2023年 11月 の投稿一覧

OECDパリ本部の方から「数学者の時間」の取材を受けた。新しいスタートへ。

OECD(経済協力開発機構)パリ支局のプロジェクトマネージャーの方から、日本の教師として「数学者の時間」について対話をしたい申し出があった。いきなりの英語でのメッセージに「辛いとき諦めずに生きている新手の井上香織」かと疑ったりもした。それほど今の僕の生活にOECDとは縁と心当たりがなかった。

結論からいえば、OECDが標榜するラーニングコンパス2030の概念ビジョンに向けて、その具体的な実践として、本物の数学者の見方・考え方をしながら、社会的事象を問題解決するために「数学者の時間」はそれと近く親和性があるとのことだった。

今は便利な世の中。国をまたいでもオンラインで対話が可能。フランスとは8時間の時差があるので、僕は日曜のバスケ帰りに自宅からzoomで参加した。その話し合いは、OECDの職員の方と文科省から出向している職員、そして僕の3人で始まった。気付いたら、留学生や高校生も参加して、ごちゃまぜで賑やかなものになっていて、楽しいものだった。

このプロジェクトに僕を仲間にいれるかどうか、zoomに参加しているメンバーで多数決がとられた。僕の目の前で!汗。でも参加者全員が歓迎してくれた。満場一致の結果ははじめてのことだそうだ。大谷翔平とならんだかも。面接?に合格できたようでよかった。

そもそもどうして僕なんかのところにこの話が来たのだろうか? 

OECDは今年、「THE FUTURE OF EDUCATION AND SKILLS OECD Learning Compass for Mathematics」をローンチした。

https://www.oecd.org/education/2030/OECD-Learning-Compass-for-Mathematics-2023-13-Oct.pdf

しかし、僕もそうだったが、その存在さえも知らないままだった。僕が払っている税金でこういった世界的な数学研究が行われているにもかかわらず。こういった考えを広げ、算数数学を正解当てっこにしないために、OECDは精力的に世界的に動いているようだ。

フィンランド、ドイツ、ヨルダン、ニュージーランド、ポーランド、そしてアメリカなどの数学研究を教えてもらった。そして様々なステークホルダー(学者、生徒、先生など)とつながって、日本においてもその渦を起こしたいとのこと。

そこに、たまたま僕が細々と続けて発信していた「数学者の時間」のことや、教師としての自分自身のことをオープンマインドでつづられていたことが重なり(この姿勢はラーニング/ティーチングコンパスで目指しているそのものの姿勢だったようだ)、話を聞いてみたいと連絡があったということだった。

僕はOECDのことについては、ここ数年、まったくといっていいほど勉強できていない。話を聞いてみると、学びとは目の前のものではなく、もっと長い人生をかけて人を豊かにしていくウェルビーイングなもの。そんなビジョンを教えてもらった。最近の僕はどちらかといえば、今この瞬間に数学することや考える楽しさみたいなものに注意がいきがちだった。

これもバランスが必要だ。もっと長い視点で、世の中をどう生きていくのかそのために何が必要なのか。そしてここからが大事だが、そのために「今やっていること」が本当に助けになることなのだろうか? このことについて真摯に取り組もうとしているのがOECDであり、そういう印象を受けた。

今後、どのような形で一緒に共同研究が進んでいくかはわからないけれども、「数学者の時間」へ一定の評価をもらえたことに安心している。続けてこられて本当によかった。

LAFTのガモちゃんの実践発表が終わってから「実際に、数学者の時間を体験したいので数学者の時間体験ワークショップを企画したい」と声があがっている。僕にとっては、これほどうれしいことはない。

人生とはひょんなところから何が変わるかわからない。そのチャンスは日々に中にたくさんあるんだとおもう。そのためにも日々を丁寧に、決しておごらず、生きていたいなと改めておもったしだい。

さて、明日から進学に関わる保護者面談がスタートする。なかなかハードな日々が続くが、残り1ヵ月走り抜けたい。

学校には「評価されない時間」がもっとあってはいいのでは?

