2023年 9月 の投稿一覧

ルーブリックを示すことって、学びを仕事化してしまわないの?

今朝、恒例の「数学者の時間」zoom早朝ミーティングがあった。そこで、出した話題がずっとモヤモヤしているので、書き出してみる。

話題は評価のことだった。ワークショップ授業は形成的評価がキモ。そして、自己評価の実践をもっと厚くしていくために、パフォーマンス課題をもとにしたルーブリックの扱いに話が及んだ。

僕は、ずっと以前から、ルーブリックを作るときに違和感を感じていた。これは自由進度の学習計画表(特に計算領域の練習)をつくるときも同じように感じてるのだけれど、「学習することは一つずつ塗りつぶしていくように、仕事化、タスク化されないか?」ということ。

ルーブリックや自由進度の計画表を示すとき、「これからやる学習は、みなさんはここまでやればいいんですよ」と言ってしまっているのではないか。そういわれているような気がしてしまう。もし、まちがっていたら、率直に教えてほしいです。ソレチガウガナと。

もちろん、学習者にとって、具体的にどんな学習目標で、それがどんな評価規準/基準となるのか共有し、見通しをもって学習に取り組むことは、いいことだと思うし、現に、僕も定期的にやっている。

しかしだ。

やればやるほど、なんだか、学びってこういう達成課題のようなものになりさがってしまっていいのだろうか。そもそも学校という構造そのものがそうなっているのか。出発点が子どもになく、カリキュラムにあるような印象をうけてしまう。

僕が思う学びって、もっと、勉強をやることと、やらないことの間にあるような、そこでうまれてくる教室のハプニングや子どもの文脈、勉強が得意な子やそういう子だけではない、いろんな中間的な何かから生まれたりして、そこで育っているものだと思う。決して、教科だけで人は育っていない。

このあたりは、もっと遊びと学びのこと、今、しぜん広場で遊び続けていることなど、もっとそういう実践の意味を言葉にしていく必要がありそう。引きずって考えていこうとおもう。

じゃぁ、今やっている「数学者の時間」って、目標や計画や見通しがないのだろうか。いやいや決してそういうわけじゃないし、綿密に準備していることもちゃんとあるし。

では、何があると数学者の時間なのか? 

そう質問されてみるとふたつだけのことだと考えた。一つ目は、ミニ・レッスン、ワークタイム、振り返り/共有のサイクルがあるワークショップ授業であること。二つ目が問題解決のサイクルを使って算数・数学していること。この二つが原則となる。

それ以外はけっこう自由でもある実践であるため、実践者の数だけのワークショップが生まれると考えている。これはとてもいいことだと思う。やり方に固執せず、どういうあり方がベースとなっていれば、数学者の時間とよべるのだと、明確だから。

やっぱり、教えることは、大切なことに絞って少ないほうがいい。このあたりのバランスをとれるようになれば、タスク化したこなす学習とちょっと距離をとれるのではないだろうか。

40年ぶりに、ゲームの攻略本を買ってみた笑。これまでずっとネット情報オフで遊んできたゲームが、なんだかこの続きはただの作業ゲーとなってしまった。これって同じこと?

「私たちはちがう。あなたを尊重します」は多様性を尊重していないって知ってた?

私たちはちがう。だから、あなたを尊重します。

これではダメなのです。多様性を尊重できていません。

人とのちがいをうけいれるには、こう考えるのがトーゼンと思っていた。でも、「これは多様性を尊重できていない」と、ズバっとサマータイムで一刀両断。

熊平さんのもとに通って、対話について学ぶ中で気付いたことだ。研修では、ほんのスライド一枚だったが、僕にはとくに納得するものだった。

これがなぜ、ダメなのか。

問題となるのは、「私」基準で、ものごとをみて、私から「あなた」を受け入れることが前提となっているからだ。

そもそも、私自身も、多様性の一部のはずなのに。

こういえるようになるには、自分を俯瞰してみるメタ認知能力が必須。

わかっていても、私たちは、話し合いの場面では、つい仲間の同質性をもとめてしまう傾向が強い。それは、安心したいからだ。

「お話をきいてたくさんの共通点があることに気付きました。」

「そうそう、同じことおもっていた」

「私たちいっしょね」

といった社会人なのにJKになってしまう。JKはそれでいいんです(対話の目的がちがうから)。

本来、一人ひとりちがっているにもかかわらず、そのちがいよりも、その共通点のみに目がいってしまいがち。こういったマインドでは、多様性の尊重をそもそもできないから、対話が新しい価値につながらない。

