冬休み読書は探究の探究

冬休みに入りました。教室の4ひきウーパールーパーズも実家に連れて帰り、いよいよじっくりと「読む」時間を確保。

今年の冬休みのテーマは「探究」です。数学者の時間では、数学的思考を身につける問題解決のサイクルのミニレッスン10の単元計画に見通しがついてきました。これは現状の算数・数学授業をよりよくしたい先生たちに、自信をもって提案できそうです。

以前、数学者の時間を開発し始めた頃は、多くの問題を子どもたちにばらまいてしまっていました。今は、たった一つの問題に焦点をあてて数学的に考えることにしたら、あら不思議! 理想としていたことが全てつながり、ひとつの授業の落とし込めるようになってきました。いいすぎ!? 仲間の力も借りながら、自分で数学的に考える意図をもって確かめていく。子どもたちは、小さな数学者のようですね。少し興奮していますが、そういうことです。来年の秋に発刊できますように。

子どもたちが数学的な思考をわかりかけてきたことで終わりにしたくない! それを使ってさらにダイナミックに学んでいきたい! 生活と繋いだり、より抽象的にしたり、いっそうの算数活動に入っていきたく、この冬休みは「探究」をテーマにじっくりと読んで考えていきます。

この数学者の時間はチーム研究で取り組んできました。このチームも6年目。改めて先のステージへ進みます。それぞれが自立した学び手であること、または、自立した学び手であろうとすること。お互いがリソースとして高め合っていくには、やっぱりそれぞれが読んだり学んだり、考えて、やってみて、ふりかえってのプロセスを共有していくことが大切。自分の学びは他者の学びに責任があると思えているか。教わるつもりじゃいけない。講座や研修とはちがうのはここ。僕自身もこの冬休みにしっかりと学んで、いい学びを子どもたちとつくっていきたいと思います。

数学者の時間をいっしょに開発・実践しているメンバーたちは、チャールズ・ピアス著『だれもが〈科学者〉になれる!探究力を育む理科の授業』を読んで、探究の本質について研究しています。僕もそうしようと思ったけれど、あえて別の角度から多様な探究を見つめ直そうと思い、この本に挑戦。


Jay MacTighe, Judy Wills, M.D「Upgrade Yout Teaching Understanding by Design Meets Neurosience」

知識のつくり方で参考になる本だからと、先生仲間のりえこさんに紹介にされた本。しかも英語だし! ご多分に漏れず、夏で積ん読になっていたので、いい機会だから1章ずつ読み解いていくことにしました。今年出版されたばかりの、「逆さまデザイン+脳科学」の本です。今の僕の興味にばっちり重なり、数学者の時間の探究ユニット「算数アドベンチャー」授業には、逆さまデザインを使ってじっくりと授業計画をしてみます。


と、グーグル翻訳を使いながらも読み始めたはいいけれど、おもしろすぎてついつい関連の本も読み始めてしまい、なかなか進まず。第1章は脳科学に基づいた「脳にとって最良の学習方法」。脳みそ言葉が難しいので、すんなり読めるガイド本を別にさがすことにしました。

脳科学者の池谷裕二さんがなんともわかりやすい! 

これはまさに僕にために書かれたビジュアル脳のしくみ本。イラストや写真がいっぱいでこういうの大好き! 理科・生物の復習かな、と思って手に取ったけどぜんぜん当時と変わっていて、今はこんなに脳のことがわかってきたんだ〜と素直に感動。あっさり併せて読めました。


さて、この冬、算数アドベンチャーのはじまりです。

自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 3/3

今日は、今後、私たちはどのようにエビデンスとお付き合いをしていけばいいのか? 僕なりの考えをまとめていきます。昨日は、「ハッティの主張」まで書こうとおもっていたけど、通勤電車内「作家の時間」も終ってしまいかけずじまい。今日は、そこから。

ハッティはエビデンスにとても慎重派

意外にもハッティ自身は、エビデンスに対してとても批判的です。ランキング表を拙速に使うことを懸念しています。独善的な教師の経験だけに固執し続けることなく、エビデンスに基づいて、教師のふりかえりを批判的に行わなければならないとしています。この振り返りの中にこそ、エビデンスを活用することが重要なのです。エビデンスを批判的ふりかえりの参照として活用していくことが、オレオレ実践や凝り固まってしまっている思想に一度、ブレーキをかけて、見つめ直す機会をくれるのではないでしょうか。

