ファシリテーターはまず「みる」から。けど、どうやったら「みる」ことができるの?

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LAFTの冬合宿、わずかな忘年会の時間に、ファシリテータートレーニングをやった際、話題になったことがある。

KAIから「これと同じものを正方形の一枚の紙で作ってください。ただし、答えがわかった人は絶対に他の人にその答えを教えてはいけません。わかった人はファシリテーター役になってください」と、それぞれの机の上に、紙で折られたなんとも奇妙な形をしている、立体模型パズルが置かれた。一見、すぐにつくれそうなものだが、実際に一枚用紙に切れ身をいれてみると、そうなかなかうまくいかない。

詳しくはプログラムの詳細になってしまうので、ここには書かないが、この紙パズルは難解で、発想の転換をしないと解けないものだった。

このイラストはchatGPTで描いた不可能な折り紙だけど、ほんものはもっとシンプルだったはず。

そのおかげで、忘年会中、ずっと紙をいじりたおして、「そろそろお開きにしましょうか」という頃合いになって、「できた!」と深夜に歓喜の奇声をあげる輩までいたほどだった。それほど熱中していた。

この研修はいかにこのパズルをつくるかではなく、この研修デザインが秀逸で、答えを見つけた人が、まだ解いている人にいかにファシリテートするかであった。

僕は、驚いたことに、このパズルを案外スムーズに解けてしまった。

まずは「とりあえず無作為にやってみる」ことから始めてみると、だんだんと、辺の長さに目が向いたり、面積の組み合わせを考えてみること思いつき、少しずつ系統的な手立てが予想として立ちあがってきた。

しばらくすると、この図形は、筋道だてて考えてもできないかもしれないと疑いの予想がわいてきた。「もしかして今、思っている考えに『あたまのめかくし(思い込み)』があるな。どうやって転換したらいいのだろうか?」と思いながら、実際に紙をいじってみると。。。

あら、不思議。ひらめいた!

なるほど。解けてみると案外簡単だが、アイディアがひらめかないと、どつぼにはまるやつだ。解けて素直に嬉しい。数学的思考バンザイ。

でも、次のステップである「ファシリテーターとして」どうかかわるのか、これはなかなか難しい。

答えを教えてはならない。しかし、仲間が解決できるように何ができるのだろうか。学習者のプロセスをみるとはいうものの、一体どうやったらみるのだろうか。そこに的確にどう寄り添っていったらよいのだろうか。しんどい。お酒も回ってきているから、なおさらしんどい。

一人ひとり頭の中で起きていることは違うことも知っている。ヒントを出すことは、ファシリテーターへの依存を生むことなので、やらないことも知っている。なら、何をどうファシリテートするのか。

そこで、僕がカンファランス3原則と呼んでいる強力なツール

①今、どんなかんじ?(現在地の確認)

②次、どうなるといい?(目的地、ゴールの確認)

③こんな方法はどうだろう?(やり方、方法の提案、学習者の選択)

でかかわってみた。

「今、どんなかんじ? どこまですすんだの?」

たずねてみるが、仲間のK氏は「さっぱりわからん」と即答。

「じゃ、どうなるといい?」と尋ねると

「そんなのわかっとんじゃー!」とキレられそうだったので、

「今、分かっていることで、次どうなるといいの?」

と質問を小さくしてみた。

「辺の長さに着目してみたら?」

「面積は?」

「この考えでどうしてとけないだろう?(思い込みをはずす質問)」

すると

「今、ここをこうしたいんだけど、こうすると、こうできないから。。」

と「ここ」を連発して説明してくれていたが、僕にはいっさい伝わってこない。けど、自問自答しているのを側で聴いているだけだったが、K氏は何か閃いたようで、一人でまた黙々と作業にもどっていった。

その後、KAIから答えは明かされぬままに

「ファシリテーターがまずやることは?」問いかけがあり、

「みること、質問することからだ」とファシリテーターの姿勢についてレクチャーされた。

「教師はつい、ヒントを出してしまう。ヒントを出しているのは、教えていることと一緒。子どもに『先生、ヒントちょーだい!』と言われると、『あぁ、私、先生している!きかれてすごく嬉しい』という罠にはまっていってしまう」

つまり、考えるはずの問題が、教師からいかにヒントを引き出すのか、思考の主体が「自分から教師へ」とかわっていってしまう。

まぁ、これには「全員が達成できること」という、教師に思い込みがあるからこのスパイラルから抜けられないわけで。

僕はこのカンファランス3原則のおかげで、直接のヒントを出すことはなかったが、「頭の目隠し」をとるための質問をうまく投げかけられなかった実感がのこった。この感覚はけっこう授業でもよくあるものだった。

小手先のツール(カンファランス3原則)をこねくりまわしているだけではダメだ。この教材への見方がなければ、「みる」とはいっても、何をどう、みて、かかわるのか、見えていても知覚できずに情報は素通りしてしまう。ただ、「みよう」「みよう」としても、みてとれないことがよく起こる。それは、みようとする学習対象の専門性に欠けているときによく起こる。

学習者のプロセスをみようとするのなら、学習の対象である教材への分析的な研究がなければ、多くの情報を見過ごしてしまう。だから、教材準備や研究は大事だ。教材への愛は、学習者の学習プロセスをみるために必要な重要なへそなんだと気がついた。

教材への愛は、学習者への愛

そんなLAFTの熱い忘年会を年末にすごした。

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