むむ。やはり「ちがいのわかる」人にならないとだ。ダバダ。

もし、ちがいに目がいくようならば、

「その考えは思いつかなかったなぁ。もっと話してください」

「全く逆のアイディア。ぜひ、その背景を教えてください」

「私たちぜんぜんちがうからいいのね」

ちがいをまちがいとせずに、わかろうとする一歩となるはずです。

はたして、人と話し合う場が、意見のちがいを賞賛される場となっているだろうか。これまで経験してきた職員会議でさえも、校長の「レイネンドーリ」という呪文きこえてきたら、みんな一気に同じ思考になって、考えなくなってしまっていた。僕もそうだった。

心理的安全性があるかないかで、その場の会話の価値がかわってきてしまう。ちゃんと、お互いのちがいを伝えるには、安心・安全の場となっていることが前提だ。これは、教室でも職場でも家庭でもどこでも同じことだと思う。

多様性をみとめるためには、まず、自分目線をおいて、その場の安心感をつくることからはじめてみようと思えた瞬間だった。

みなさんは、自分も多様性の一部だと思う瞬間ってどんなときですか?

夏に子どもたちと近所の川に魚の調査にいきました。身近な川にさえも、いろんな生き物がいて興奮しました。

本日休校。学校に行ってみたら1人だった

台風が去って行った。

近所には大きな影響はなかったけれど、学校は休校となった。子どもたちが喜んでいる姿が目にうかんできてしまう。

そして、そう、僕もじんわりと喜びをかみしめている。拳を突き上げて今からいっしょに、これからそいつをYAH YAH YHAしてしまいそうだ。

たまには休んだ方がいい。行きたくなったら行くくらいなのがいい。学校って、仕事ってそうはならないものなのか。

いくら役に立ったり、楽しかったり、好きだったりしても、毎日続くとつらくなるし。あ、妻とカレーはのぞく。

休校と言われたにもかかわらず、学校にいってみた。だって徒歩3分だから。さすが休校だけあって、だれもいない。あたりまえだ。われながらアホだとおもいつつ、うっかり登校してしまった子がいたりしないか、ドキドキしていた。けど、そういう所はしっかりしているのが子ども。結局、だれも来なかった笑。

けど、それでいいとおもう。休みの時に学校にうっかり来てしまうなんて、なんという愛校心。いや、我にかえろう。自分よ。

けど、一つ新しい発見もあった。休みにもかかわらず、浸水しないようにせっせと管理してくださる事務部の方たちがいた。本当にありがたいです。そして、こんな日にもかかわらず荷物を届けてくれる佐川急便さんも。

そう思うと、やっぱり地道に働くことは大切だとしんみりした。

みなさんは、どんな台風物語がありましたか。

みっちりと来週のお弁当のスープカレーのしこみができました。

台風とともにこの忙しさをバギクロス

とても慌ただしい。気もそぞろ。

運動会や修学旅行、授業参観の準備や懇談会など、いろいろなものが一気に動き出している。目まぐるしく子どもたちといろいろなことを決めて、また授業の準備もあわせてやって、定時に帰る事はここのところ難しい。

それでも「子どもたちとこんな授業やってみたいなー」とか考えてみると、取り組みはじめはしんどいけど、実際に授業を考え始めてしまうと、やっぱり楽しくなってきてしまう。24時間戦えてしまう錯覚におちいります。

「あの子がこんなこと言うだろうなぁ」とか「この子はきっと喜んでくいついてくるだろうなぁ」とか「つまずいている子には、こんな支援があるだろうな」とか、子どもたちの顔が目に浮かんでくる。こういう時間はなかなか楽しいものだ。

明日は台風。

何事もなく無事に1日が過ごせればいいと思う。でも一方で、子どもたちは明日の台風で休校になるかもしれないことに喜びと期待を隠せないでいた。それも素直な子どもの反応。しょうがない。子どもは無敵。

今日の算数は、5年から200回目の記念で「おいしい算数」でした。食塩水の均等分布について実際に濃さを確かめようとなめてみたりした。データをとるため代表の4人の子たちはてんでバラバラの回答だった。こうもちがうのかとみんなで笑った。そして、数値でちゃんと計算しないといけないことに気付くようになる。

忙しい中にも子どもたちとのこういう時間 は、とても楽しいものだ。先生ってやっぱりいい仕事だなぁって思う。そりゃ忙しいけど。

みなさんは、やることが多くて忙しすぎて、緊張しているのか、朝早く目覚めてしまうことってありませんか?