「実践者の判断の過信を排し、自らの実践を批判的にするための視点を提供するもの。高いエビデンスリテラシーを持った教員が現場にいて、実践者の価値観や教育実践の具体的な場面とつなげることではじめてエビデンスは教師の批判的省察の基盤としての機能を発揮する」

熊井将太『「エビデンスに基づく教育の闇を探る」教育学における規範と事実をめぐって』9章271頁より

批判的に扱うためにも、エビデンスリテラシーをもった教師として成長しなければならないんですね。

しかし、教育エビデンスを批判的に捉えることにはまってしまうと、せっかく教育研究で生み出された知見であるエビデンスをいつまでたっても授業づくりやふりかえりに活用できずに終わってしまいます。これは、教育研究者にとっても本望ではないはず。エビデンスに沿って今後、教育を進めていくことについては、研究者も授業実践者も同意できるところ。

問題は、そのエビデンスを導き出した集める方法やそのエビデンスの取り入れ方にあります。そのためには、教育研究分野と教育実践分野での活かし方を分けて考える必要がありそうです。

教育研究と教育実践に分けて考える

エビデンスの活用のあり方を「教育研究」と「教育実践」で分けて考えると扱いやすそうです。文科省の教育施策の大きな方向性を決定するには、量的な成果エビデンスを活用します。今後、文科省の教育政策の決定には、それぞれの経験や勘といったものよりも、エビデンスをもとに予算配分をしていくこととなっていきますね。

それにしても今回の新学習指導要領改訂は、「現場の専門家としての教師はつくづく信頼されていないなぁ」と感じてしまうのです。具体的でわかりやすい指導要領と引き換えに、自分で考え、判断して育っていく教師を漂白してしまっているからです。文部科学省が「私、失敗しないので」と、教育平均値の量的な底上げのためエビデンスに基づいて、教育政策の方向性を決めていくとこういうことになってしまうんですね。指導要領がよくできてしまっている分、トレードオフで学校現場ではよりよく考えにくくなる・考える必要がなくなる。言われたことをカバーするだけといった構造が生まれてしまっているのではないかと考えています。

考えようとしない/考えなくてもすんでしまう仕組み

ここから、教育委員会や管理職から言われたことを上意下達に「ハイ、ハイ、アイアイサー」とやろうとする扱いやすい教師を増やしてしまっているトリックがあるんだと僕はにらんでいます。本当の民主主義を支える教育は、指導要領を越えて何を教えるのかということさえも自ら考え出していく自覚だと密かに思っているくらいです。

学校を管理する立場からしてみれば、こういう扱いやすく、言われたことを何も考えないでそつなくこなしてくれる教師は人気がでます。そういう人は、(支障なく運営される)学校のためになる!と「人事評価もAプラスをとれるんだぞ!」と校長室で以前、言われました。僕の経験からも人事評価Aプラスをもらっている人は大概、人当たりもよく、「学校を(1年間そつなく)まわしていく」こと(だけ)に長けていて、なんでもいうことを聞いてくれる人でした。

エビデンスの活用にひるがえって考えると、エビデンスに飛びついて活用してしまうことは、同じ事が起こりかねません。「これは学習効果が高いから学校全体でやるべし」と学校スタンダードが教育委員会から掲げられてしまう(現状では、「返事ははい!」とか「姿勢良く座る」そういったものが多くを占めていて助かっていますが)。すると、それを一方的に受け取ってしまい、自分とクラスの子どもたち、学校の子どもたちに引き寄せて考えてみることができません(本当に効果が高いものであったとしても、ちゃんと自分の教育現場で扱えるものかどうかを各教師の責任で考えていくことは必須)。自分では判断を何もしない無責任な教師になってしまう予想しています。

正解だけを求めて「あの実践家がそういうから」「学年主任がそろえましょうというから」などと、だれかの後追いをしているだけの人にはエビデンスは毒にしかなりません。エビデンスについて、調べていけばいくほど、結局は「自分で考え・判断する教師」が必要だと確信に近いものを持つようになりました。

