間」では、自由実践に見える活動の背後には、カリキュラムとの対立を避けるための緻密な設計があり、教科書の使用を基本としている。

この「数学者の時間」は、指導要領と並行するデュアルプログラムとして機能する。教科書ベースの授業で得られた基本的な知識をさらに深め、豊かにすることが可能だからだ。算数・数学メガネを通じて世の中や問題解決に対する深い理解と探究心を育てることを目指している。だから、逆に教科書から感謝されてもいいくらい。

今後、自由な教育実践が制限されそうな状況に直面したとき、僕は積極的に声を挙げ、若い実践者たちの試行錯誤を守っていきたい。実践者たちは新しいアイデアを試み、教育に新たな息吹をもたらす貴重な役割を担っているから。

この点について、先週まで読んでいた山崎雅弘氏の『アイヒマンと日本人』(祥伝社新書、2023年)に触れたい。

第5章からの論考が圧巻だった。

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みなさんは、アイヒマンという名前を聞いたことがあるだろうか。アドルフ・アイヒマン。ナチス・ドイツ政権下で国策として実行された数百万人ものユダヤ人に対する大量虐殺を、ナチス親衛隊の中間管理職として指揮した人物である。彼は「(大量虐殺を実施したのは)自分はただ与えられた命令に従っただけだ」と主張し続けた。

おどろくべき言い訳! 一体、これのどんな点に問題あるのだろうか。われわれ日本人の中にもある「アイヒマン的なまじめさ」があると著者の山崎は説いている。

哲学者ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマンがホロコーストに従ったのは、彼の異常性ではなく、普通の「正常性」の中にあったと指摘した。アーレントによれば、アイヒマンは実際にはそのナチス政党やその取り組みを「支持」していたと解釈できるとし、アイヒマンが単に上司の命令に「服従」したのではなく、自分で考えることをやめ、命令に従うことを選ぶ率先した「支持」をしたと分析している。ホロコーストの責任から逃れるためにアイヒマンが「自分はただ与えられた命令に従っただけだ」との服従を理由にすることは、政治的や道徳的に誤りであると主張したのだ。

アイヒマンの例は、命令に忠実であることと、職場内での個人的な利益や保身を優先することの危険性を僕につきつけてきた。

これは、真面目に与えられた命令を遂行しようとする僕は、知らず知らずのうちにアイヒマンのような状況に陥る可能性がある、という恐ろしい事例だ。

職場で上司と対立することを望まないのは自然なことで、多くの人々は上位者との衝突を避け、命令に従って良好な関係を保つことを選ぶかもしれない。日本社会において、このような思考形態は一般的と考えられている。

しかしこの本は、組織の一員として働くことと、正しいことをするという個人の責任との間でバランスを取る必要性を浮き彫りにしてくれる。

アイヒマン的な「支持」に従うことは、言われたことを無批判に受け入れることに他ならない。イエスマンになってはいけないのである。命令や不公正な行動に対して、反対の声を上げる勇気が求められる。これは教育の現場においても重要な教訓である。

僕が懸念していることは、今後ますます「指導要領どおりに」「カリキュラムどおりに」「教科書どおりに」「学年同一歩調で」「掲示物はみんな一緒で」「お尻の拭き方もみんな右手で」などという風潮を、現場の教員が勝手に忖度してしまわないかという危惧でもある。

もちろんやるべき事はやるし守るべき事は守る。だが、文部科学省や管理職の指示に盲従するのではなく、現場の教員がカリキュラムを網羅することの不安に囚われることなく、教員一人ひとりの自由な実践が尊重され、ビビらず安心して働ける教育実践環境を願ってやまない。履修アンケートとかいらないからね。

おそれることはない。これまでもこれからも自由な実践を大事にしていきたい。

子どもたちの声でつくる「まとめの会」はなかなかしんどい

毎年やってきた「まとめの会」づくりの時期。今年も、さっそく子どもたちと話し合いがはじまったが、悩ましいスタートを切った。

まとめの会とは、一年間のまとめに向けて、各クラス独自に取り組む行事のことだ。僕がこれまで担任してきたクラスでは、ミュージカル、美しい数学発表(コロナで頓挫)、各教科学習発表ワークショップ、親にしぜん広場あそびレクチャー会など、その年、その年の子どもたちと話し合ってつくってきた。

基本、僕はなんでもいいし、何やってもいいと思っている。その内容や結果よりも、どうこの会をつくりあげていくのかそのプロセスにとても意味があることをこの学校に勤めることで体験的に知ってきた。