塩、砂糖、ポカリのくじ引きで、みごとポカリをひきあてた子どもたち

問いの暴力

きかれたら、答えなければいけない。

本当はこたえたくないことなのに、考えたくないことなのに、ふれてほしくないことなのに、心がざらつくような問いをなげかけられることがある。

矢継ぎ早に質問して、話の筋道が少しでもちがうと論破しようとする人もいる。

無理に答える必要はなりはずなのに、きかれると、なんだか答えなければいけない気持ちがしてしまう。

問いはときに暴力的だ。

難しいのは、フィードバックとして、直接、まちがっているところを指摘するのではなく、改善点を質問としてなげかけること。これは僕自身もよく使ってしまう。

相手との関係もあるかもしれないけど、回りくどくきくのではなく、率直にきけばいいと思う。「あなた、チャックが開いていますよ」と。

問うことが悪いのではなく、問いは相手に考えてもらえるような「あいだ」を与えてくれるよさがある。ただ、そこに、問われたい、もしくは問われても受け止めようと思えるような「問いの主体」を問いかけられた人がもっていられるといい。

問いには、自分もちゃんと向き合って、考えたいと思えるものかどうかということが大事だと思う。

だから、問いにはそのとき、そのとき、拒否権があっていい。こればっかりは問わないと、相手にとっての問いになっているかどうか、わからないからだ。相手が何に傷つき、何を触れてほしくないのかは、きいてみないとわからないことも多い。

そして、考えてみたくなったときに、その問いをちゃんと引き取っていけばいい。その瞬間で答える責任はだれにもないはず。

そう考えるふしがあるから、僕はいろいろ質問されても、スルーしてしまうところがあるんだと思う。

自分も相手も大切にする問いとは、どんな問いなんだろう(自問)?

こういう靴下のときには問わないで、指摘もせずにそっとしておいてほしいです。

人の成長に欠かせないもの

人が成長するために欠かせないものな〜んだ。

答えは、出会いです。(諸説あり)

一人で早く先に行くよりも、みんなで遠くに行くために、一人ひとりが成長できるといいですね。そたのめにも「一人ひとりがリフレクションできること」と「対話できること」が不可欠です。

そもそも受験問題のようにすでに答えがある問題には、そもそもリフレクションはいらない。はやくその情報にキャッチアップすればいいだけだから。

でも、今は、答えなんてない時代。だから人との出会いを大切に、相手と補い合いながら問題解決していくことが大切だ。

でも対話の場で、評価判断を保留できない人が一人でもいるとその場は破壊されてしまう。これは悩ましいこと。きっと、本人はまだ気付いていないだけのこと。そこで、「さぁ、気付こうよ」と一緒に成長していけるといい。

僕に、僕らに必要なのは、対話の場に貢献するための仲間づくりが必要なのだ。

でも、カチコチマインドセットの頑固頭の自分もいる。私たちは、一度「こういうものだ」と思ったら、その考えをあらためることがとても苦手だ。多面的、多角的に見るためには、まずは、自分のカチコチ四角あたまから考え直すことができるかな。対話とは、自分のわくの外にでる力がためされているんですね。

この対話こそが、実は内省であり、リフレクションの場なんです。リフレクションって、1日終わって、あとでこっそり一人でやることだと思っていませんか。僕はそう思っていました。

対話におけるリフレクションとは、ライブなんです。今、話し合っている相手の意見を、善し悪しを、評価判断を、保留して、相手を含みこんだ多様な世界を模索して、自分の枠の外へ出ること。つまり、これが学ぶということ。

対話とディベートを比べるとわかりやすいと思います。

ディベートは自分の正当性を訴え、主張を変えないことがよしとされ、そこにはリフレクションは必要ありません。

一方、対話では、自分はなぜそう思うのか自分にリフレクションかけながらきいてみる。相手の世界も同じようにきいて、背景をききとる。なぜそう思うのか。

対話では「主張はどんどん変わる」もの。傾聴し、相互学習することで、自分の中にも相手の中にも、変化がおきる。「その意見いただきます」「思ってもみなかった。ありがとう」と、その場にいる全員が○なんです。