僕自身が「本当に面白い人だなぁ」と思って付き合っている人は、やっぱり自分で考えて、試行錯誤して、失敗しながらも成長の中にいる人です。そういう人たちにはたいがい「やりたい・やってみたい」があって魅力的です。そういう人の授業も熱量があって、授業でも同じように子どもたちを魅了しているのだと勝手に想像しています。

自分で考え、判断して切り開いていく教師

学校に、今、目の前の子どもたちに必要な教育目標を同僚と考え合い、自分が大切にしている教育理念や教育哲学、思想をもって、子どもたちと向き合っていく。教材を通して知識や人との関係性をつむいで学びをつくっていく。今は、この狭い教室文脈にしか言えないかもしれない。けれども、こうやるといいんだよ、大切なことだよ、と自分で考え、判断して切り開いていく。ここに教育実践を積み重ねる教師としての矜持があるはずです。

本当は『子どもがとっても楽しくしかもより深く学ぶ教育エビデンスをいかした授業のつくり方』(こんな本あったらとぶように売れるだろうな(笑))を、知りたいですよ。教育に対するこの気持ちがないと言えば、嘘になります。けれども、そういう「知ってるくん」では役に立たないんです。

若かりし頃の僕は、知識の量で経験の差をカバーしようとたくさん本を買い集めていました。1年目からだってスーパー教師になれるはず!と。けれども、そんなことはありませんでしたね。結局、残ったのは積ん読本の数々と、あまりの重さで床がしなってしまったことぐらい。何にも考えてなかったんですね。

いい先生、できる先生に焦ってなる必要はぜんぜんなくて、1年目の教師であったとしても、自分なりの考えや判断をもちながら、失敗もしながら修正し、試行錯誤を通して少しずつ力量をつけていけばよかったんです。教師は時間をかけてゆっくりと教師になっていく。焦ってすぐにスーパー先生になる必要もなく、なれるはずもありません。

教育実践におけるエビデンス・リテラシーって自分を疑い考え続けること

エビデンス・リテラシーが0ポイントだと、「エビデンスはなんだかうちの教室で効果があるかよくわかんないけど、きっと効果があるんだろうからやる!」と何も考えずに飛びついてしまいがち。そうではなくて、自分の実践やあり方が独善的になっていないか、自分の成功体験や経験を信頼しすぎていないか、チクチクと自己批判できるような視点を提供してくれるのがエビデンスであり、エビデンスのいかし方だと考えます。

実践におけるエビデンスの活用はレパートリーを提供するのみである。

(石井2015:35)

僕は、これを積極的にうけとめて、ふりかえりの批判的な視点として、考えていこうと思います。考え方に偏っていなかったか? 批判的に振り返ったり、または、エビデンスそのものを「本当かな?」と自分の教室文脈でためしてみるため慎重に授業計画を練ってみる。ときにはそのエビデンスにNOを実践現場の教師から突きつけることで、さらにどうしてエビデンスが効果がないのか、エビデンスそのものに問題があるか、または、エビデンスの扱い方に問題があるのか、より深まっていきそうです。そういうときにエビデンスは効果的に活かすことができるんだと思います。

研究者と現場の教師が一緒に学ぶ

先日、算数の全国大会に参加しました。そこでは研究職の方たちが、リアルな子どもたちを前に、自分が主張するエビデンスや教育施策を、右往左往しながら授業している姿がありました。僕はこういう同じ釜の飯を食らおうとしてくれる姿に心打たれてしまいます。

苦労して導き出したエビデンスを、研究へのリスペクトをもっていかしていく。僕らはそれに応えられるように、エビデンスや研究成果をうまく使いこなしていく。そのために、ゆるやかにいっしょに合同研究できていくといいです。僕が勤務している学校では、幼稚園と大学教授と共同研究しています。一緒に話を聴かせてもらう機会がありましたが、これは相互依存のシナージーが生まれ、教師がバランスよく学び続けていく仕組みなんだと改めて気付かされます。

とりとめもなくなってしまいましたが、ここが「今」僕がわかっていること、こうしたいことです。もしかしたら、また大きく変わるかもしれない。そうであると、それはまたそれで学びが進んだことなんでしょう。次のステップはいよいよエビデンスを慎重に現場にどう活かしていくか、そのために考え続けていこうと思います。ようやく楽しくなってきそうです!苦笑