今年も実行委委員の5名が準備を進めてくれ、さっそくアンケートを募ってみると、6年生最後のまとめの会では「劇」と決まった。

しかし、劇の演目が二つに分かれてしまった。

「やっぱ楽しいことしたいじゃん」「約ネバやりたい!」とどこからきたのか『約束のネバーランド』劇が激推しされた。

「それって、オニが子どもを頭からバリバリ食べるやつじゃん?」ときいてみると「大丈夫。テーマは『友情』だから」ともさもありなんな解答が返ってきた。

ちなみに僕は「約ネバ」が好きだ。

もちろん全巻制覇し『英米文学者と読む約束のネバーランド』 (集英社新書)も読み、この話の文学的背景と設定にも興味を持っている。また六本木の原画展まで行っている。さらにはオマージュとなっているカズオイシグロ『わたしを離さないで 』は大好きな小説の一つだ。

が、そういう話は一切子どもたちには口にしたことはない。この先、僕がこの『約ネバ』の子どもたちの捉え方に、黙っていられるかが問題だ笑。

一方で「これまでまとめの会では、私たち好きなことやってきたから、最後はなんか、まとめらしくなるといいな」「まとめの会としてふさわしいのは、1年間のまとめの会であり~」だから、『クラスのの日常劇』をやりたいと、最後のまとめの会を意識しているまっとうな意見が出た。

自分がやりたいことの追求と、クラスみんなで取り組むことの価値について僕も語ってみたが、ときすでにお寿司で、あんまり響かなかった。子どもとはそういうもんだ。

劇は『約束のネバーランド』と『クラスの日常』の二本立てに決まり、全員がどちらかの劇で演じることになった。照明や音響、舞台監督などの裏方はもう一方がやってあげることになった。

さて、まとめの会、どうなってしまうんだろう。不安だ。

子どもたちの話し合いを聞きながら、僕の中には「学級日常劇ならばできる見通しがあるから、みんなこれをやろうと思ってくれないかな〜」などとしみじみ思ってしまった。

しかし、そんな予定調和で教育的な取り組みだけでいいのだろうか? という葛藤も逡巡していた。

「うまくいくからやる」よりも、「やってみたい/おもしろそう」だから、とりあえずやってみる。

このことは、僕にとっても必要な挑戦なのかもしれない。たくさん話し合って、いろいろ言い訳つけて、上手くいく見通しが立ってから始めるようでは、いつまで経っても成長しないしなぁ。

変化をすることから逃げないこと。予定調和で終わらせないこと。さて、僕がどこまで子どもたちをサポートできるか、ためされる一ヶ月がやってきたわけだ。がんばりたい。

「イガせん、何の役やりたい?」

「お? おれも入れてくれるの? じゃぁ」と

これまでやってみたかった子ども役をやらせてもらうことにした。

「イガせんもクラスの一員じゃん」と言ってもらえてうれしい反面、あんまり僕は先生としてみられてないなと笑ってしまう。人なつっこい子どもたちともあと数ヶ月だ。

「運動すると疲れない」という逆説

新学期がはじまって1週間がすぎた。この一週間、毎夜l帰宅が21時を過ぎていた。僕の働き方を振り返ってみても、これは異常事態だ。

ここ数年、この時間まで、しかも継続して遅くまで仕事をすることはなかったし、ちゃんと切り上げてこれた。けれども、今年度はそうもいかないことがいろいろ重なり、これも見通しのなさからくること。これは学校の仕組みだけの問題ではなく、僕のマインドの問題でもあるのでちゃんと忘れずにここに記しておきたい。反省。

忙しくなると生活がささくれだってくる。いろんなものにしわ寄せがいってしまう。結果、仕事の質が下がってしまう。すべてはシステム。

でも、どんなに忙しくなっても継続していることがあって、それのおかげで乗り切れているところがあった。

それは朝のトレーニングだ。

バスケが好きで、バスケをこれからも仲間と末永く続けるために、基礎体力と筋力を高めたい。でも仕事帰りだと疲れてしまっていて、気持ちもキレてしまうこと多い。そのために10月から朝に始めることにしたら、案外これが続いてしまったのが驚きだ。

http://igasen.xsrv.jp/wp/2023/09/26/朝トレはじめたら初日でメンタル無敵になった話/

習慣とはおそろしいもので、冬休みだろうと、週末だろうと、ちゃんと朝の時間にせっせと起きてしまう。もっと寝ていてもいいのに。

早朝トレーニングは時間にしても家からの往復いれて1時間程度。12月末は腰も痛めていたから、満足なトレーニングもできなかったが、しっかり体づくりだけは続けてきた。

バスケのために始めたのに、二次的なプレゼントがあることに気がついた。

なんと、疲れないのだ!