僕は、人と共創するために、対話を豊かにつかえるようになりたい。そんなうまくいかへんけど。

多様な人と積極的に出会うことが、自分をふりかえる機会をもらい、出会いが自分を育ててくれるんでしょうね。

みなさんは、最近、すてきな出会いはありますか。

この夏、種をこえた出会い

ホットクックとちがいがわかる男 ダバダ

先日、ホットクックなるものを買った。材料と調味料を指入れておけば、自動で調理を済ませてくれる無水電気圧力釜だ。

いくつか料理を作ってみた。無水なので、煮込み料理が得意だ。我が家の食卓に一品煮物が追加された。

しかしどれもいまいちピンとこない。

ダイコンと手羽先の煮物を作ったが、味がぼやけているというのか、こだわりの味が感じられない。そうなのだ、こだわりの味が感じられないのだ。ダバダ。

僕はお弁当のカレーをつくり続けて6年目となったが、毎回とても時間がかかる。オリーブオイルにホールスパイスをテンパリングし、地味に飴色タマネギをつくる。ホールトマトもいれるが、油の温度を最大限まで高めてから投入し、トマトの酸味をとばしグルタミンのうまみを引き出す。こんなことをやってできたカレーは格別にうまい。。。とはまだいえないのが残念ではあるが、毎回、同じものをつくっているので、食材やスパイスの違いで味の違いがわかってくる。

ここなのだダバダ。

このホットクックはカレーが作れる。もっと手軽だ。材料とルーをいれておけば、ポンスカポン!とほっておいてもつくれる。だからホットクックなのだ。しかしこれで作ったカレーは、本当に自分のカレーといえるのだろうか。

素材の味を引き出すための手順はたくさんある。カレーは無限だ。もしかしたら、僕がこだわって作ったカレーよりも、ホットクックがポンスカポンしてくれたほうが、手軽でうまいのかもしれない。

とすると、後は食べる人間の問題ではないだろうか。僕は自分でトンテンカンと、つくった方が美味しく感じてしまう。この僕にしか感じることができない味がこだわりでもあり、贅沢なんだと思う。

僕は贅沢者です。こだわってみて自分にしかわからないその面白さとか、その喜びとかその味に嬉しさを感じる。

僕は自分のこだわりを大切にしたいのだ。ホットクックのおかげで、料理を自分の手順でこだわりを持って作ることが好きなのだとわかった。とはいっても、この買い物は決して安いものではなかったが、決して失敗でもなかった。

今、ホットクックは、温泉卵とサラダチキン専用のプロテイン製造機である。これはこれでありがたい。

みなさんは、自分だけにしかわからない贅沢ってなんですか?

子どもたちに「あいだの時間」をあげたい

新学期の短縮日課。やることを全てリストアップして子どもたちに示しました。その中で何をどの順番でやるか、またはやりたいことをたしてみたり、クラスで話し合って決めてもらい、この二日間の過ごし方を話し合って決めてもらいました。

すると初日の1番最初には「しぜん広場で遊ぶ」こと。次に「サークル活動」をやること。そして「休み時間」。初日はただの遊びしかないじゃん。

あとさき考えずに今を生きる子ども。好きです。

6年生なのにしぜん広場がチョイスされるって僕はこっそり嬉しいです。さて、どうして僕は子どもたちと朝になるとしぜん広場に行くんだろうか。

学校で人が何かを学ぶことって、その教科だけでは完結しないことが多い。人が学んだり何かを考えたり、その人らしい姿を発揮するのは、実は休み時間だったり、朝の時間だったり放課後だったりそういう「あいだの時間」だと思う。

そして、子どもたちにはこの「あいだの時間」がとても大切なんです。何をやってもいいし、やらなくてもいい時間。ひまでひまでしょうがない時間。そういう時にこそ、その人らしさとか、その人のもつ興味関心がしぜんとにじみ出てくる。「何かやろうかな」とはじめたことが、その人の興味関心になるはずだ。

でも、今の子どもたちはこの「あいだの時間」がない。そして忙しい。何か常に、行事や習い事、何かに追い立てられている。僕が子どもの頃はこういったひまで自由な時間は結構あったと思う。

教科ごとに切り分けて、こまめに練習したり、学んだりすれば、人は学んでいるって風潮はちょっと違和感がある。僕は、もっとそれぞれをうめる「あいだの時間」を大切にしてほしいと思う。

「イガせん、こっちきてごらんよ。エビが大量にいるよ」、さそわれるままに池をのぞきに行くと、夏休み中に大量発生していたヌマエビだらけだった。なんだか寿司やで食べるしらす丼状態だ。

網で夢中になってすくっている子。そういうのを容赦なく手でねりねりして触り確かめる。それにむらがってくる子どもたち。子どもたちの過ごし方はおもしろい。もちろん、我関せずと草むらで遊んでいる子たちもいる。

自然の中に入ると、その人らしさやその人の興味関心、やってみたいこと、そういうものが解放されると思う。一年中、ヤゴとっている子もいたしな。

あなたはなにをしてもいい時間があったら、何をやりますか? 何をやりたいですか?