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/

自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 2/3

前回は、ハッティさんの研究概要と、エビデンスを安易に使おうとすることにちょっとまった!をかけました。

今回はエビデンス研究の問題点を、研究者側からとエビデンスを活用していく学校現場側から、まとめておきます。そしてハッティはその批判をうけて、どうエビデンスを活用していくのかでしょうか? その提案まで考えます。

大学や研究機関による教育研究側からのエビデンスの問題点

① RCTやメタ分析では、教育のプロセスを空洞化してしまう

まずは前述したRCTによるエビデンスの価値を鉄壁にするためのこの調査方法に批判があります。RCTにより原因と結果を明らかにしてエビデンスを示したかもしれないけれど、それ以外の因果関係や要因をすっかりと関係ないも都市、空洞化してしまっています。

教育は原因と結果の間のプロセスにこそ重要な意味があります。

効果があるなしの結果であるエビデンスに焦点をあてすぎてしまうと、その結果に至るまで子どもたちがどのように学んだり、悩んだり、そこをどうクリアしてきたのかといった学習経験が不問とされてしまうからです。教育で大切にしている学校目標や学年、学級目標、さらには学習内容、扱った教材、カリキュラムが不問とされてしまうのです。ハッティは、教師の資質能力や授業方法を追求していますが、一方、学習内容といったものが軽視されすぎてしまっている批判があります。

また、ハッティが教師の資質能力や授業方法を強調することにより、教師の責任が増してしまい、そこを逆手にとって教師の権限がさらに強まってしまう指摘もあります。

ハッティに限らず、PISSAテストも、各国のカリキュラム事情をなきものとして、テストスコアでくらべっこしようとする点では同じ延長線上にありますね。

② 扱っている論文そのものの古かったり、偏ってたり

そもそも研究調査で扱った原点資料の時代が古すぎたり、一定に国の研究結果に偏っていてバランスが悪い指摘もあります。ハッティがメタ分析で扱ったRCTはほとんど含まれていませんでした。また欧米の文化圏の実証研究であり、日本はそれにはふくまれてはいないようです。調査した3分の2が1980年代までの研究であり、今日的な教育課題を解決していくためには扱った情報が古すぎるのです。こういった、バランスの悪さも、教育の地域的な要素や時代的な要求などによって変わってくる文化差については、慎重に言及されないといけませんね。

とはいうものの、最近では3年に1度の頻度でハッティランキングは更新さいれていますが、時代を超えても効果の高い主な要素は更新されても、その本質は変わっていないとハッティは説明しています。

それにしても、エビデンスの信頼度という面では、慎重に考えながら上手に使っていく方法を模索しなければなりませんね。

学校現場による教育実践側からのエビデンスの問題点

① エビデンスを無視する独善的な教師となってしまう

「自身の経験や個人的な試行錯誤から学んだことに大幅に依拠する」(ハーグリーブス2007)

私たち教師は、教授経験の成功体験から得た知識でもってのみ、教育活動を行う傾向があり、エビデンスを参照しないという独断的な態度をもちがちです。そう、あーい、でぃどぅ〜ま〜いうぇーい♪(尾崎紀世彦風)です。

こういった教師は、エビデンスを使うことを嫌い、教師のもつ実践の自由が失われてしまう懸念から独善的な自分エビデンスに陥ってしまいがちです。

最近、僕自身がエビデンスについて調べてみるにつれて胸をつまされるのがこの問題。いかにこれまでの自分が自分の成功体験に頼って、教育実践を語ってきてしまっていたか!その罪の深さを思い知ります。教育とは先生と一人ひとりの子どもたちとの血の通った物語のようなものです。だからこそ、そこに思い入れが強くなってしまい、自分エビデンス(ぼくは印籠エビデンスと呼んでいますが)そのようなものができあがってきてしまうんでしょう。「今年も例年通りで」といったパターンも、どこかこういう流れが関連しているのかもしれませんね。

しかし、もし自分の経験を信じもせずに、教育現場にエビデンスによって定められた形式的で効果的なことを強制されるのなら、教師の自由な試行錯誤や自由志向に規制をかけられてしまう恐れがあります。

