2020年 6月 の投稿一覧

社会をよりよくしていくために今、自分ができることはなんでだろう

分散登校がはじまり、1週間が終わりました。

お昼時にニャオタロー(ネコ)に餌をあげよう一度、家に戻ろうと昇降口で靴をはいていたら、前年度の子どもたちと久しぶりに会えました。「いやー!ひさしぶりー」とハイタッチならずのエアタッチ。どうもすかすかして気持ちがわるけど、うれしい。

3ヶ月会わないだけで、声変わりしている子やぐっと背が伸びた子もいました。「なにしてたの?」と尋ねると、「なにも〜」「ごろごろしてたー」と即答。いい時間を過ごせていたようです。

やっぱり、学校はいいなぁ。もうひとつの家族のようで。

今週は、分散登校と自宅でのzoomを使ったオンラインホームルームの交互勤務。自宅時間をうまく使って、これまで参加できなかった企業系の研修にzoom参加しました。以前、NPOでお世話になったゼロックスのフューチャーセンターでお会いした荻原さんの「知識創造プリンシプルフォーラム」。

ここ数ヶ月、創造的な学びについて思案している中、野中郁次郎さんの「知識創造のSECIモデル」にヒントがあるのでは? と行き着きました。そこで、コロナ禍のもと、これからの社会向けて企業が何を創り出していくのか動向を知りたく気軽にzoomウェビナーに参加。ほんと、この時代、とても気軽に研修に参加できるのは、でぶしょうの僕にとってはとても助かります。

気軽に参加したけれど、ドストライクでした。この知識創造世界でのグルであるラリー・プルサックさん(不勉強のため知らなかったので著書を購入、これから読みます)からの動画メッセージに「いかに社会の役にたてるのか?を語ろう」とありました。がーん。実は、これが一番、僕の胸につきささりました。目の前の学級の子どもたち、そして学年、学校づくりそういう視野では考えることはあったけれども、社会的意義については、後は野となれ山となれだったなぁ。。。

本校では「地球市民の時間」という新しい教科を立ち上げました。英語をツール化せずに、人権や差別、世界でおこっている出来事に目をむけながら学んでいきます。僕は、ここに大きな可能性を感じています。しかし、いきなりグローバルな視点ではむずかしいもの。自分が今、生きているこの社会っていったいなんなのだろうか? 僕にとっての社会ってなんなのだろうか? 大きな事でなくてもいいので、身近な生活がちょっとだけでもよくなっていくための問題解決をしていきたい。これは、ラリー・プルサックさんの「いかに社会の役にたてるのか?を語ろう」と、根っこの部分でつながっていることに気付きました。

このコロナ禍で、目の前のことをこなすことや慌ただしさの中で、見失ってしまいがちだったこと、思いださせてくれました。「社会にとっての今の自分」って一体何なのだろう。とても大事な問いをもらったと思いました。しばらくは、いまここでじっくりと考えていきたいと思います。

一方、忘れないようにしたいこと。それは、大きなビジョンを掲げて終わりにせずに、具体的な実践とセットで語れない限り、無力だと感じています。思いを描いて、計画にして、形にしていけるようなこと、これが今の僕にとって、創造的な学びの第一歩なんだと思えてきました。

たった一つでいいと思う。人とのつながりの中で、身近な社会や身近な生活を少しでもよりよく変えていくこと。その問題解決することを、僕自身がまずトライアンドエラーでやっていこうと思う。最初はしょぼしょぼだっていい。あきらめなければ。これこそTQJ(探究自学ノート)になっていくんじゃないだろうかな。そして、これはきっと夢中になる楽しさに没頭する学びとは対立することではないはずだから。こういったことも、のちのち子どもたちと一緒につくっていきたいなぁ。