職場で遅くまで仕事をしていても、だるいとか疲れたとかがなかった。そんなことつぶやいていたら、同僚から「モット仕事をあげよう」といわれたので、職場ではもう言わないことにした。

体力ってほんと大事だ。

僕の尊敬するトレーナーのアキラさんが毎朝、トレーニングしているときいたとき、「うそだろ」と思ったけど、いざ僕自身もやり続けてみると、そうしないと気持ち悪いぐらい習慣となってしまった。

とは言ってもキン肉マンになったわけではまったく無く、バスケが出来る程度のコンディショニングは整えることがちゃんと出来ている。おかげでゴール下ではフィジカルで戦える場面が圧倒的に増えてきた。

けど、そんな僕でも月曜日はだめだ。

日曜のバスケ練習の疲れが、背中、下半身にどうしてものこってしまっているので、一日中全身がだるい。それでも、ちゃんと栄養とって、休息とって、朝起きしていると、水曜日までにはちゃんと復活している。年をとっても身体ってすごいなと思う。

まぁ、この体力のおかげで、この一週間、遅くまで稼働できたし、気持ちとしては充実したチャレンジで、メンタルおつりがきたということ。これからもどんなに忙しくとも、習慣化した運動は手放さないようにしていこうと思う。風邪引かないように気をつけていこうと思う。

みんなはどんな運動しているの? 

もし、運動しなければ、と思っているのなら、絶対はじめたほうがいい。それも朝、歩き始めるだけでいい。今は、6時前は真っ暗だけど、だんだん明るくなってくる空を感じられるのも気持ちいスタートとなるから。なんだか生きている充実感もオマケでついてくるよ。

そのヒントは相手に役に立ってる? 学び合いのレベルアップへ

3学期の授業がはじまった。算数1発目の授業びらきは、先日の合宿で経験したファシリテータートレーニングからはじめてみた。

ファシリテーターはまず「みる」から。けど、どうやったら「みる」ことができるの?” 2024/01/05

「頭の目かくしをとる」問題をあつかいつつ、「学び合う質の向上」をめざした。

僕は、子どもたち同士の「学び合い」では、よく「教え込み」が起こることをずっと懸念していた。会話を聞いていると

「ここはこうするでしょ。ほら、できたでしょ」

みたいなやり方をよくレクチャーしている。これでは、学習者は何も考えないで、アドバイスをくれる友だちと待ってしまう。ヒントをこっそりと期待してしまう。

そこで、先日のLAFT合宿で経験したKAIが提案した「不可能な立体」づくりを問題を扱ってみた。考えることに加え、自分の「学び合い」のプロセスをメタ認知する練習をしたいと思ったからだ。

「この答え、わかった人は、絶対に教えてはいけません。もちろん、ヒントもダメです。でも、相談には乗ってあげてください。じゃ、がんばって」

頭のやわらかい子は発想を転換して、すぐに問題を解けてしまう子もいた。

「この問題、TikTokでみたことある!」といっていた子は、ただ見たこと有る様だけなので、解けるまでかなりの時間を要していた。見たことあるだけではわからないのは世の常だ。

「何をしているかずっと(友だち)を見ているけど、ついヒントを教えたくなってしまう」

「どこを切っているのかを見ていたけど、どこまで言っていいのか難しかった。できそうだったらヒントを言いたくなっちゃう」

「まちがっていた人にどうしても答えを言いたくなりました。教えることもとても頭を使う」

答えが分かった子は「教えたくてむずむずする」ようだった。「教える方が解くより数倍難しかった」と。

一方で、相談にのってもらっている子達の気持ちも聞いてみた。

「まわりがみんな簡単に解いちゃうから焦った」

「できるようになりたい」「教わりたい」という子も一定数いるようだったが、別の意見が出てきた。

「自分でひらめけてすごい嬉しかった。嬉しくて分かった分かった!って叫んじゃった」

やっぱり、自分でひらめきたいし、答えまでたどり着きたい。

だからヒントは極力いらないと。

考えている人を尊重しようと、そこでまず「みる」「きく」ことから相談者ははじめることとなった。

相談に乗ってくれている人は

「ヒントを出すと、いい気持ちになる」

と共有してくれた。ドッと笑いが起きたが、これ真実だろう。常に、人より優れていたいと表す心模様なのかも。

学び合いをしているようで、じつはたくさんの教え込みにあることを気付いた。

子どもたちとは、僕が相談しているときに使っているツールをプレゼントした。

①「今、どんなかんじ?」(現状の確認)

②「どうしたいの?」(本人のゴールの確認)

③「こういうのはどう?」(現状とゴールのギャップを埋める提案、ここではじめてヒントがでてくる)

「あ、イガせんのいつものやつね」

「つかえそうじゃん!」

少しずつ、また教え合いの質が変わっていけるといいなと思う。

最後まで、解けない子もいたけど、次の理科の時間にずっとこっそり手を動かして、やっとできて嬉しかったと教えてくれた。

自分で考えたいなって思える子、いいなと思う。そういう授業をつくっていきたい。

誰もいない所で誠実な行いができるかどうか?

