2023年 9月 の投稿一覧

先生やってて楽しいこと

教員志望者がへってしまっている。

僕にできることはなんだろう。改善の「妙案」は僕にはいくつもある。その中でも、一番を新大臣に教えてあげたい。

それは、先生を楽しんでやっていることだと思う。楽しいところにはきっと人が集まってくる。

先生やってて楽しかったと思うこと、子どもたちといっしょにいて楽しいことを思いつくままに挙げてみようと思う。

「おはよう」というと、「おはよ」と返してくれる。

とんがり坊主が落ち着いて、ちゃんと席に座れるようになること。

ノートに本音を書いて教えてくれること。

授業でわからないと率直にききにきてくれること。

僕だけをたよることをせず、友だちを頼ろうとすること。

教えたことをさっそく使おうとしてくれること。

うっかり失敗しても「うんいいよ」と許してくれる。

できないことができるようになること。

個別にかかわったことで、成長すること。

嬉しそうに友だちのいいところを教えてくれること。

一人前の大人として話すと、ちゃんと話し合えること。

お願いすると、気持ち良く手伝ってくれること。

カーテンにくるまってぐるぐるしているのを見せてくれること。

授業の脱線話をとてももりあげてくれること。

全く縁のない流行歌やアイドルを詳細をレクチャーしてくれること。

一人でいると「なにしてんの」と話しかけてくれること。

似顔絵を描いてくれること。

同じ仲間として友だちのように接してくれること。

一生懸命準備した授業を、楽しんでくれる。

へたくそな字を書いても、うまいねとほめてくれる。

やりたいことは勝手にクラスに提案してはじめてしまうこと。

恥ずかしくていえない言葉をすなおに口にしてくれること。

学年のおわりに、しんみり涙してしまうこと。

大人しい子がじつは豊かな内面をもっているとしれること。

一週間先までの予定で、遊びにさそってくれること。

めんどくさいときは、断ってもいいこと。

体調がわるいとき、とくにやさしくしてくれること。

家族にも言えないことをうちあけてくれること。

いい授業をしたいとしぜんと思えること。

真剣にやっていることに一緒につきあってくれること。

勝手に引き出しを整理整頓してくれること。

本気でしかると、ちゃんと聞いてくれること。

つまらないギャグをスルーしてそっとしといてくれること。

思いもしなかった、いろんなハプニングを起こしてくれること。

学校には勉強よりも大切なことがあると教えてくれること。

学校が楽しいっていってくれること。

いっしょにいて楽しいこと。

「またねー」とニコニコしながら帰って行くこと。

まだまだありそう。

教員志望をふやすなら、まずは先生が機嫌よく、楽しくできるために、どんな環境をととのえてあげられるかから話し合うといいんじゃないかな。

「子どもの気持ち、データ化」は気持ちわるい

今朝の新聞に「子どもの気持ち、データ化賛否 集中度「授業変える指標」、生徒自身も確認」とあった。

ある公立中学校での子どもたち一人ひとりの脈拍を管理するデバイスによって、授業への集中度を把握して授業改善に役立てる記事がのっていた。

朝から、なんかモヤモヤした。違和感しかのこらなかった。それはなんだろう。

もし僕が「君たちのすべてを先生はわかっているんだ。さぁ、なんでも教えてごらん。脈拍おしえてくれよ」なんて気持ち悪がれる教師になりたいわけじゃないし、そもそも、すべてなんて知りたくもない。知らないことがあったほうがお互い平和にやれるってもの。

子どもだって「私の脈拍まで知られたくないわ」「マジやめて」って思うんじゃないかな。うん。内のクラスは確実にそう言ってくれそうだ。こんなことがはじまるとしたら、夜の校舎窓ガラスこわし続けてしまいそうだ。

この研究には、学習者、特に子どもたちに対しての権利意識が希薄すぎるのではないだろうか。知られたくないことは人にはたくさんあるはずだし、そうやって自分自身を育てていっているはず。なんでも誰流しでは自分がいなくなってしまう。

第16条 なんにしろ、ひみつは知られたくないなぁ。

“かってにのぞかれたり、ぬすみ聞きされたり(中略)ということはゆるされない。 子どもだって、ひみつにしたいことは、ひみつにしていいんだからね。”

