2024年 5月 の投稿一覧

映画「オッペンハイマー」は中動態に翻弄された悲しい男の物語だった

クリストファー・ノーランは好きな監督の一人だ。「TENET」「インターステラー」はおすすめ映画にははずせない。ずいぶんと昔、「メメント」を観たが、まったく意味がわからないでつい繰り返しみてしまった。白黒映像を差し込みながら時間軸をうまく操作し、視聴者を引き込む手法は秀逸。今回の「オッペンハイマー」もやっぱり白黒映像が所々に入り込み、観ている観客をやっぱり混乱させてくれる笑。終わってみると「あぁ、なるほとね」「そういうことなのね」と納得感はあるが、やはりみている最中は混乱してしまう。この映画は映画観で3時間、一気見しないと絶対、寝ちゃうやつだ。「十二人の怒れる男」のように、ずっと議論が続くから、考え整理しながらついていくのがやっと。集中力がためされる。登場人物も多く、みんなどこか科学者はにているからなお分かりにくい。

この数年、子どもたちと平和教育についてずっと学んできたからこそ、原爆の父である映画「オッペンハイマー」を好意的に観られるのか懸念があったが、その気負いとは別に、この映画は上等なエンターテイメントだった。ドイツ・ナチスに先越されまいと量子物理学の理論を用いた原子力爆弾の作成には、野心家としてのオッペンハイマーが描き出されていた。本来なら、世界の戦争を終わらせられると信じていたこの原爆も、実際に広島、長崎に落とされることで、その威力のすさまじさとその後の後悔へ進む心理的描写もうなずけた。ただし、広島・長崎の被害については具体的には触れられていない。あくまでもオッペンハイマーの心的情景を中心に進められるので(このあたりは「メメント」と同じ手法)、その人になって映画をみる構造となっていた。一人の男の変化を追っていくそういう物語であって、原爆から平和を考える映画ではなく、あくまでもエンターテイメントだった。

物理学者って個々人の倫理観ってどうなっているんだろう。

これがこの映画の鑑賞後にざらりとのこっていて捉えて放さない。科学者の野心に、世界状況もあっての原爆開発。それでも、この兵器がどう使われるのか少し夢想すればわかることだろうに。知識の不調なのか。自分がやらなければ他の人が代わりに選ばれるだけのこと。それでいいじゃないか。あえてオッペンハイマー自身が地獄の鬼となることを選んでいく。これって「能動的」でも「受動的」でもなく、その場がそうなっていく「中動態」が悪にはたらく場面じゃないだろうか。そうなったとき、科学者集団としての倫理観は対抗できなかったのだろうか。本当に平和を、戦争を終わらせようと思うなら、こういう技術に与しないことを選ぶといい。アインシュタインがそうしたように。ぐるぐる考えてみると、なんと悲しくも力ある男の物語だったと心にのこる映画だった。

マット・デイモンのちょび髭軍曹はうけた。新しい境地を生み出しているのがともていい。

心と身体で感じる野生の主体性を発揮してる?

LAFT中動態のキックオフ。急な呼びかけにもかかわらず、小中、公立私立の校種をこえて、「疲れているけど」12名ほどの参加者が集まった。多くはLAFT留年組(シーズン終わっても継続メンバー)と、ここにまた「中動態」に興味を持つ新しいメンバーが加わり、今期もまた、新しいまぜこぜの場が生まれている。「いつメン」だけに固定されず、テーマによって少しずつ変わるメンバー構成はなんだか心地よく、ゆるやかな集団でいいなと思う。そして12名程度だと、サークル対話でじっくりとお互いの興味関心やその違いやズレを交換しながら進められるギリギリの人数だとも感じた。

それぞれが話したいことを話す自己紹介を終えて、「今、思う中動態」ってどんなものかを思うままに話し合った。いきなり中動態核心へ向かう前に、こういうゆったりとした対話のエンジンをあっためる時間は大事にしたい。

僕のハイライトを残しておきたい。

学校という場は、子どもたちに常に主体性を期待している。子どもが主体性を発揮する前の状態や、受動・受け身でいられることをあまり歓迎されていないのではないかという投げかけがあった。だからこそ今回のテーマである「中動態」メガネをかけることは、子どもたちをよりそのままでいられるように、捉え直すことができるのではないか、という期待感もふくらんでいった。

その主体性にも野生の「主体性A」と知性の「主体性B」があって(この辺りは久保健太『写真と動画でわかる!「主体性」から理解する子どもの発達』に詳しい)、本当に心から感じることを、行動しようとしてできているのか。

ちなみに

主体性A:様々な感覚がその人の中に湧き出てくること。快も不快も、心が動く主体性のことを指す。

主体性B:主体性Aの感覚を整理しながらする/しないを決めることで、頭が動く知性の主体性のことをさす。OECDのいう行為主体性エージェンシーに近いかな。

中動態を学ぶことで、期待している学びの場において「いいこと思いついちゃった」と子どもが自由な主体性を発揮し、その場にいるメンバーを巻き込みながら、創造的なアイディアが生まれていく。でも、それ以前に本当に心から、子どもが心から、身体からやりたいことを発していられる野生の主体性Bが発揮されているのか、LAFTメンバーはそれぞれの教育環境への自問が始まった。

僕はこういうアイディアが創発的に到来してくる場は、しっかりとした授業設計が必要だと思う。どういう学習環境や子どもたちの関係性があるとより中動態する場となるのか見極めていきたい。同時に「あそび心」が許されないと、こういったクリエイティブな学び合いは生まれてこないこともわかってきた。無駄や寄り道、サボったり休憩することこそが、授業の中にすでに含み込まれて設計されているのかどうか、この辺りはもっとじっくりと考えていきたい。

じっくり4時間、対話が終わってみると不思議で、なんだかすでに『中動態の世界』や『子どもの遊びを考える: 「いいこと思いついた!」から見えてくること』を読み終えてしまったかのような清々しい錯覚に陥ってしまう。まだ読んではいないけど笑。

次回のLAFTは6月14日を予定しているので、中動態で見る授業に興味がある方は一緒に学べるといいですね。このゴールデンウィークはじっくりと課題図書となった『中動態の世界』を読み直していこうと思います。ためしに『<責任>の生成ー中動態と当事者研究』を読み始めたら、おもしろすぎてとまらない。