新学期がはじまった。子どもたちはいつもどおりで、教室に活気が戻ってきた。

子どもたちと卒業カレンダーをつくってみた。お休みだった子もいたので、欠席の子のカレンダーをなくさないように、僕が集めていたらふと気付いたことがあった。

その集めたプリントには、すでにうすく鉛筆書きで担当する日付と名前がメモしてあった。本来、何もかかなくてもいいプリントのはず。

欠席の子が担当カレンダーが分からなくならないようにと、親切心で隣に座っている子が書いてくれていたようだった。

「これ、やってくれたの?」そう尋ねると、ニコッとうなずきを返してくれた。

僕は、こういう小さな親切は、実は特別な何かを起こしてくれると思っている。小さな誠実さは、周りの人の心を温めるようにみえて、実は自分の心を満たしてくれている。

誰かへの小さな親切は、清々しい気持ちになったりする。その小さな誠実さの積み重ねこそ、周りの人への喜び、そして自分の喜びとなり、ひいては、また小さな行動の継続へとつながっていくもの。

僕は、その人の人生がうまくいくかどうかは「誰も見ていないところで、正しい行いができるかどうか」がとても大切だと思っている。

子どもたちには大人に向けて、そういう人にチャレンジしていってほしい。さて、明日で怒濤の今週が終わる。一息つけるといいなぁ。

くららのすごいふりかえりを読ませてもらった

年始、そろそろ溜まっている仕事を始めないと思い、こっそり職場に行った。机に座って「さぁ、はじめるぞ」と思った矢先、KAIからメールがきた。

「くららのふりかえり読んだ?」

この間のLAFTの合宿へ参加した、「くらら」こと大倉さんのふりかえり。彼にとっては、はじめての学びの場だったらしい。それだけに、ちゃんとふりかえっていたのだろうか。ふりかえりは自主的に書いてたようだ。

はて? グループメッセンジャーをさがしてみても、くららからのそんな記述はみあたらず。そこでKAI経由で、さっそく送ってもらって読ませてもらった。

そのくららのふりかえり、なんと23000字!

僕がこれまで読ませてもらった振り返りの中で、群を抜く印象をうけた。読後感が清々しく、あまりにもよかった。なんでだろう。何がこうよかったんだろう。

ひとつは、このくららのふりかえり(長いので略して「くらり」とする)を読めば、くららの合宿中のプロセス全てが分かってしまうほど克明に時系列に沿って書き出されていた。

まずこういう体験的な研修のふりかえりの多くは、客観的な事実の記録や書き出しが出来ない中で、これはすごい。

研修のKAI語録に限らず、そのプロセス、そして忘年会の席で話し合っていた内容、そして、深夜に露天風呂でこっそりビールを飲みながら話していたことさえもふりかえりに書かれていた(宿主にはナイショね)。

つまり、参加していなくとも「くらり」さえ読めば、どんな研修だったのか大概のことが分かってしまう。

その克明な記録とあわせて、くららの心の動きがリアルに書かれていた。対話した相手の意図や、研修作成の意図など、その射程、思うところがまた広い。

自分の知っていることと結びつけて書かれていて、いろいろな小説や教育書からの参照もあった。

自分のために一週間かけてじっくり書いたようだ。そして形に仕上げたこともすばらしい。これから合宿参加者には23000字のふりかえりを「強制」することにしたい。

合宿に参加したみなさんは必読ですよ。

また、参加されなかったかでも、ぜひ直接、くららとメッセンジャーで連絡をとって、ふりかえりを読ませてもらうといいです。全国には4年目にしてこういうステキな若い先生がいるってことを知れるはず。そして、僕と同じように、己の残念さを深く反省する機会をもてるはず。

23000字もあるけど。一気に読めるはずだ。

くららこと、大倉良介さん。ぜひ、Facebookでつながってほしい。ていねいに読んでちゃんとフィードバックしてあげてほしい。これは読んだこととセットでなければならないチャレンジ・バイ・NOチョイス。

これから、くららはもっと自分が子どもたちがのぞむいい先生になっていくはず。

朝登山はくららと同じグループでした

ファシリテーターはまず「みる」から。けど、どうやったら「みる」ことができるの?