小口尚子・福岡鮎美著『子どもによる子どものための「子どもの権利条約」』(小学館1995)P.66より抜粋

その人を理解しようとするための方法が脈拍を測って授業への集中度を知ろうなんて悲しすぎる。なんでもデータで集める前に、もっと話せばいいのに。そして、技術はもっと有効活用したほうがいい。

でもまてよ。もし職場の人が、こっそりと僕の職員会議の脈拍を測ろうとしはじめたら、僕はきっと困る。そして僕なんかのために「職員会議をもっと活発にしよう!たっぷりやろう!」となったら、さらに困る。

どんなときもそっとしておいてほしい。物事への参加には、自分のペースがある。主体的になるかどうかは自分がきめることだから。このあたりがかなり、相手への配慮をないがしろにしているのではないだろうか。

冷静に考えて、そもそもなぜこういう研究が必要なのだろうか。

もし子どもの集中度を教師が把握できたのなら、授業改善に役立てられる。ほんとなのそれ? 

授業に集中できていないことが、「どのように」改善するかは示されない。だって、それは学習者である子どもと、教師、それに教材が3つ重なり合って、はじめて授業は成立することだから。そこに脈拍はどう関係するのだろうか。教えてほしい。

だって、寝ている子がいれば

「おお!この子は僕の授業で、なんと夢中になっているのだろうか!?」なんて問いを立てるまでもなく、もうすでに夢の中だよ。突っ伏して寝てるの見りゃわかるじゃん。

ということで、技術を使おうとする方向性がおしいなと思う。

子どもには、人には秘密があって自分の壁をもって育っていくもの。みんなデータ管理されすぎる社会ってどうなんでしょう。

子どもたちのマスクがはずれない

コロナが5類になってから、もうマスク義務はなくなっているし、学校もその義務はもはやない。でも子どもたちは、なかなかマスクを外さない子が多い。9月からの猛暑で、自然とマスクがとれることを願っていたがそうはならなかった。

どんな気持ちでつけているんだろう。高学年になればなるほどその傾向が強いのか。僕の周りの学校でも同じようなケースをよくきく。

子どもたちは家では着けていないようだし、外出先でもあんまりつけていないとのこと。でも、学校にくるとしっかりと着けている。

もちろん通勤、通学の電車やバスの中で感染予防のためには個々の判断だし、それは一人ひとりが尊重されるものでいい。

また、思春期ならではのルッキズムとの問題でマスクをしないといられないケースならば、それでいいし、そうしてほしい。

僕がいっているのは、このこととはちがう。僕がもっている違和感は「なんとなくみんながつけているから、自分もマスクを着けている」こと。

「これまで見せていなかったから、顔をみられるのがはずかしい」

「友だちになにか思われないか、言われないか心配」

「マスクをとって、逆に目立つのが嫌だ」

こういった気持ちがしんみりと伝わってくる。

ある子が「今日、水泳のあと、勇気をもってマスクをとってみたら、すっきりした〜!」とジャーナルに書いてくれた。ドキドキしていたことが伝わってくるし、今後もそういう子がふえてほしい。

着けていないとなんか落ち着かない。習慣化して、そうなっちゃいけないな。マスクがパンツ化してしまうのは全くよくない。

もし、恥ずかしいとかいう気持ちがあるのなら、そういう気持ちなるのはしかたなけど、本当はちがうといってあげたい。

マスクを取ることについて対話してもいいけど、なんか腫れものをさわるようで難しそうだ。どうしたものか。

マスクが外せないのは、そもそも学校や教室が、安心安全の場となっていないからなのだろうか。そうなら、これはそのまま僕自身の学級経営にも跳ね返ってくることだ。

顔を見て、人と関わりたい。昭和世代といわれても、裸の付き合いをしたい。この2〜3年間、顔を見ないで育ってきている子どもたちの心に僕は大きな影響を与えてしまっていること、これを一番懸念している。

始業式の自己紹介で「先生はほんとはこんな顔をしています」といって、まるでのっぺらぼうが前髪を書き上げるように、マスクをじわじわとりはずし、顔全体を示す。子どもたちはそれに、あぁーとか言いながら拍手をする。いつか、こんな儀式があったことを笑って語り合える日がくるといい。

