奈良教育付属小の問題は、教育現場の自由実践の抑圧にならないか

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奈良教育付属小学校の履修問題に関して、文部科学省は各付属校に通知を発行した。この事態を受け、僕は教育現場における自由な実践が躊躇され、萎縮するような状況が生じてはならないと懸念している。

研究の本質はその性質上、ガバナンス(組織統治)とは相容れないもの。全国で一律の管理下では、イノベーションが生まれる余地はほとんどありえない。

公教育における管理職の重要な機能の一つは「平等」の実現にある。これは、北は北海道から南は沖縄に至るまで、どの地域でも一定水準の教育を提供することを意味する。でも、このような管理を強化すればするほど、教育現場は息苦しくなってしまう。なぜなら、教員個々の「自由」な実践の保証が失われてしまうからだ。

平等と自由はしばしば対立する概念だ。管理職は教員への配慮を心がける必要があり、同時に、教員も管理職の役割に理解を示し、互いに協力し合う姿勢が求められる。今回の件は、職場における基本的な思いやりが欠けていることが、問題の根底にあるのではないかと想像してしまう。管理職も現場教員も同じ仲間集団でありたい。人に優しくありたい。

文科省が通達を行ったとしても、日本の教育が著しく改善されるとは思えない。革新的な教育実践は、教員一人ひとりの独自性と自由に基づいて成し遂げられると僕は考えている。振り返ってみても、管理職の指示に従っているだけでは、子どもたちにとって必要な新しい教育実践を創造することはできなかった(単に自分に力量がなかったのだが)。

このことは管理職が無能であると言っているのではなく、単に彼らの役割が異なり、現場の教員には子どもとの直接的な関わりを通じて得られる教員固有の教育手法があるということだ。

僕が懸念しているのは、教育現場の教員が、指導要領、カリキュラム、教科書に沿った教育を、無意識のうちに過度に忖度し、重視してしまう風潮が今後ますます強まることだ。これにより、教育の革新と多様性が失われる可能性があると危惧している。

僕は教育実践において自由を重視している。「数学者の時間」では、自由実践に見える活動の背後には、カリキュラムとの対立を避けるための緻密な設計があり、教科書の使用を基本としている。

この「数学者の時間」は、指導要領と並行するデュアルプログラムとして機能する。教科書ベースの授業で得られた基本的な知識をさらに深め、豊かにすることが可能だからだ。算数・数学メガネを通じて世の中や問題解決に対する深い理解と探究心を育てることを目指している。だから、逆に教科書から感謝されてもいいくらい。

今後、自由な教育実践が制限されそうな状況に直面したとき、僕は積極的に声を挙げ、若い実践者たちの試行錯誤を守っていきたい。実践者たちは新しいアイデアを試み、教育に新たな息吹をもたらす貴重な役割を担っているから。

この点について、先週まで読んでいた山崎雅弘氏の『アイヒマンと日本人』(祥伝社新書、2023年)に触れたい。

第5章からの論考が圧巻だった。

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みなさんは、アイヒマンという名前を聞いたことがあるだろうか。アドルフ・アイヒマン。ナチス・ドイツ政権下で国策として実行された数百万人ものユダヤ人に対する大量虐殺を、ナチス親衛隊の中間管理職として指揮した人物である。彼は「(大量虐殺を実施したのは)自分はただ与えられた命令に従っただけだ」と主張し続けた。

おどろくべき言い訳! 一体、これのどんな点に問題あるのだろうか。われわれ日本人の中にもある「アイヒマン的なまじめさ」があると著者の山崎は説いている。

哲学者ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマンがホロコーストに従ったのは、彼の異常性ではなく、普通の「正常性」の中にあったと指摘した。アーレントによれば、アイヒマンは実際にはそのナチス政党やその取り組みを「支持」していたと解釈できるとし、アイヒマンが単に上司の命令に「服従」したのではなく、自分で考えることをやめ、命令に従うことを選ぶ率先した「支持」をしたと分析している。ホロコーストの責任から逃れるためにアイヒマンが「自分はただ与えられた命令に従っただけだ」との服従を理由にすることは、政治的や道徳的に誤りであると主張したのだ。

アイヒマンの例は、命令に忠実であることと、職場内での個人的な利益や保身を優先することの危険性を僕につきつけてきた。

これは、真面目に与えられた命令を遂行しようとする僕は、知らず知らずのうちにアイヒマンのような状況に陥る可能性がある、という恐ろしい事例だ。

職場で上司と対立することを望まないのは自然なことで、多くの人々は上位者との衝突を避け、命令に従って良好な関係を保つことを選ぶかもしれない。日本社会において、このような思考形態は一般的と考えられている。

しかしこの本は、組織の一員として働くことと、正しいことをするという個人の責任との間でバランスを取る必要性を浮き彫りにしてくれる。

アイヒマン的な「支持」に従うことは、言われたことを無批判に受け入れることに他ならない。イエスマンになってはいけないのである。命令や不公正な行動に対して、反対の声を上げる勇気が求められる。これは教育の現場においても重要な教訓である。

僕が懸念していることは、今後ますます「指導要領どおりに」「カリキュラムどおりに」「教科書どおりに」「学年同一歩調で」「掲示物はみんな一緒で」「お尻の拭き方もみんな右手で」などという風潮を、現場の教員が勝手に忖度してしまわないかという危惧でもある。

もちろんやるべき事はやるし守るべき事は守る。だが、文部科学省や管理職の指示に盲従するのではなく、現場の教員がカリキュラムを網羅することの不安に囚われることなく、教員一人ひとりの自由な実践が尊重され、ビビらず安心して働ける教育実践環境を願ってやまない。履修アンケートとかいらないからね。

おそれることはない。これまでもこれからも自由な実践を大事にしていきたい。

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