LAFTの冬合宿、わずかな忘年会の時間に、ファシリテータートレーニングをやった際、話題になったことがある。

KAIから「これと同じものを正方形の一枚の紙で作ってください。ただし、答えがわかった人は絶対に他の人にその答えを教えてはいけません。わかった人はファシリテーター役になってください」と、それぞれの机の上に、紙で折られたなんとも奇妙な形をしている、立体模型パズルが置かれた。一見、すぐにつくれそうなものだが、実際に一枚用紙に切れ身をいれてみると、そうなかなかうまくいかない。

詳しくはプログラムの詳細になってしまうので、ここには書かないが、この紙パズルは難解で、発想の転換をしないと解けないものだった。

このイラストはchatGPTで描いた不可能な折り紙だけど、ほんものはもっとシンプルだったはず。

そのおかげで、忘年会中、ずっと紙をいじりたおして、「そろそろお開きにしましょうか」という頃合いになって、「できた!」と深夜に歓喜の奇声をあげる輩までいたほどだった。それほど熱中していた。

この研修はいかにこのパズルをつくるかではなく、この研修デザインが秀逸で、答えを見つけた人が、まだ解いている人にいかにファシリテートするかであった。

僕は、驚いたことに、このパズルを案外スムーズに解けてしまった。

まずは「とりあえず無作為にやってみる」ことから始めてみると、だんだんと、辺の長さに目が向いたり、面積の組み合わせを考えてみること思いつき、少しずつ系統的な手立てが予想として立ちあがってきた。

しばらくすると、この図形は、筋道だてて考えてもできないかもしれないと疑いの予想がわいてきた。「もしかして今、思っている考えに『あたまのめかくし(思い込み)』があるな。どうやって転換したらいいのだろうか?」と思いながら、実際に紙をいじってみると。。。

あら、不思議。ひらめいた!

なるほど。解けてみると案外簡単だが、アイディアがひらめかないと、どつぼにはまるやつだ。解けて素直に嬉しい。数学的思考バンザイ。

でも、次のステップである「ファシリテーターとして」どうかかわるのか、これはなかなか難しい。

答えを教えてはならない。しかし、仲間が解決できるように何ができるのだろうか。学習者のプロセスをみるとはいうものの、一体どうやったらみるのだろうか。そこに的確にどう寄り添っていったらよいのだろうか。しんどい。お酒も回ってきているから、なおさらしんどい。

一人ひとり頭の中で起きていることは違うことも知っている。ヒントを出すことは、ファシリテーターへの依存を生むことなので、やらないことも知っている。なら、何をどうファシリテートするのか。

そこで、僕がカンファランス3原則と呼んでいる強力なツール

①今、どんなかんじ?(現在地の確認)

②次、どうなるといい?(目的地、ゴールの確認)

③こんな方法はどうだろう?(やり方、方法の提案、学習者の選択)

でかかわってみた。

「今、どんなかんじ? どこまですすんだの?」

たずねてみるが、仲間のK氏は「さっぱりわからん」と即答。

「じゃ、どうなるといい?」と尋ねると

「そんなのわかっとんじゃー!」とキレられそうだったので、

「今、分かっていることで、次どうなるといいの?」

と質問を小さくしてみた。

「辺の長さに着目してみたら?」

「面積は?」

「この考えでどうしてとけないだろう?(思い込みをはずす質問)」

すると

「今、ここをこうしたいんだけど、こうすると、こうできないから。。」

と「ここ」を連発して説明してくれていたが、僕にはいっさい伝わってこない。けど、自問自答しているのを側で聴いているだけだったが、K氏は何か閃いたようで、一人でまた黙々と作業にもどっていった。

その後、KAIから答えは明かされぬままに

「ファシリテーターがまずやることは?」問いかけがあり、

「みること、質問することからだ」とファシリテーターの姿勢についてレクチャーされた。

「教師はつい、ヒントを出してしまう。ヒントを出しているのは、教えていることと一緒。子どもに『先生、ヒントちょーだい!』と言われると、『あぁ、私、先生している!きかれてすごく嬉しい』という罠にはまっていってしまう」

つまり、考えるはずの問題が、教師からいかにヒントを引き出すのか、思考の主体が「自分から教師へ」とかわっていってしまう。

まぁ、これには「全員が達成できること」という、教師に思い込みがあるからこのスパイラルから抜けられないわけで。

僕はこのカンファランス3原則のおかげで、直接のヒントを出すことはなかったが、「頭の目隠し」をとるための質問をうまく投げかけられなかった実感がのこった。この感覚はけっこう授業でもよくあるものだった。

小手先のツール(カンファランス3原則)をこねくりまわしているだけではダメだ。この教材への見方がなければ、「みる」とはいっても、何をどう、みて、かかわるのか、見えていても知覚できずに情報は素通りしてしまう。ただ、「みよう」「みよう」としても、みてとれないことがよく起こる。それは、みようとする学習対象の専門性に欠けているときによく起こる。

学習者のプロセスをみようとするのなら、学習の対象である教材への分析的な研究がなければ、多くの情報を見過ごしてしまう。だから、教材準備や研究は大事だ。教材への愛は、学習者の学習プロセスをみるために必要な重要なへそなんだと気がついた。

