念願叶って『火の鳥展』を見に行くことができた。開幕してから2日目の訪問である。今回、何よりも楽しみにしていたのは、福岡伸一が手塚治虫の『火の鳥』における生命観をどのように解釈するのか、という点だった。
福岡伸一といえば「動的平衡」の生命観を提唱していることで知られている。機械と異なり、生命は常に変化し続けるプロセスの中にあり、その躍動するプロセスそのものが生命であるとする考え方だ。今回の展示では「エントロピー増大」というキーワードがサブテーマとして掲げられている。世の中のあらゆるものは、常に崩壊に向かう法則に従っているが、生命はそれに抗うように、自らを破壊しつつ新たな細胞を生成し、命をつないでいく。
このような生命観が手塚治虫の『火の鳥』における「生と死」の描写とどのように結びつくのか。まさに待ちに待ったテーマであり、期待は高まるばかりだった。
今回は、LAFTのメンバー4人に加え、子ども1名も同行。全員が「火の鳥経験者」たちの集まり。六本木で待ち合わせをし、オタク集団(?)は意気揚々と展示を巡り始めた。
会場に足を踏み入れると、1巻から12巻までの各原画が展示され、それぞれにあらすじと福岡伸一による解説が添えられていた。驚いたことに、『火の鳥』は巻を重ねるごとに過去と未来を往還し、現代に近づいていく構想で描かれていたという。これを知っただけでも、大きな収穫だった!
手塚治虫の『火の鳥』は、時間軸を交錯させながら、過去から未来へと収束する円環構造を持つ壮大な物語となっていた。この構成は単なる表現技法の妙技ではなく、生命や宇宙の本質そのものを現すための必然的な形態であったのではないだろうか。

物語の時間軸は、古代から未来へ、あるいは未来から古代へと振り子のように揺れ動きながら、最終的に「現代」へと収束する。手塚は描かれなかった「現代編」を「自分の身体から魂が離れるとき」と解釈していた。それは、彼にとっての「現代」とは、彼自身の死の瞬間であり、『火の鳥』という物語全体の円環の着地点に他ならない。
1989年2月9日、手塚治虫は逝去した。そして最後の一コマを描くことは叶わなかった。福岡の解説によると、この未完の一コマこそが、手塚の生命観を象徴するものであったと推測している。
生命とは何か。
この問いに対し、手塚は『火の鳥』を通じて一つのイデオロギーを提示している。それは、生命とは宇宙エネルギーの一時的な集積に過ぎないという考え方だ。生き物が死ねば、そのエネルギーは宇宙に散らばり、新たな生命が誕生する際に再び吸収されていく。生命とは宇宙エネルギーの循環の一部であり、その流れの中で一時的な形をとっているに過ぎないと解釈できる。
この考え方は、福岡伸一が提唱する「動的平衡」と本質的に一致する。生命は静的な存在ではなく、絶えず分子の流れを通じて入れ替わり続ける。私たちは個として存在するように見えても、実際には絶え間ない物質の交換の中にあり、固定されたものではない。手塚が『火の鳥』で描いた生命の円環構造は、まさにこの動的平衡の概念を物語の形式として表現したものではないだろうか。展示場を進むにつれて、こういう生命の円環経験ができるようになっていたことに、終わってみると気づけるところがまた面白い。
また、『火の鳥』には、輪廻転生の思想が貫かれている。『鳳凰編』の主人公である我王は、小さな石工職人として生まれながら、今後、数々の転生を繰り返しながら、最終的には宇宙船の設計者として未来に現れる。彼の人生は無数の因果の連鎖の中で繰り返され★、そこには明確な終わりがない。これは、単なる仏教的な輪廻転生の表現にとどまらず、生命がエネルギーの流れの中で形を変えながら存続していくという、物理的・生物学的な事実とも合致しているだろう。その点では、『ブッダ』を越えていく手塚の生命観でもあり、おもしろく見学できた。
★我王は今後、猿田(猿田による宇宙船内の殺人により、火の鳥により輪廻転生の呪いをかけられ永遠に苦しんでいく転生がつづいていく)、猿田彦、猿田博士、八儀家正といった自分に転生し、時空を越えて生き続けることなる。個人的に『火の鳥』最大傑作は『鳳凰編』にある。小学生中学年だった当時、アニメ映画やファミコンソフトにもなったあの傑作は忘れられない。
手塚治虫がこういった思想に至ったのは、彼が虫オタクや医学博士としての科学的な視点を持ちつつも、人間の生と死に深い関心を寄せていたからだろう。彼は医学を学びながらも漫画家の道を選び、その作品を通じて生命の神秘に迫り続けた。そして『火の鳥』において、彼はついに一つの答えを提示する。
それは「生命とは宇宙エネルギーのほんの一瞬の仮の姿に過ぎない」という考え方である。
敷衍すれば、手塚の死そのものが『火の鳥』の物語の一部となる。彼が最後の一コマを描くことなく亡くなったことは、作品の円環を未完のままにすることで、生命の流転というテーマをさらに際立たせる結果となってしまった。本来は「現代編」を描いて、終わらせたかったはずである。今回「火の鳥展」のキービジュアルには、火の鳥が白いシーツの上に立っている。それは、手塚が描ききれなかった最後の1コマである手塚自身の死であった!



『火の鳥』が描いたのは、単なる輪廻転生の物語ではない。それは、生命とはエネルギーの円環であり、絶えず流れ続けるものであるという、宇宙的な視座を持った哲学的な探究であったにちがいない。
どんな小さな生物にも生命があり、エネルギーは絶えずめぐっていく。生と死の連続し、永遠に受け継がれていくだろうというメッセージ。これは福岡伸一のいう生命は流れの中にある動的平衡であることと一致しているからこそ、今回の「火の鳥展」の企画監修を引き受けたことが語られていた。
まさか、子どものころより読み込んできた手塚作品が、福岡伸一の生命観でトレースされるとは思ってもみなかっただけに、大満足のLAFT生命編だった。
次回は、LAFT松本零士編!あるかもよ!笑。ちなみに最近の夜読書は『銀河鉄道999』で、あのメカニックな表現とへたうまいキャラクターたちがたまらない。