もし僕が、過激派組織マスク狩り部隊(通称MGB)の幹部候補として煽動しはじめていたら、そんな僕を全力でとめてほしい。

ネコってほんと平和。へそ天で無防備。かくありたい。

頭の目かくし「思い込み」をはずすのは自分しかいない

昨日のつづきから。

砂漠問題のおもしろいところには、二つ目は、頭の目隠しをとれるか問題がある。

算数・数学するときに、自分なりの思い込みをどうしてもはずせないことがある。それには、まず「自分の今の考えは思い込みなんだ」と俯瞰して自分の考え方をモニタリングできることが最初の一歩となる。

思い込みをしている限りでは、創造的な問題解決はできない。思い込みをはずすミニ・レッスンで毎回つかうのが九つの点。どれか1点から出発して、一筆書きの要領で4本の直線を引いて、9つの点をすべて通るようにできるか。ぜひやってみてください。といかに自分の思い込みの強いことか!

この砂漠問題は伝言をつたえるのが「一人だけ」でもいいことに気がつけるかがカギ。「二人」で伝言をつたえにいかなければならないと思い込んでいると、この問題はスタックして頓挫してしまう。

さらには、食料を確保するために「帰す」発送も重ねて必要になる。このあたりの頭の柔軟性が問われている。

子どもの感想に「『うめる』『渡す』『帰る』を使って解けました。自分がつまずいているところにも気が付きました」とあったが、ひらめくとそういうことであって、子どもはとても柔軟だ。なんせ、問題解法のパターンを知らないから、今もっている知識で格闘している。

ただ、誤解してほしくないのは、この良問をといている数学者の時間は、なにかエンターテイメントしている時間とは大きくことなっていること。そして、問題がとける/とけないとか、考えることそれ自体に夢中になっていることのみに、価値があるのではない。

問題解決のサイクル「問題→計画→解決→ふりかえり→共有」が回っているかであってこその数学者の時間なのである。ここに「ためす」と「たしかめる」の数学的思考が使われいて、この思考法を自覚して使えるようになっていってほしいと願っている。そしてそれはとても便利な道具だし。

日々の学習内容をみにつけるといったミクロ概念の獲得ではなく、考え方や発想の方法といったもっと学習の転移が可能なマクロ概念の数学的思考を身につける時間でもあると考えている。

この時間中、僕はといえば、子どもたちの話をよく聞いている。みんなそれぞれしゃべりたいことを夢中で話している。子どもたちの頭の中でどんなことが考え進んでいるのかのぞきにいく。そんなおもしろく、ゆったりとした時間。

次回は、この問題がもっている特徴をもとに、自分でも問題づくりをして、さらには解き合う時間へと進んでいく。

どんな作品がうまれるのか、楽しみで仕方ないなぁ。

「数学者の時間」再開、まずは砂漠の横断問題から

久しぶりに数学者の時間が再開した。

いつもはなにかを学んだり、身につけたりする算数授業とちょっと異なり、この数学者の時間は、考えることを楽しむ時間。もちろん、できなくてもぜんぜんOKだし、まちがったほうが実はよく考えている。

子どもたちは「あぁ、ひさしぶりの数学者だ」と、普段の算数とはちがった学ぶモードから考えるモードに頭のチャンネルが切り替わっている様子だった。

今回はこの問題を選んでみた。この問題は6年生にふさわしく、二重の難しさをもっていると考えている。一つ目は問題の世界に入れるか。二つ目は、頭の目隠しをとれるかである。

一つ目の「問題の世界に入れるか」。

この砂漠問題はていねいに「計画」づくりが必要な問題。ここにつまづいてしまうと

「そんなの1日分の食事を二人でわければいい」

「一人だけ生きて帰ればいい」

「何度もスタートに戻って食料を調達して、なんども食料をうめまくればいい」

など、そもそもの問題設定が崩壊してしまう。

数学的な文法に乗れない子は、現実的に考えてしまい、限定された条件下で考えるおもしろさが味わえない。問題にのれない状況がうまれてしまう。

そこで「求めること」にあわせて「わかっていること」をひとつひとつ確認し、丁寧にひもといていくことで、この砂漠の世界設定にのれるようにする。特に「2人が同時にスタートする」ところは条件として落としてはいけないところだ。