教材への愛は、学習者への愛

そんなLAFTの熱い忘年会を年末にすごした。

自分で行動し、責任の意識が求められているエージェンシー

これからの教育にどのようなことが必要なのだろうか。

今、いろいろ学んでいることをどのようにいかしていったらよいのだろうか。

たくさん学んだって、自分のため、他者のため、社会のためにその力を発揮できなければ、教育ってなんなんだろう。

この力を発揮するカギとなるのが、主体性である、エージェンシーか。子どもたちが主体性を発揮するきるために、何が必要か。その主体性に「段階」レベルがあることを知った興味深い文献があった。

白井 俊『OECD Education2030プロジェクトが描く教育の未来:エージェンシー、資質・能力とカリキュラム』

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エージェンシー。。。

つい口にだして言いたくなってしまう言葉。なんだか、かっこいい響きじゃないか。イーサン・ホークが所属していたのがスパイ組織IMFエージェントだったしな。でも、OECDラーニング・コンパスにおいて中心となったエージェンシーとは、もっと崇高なものだった。

僕も自主性や主体性については、自学ノートを上梓してそれなりに研究してきたはしくれだ。決して新しい事ではない、日本でいうところの「主体性」について、本書3章に丁寧にまとめられていた。

エージェンシーの定義

変化を起こすために、自分で目標を設定し、振り返り、責任をもって行動する能力

エージェンシーの語源はラテン語「agere(行う)」に由来し、「行動」や「行動する人」の意味を持つそうだ。これは、単に行動さえすればよいのではなく、社会の一員としてよりよくなるように考え、行動していく責任があることを示している。

未来予測が難しくドックイヤーの時代において、指示されたことをこなすことだけ、企業から求められるスキルを身につけるだけでは足りない。誰かが決めたり選んだことを受け入れることよりも、自分たちで考えて、目標設定し、必要な変化を行動に移していくこと。

つまり、自分で行動することであり、責任の意識が求められている。

でもこれはそのまま自分の欲求を実現することではなく、その社会に対して責任を負うことを自覚していることだ。果たして、僕は自分の働き方が、職場においてエージェンシーを発揮できているのだろうか。同僚の成長に寄与できているのだろうか。自分のことのみで終わっていないだろうか。

はたまた、クラスのあの子のエージェンシーは自分勝手になっていないだろうか。あの子はこういう概念を知らなくたって、常に集団の立場に立てる子もいる。はてはて、どのようにエージェンシーとは育っていくのだろうか。つい自問自答してしまう。

僕がこの学校に勤務するようになっていいなと思うことがまさに、このエージェンシーのことだった。本校には、毎週1回の自治活動がある。いわゆる委員会活動である。これまで僕が経験してきた、先生や学校の仕事を委託する委員会としてではなく、自分たちで、各委員会からの課題をみつけ、自分たちの学校をよくしていこうとする仕組みとしての「自治」がある。そのため、毎週全学級に「委員会まわり」という意見を各委員会が聞き取りに行く仕組みもある。

だから、子どもたちはエージェンシーという言葉は知らなくとも、不便があれば「変えられる」と素直に思っている。この民主的な声は時にとても大事であるが、声を引き取ると、ものごとがなかなか前に進まない難しさもあることとセットである。

自分勝手になりがちな声も、相手意識や学校というコミュニティの中で、話し合いながら、ゆずったりゆずられたりしながら、少しずつ修正されていく。声を挙げて、行動していくことの練習とその感覚を小学校時代にできることはすばらしい。

エージェンシーは自分一人だけで育まれるものではなく、親や仲間、強者、コミュニティーなど周囲の関係性の中で方向性を共有し、育まれていく。それが協同エージェンシーだ。

同書にこの協同エージェンシーにレベルがある点がおもしろかったので、ここに紹介しておきたい。

ハート.Rによる生徒の8段階意思決定「梯子モデル」を、学生たちのステークホルダーの声を引き取り、議論してよりよいモデルに改良した「学生グループによる太陽モデル」がある。これにより、発達は一方向の直線的ではなく、循環関係にあることも伝わってくる。

さて、今の学級、学校は何段階? そして今、取り組んでいる自学ノートって何段目?

「まちがえを歓迎する文化をいかにつくるか?」という問いはそもそもまちがいだった

算数授業をやっていて思うのは「まちがえ大歓迎!」「まちがえるからこそ賢くなる」みたいなキレイゴトを唱えて通用するのは、中学年までだろう。

高学年の子どもたちになれば

「わざわざ間違えるリスクはとりたくない」

「恥ずかしい思いだけは、なんとしてでもさけなければ」

となっていく。これはこれで正常な発達段階。

でも、やっぱりまちがえをしているときが、一番、脳みそをつかっているといった研究結果も示されている(Jo Boaler「Limitless Mind: Learn, Lead, and Live Without Barriers」)。その価値をいくらインストラクションしたところで、実際にわざわざ間違えをさらそうとする子は少ない。