学校には、学力から解放される学びがもっとあってもよいのではないだろうか。

この意味で昨日の学習サークルLAFTでは、とても革新的な「数学者の時間」の提案がなされたと思う。

これまで10年間!一緒に研究してきたガモちゃんからの「数学者の時間」の実践発表から昨日の学習会はスタートした。報告を終えて、参加者から質問があった。

「数学者の時間は、普段の算数授業にどのようにいかされているのか」

ガモちゃんからは「その影響はまだよくわからない。けど1年間続けてみると、思考体力がついていると思う」という素朴な返答があった。

このやりとりを聞いていて、僕はそもそも「日常につながるための何かの能力や、学力を高めるために「数学者の時間」をやっていないのではないだろうか」という気づきがあった。

もちろん、子どもたちには考える力をつけてほしいし、普段の算数授業においても十分いかされてほしいとはおもっている。しかし、本当にその何かを身につける為に算数数学と同じような教科の延長として「数学者の時間」を捉えていいのだろうか。

一緒に考え合う中で、1人では、なしえなかった考える楽しさを味わい、数学的体験に没頭し、問題ができようができまいが夢中になれる時間を、僕は数学者の時間として定期的に確保しているんじゃないだろうか。もしそうなら、学力を高めるために数学者の時間を設定していないかもしれない。

じゃぁ、その学力ってそもそもなんなのだろう?

これについて参加者と3つのグループに分かれて話し合いを深めていった。どのグループもいずれもこの学力というものの「一側面でしかない」ことが批判的に語られたと思う。ならば、学校教育はこの数値的で一面的にしか捉えられない学力を本当に推進していっていいのだろうか。

もちろん社会でいきていくため身に付けるといった能力はとても大事なこと。ここで大きな課題は、この能力は本来多様であるはずのものなのに、測りやすいものに限定され、数値に還元され、受験のような今後の将来を規定されてしまう、狭いものの見方の「学力」ということだ。

ガモちゃんよる「数学者の時間」の実践発表は、子どもたちがその時間を考えることを楽しんでいた。そしてよく話し合っていた。興味のある事へ川の速さを測ろうと1人でやっている子もいた。そしてその個別の課題にも教師として形成的にカンファランスがなされていた。

学校の中のものは、何事においても評価がとつきまうことが多い。ほんとにそれで良いのだろうか? 評価から解放されて、その時にそのもっているもので、純粋に楽しむことや考えることへ没頭するような時間があって良いのではないだろうか。これは休み時間のみ許されることなのだろうか。

クラブ活動はどうだろう。これには何か数値的な評価はされな。そして子どもたちはクラブをとても楽しみにしている。なんならクラブのために学校に来ている!といいそうな子が目に浮かぶ。

学習会では、ケンケンから実際に「数学者の時間」を体験してみたいと言う提案があり、ブッククラブを急遽変更し、問題を解きあう「数学者の時間」の入り口を設定して以下の問題をみんなで解くことにした。

算数数学重症患者だった人からは、「考える楽しさ体験できた」と感想があった。1人で読んで解こうとしてもわからなかった問題を、隣に誰かがいてくれることで諦めずに進められた経験ができた。また、一方でひとりで考えたい人もいることも語られた。

僕は数学者の時間で、現行のがんじがらめの能力を高めるための学習や何かを身につけるための「できる/できない算数数学」を、相対的に価値を薄めてくれる効果を期待しているのかもしれない。

僕は何かを学力として身に付けて人より高いものに高みにいくために能力磨きに推進するのならば、必ずそこには能力の高い低いという格差が生まれてしまう。学級という固定化された関係性においてはこれが顕著となってしまう。本当はもっと多面的で多様な側面が人にはあるにもかかわらず。

人にはもっと評価されるべき側面があるはずだ。数学者の時間の中でおこっていることは、人に寄り添ったり、一緒に考えたりする親切だったりもする。そういう苦手なことをも含みこんで一緒に生活していく小さな社会が生まれたりもする。こういった哲学が「数学者の時間」の中には埋め込まれているのではないだろうかと考えた。