僕は問題を選ぶときに、自分で解いて

「こういうつまずきがでてくるだろうな」

と予想しながら準備するが、僕の予想の斜め上をいくのが子どもたちの思考。このあたりは「あたってくだけろの精神」で、実際に砕け散って、その経験をつみかさねているところ。

授業の後半、数人が「わかった!わかった!」「もしかしてこうかな」と嬉しそうに解答例を説明しにきてくれる。

答えは僕の机にもあるので、自分で答え合わせにいけばいい。それなのに、このわざわざ伝えたくなる何かがうまれてしまう。そう。共有したくなっちゃう。いいたくなっちゃう。こんなとき、僕は3人ぐらいに分身してケンシロウよろしく夢想転生できるといい。ホワチャ〜!

ここが数学者の時間のやっていて、おもしろいところのひとつ。いつもの算数授業で、分かったときはひっそりとほくそえむぐらいなのに。。。

この砂漠問題は、とくにクラスでやんちゃな子ほど、食いついてきた。素直でかわいいなと思う。もちろんできなかった子はまだ大勢いて、「次こそは」「もっと考えたい」と来週を楽しみにしてくれているようだった。

あしたに続く

通信をつくりなおした

毎週金曜日に学級通信を配っています。

だいたい金曜日になる前には、すでにできあがっているのだけれど、今回はどうしてもつくりなおしたくなってリライトした。

今週、被爆2世の方からヒロシマの話を子どもたちといっしょにきいた。その中の感想に「知ることからはじめる」ってまさにこういうことなんだろうな、と気付かされた。

“私はあまりくわしく原爆について知りませんでした。でも今日、いろんな広島の話や画像などを観て少し怖くなった。と同時に「もっと知りたい」と思いました。知ることは怖いけど、知らない方がもっと怖いと思ったからです。ちゃんと学習してもし、次にもう一度同じことが起きないように反対の声をあげないといけないと思い、知りたいと思うようになりました。”

そして、核兵器をなくし、平和に向けてどうやって解決していけばいいのかアイディアまでもっている子もいた。

“憎しみから平和は生まれてこない。弟を救えなかった人の子が辛い感情を生じさせた。今も戦争は世界中で絶えない。どうやったら学んだことを生かせるのだろう。暴力のない話し合いで解決できないのか。政治の人たちは話し合いという解決策を知らないのか。世界中の人を平和にしたい。”

知ることからはじまるし、話し合うことからはじまる。子どもたちといっしょに学んでいきたい。

そして、今週は来日しているウクライナ絵本作家のお二人から直接、現地の子どもたちの生活を教えてもらう。

今朝、電車にハトが入ってきたんだって。平和なハプニング。

運動会にも民主主義って、ほんとにたいへんだ

運動会に向けて、学年競技について子どもたちと話し合っている。毎年「旗取り」という棒倒しの棒のてっぺんに旗が刺さっていて、相手の旗を先にとったほうが勝ちという競技。

両クラスから選ばれた実行委員子どもたちとは、昨年度のDVDを観ながら、今年の学年競技案を考え合った。

「背の高い人、体格がいい人が有利だ。運動ができない人が楽しめない」「観客で観ていても、勝ち負けが分からなかった」「怪我が多そう」と感想をいう。そこで、学年競技のめあてをきめた。

・勝っても、負けても楽しい。やってみたくなる。(楽しい)

・観ている人もわかりやすい。(ルールが簡単)

・怪我ができるだけない。(安全)

このあたりを考えると、歴代続く「旗取り」を「変えたい!」「俺たちが歴史を変える!」と意気込んでいる。

とてもいいめあてだと思う。勝ち負けに偏りすぎず、楽しく、一生懸命取り組めるものを探したいと思った。笑いのツボとセンスのあう同僚の先生から借りた『マイノリティデザイン』という、ゆるスポ(ハンドソープボール、バブルサッカー、ハットラグビーなどどれも笑ってだれもが楽しめるスポーツばかり)について学んだりもした。

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この本、ほんといい。運動が得意な人だけのものではなく、もっと身近に楽しいものだと思わせてくれる。

実行委員なりにも新しい案がふたつほどできあがった。PAでやるような「シーツでボールをはねあがらせるゲーム」と「おたまで水はこびゲーム」だ。なんとも旗取りにとってかわるにふさわしすぎる脱力競技。僕はいいなと思う。