そのため、まず都知事選挙に行こうと思う。政治家が今、何を語るかよりも、これまで何をやってきたのか、やれなかったのかを鑑みて、慎重に投票しようと思う。民主的であるって事は、こうも自分の頭で考えて、決断しなければならないことが多いとはねぇ。なかなか大変ではあるけれど、大変納得できることでもありますね。

社会をよりよくしていくために今、自分ができることはなんでだろう。何をやりたいんだろう。考え中。

分散登校がはじまりました

少しずつ新学期がはじまりました。ほっと一安心。やっぱり、子どもたちと面と向かってみると、会うことでしかわからない「なにか」が発動されますね。その「なにか」に突き動かされて、あれやってみよう、これをやってあげよう、と動き始めてきました。場を共有すること。その場にいること。とても大事なんだと思います。

遠隔操作でちゃちゃっちゃと、効率的に学ぼうとすることはやっぱりちがう。それは、もともとやる気のある人ができることだと思う。多くの家庭では、オンライン学習でやる気をうしなってしまっている記事も度々目にしました。

けれども、この期間中、オンラインでつながっていることは、つながれないことよりはぜんぜん「まし」。これって相対的でしかなくって、ただのましでしかないってこと。一歩、たちどまって考えてみたい。学校って何を大切にするところだったんだろう。体験することや五感で味わうこと、人とふれあって楽しんだり、葛藤したり、そういう時間を大切にしていきたい。オンライン学習への立ち位置はまたじっくり考えていこうと思う。今後も切っても切れないことだろうから。

本来、学校は、だれもが一緒に場を共にして、学び、考えあっていけるところ。今、ここを大切にしていこうと思う。どんなに立派なことをいったり、崇高な理念をもっていたとしても、今、ここでなにをしているか、どのように子どもたちとつながろうとしているか、そこと大切にする自分でいたいし、そういう人といっしょに学びあっていきたい。

まだ、分散登校の今、少人数だからこそできることはなんだろう?

PAのジップザップをやりました。ジップ光線をザップ光線ではねかえす超キケンなアクティビティ。教室にスポットマーカー(島)を1〜2m間隔でサークルに置いて、遊びました。そこの上からおちたらうんこ地獄だぞと。こういうときの子どもたちはおもしろいですね。つまさき立ちで、「うんこうんこ」といかにもうれしそう。

ジップ・ザップに夢中になると、子どもたちは、ついつい真ん中に集まって密になってしまう。けれども、スポットマーカーをおくことで、この悩みがいっきになくなりました。だれを指し示しているのかも明確。失敗するのに、なぜか大笑い。あぁ、こういう時間だ。こういう時間は家では味わえないものなんだ。ちょっとどこか高いところで自分の気持ちをモニターしている自分がいました。たった12人のジップザップだったけど、午後のグループの子どもたちは、中休みにも楽しそうに遊んでいました。

少しずつ、今年がはじまりました。今年は24人の2年生を担任しています。ゆっくりと、子どもの気持ちにチューニングしていけるよう、心のゆとりを大切にしていこうと思っています。どんなアドベンチャーがまっているのかな。学ぶこと、考えること、人とつながること、失敗しながらもたくましくのびていってほしいです。あくせく、せかせかすることなく、ゆったりと今、ここの時間をあじわっていこうと思います。

は〜、よいよい。

自分にとってどんな創造的な時間だったのかな?

学校が再開されました。この失われた3ヶ月は一体どういう意味が自分にあったんだろう? 慌ただしい中で、ちゃんとふりかえらないとするりと忘れ、失われてしまいそうです。


つくづく学校とは、人との関わりの中ではじめて成立するものだとわかりました。どんな人であれ、どこにいても、だれかとつながっていることが、励みとなるし、生きていく糧になるんだと。


その意味で、子どもたち一人ひとりとの個別メールはとても意味があったし、先生も、子どもも、保護者でさえも「つながり」を求めていました。そして、この休校中の時間を、これまでできなかった「創造的な時間」にしてほしいと学校からなげかけてきました。この部分は本校ならではのよさがでたものだとふりかえっています。漢字を進めたり、復習ドリルづけのあまり意味の感じられない、網羅するような学習とは一線を画すことができたはず。