この辺のことについては、今後も引き続きいろんな人とももっと対話をしながら考えていきたいなぁ。

「問題づくり」でその問題の特徴を味わう

入試をはさみ、しばらくぶりの数学者の時間。前回の「ロープにつながれたヒツジ」問題の特徴をつかって、自分でも問題をつくった。

数学者の時間 特殊化(ためす)から問題解決を

数学者の時間 特殊化(ためす)から問題解決を

この「ロープにつながれたヒツジ」問題の特徴は「欠けた円の面積を求める」「いくつかの面積が複合している」。つまり、この二つの要素をつかって問題づくりができていればOK。

この時間は、前回の良問である「ロープにつながれたヒツジ」問題を解いてもOK、また、今回のミニ・レッスン「問題の特徴をいかす」で紹介した子どものつくった「ロープにつながれた友だち」問題をといてもOK。これもまたシンプルにいい問題。

「右の図のような一辺が10mの家があります。そこに○○さんと□□さんが10mの糸につながれています。○○さんはAに、□□さんはBにつながれています。2人が動ける範囲の重なりは何㎡ですか。」

毎回のミニ・レッスンにはこうやって子どもたちがつくった問題を使っている。今回は、前回のヒツジ問題をすでにといて自分で問題づくりをしていた子の問題をかりた。この問題は修正する前は、「2人が刑務所に鎖でつながっている問題」だったので、それはさすがに、、、と修正を依頼してこうなった。

となりのクラスでは、おもしろい問題をつくっている子がいた。じつはこれってかなり頭を使う問題になっている。凸凹のところのロープの曲がり具合がまた頭をひねるつくりになっている。これも問題の特徴をいかしたよい問題のひとつ。

さらには、頂点Aの転がった弧の長さを問う問題。ロープの自由な動きから三角形を回転させる動きへと発想を広げ、さらには面積から円周に拡張。なかなかやるな。

数学者の時間は、子どもたちの可能性がまた一歩大きく広がる時間。次回は、子どもたちが作った問題を解き合う時間へ。

「君たちの可能性は無限大」は励ましにならない!という子どもから指摘

算数の「割合」授業のこと。子どもたちの実態から円グラフをつくる学習をしようと考えた。

事前アンケートに「君たちの可能性は無限大だ」と書いて、子どもたちの一人ひとりに将来の夢をきいた。

一覧表にして、項目ごとにまとめる作業をしてみると、子どもたちの傾向が分かっておもしろかった。

まずは、医療関係が多いこと。そして、動物関連の仕事が同じくらい多い。小学生代表的な今流行のYouTuberみたいなのはなかった。

ミュージカル女優、JR運転士、動物保護、海洋学研究者、小説家、どれも夢があっていいなと思う。「イガせんの子どもの頃の夢は?」と聞かれたので、マンガ家だったのを思い出した。

1人の子が真面目な顔をして「イガせん、子どもの可能性は無限大っていってたけど、それはみんなの可能性は限りなく0に近いことだよ」と話しかけてきた。

チョット何いっているのかわからない。

スルーしていたら、次の日、書面にして説得してきた。

どういうことだろうか。

僕は「君たちの可能性は無限大、将来なりたい職業を〜」とアンケート設問に書いた。この「可能性」という言葉を「確率」におきかえて考えてみると

職業の選択肢が、X個ある場合。

X個ある選択肢の中から1つを選ぶ確率は、

1/X (エックス分の1)

Xが∞のとき

1/∞ (無限大分の1)

これはつまり1をできる限り∞でわけていくので、限りなく0に近い。

1/∞ = 0 (無限大分の1は、0)

つまり、君たちの可能性は「カギリナク0」デス!

ということだそうだ。

へりくつは大歓迎だ。おかわりしたいほどだ。こういう子が育ってくれて面白いなと思う。

ふりかえる言葉

僕の座右の銘ってなんだろう。そういうのないかもなぁ。でも最近、定期的にふりかえっている言葉がある。なにかの本で読んでずっと心にのこっている。

Live as if you were to die tomorrow.  