対話には聴くことよりも先にもっと大事なことがある

先日、職場の1学期実践報告会で司会をしているときのこと。「話をきいて、どなたか何か話したいことはありますか?」ときいてみると、先輩の先生から「この話に関係ないんだけど…」と前置きをしてから言われたことがありました。

「なんかイガキさんの質問の仕方がとてもいい」と、まさか司会進行の評価をもらいました。びっくり。

実践報告で、僕は報告者に何をきいていたかといえば、

「その考えに至ったのには、どんな体験とかがあるの?」(体験)

「その体験には、どんな気持ちがあったの?」(感情)

「何を大切にしているの?」(価値観)

この3つを意識してきいていました。まさか、自分のファシリテーションがほめられるとは思ってもみなかっただけに、素直に嬉しかった。

この3ヶ月間の僕の学びのテーマは「対話」でした。東京虎ノ門へ熊平さんのもとに通って「対話」についての企業研修を継続して受けてきました。それだけに、対話が一歩うまくガイドできるようになって嬉しいのです。

これまでの僕の教員人生は、自己中クソヤロウでした。人の話を聞いているときは、すぐに評価判断をしがち。そのおかげで、相手との関係の中で、相手の価値を認められずに、一緒に新しいアイディアを生み出すことができない自己クソ30代をすごしていました。でもそのクソのおかげで今回の研修につながることもできました。

対話の場では話をきく前にもっとすることがあるんです。いくら聴いてもその相手の意見を瞬時に評価判断してしまう自分がいることをまず認識しなければいけなかったんです。

つまり自分へのリフレクションがアマアマだったんです。自分の中に、どんな意見やどんな体験やどんな感情やどんな価値観があったのかが、そこを自分でわからなければ、瞬時にやってくる自分の評価判断に巻き込まれてしまっていました。

今では、だいぶすぐに評価判断をくださない自分になれるようになりました。でも気を抜くと、すぐにいい/わるい、すき/きらいが鎌首をもたげてきます。こればかりは日々の修行です。

相手の話を傾聴するには、まずは自分の中にある価値観に目を向けることからはじまります。僕はこのことを学ぶためだけに、3ヶ月間学びに通った価値があると思います。

みなさんは、どうやって相手の話を評価判断しないで、聴いていますか?

この研修中は、毎回なっちゃんたちが迫力あるファシグラをしてくれてました。ほんとすごい。授業にきてほしい。

2学期初日、新しくはじめたこと

ひさしぶりの学校は、いつもと変わらないものでした。

ひたいにそり込み入れてオラオラヤンキーになっている男子もいませんでしたし、もちろん扇風機女子軍団もいませんでした。あの心配はなんだったのか。

子どもたちは久しぶりの感じで、どこか緊張した面持ち。近くの人とおしゃべりしてみたり、身長を比べてみたり、男子はくっつき抱き合ったりしながら、心のチューニングをはじめているようです。

「みんなよくきた、おうおう」とお互い励まし合いました。

せっかく1学期に、澤田さんからライティング・ワークショップについておそわったんだから、今学期は「書くこと」を大切にしていこう。今しか、感じられない気持ちや興味関心、悩みごとふくめ、言葉にして日々、かさねていけるといい。

「これまで使っていたジャーナルある?」ときくと、一人を残してもってきていない。「忘れた」「家だ」「そもそももってくるなんてきいていない」「もっている人、まじキセキ!」など、さっそく新学期の洗礼をうける。

こっちもそうだと思ってたから余っているノートでジャーナルを用意しておいてあげた今回はノート三分の一サイズ。高学年になるとなかなか忙しくて、あわただしく、じっくり書く時間がもてないときのほうがおおいから、このサイズが僕は気に入っている。

子どもたちのジャーナルには「夏休みかえせ」「絶望」「夏休み終了の1日目」と、夏休みの終わりを憂う心の叫びがつづられていました。わかりみしかありません。と返信する。本音の交流がかわされる。

でも不思議と「友だちと会うと楽しみがわいてきて、夏休みもいいけど、学校もいい」とむすばれていました。いい子たちだ。

子どもたちにも書くことを課すのなら、僕も同じように、日々をつづっていこうと思う。言葉にしないと流れて忘れてしまいそうなこと、ちゃんとつかまえていこう。

あの記事よかったよ。あの記事わかるわー。

何人かに声をかけてもらって嬉しいものです。へー、みんな読んでくれているんだ。いいねを押さないまでも、こっそり読んでくれている人もいるだろうし。

まぁ、そんなに意味のあることを書くことじゃないから、子どもたちにならって、僕も気軽に書くことは続けていこうと思う。

みなさんは、2学期、なにか始めたこと、はじめたいことはありますか?