けれども、これまで歴代継続してきた「旗取り」について各クラスでアンケートをとってみると

「毎年やっていたから、楽しそうだし僕らも旗取りやりたい」

「ルールや役割を工夫すれば旗取りだってみんな楽しめる」

「接触がなければ安全になる」など、

最もらしい意見に打ちのめされて帰ってきた。意見を吸い上げることは大切なことだが、多くの声を引き取ることは大変だ。

そこで急遽、実行委員で1時間話し合い。もらったそれぞれの意見を反映した「シン・旗取り」競技をそれぞれのクラスで実行委員が提案することになった。

こういうやりとりを何度もしていると、なかなか進まない。休み時間もなくなっていく涙。でも、それぞれが納得いくために、声をきく。声をあげる。こういうことが運動会づくりで大切にされ、民主主義を学んでいけるこの学校のいいところだ。

今は産みの苦しみ。なかなかしんどい。さて、明日が競技ルールのしめきり、どうなるかな。

孟子から仁義を学ぶ

中村哲ドキュメンタリー映画「荒野に希望の灯をともす」を観たことをきっかけに、中国の孟子に興味をもった。

中村哲さんはアフガニスタンで水路を築くその難しさの中、きっと孟子の「性善説」に惹かれたに違いない。人の本性は善であるにもかかわらず悪事へと走らせてしまうのは、その人が生きている環境によってその本性が汚れてしまっているからだと。教師としても、なんだか勇気をもらえる。

僕にとっては高校の漢文程度しか知らなかったが調べてみるとなかなかおもしろい。「ためにならない君主、YOUとりかえちゃえば!」と、当時(といっても2500年の前の中国において)はかなりの革命的思想の持ち主だったらしい。そもそも農民に君主をとりかえる発想はないし。ジャニーズしかり。

それだけに、孟子の愛読者には、徳川家康、吉田松陰、西郷隆盛などそうそうたる面々がならび、そこについに僕もならぶことになった。

とはいっても、まったく革命的思想をもたないいたって平和主義な僕にとっては、孟子の「仁義」に惹かれたまでのこと。自分にとってのぶれない軸を教育社として古典から学ぶのだ(どや顔)。

現状の社会状況や内紛や戦争、環境問題などの解決には、もうこれまでの近代思想で解決するのは難しいのでは。東洋思想から大きなヒントをもらえるのではないだろうか。

孟子は、紀元前400〜250年前、山東省済寧出身の儒学者。孔子の孫に学び、戦国時代に覇道政治をいさめて、王道政治を解いて回った人物。その弟子たちが書き記したのが有名な『孟子』。

人は環境によって変わるというあの「孟母三遷」のモデル少年のこと。余談だけど孟子のは母かなりタイガーマザー。「孟母断機」中途半端にするな!と孟子が勉学にさぼっていると自分の織物を切断してみせた母親。おだやかにいきたいものだ。

孟子いわく、「富国強兵や国の利益なんかじゃない。そんなことしてたら滅びるよ。『仁義』のみが王道政治なのだ」と、当時、戦争まっただ中の君主に、利益よりも仁義をといた。

ここにいくつか仁義にまつわる対話を紹介する。

「仁は人の安宅なり。義は人の正路なり」

仁は人が安心できる住まいである。義は人が胸を張って歩く正しい道のことである。

「仁は人の心なり。義は人の路なり」

仁は人の自然な心であり、義は人が踏みゆくべき正しい道である。

「君仁なれば仁ならざることなく、君義なれば義ならざることなし」君主が仁であれば人民も人徳を持つ人となり、君主が義であれば仁民も義の徳に生きる。このあたりは、子どもたちとのかかわり方や教室においてもかくありたい。

この情緒的な愛の概念である「仁」に対して、それを秩序に落とし込む「義」の概念を明確にしたことで、仁義の規範性が明確になった。

つまり、人とのかかわりは、真心と思いやり。

しかし、この仁義を学んだとしても、「熟した仁」と「熟していない仁」があることをいさめている。それは「仁義によりて行う vs 仁義を行う」であり、前者は仁義を自然とやるものであって、後者は仁義を努力してやるものである。