とはいうものの、教師の自由な裁量を保持することこそが教育の目標でもなく、エビデンスに基づく教育を批判すれば、旧態依然の学校権利を擁護する恐れがあります。このことは、以下の参考文献に挙げておいた今井康雄(2015)の論文にわかりやすくまとめられていました。

② エビデンスを振りかざし、判断しなくなる

この効果のあるエビデンスを使っているんだから、だからもうおれえずぇ〜んぜんOK!ふふふん。といった問題が起こってしまいます。悪いのはうまくエビデンスの通りに示してくれない相手の問題、子どもたちのせいだ、という自己陶酔。

「研究のエビデンスによって裏打ちされ明示的に定式化された手続きに従っているとアピールすることで、外部の人々に対して自らの実践の詳細について申し開きをする、という状態に帰着する。このような「エビデンスに基づいた説明責任」は、実践家の専門的判断を意気阻喪させ掘り崩す。」(ハーマスレイ2007)

この問題には、「このエビデンスがききます」といった安易な使い方では、実践のプロである教師が自分で考えて教育のプロセスをつくっていく判断や選択を矮小化させてしまうことになるんですね。

どのようなエビデンスが、個々の教室事情に適合するか否かを決めてられるのは、やはり実践的専門家でもある教師なんです。

エビデンスに対する批判はまだまだあり、今回はほんの一部です。これらに関しては、下の参考文献であげる今井さんの論文(PDFで手に入れることができます)、先日、出版された『エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって』に詳しくまとめられています。

エビデンスにおっかなびっくり近寄らず、批判ばかりしても、研究者やハッティたちがせっかく示したことを使えるようにならないのは、とてももったいないです。次回はいよいよ僕が思う、今のエビデンスにどういかしていけばいいのか?について、考えていきます。

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/

自分で考え、判断する教師がエビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができる 1/3

先日の学習会LAFTの参加はオンライン参加を含めて計17名。次回は11月18日。いよいよ具体的な授業づくりに活かす計画です。興味があったら、声をかけてください。告知終了〜。

エビデンスの昨今

「授業に教育エビデンスを活用するには!?」と、その是非を含めて勉強しはじめました。エビデンスとは「科学的根拠」とのこと。。最近のビジネスシーンでは「エビデンスを示せ!」と怒号!?が飛び交うようです(学習会参加者談)。スラビンという研究者が2002年に、エビデンスに基づく教育(Evidence-Based Education,EBE)を提唱し、今、到来しつつあるのは「教育における科学革命」らしいです。世界でも、この科学的根拠に基づいて教育をしていきましょうということが昨今の流れになりつつあります。エビデンス? カニデンス? ピザーラお届けではありませんよ。

ハッティブーム

今回のテーマ本は、オーストラリアメルボルン大学のジョン・ハッティさん『学習に何が効果があるのか』です。これを半年の間、5回にわたって読み込んで授業にどのようにいかせるのか、いかせないのかを検討していきます。ハッティさんは、教育エビデンスを示し、授業方法や教師のはたらきかけといった現場サイドにまで踏み込んだ具体的な提案をした人で、少し前には賛否両論含めてハッティ・ブームが世界では起こっていたようです。はい。日本ではあんまりそういう風は残念ながら感じられませんでした。僕だけかもしれませんが。。。

ハッティの研究内容

ハッティさんは、宿題や少人数指導、フィードバックなどの様々な教育的要因や介入に対して、なぜ効果があるのか、またはなぜ効果がないのか、教育心理学をもとに説明を試みました。これは、「エビデンスはこれこれこういうものですよ!」と効果のある品目を示して終わりの研究とは、明らかに異なり、エビデンスを扱うことに対して、とても慎重にしている点がとても好印象。そして、本の中では、教師が学習者に対する影響力(汝影響力を知れ!)と、フィードバックを授業の中心におきました。

