自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 2/3

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

前回は、ハッティさんの研究概要と、エビデンスを安易に使おうとすることにちょっとまった!をかけました。

今回はエビデンス研究の問題点を、研究者側からとエビデンスを活用していく学校現場側から、まとめておきます。そしてハッティはその批判をうけて、どうエビデンスを活用していくのかでしょうか? その提案まで考えます。

大学や研究機関による教育研究側からのエビデンスの問題点

① RCTやメタ分析では、教育のプロセスを空洞化してしまう

まずは前述したRCTによるエビデンスの価値を鉄壁にするためのこの調査方法に批判があります。RCTにより原因と結果を明らかにしてエビデンスを示したかもしれないけれど、それ以外の因果関係や要因をすっかりと関係ないも都市、空洞化してしまっています。

教育は原因と結果の間のプロセスにこそ重要な意味があります。

効果があるなしの結果であるエビデンスに焦点をあてすぎてしまうと、その結果に至るまで子どもたちがどのように学んだり、悩んだり、そこをどうクリアしてきたのかといった学習経験が不問とされてしまうからです。教育で大切にしている学校目標や学年、学級目標、さらには学習内容、扱った教材、カリキュラムが不問とされてしまうのです。ハッティは、教師の資質能力や授業方法を追求していますが、一方、学習内容といったものが軽視されすぎてしまっている批判があります。

また、ハッティが教師の資質能力や授業方法を強調することにより、教師の責任が増してしまい、そこを逆手にとって教師の権限がさらに強まってしまう指摘もあります。

ハッティに限らず、PISSAテストも、各国のカリキュラム事情をなきものとして、テストスコアでくらべっこしようとする点では同じ延長線上にありますね。

② 扱っている論文そのものの古かったり、偏ってたり

そもそも研究調査で扱った原点資料の時代が古すぎたり、一定に国の研究結果に偏っていてバランスが悪い指摘もあります。ハッティがメタ分析で扱ったRCTはほとんど含まれていませんでした。また欧米の文化圏の実証研究であり、日本はそれにはふくまれてはいないようです。調査した3分の2が1980年代までの研究であり、今日的な教育課題を解決していくためには扱った情報が古すぎるのです。こういった、バランスの悪さも、教育の地域的な要素や時代的な要求などによって変わってくる文化差については、慎重に言及されないといけませんね。

とはいうものの、最近では3年に1度の頻度でハッティランキングは更新さいれていますが、時代を超えても効果の高い主な要素は更新されても、その本質は変わっていないとハッティは説明しています。

それにしても、エビデンスの信頼度という面では、慎重に考えながら上手に使っていく方法を模索しなければなりませんね。

学校現場による教育実践側からのエビデンスの問題点

① エビデンスを無視する独善的な教師となってしまう

「自身の経験や個人的な試行錯誤から学んだことに大幅に依拠する」(ハーグリーブス2007)

私たち教師は、教授経験の成功体験から得た知識でもってのみ、教育活動を行う傾向があり、エビデンスを参照しないという独断的な態度をもちがちです。そう、あーい、でぃどぅ〜ま〜いうぇーい♪(尾崎紀世彦風)です。

こういった教師は、エビデンスを使うことを嫌い、教師のもつ実践の自由が失われてしまう懸念から独善的な自分エビデンスに陥ってしまいがちです。

最近、僕自身がエビデンスについて調べてみるにつれて胸をつまされるのがこの問題。いかにこれまでの自分が自分の成功体験に頼って、教育実践を語ってきてしまっていたか!その罪の深さを思い知ります。教育とは先生と一人ひとりの子どもたちとの血の通った物語のようなものです。だからこそ、そこに思い入れが強くなってしまい、自分エビデンス(ぼくは印籠エビデンスと呼んでいますが)そのようなものができあがってきてしまうんでしょう。「今年も例年通りで」といったパターンも、どこかこういう流れが関連しているのかもしれませんね。

しかし、もし自分の経験を信じもせずに、教育現場にエビデンスによって定められた形式的で効果的なことを強制されるのなら、教師の自由な試行錯誤や自由志向に規制をかけられてしまう恐れがあります。

とはいうものの、教師の自由な裁量を保持することこそが教育の目標でもなく、エビデンスに基づく教育を批判すれば、旧態依然の学校権利を擁護する恐れがあります。このことは、以下の参考文献に挙げておいた今井康雄(2015)の論文にわかりやすくまとめられていました。

② エビデンスを振りかざし、判断しなくなる

この効果のあるエビデンスを使っているんだから、だからもうおれえずぇ〜んぜんOK!ふふふん。といった問題が起こってしまいます。悪いのはうまくエビデンスの通りに示してくれない相手の問題、子どもたちのせいだ、という自己陶酔。

「研究のエビデンスによって裏打ちされ明示的に定式化された手続きに従っているとアピールすることで、外部の人々に対して自らの実践の詳細について申し開きをする、という状態に帰着する。このような「エビデンスに基づいた説明責任」は、実践家の専門的判断を意気阻喪させ掘り崩す。」(ハーマスレイ2007)

この問題には、「このエビデンスがききます」といった安易な使い方では、実践のプロである教師が自分で考えて教育のプロセスをつくっていく判断や選択を矮小化させてしまうことになるんですね。

どのようなエビデンスが、個々の教室事情に適合するか否かを決めてられるのは、やはり実践的専門家でもある教師なんです。

エビデンスに対する批判はまだまだあり、今回はほんの一部です。これらに関しては、下の参考文献であげる今井さんの論文(PDFで手に入れることができます)、先日、出版された『エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって』に詳しくまとめられています。

エビデンスにおっかなびっくり近寄らず、批判ばかりしても、研究者やハッティたちがせっかく示したことを使えるようにならないのは、とてももったいないです。次回はいよいよ僕が思う、今のエビデンスにどういかしていけばいいのか?について、考えていきます。

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

最近のコメント

    コメントを残す

    *