アメリカ実践ではこういう間違えの価値を契約的に扱って、その文化を育てようとするアプローチが多い。でもこれって、なかなか実感と経験が伴わない心理主義的なアプローチであって、通用しづらい。だって、大人の僕でさえも間違えることの価値を知的に知ってはいるが、わざわざその間違えをさらそうとすることはあえてしない。したくない。そういう契約文化も日本には薄い。

じゃ、どうやって、まちがえを歓迎する学級の文化をつくることができるのだろうか。

このあたりのことをずっと課題と感じていただけに、先日LAFT研修で井本さんからの話にヒントとなる言葉がたくさんあった。

「算数ができる子というのは存在しない。解法のプロセスそのものがその子である。結果が正解したとかどうでもいいことであって、教師がこの子どものプロセスを見て取ることがとても大事である」

「(どんな解法であっても)ありのままを認めるということ。すると、子どもは穏やかになる。結果(正答)を求められると、緊張してしまう。プロセスを自分でふめると子どもは穏やかになるし、今ある手持ち(の知識で)でなんとか解決しようする」

まさに、ここだ。まちがえや失敗を推奨する文化には、あっている/まちがっているとかの評価軸を一度脇に置いておいて(KAIもそうだが、この外からの要請に忖度しない所が強い)、その子の考えてきたプロセスを「それおもしろいな」と認め、おもしろがれること。そういう子どもの側に立とうとしているサポーターとしての教師がいることが必要だった。

これって、算数数学だけに限ったことじゃない。

そうなると教科を越えて、どんなときでも関わり方は同じとなるはずだ。しかし、教師だって人間、常になんでも子どもの何かに興味をもてるわけではそうそうない。そのためには考えるに値する教材の準備が必要であるし(それがあって教師自身も興味関心がもてるはずだ)、それがあっての子どもたちの授業への本気の食いつきが生まれてくる。これはお付き合いレベルの授業では決して生まれないことだろう。

この自分なりのプロセスを踏むことは、その子らしさを発揮できていることに他ならない。評価されることを怖れている子は、なかなか自分なりの試行錯誤ができないし、わざわざ、よけいなことをしようとしない。

子どものプロセスをしっかりみること。

それに興味を持って励まし、価値づけること。

かかわるとは、こういうことだったのだ。

「子どもが、自分の考えを出したその瞬間をみつけて、教師がニコっと笑う。子どもは小さく喜ぶ。自分を出しても平気だと安心し、心がほぐれていく。すると、少しずついきいきと穏やかになっていく」

そして、井本実践では、この一対一の安心してまちがえることができる関係から、学習集団の中に共有する場をつくっていく。人は教師から学ぶよりも、子ども同士の群れの中から学ぶことのほうが多く育っていくからだ。

井本実践では、NHKプロフェッショナルにもあったように、だれかの「スーパー誤答例(自信をもって回答した解法)」をプリントアウトして配布する。すると

「なんでちがうの!?あってるじゃない!」

と本気で考え始めていく。

自分のままで考えたことが、他の人を動かすとはこういうことだ。そして、まちがえを承認されたってことでもある。これが、自分のありのままが人の心を動かし、人のありのままに心を動かされる文化となっていく。

こうやって心を動かす授業が練り上げられていく。僕のうすっぺらの「まちがえをベースに授業ができるといいな」という思いは打ち砕かれ、教材を仲介とした、人と人との関わりに還元されていく教育のスケールの大きさを知ったのだった。

「まちがえを歓迎する文化をいかにつくるのか」という問いは、「できる/できないの評価判断を保留して、そのプロセスに興味関心をもてるのか?」という問いこそが、ふさわしい問いだと気付けた。

僕らは子どもたちに、能力的にできることを期待しがちなため、この評価判断を保留することがとても難しい。そのための「子どもに期待する姿」や「考えるに値する教材」、そして「子どものプロセスをみる」ことだったりしながら、できる/できないといった、二分世界からの評価判断を越えていくことができるんだとおもう。

このかわいくないウーパーぬいぐるみは、どういうプロセスでこうなったのか興味がわいてくる

ほおっておいても子どもから自然遊びは生まれない。まずは「強制的」に巻き込むことから

「目の前に自然があるだけでは、子どもたちはその中にはなかなか入っていかない。自然を伝えたり、魅力的なカリキュラムの必要性がある」

先日のLAFT合宿で、KAIがそのためにウィルダネスプログラム(野外プログラム)を導入した経緯を話してくれた。ほおっておいてもなかなか自然遊びは生まれない。そこでアウトワード・バウンド的強制力を発揮したということだった。

どこの子どもたちは同じようだ。

自然あふれる環境にある子どもたちであってもそうなら、都会の子どもたちならなおさらのこと。休み時間ともなれば、教室でトランプしたり、おしゃべりしたり、わざわざ外へ出なくなってくる。