Learn as if you were to live forever.

永遠に生きるかのように学びなさい。

明日死ぬかのように生きなさい。

マハトマ・ガンジー

この歳になると、身近な人の死に出会うことが増えてくる。自分のしまいかたも考えるときもある。

人はだれしもいつかここから旅立っていく。さみしいけれど、もしかしたら、それは今日かもしれないし、明日かもしれない。

死を意識して生きていくことは、実感をもちにくく、わかりにくい。これはとても難しいことなので、ついつい日々の活動に追われて、流されてしまう。

あのときの自分がしてあげられること、あのとき自分がもっとできること、一つ一つ後悔しないように今日を精一杯生きられるといい。

働きすぎず、自分の正直な気持ちを伝え、大切な人と連絡をとり、幸せになろうと決める。いつもゆったりと泰然自若にきげん良くいること。それが何よりの心の平和と幸せ。それに少々のユーモアを。

自分に多くを求めすぎないようにしよう。慌ただしさやせわしさは豊かさを失うだけでなく、ていねいさをも失ってしまう。

今、できるひとつのことを大切にして、利他を呼び込むていねいなくらしをつみかさねていきたい。

僕はけっこうこういうことをふりかえって、立ち止まる時間を大切にしている。それでも、こんな毎日だけど。まぁ、今日を丁寧にはじめよう。いってきまーす。

僕のイヤホーン事情

僕には「これだ!」と決めたらとことん買いそろえてしまう悪いクセがある。最近、はまっているのがイヤホン。

ほんとに便利な時代になりなった。今は、だいたい3つのBluetoothイヤホンを使い回して大変満足。家事をしている時用、トレーニング用、移動用の3つの場面で使い分けている。

料理しているときには、だいたいiPadでなんか流し動画し、大抵は映画・アニメ(最近は「葬送のフリーレン」と「とんでもスキルで異世界放浪飯」のほんわかした世界観、「進撃の巨人」の完結はやはり熱かった)、落語、そしてレトロゲーム世代にはたまらない「ゲームセンターEX」がおすすめ)を聞き流している。

ただでさえ英語、聞き取れないのに、洗い物をしてしまうと音声がまったく聞こえない。台所は火加減みたり、炒め具合を音から知るので、外からの音が聞こえることも大切。そこで骨伝導イヤホンを使っているが、これはもう手放せない。開発した人、天才。ノーベル骨伝導賞あげたい。

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また、トレーニングしてるときは、サウンドコアのイヤホンを使っている。これは当時アップル製のBluetoothイヤホンは高すぎるため、しかし、それなりによいものがほしかったのでサウンドコアを購入。今では、Kindle FireのHD 8モデル(小さいので便利)4倍速で聞き流し用イヤホンとなっている。

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そして、普段使いのiPhoneとPC本体にペアリングしているのが、Echo Buds。セットアップするにはちょっとクセがあるけど(先にBluetooth設定をしてしまうと、セットアップができない)、ポケットに忍ばせておいて、歩きながらKindle本を2倍速で聞けて、なかなか便利。たまに自分の書いたブログを読み上げてもらったりとアレクサは優秀だ。この値段でノイキャンついて1万円台ととてもコスパもいい。

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結局、イヤホンて「わざわざ」準備しないとなかなか日常づかいにならなかった。だから思い切って、場面に併せてイヤホン購入してみたら、「あら、いやだ。とても快適よ」ということで音楽、オーディオブック生活が充実している。

今、一番人気は「おしゃべり」だそうで

発達段階なのか、最近、子どもたちの様子をみていると、何かをして遊ぶというよりは「いっしょに、おしゃべり」を楽しんでいるみたい。

今日の放課後、子ども面談を終えて、部屋からでてくると、クラスの女子軍団が集まってなにかノートにメモしていた。近くを通りがかると「あ〜! みちゃだめ!!」とそくざに隠した。