一方、その創造的が家庭任せでなかったのかも、あらためて振り返っていく必要があります。遠隔教育では、フォローしてくれる保護者の家庭教育力の格差がでてしまいかねません。特に、医療従事者の家族にとっては、はたしてどこまでつながり、支えることができたのか。このあたりのことも、同僚と期をみてふりかえりたい大切なテーマです。


今年は研究事務局長なる役割があり、この数ヶ月を思い出すと、決して自分の仕事の範疇だけではないことにまで首をつっこんでしまったことが反省でもあります。ただし、こういった緊急事態は、気付いた人がやることが、この緊急事態をしのぐもの。これまでの指示系統が通用しせず、1週間先の社会状況も読めないとき、これまで通りのマインドセットではうまくいかないことがわかりました。

はたして、自分はどれだけ、だれがやってもいいような「草むしり」を自分の仕事として、取り組むことができたのかな。それなりに取り組んではみたものの、これまで本校が大切にしてきた民主的なプロセスだったか?といわれたら、そうとは言い切れない時間に追われる提案の日々でした。

こういったときに、やってもらってあたりまえではなく、「ご苦労さん」「ありがとね」と自然と声をきけると、なんともまあ単純で、またがんばってみようかなと思えてしまう自分がいます。

さて、果たしてこの3ヶ月間、自分の過ごし方が創造的な時間だったのでしょうか? 

思いつく限りのことをあげてみると、新聞の連載を書き上げたこと、イタリア料理の研究をはじめたこと、そして、全国の先生達とフェイスブック上で探究自学ノートの研究をスタートさせたこと。遊び心をテーマにシーズン2を向かえ、残すことあと1週間となりました。zoomをつかった学習サークルの運営方法にもあるていど手応えをもつことができました。


僕にとっては、この探究自学ノート(TQJ)のメンバーで毎週火曜日と金曜日の夜、zoomを使って日付が変わる時間までいろんな教育話やどうでもいい話ができたことが、なによりも「創造的な時間」でした。クリティカルな気づきは、話し尽くされた深夜に訪れることもおもしろい見地でした。

ここでは自分だけでつくれるものは、案外たかがしれているものです。人のアイディアや人とのつながりをいかしながら、共に考え、もがいて、悩んで、形にしていく探究の学び。zoomの共有会議だけではなく、その間のグループ間でのやりとりも刺激的で、オンライン学習とは一体なんだったのか? も自分なりに検討することができました。


人とのつながりは大事だな。と、素直におもいます。それが、この分断された社会状況だからこそ実感できました。


まだまだ、このコロナ対応で人とのつながりを分断するような新しい生活様式はつづいていきます。一方、その中でもできることを見つけてやっていこうと、思いを新たにしました。


ただ、なによりもくやまれるのは、昨年度の大スキだった子どもたちとの授業じまいができなかったこと。美しい算数アドベンチャー。2年越しの取り組みだっただけにそれぞれが追求した算数の美しさのプレゼンをみられなかったのが、本当に悔やまれます。あの子達だけ、留年にして一緒に学びたいぐらいです笑。

今年は、2年生の教室を任されました。2年生の子どもたちとzoomでつながっているときの顔は本当にいきいきしていて、かわいいものです。いろんな不安を抱えている子もいるはずです。この失った3ヶ月のをとりもどせるかわかりません。それでも、また今年も笑いながら取り組むのがいいなと思います。

最後にいい詩をみつけました。

楽しさとは、

あなたの学んだことによってもたらされる心のありようだ。

学ぶとは、

このような楽しさを経験するとば口を、

くぐろうとすることだ。

楽しさなくして 学びなし。

学びなくして 楽しさなし。

ワン・ケン『喜びの歌』