僕はまだ初心者コースで、道はまだ遠い。

孟子関連の本はいくつか読みましたが、以下の本が入門にもとてもよかったのでおすすめです。

子どもを注意するときの工夫 『月刊学校教育相談 10月号』

ほんの森出版から『月刊学校教育相談 10月号』をいただいた。開いてみると、しばらく前に寄稿した原稿が載っていた。

テーマは「子どもを注意するときの工夫」

こういったテーマをもらわないと、改めて自分の注意を立ち止まって考えることも言葉にすることもなかったので、自分をふりかえる意味でもとてもいい機会となった。

僕は教室ではあまり注意の多くない先生だと思っている。前任校では学校で一番優しい先生といわれ、勤務校では、一番口うるさい先生といわれている。

つまり、それって学級や子どもの状況によるため、クラスの状況に応じて常に注意を駆使しながら私たちはサバイバルしなければならない。

目に付くものすべてを注意はできない。何を言うべきかをその瞬間、その場面ごとに判断しなければならない。その指針となることに、僕は子どもとの関係性を重視している。

その子のニーズに応じたアセスメントから、何を注意して、何をそっとしておくのか。そして、僕自身が大事にしていることとは何か。注意するときに、自分の価値観と現実の差をつきつけられ、何を伝えるか思案している。

でもこういうことって小手先のテクニックじゃないしそればかりではうまくいかない。やっぱり、日々の授業や学校生活が充実していること、過ごしやすい環境となっていることこそ、しなくてもいい注意もトラブルもへるはずだ。

思うままに書いてしまったので、教室の日常そのもののかんじが文体にでてしまっていた。それよりも同じテーマで書かれたそれぞれの校種における先生方の話のほうが、僕にはない視点だったため面白く感じた。

石川尚子さんのコーチングを活かした、実況中継する技や子どもに今やっていることの価値を尋ねる質問などはすぐにでもマネしてみたい。山口聡さんからは抜き差しならない中学校現場も伝わってきた。高校の実践例から語る村上敏之さんは、子どもたちの言葉の背後を読み取ろうとするその柔らかさを学ばせてもらった。

さすが教育相談の本だけあって、子どもたちを原点として考える示唆が多い。子どもをそして自分自身をまるっとみようとするよいきっかけになると思います。よかったら、お手にとってください。

平和の声を挙げる

もっと声を挙げないといけない、そう思った。

うちの学校の高学年のカリキュラムには平和学習がある。平和教育には、僕がこれまであまりふれてこなかったこと、ふれてはいけなさそうだと勝手におもってしまっていた内容も多く、一から学ぶ気持ちでとりくんできた。

1学期は、東京大空襲で被災された方からの話をきいた。今日は、被爆2世の方から原爆投下時の話をきいた。次はウクライナ絵本作家の方から現地の子どもたちの様子をきく。そして、来月は広島へ行く。

直接、話をきくことで、心が揺さぶられる。どこか自分ごととしてとらえられてこなかったことが、少しずつ自分の中にしみわたってくる。こんなつらい話をどうして繰り返して話し続けられるのか、その使命感やしんどさも感じられた。

原爆について、多くの事実を知った。悲惨な事実が次々と伝えられる。戦争は、その後の生活そのものもつらいことも。祖父が生前、「食べるものがないのが一番辛かった」と話してくれたのを鮮明によみがえってきた。

どう理解し、受け止めていくのか、これから子どもたちと話し合って、考えていこうと思う。まずは知ることからはじまる。

昨年は、ロシアで広島の原爆の2000倍ある核兵器「サルマト」の実験も行われ、すでに配備されているようだ。そして、核兵器禁止条約に被爆国であるにもかかわらず参加できていない日本もいる。

今、自分たちにできること、身近なところからの平和からとおもっていたけれど、それだけではいけない気持ちになってきた。

「戦争というすべての過ちを繰り返さない。憎しみを乗り越えて。憎しみからは決して平和は生まれてこない」今日、この言葉がずっと心にのこって離れないままだ。

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ、どうして日本に住んでいながら、核についてあまり触れてこれなかったのだろう。これらに向き合うことは、痛みや苦しみ、また国際社会との関係や核の平和利用など、多くの要因によって複雑。田口ランディさんの本は、これらの複雑な感情や歴史を浮き彫りにしてくれ、日本に生きている自分と重なって読めてしまう秀逸な本だった。子どもたちにすすめたい。