なにそれ。あやしい。

「だって、好きな人の表なんだもん」

「私たちの関係しっちゃったら、担任の仕事って、意識しちゃうでしょ」

だめだめだめ、と嬉しそうに隠す。

なにそれ。なおさら、みせてほしいじゃん。そもそもその表のつくりが本当に表として数学的に機能しているのか確かめてもあげたい。

まぁ、何かよからぬことをたくらんでいるようでなかったので、よしとしよう。

そもそも、誰もがみられるところで、おしゃべりしているくらいなので、観られて困るものでもなさそう。なんか楽しそう。

子ども面談でも、「友だちとおしゃべり」がほんとに楽しいらしい。同じマンガをよんでその話をしていると、いつの間にか集まって男女でおしゃべりがはじまる。それがなんとも楽しいとか。そのマンガは「少年ジャンプ」らしい。今も昔もかわらないな。

そうこうしていると、隣のクラスの子たちが「イガせん、この本について話そうよ」と最近出版されたばかりの『ジ・アート・オブ 君たちはどう生きるか』のファンブックを大事そうにわきにかかえて、待ち構えていた。

今日は、面談とその後との会議で時間がとれなかったけど、宮崎駿に対するヲタクな情熱は僕も負けていない。やはりベストはナウシカだ。それもアニメではなくマンガ版。

ここに来て、子どもたちの人間関係もゆるやかにかわりつつ、楽しそう。友だちに会いに学校に来ているかんじが伝わってくる。こういう時間をもっと大切にできるといいなぁと思った。

いいこと思いついた「ブックバディ・プロジェクト」

ありがたいことに、バスケットDVDの買い手もすぐに見つかり、次のバスケットマンへ旅立つことに。

最近、考えることに、「ものを所有する」ことって、ほんとに必要なのかなぁと。購買意欲や消費意欲って、自分で決めてられていなさそう。

どうも広告におどらされている自分がいそうで。Amazonリコメンド機能ってほんとにそれっぽいの教えてくれるけど、「あえて」購入しないように葛藤している自分がいる。なかなかよいチョイスだけに悩ましい。

所有することのひとつに本の扱いをどうしたらよいものか。

僕は本は身銭を切って買うことが大事だと思っている。出版社や著者、そして読者のためにも。

でもあまりにも多読でいろんなジャンルの本を手にとると、これ1人で所有していてももったいないなぁと思う。もちろん金額もなかなかかかるし。

いいなぁとおもう本をもっとわかちあいたい。

「そうだ、いいことおもいついた!」(よく幼稚園の子が言っているのをいつか使ってみたかった)

本を「共有」するブックバディ・プロジェクト(略してBBプロジェクト)はできないだろうか。図書館とかでなく、僕の選書や嗜好があいそうな人とブックバディを組んで、お互い本を交換する。

一ヶ月のそれぞれ本にかける金額は10000円までとする。ちょっと高いかな。僕もその範囲で、好きな本や読みたい本を買う。もちろん、ブックバディも10000円でその人が好きな本を買って、読んでみる。読み終わらなくてもいい。これは電子書籍はダメ。

そして月に一回、実際に会って、自分たちが買った本をまるごと交換して、お互いにすすめる。これなら、本の所有が半分ですむし、お財布にもやさしい。けど居酒屋でやってしまうとむしろ赤字だ笑。

昔って、よく本を貸し借りしていたけど、最近、電子書籍になってからはめっきりそういうことはできなくなってきた。

僕の予想だと一月に4〜6冊ぐらいは読めて、さらに4〜6冊ぐらい、自分では手に取らなさそうな本が手元に入ってくる。もしかしたら重複するかもしれないけれど、それならそれで「気があうね」でいい。

こういうのマッチングアプリみたいにできる仕組みがあれば、世の役に立ちそう。

どなたか、ためしに一ヶ月限定で、僕とブックバディを組んでみてくださる方はいませんかね笑。

うそうそ。これって、本の扱いにひっかかりそう。

思考実験としてこういうプロジェクトやってみるとおもしろそうだけどね。

全ては基礎基本に立ち返ることから

推し活をおえて、渋谷から帰ってきた。今夜も負けてしまった。今期の日本プロバスケBリーグ始まってからは、下馬評ではチャンピオンシップ進出も期待されていたサンロッカーズ渋谷は、今日で3勝10敗。今夜の青山学院体育館では、あの河村くんにぼこぼこにされてしまった。てきながらあっぱれ。はやくNBA挑戦をみてみたい。