もちろん、それでもいいと思っている。でもどこかちょっぴりさみしい。もっとオモシロいことが外遊びでは生まれることや、遊びから学べることがたくさんあることを知っている僕としては。KAIは課題解決の力を自然の中から学ぶと話してくれたがまさにその通りだと思う。

だから、子どもたちを自然の中に強制的に連れ出すカリキュラム化することに納得してしまう。

僕は、ここ4年間、朝、しぜん広場に行くというだけの「強制」を続けてきた。コロナのこともあって、人とふれ合う機会が失われてしまった。外なら部屋と違って空気感染しないし、いいだろうとおもって、朝遊びを続けてきた。

瓢箪から駒で、結果、しぜん広場から学ぶことの方が実に多いことが知ってしまった。そして、いろんな子どもの姿がみてとれた。

雨上がりこそ、びしゃびしゃになって泥まみれになって遊ぶ子。

となりの家の2階を超える高さまで木登りする子。

卒業制作のトーテムポールを転がし、ペアで玉乗りし始める子。

一年間、池のヤゴをとり続ける子。都会の中でめったにみることないギンヤンマのヤゴを何体みせてもらったことか!

起伏の激しいフィールドでの鬼ごっこを極める子。やってみると分かるが、大人にはなかなかしんどいし、体幹とバランスが試される。

一年間、遊び倒した子たちは、そのおもしろさを親にも伝えたいと、年度最後のまとめの会に「しぜん広場一緒にあそぼう企画」を考え、己の能力の高さを示し、親たちを驚かせしめた。

何をやってもいい時間と場を用意することは、ここまで一人ひとりの個性を上手に引き出してくれる自然のもつ力はすごいと感嘆しかない。その力を十全に発揮するためには、全員で外に行く場が必要だった。

低中学年の子どもたちは、自然の中で自由に遊びはじめる。でもただ連れ出せば、何か始まるかというと、そうでない発達段階の子たちもいることがわかってきた。それが高学年の子どもたちであり、ここ2年間ずっと悩み続けていることのひとつでもある。

これまでの経験にしぜん遊びの文化が少ないと、そもそも率先して遊ぼうとしなかったり、できない子が増えてくる。そこでいくつか、仕掛けを用意することにした。

例えば、「落ちているものを食べる」とか。

この秋には、ずいぶんと自然広場に落ちている果実を食べた。柿、夏みかん、モモ、大抵おちているものは、熟れておいしく食べ頃だ。たいてい子どもたちは、「落ちているものは食べられはしない」と怪訝な顔をして言う。

そして、二分される。「それたべれるの?」「おちてるとかやばくない?」と警戒する子と「なになにそれ?いいにおい」「おれ、食べてみたい」と何も疑わないチャレンジャーだ。先発隊の毒味が終わると「わたしも一口だけなら」と恐る恐る口にし「案外、うまい」と、だんだんその遊びの渦に巻き込まれながら、感染していく様子が見て取れる。

「寒いね、そのへんにおちているもので火起こししよう」

これは、とくにやんちゃな子たちにヒットした。以来、その辺におちているもすべてが火起こし道具に使えないか、常にそんな話題となっていく。どこから拾ってきたのか、ひもを使ったり、木材をみつけてくるのもおもしろい。自然の中にあるものへの解像度が火起こしのために変わっていく。

だいたい一学期間を費やした試行錯誤の火起こしの末、ペアで火起こしするのが一番楽だということが経験的にわかってきた。本当にそのへんにある材料をつかって火起こしをできるスキルを身につける猛者も生まれた。自分が起こした種火を使って、火が起きたときは感動だった。忘れられない出来事でもあり、生きていくための自信にもなったはずだ。

僕は小さくてもいいから、こういう日々、連綿とした帯でしぜん遊びを続けていく必要があると考えている。ときに「だるい」「めんどくさい」という圧力に屈しかけるときもあるが、これも必要な勉強のひとつ、と割り切って、連れて行く。

すると、いつのまにか、その辺にあるもので遊び始める。この秋、6年生にとっての落ち葉の山は一番の遊び道具だった。

自然には力がある。けれども、自然から遊ぶには熟達レベルが求められる。悲しいかな。すぐには遊べないのである。だから、低学年のうちから、豊かな自然遊び経験の量をつんできてほしい。1年間を通して外に出続けていると、ただの外遊びでは経験できないセンス・オブ・ワンダーを自然から感じ取れることがたくさんある。その点、最近の月曜日の朝は、3〜4学級がしぜん広場で遊ぶ混雑ぶりだ笑。それでいいと思う。

さて、いよいよ3学期。しぜん広場で何しようか。はたまた、しぜん広場ではない、自然豊かな場所にこっそりいこうか。はたして、そんなヒマあるのだろうか。画策中である。