応援ばっかりしててもあれなので、自分のバスケも上達をしないととおもい、先月発売されて話題となっていた仙台大明成高校の佐藤久夫監督DVD『U-18 誰にでもできることをしっかりプレーしよう』を手に入れた。

あの八村塁を育ての親でもあり、仙台高や仙台大明成高を何度となく日本一に導いた佐藤久夫監督。6月に亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

すべては基礎に立ち返る。3枚組のDVDには、丁寧に高校生(今年のウィンターカップの主力選手達)を基礎基本から指導していた。

バスケって、複雑すぎてぐちゃっとしてしまうので、何が原因で上手くいかなかったのか、どうしてタフショットになってしまったのか、またはターンオーバーになってしまったのか、よく分からないことが多かった。しかし、この指導DVDではそこをすっきりと解決してくれた。

結局は一対一の基礎が身についているかどうか。

これが、ディフェンス2人に囲まれてしまったり、プレッシャーからミスが生まれてしまうのは、基礎ができていないからだ。いつもは落ち着いてできるプレーでも、プレッシャーがかかると判断力を謝ってしまうのは、ボールのミートからシュートまでの一連の動き、これが本当に身体化できていないからだ。つまり基礎基本にもどるということ。

DVDでは、2対2、3対3、4対4へと進むにつれ、より複雑な酢クリメージとスペーシングの判断力が要求される。そうであっても、ちゃんと1対1の基礎に立ち返れば、すべては解消される指導内容となっていた。うーん。これには驚いた。素晴らしい指導系統。これぞ瞠目たる系統的カリキュラム。このDVDが24000円もする意味がよく分かる。というか高すぎるよね!

佐藤久夫監督からの教えで1対1の基礎で大切なボールミートのことメモ

「基本ができていればスクリーンはいらないで振り切れるんだよ」やさしい口調で佐藤監督は話されている。あぁ、ピックアンドロールに逃げてました。。。

ボールのミートでは

①ラダーを踏む

・ラダーを踏んで、ディフェンスをよく見て、逆を突いて急発進してふりきる。

・考えもしないで動いてはダメ。ボールマンの状況、ディフェンスの状況、スペースの状況の3つをみる。観てないなから一点しか攻撃ができない。それではビジョンが狭い。

・ハイポでは逆サイドも見えるようにもらわないとダメ。そのためハイポに上がるまでに向こうサイドまでを観ておくこと。

②キャッチ

・ボールに対してもらいに行き、バシン!としっかりつかんでから次のプレーを。つかむことをおろそかにしない。ファンブルプレーがリズムを崩す。

③ジャンプストップ・トリプルスレッド

・しっかりと両足で強く踏み込んでジャンプストップ。土踏まずに体重をのせるのが全て。

・ディフェンスの目の前につめて出てジャンプストップ。これで相手は動けない。

・Dとの間合いみて、リングをみてジャンプストップする。ボールを受けてから何しよう?は悪いもらい方。ボールもってから一対一になってしまう。その前に勝負はついている。いいBのもらい方なら、スクリーンはいらない。

とまぁ、ボールをキャッチするだけなのに、これほどの基礎基本が埋まっている。もうボールをもらう前から、思考は始まっていて、予想しながら動き始めなければならない。そして、この時点でもう、相手を出し抜けることができてしまう。

ふむ。師の教えをちゃんとうけとって、バスケの次のステージがみえてきたかんじで、またはげみになった。もう高校生みたいにはうごけないけど、その千分の一でも考えてプレイできるようになりたい。

明日はバスケ練習。来週は大会。がんばります。

誰か中古値段でもらってくれないかなー。

映画「セデック・バレ」から考える、資本主義をこえる「少ない方が豊か」とは何か

先日、ブログに今年観た映画の中からオススメを紹介したら、友人が返信をくれた。

秋の夜長にお薦め映画アマプラ14選

http://igasen.xsrv.jp/wp/2023/11/06/秋の夜長にお薦め映画14選/

コメントでは「セデック・バレ」という台湾映画を薦めてくれた。未視聴だったため、早速みはじめたのだが、2部作もある長編大作だった。

日清戦争後、1930年日本統治下の台湾で起こった山岳地帯に暮らす狩猟民族セデック族による抗日暴動「霧社事件」を全2部作で描いた歴史大作。

狩猟民族だけあって最初の民族同士の対立シーンから、なかなか残虐な場面が多く、台湾版300(スリーハンドレッド)だと思って見ていたが、見終わってみると実はそんな生やさしいエンターテイメントなんかじゃなかった。

先日まで学んでいた日本軍の加害につい目が行きがちだったが、そうではなかった。この映画が示唆することは、資本主義という成長志向の破綻(のはじまり)である。

この映画は全編にわたってセデック族が奏でる歌がちりばめられている。この歌詞がまたいい。それは「狩り場」と呼ばれる自分たちの自然を大切にする思想、そして、その狩り場を守るためにその命を落としたとしても、虹の世界を渡って祖先とまた出会えるという考えを唄う。

これは現在、私たちが忘れてしまっているアミニズムに近い考え方。ものには心がある。魂がある。山にも川にも、風にも神様(精霊)が宿っているという考え方だ。

僕は、初任校で西部地区の道徳研究授業を行った際、そのときの指導者から子どもの心を理解をするために「子どものアミニズム」について教えてもらったことを覚えている。

僕の中には、何か身近な自然の中にいかされている感覚をずっともっていた。定期的に伊勢神宮や出雲大社にしずしずと足を運んだでみたり、自然にとけこみたく定期的に野宿をしてしまうのはそのせいかもしれない。

しかし、このアミニズムは資本主義経済と対立する概念でもある。アミニズムは人とものとのつながりをみるが、資本主義は人とものを切り離し、操作、支配できるものとしてしまう。

また、資本主義は成長が必須である。そのため他国の領土や資源を侵略しにまでいく。その過程が映画でも描かれている。

資本主義の下では、世界のGDPは少なくても2%から3%成長し続けなければならなく、これは23年ごとに倍の規模になることを意味している。これは計画的に無理でしょ。

そして今、この経済成長による自然環境へ与えるダメージが壊滅的だということは、すでに半世紀前から共通理解されてきた。そのはずなのに、生態系崩壊を食い止めることに関しては全く進歩はみられない今を生きている。

いかに、自然とともに生きるのか。この映画が投げかけてくれる。

地球温暖化を1.5度以下に保つ。生態系の破壊を逆行させるための唯一実行可能な方法は、高所得国が過剰な資源採取とエネルギーを減速させることだと、以下の本で科学者たちははっきり述べてられていた。

ジェイソン・ヒッケル『資本主義の次に来る世界』

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“脱成長の素晴らしい点は、経済を成長させないまま、貧困を終わらせ、人々をより幸福にし、すべての人に良い生活を保障できることだ。これこそが脱成長の核心である。”P.37 

元来、人は他の生物界との間に根本的な隔たりを感じていなかった。人間は孤立した生き物ではなく、川や森、動物や植物、地球そのものと相互依存の関係にあると考えていた。人間と同様に感情を持ち、同じ精神によって動くものとみなし、場合によっては親類のような近さを感じていたようだ。

今、世界は成長から脱却する動きが生まれつつある。成長志向の脱却には、二元論をこえるアミニズムが見直されている。セデック族には少ない方が豊かだった。その象徴が「狩り場」とよばれる自然豊かな霧の森。

映画と並んでちょうどこの本も読んでいたこともあって「成長志向」から一歩距離を置けることができそうかな。

この映画は僕にとって、今後の社会や世界を想像し、考える上でもとても示唆的な作品となった。今なら、アマプラでみられるのでぜひみてほしい。みなさんは、この映画からどんな感想をもちましたか?