ハッティの研究方法

ハッティの功績は、エビデンスを求めるに当たって、英米圏の50000もの実証研究をメタ分析をして、統合的にエビデンスに効果量を当てはめました。

強力で信頼度の高いエビデンスを明らかにするため、ランダム化比較試験(Randomized Controlled Trial,RCT)とそれらを統合的に分析するメタ分析をしました。RCTは医療研究の分野では、とても信頼厚い調査方法です。RCTは、無作為に選んだ2グループにプラシーボ(にせ薬)と本物の効果ある薬を与えて、原因と結果を明確にした、それ以外の影響することを排除した、効果のあるエビデンスを示していく方法です。そのRCT調査された論文を集めまくって、平均値や共通項をみつけるメタ分析を行いました。ハッティの圧倒的な量の量的研究に頭が下がります。

また、ハッティはその明らかとしたエビデンスに効果量を当てはめました。例えば、

「学級規模(d=0.21)」が学力に与える効果は一貫して低い(Hattie、2006)

ことが示されています。なぜなら、「小規模学級を担当する教師が大規模学級でおこなってきたことと同じような方法による指導を行い、小規模学級の利点が活かされていない(Finn,2002)」からでした。教室の人数が少なくなることで、明らかに学習環境は使いやすいものにはなりますが、教え方がいつまでたっても変わらなければクラスを少人数にしても学習の効果は変わらないということです。

このようにハッティは、教育エビデンスの効果量に数値基準を示しました。d=0.2以下が効果が低く、d=0.2からd=0.4が効果が中程度であり、指導する人によって差がでてくるものです。d=0.4以上が非常に効果が高いものです。

エビデンスを使うにはリテラシーが必要

「んじゃ、細かいこと言わないで、効果の高いものをじゃんじゃんエビデンス使って授業すればいいじゃん!」ってなりそうですが、実は、そんな簡単なことではなさそうです。

結論を言ってしまうと、自分で考え、判断する教師がこそが、エビデンスを批判的に使え、教室文脈にいかすことができるからです。

実は、これらのエビデンスの扱い方は本当に様々な批判も多くあり、現場の教師がエビデンスを有効に活用してくためには、まずは、エビデンス・リテラシーを身につけていく必要がありそうです。エビデンスを活用する教育には、かなり慎重にならざるを得ない現状です。その批判を大きく分けると、研究機関による「教育研究側の問題」と学校現場での「教育実践側の問題」があるからです。次回は、この二つの点について考えていきます。

参考文献

  • 杉田浩崇・熊井将太(編)(2019)「エビデンスに基づく教育の闇を探る 教育学における規範と事実をめぐって」春風社
  • ジョン・ハッティ(著)、山森光陽(訳)(2018)「教育の効果:メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化」図書文化社
  • ジョン・ハッティ(著)、原田信之(訳)(2017)「学習に何が最も効果的か―メタ分析による学習の可視化◆教師編」 あいり出版
  • 今井康雄(2015)教育にとってエビデンスとは何かーエビデンス批判をこえてー
  • 久富 望(2019)「効果的な教育」のエビデンスの責任と将来性 日本カリキュラム学会第30回大会におけるハッティの研究に関する議論を基に
  • 平成29年度文部科学省委託調査「教育改革の総合的推進に関する調査研究」エビデンスに基づく教育政策の在り方に関する調査研究報告書
  • VISIBLE LEARNING Hattie Ranking:252 Influences And Effect Sizes Related To Student Achievement https://visible-learning.org/hattie-ranking-influences-effect-sizes-learning-achievement/

「数学者の時間」学習会

「数学者の時間」のメンバー5人で、原稿の今後のスケジュールを確認で集まりました。今週のPLC便りにもあったように、来年出版! いよいよです。

いまは、実践をより深め、実践でできていることをていねいに言葉にしていきます。出版の暁には、ぜひ、トライしてみてください。

昨日、福島のばんちゃんたちと新宿で会って話をしました。自己最適化の話をききました。教科を横断的にカリキュラムマネジメントして、ずいずい探究していく子どもの姿には魅了されます。今ならまた改めて、算数アドベンチャーとしての探究授業に挑戦してみると、学びの意味の捉え方が変わってきそうです。

僕はというと、反対に教科をつなぐというよりは、一つの教科を縦堀りしていくイメージをもっています。けど、不思議とばんちゃんたちと話しあっていることはどこか同じ事でもありました。

僕が大切にしている算数授業は「パラレル授業」で2つの時間が流れています。「数学者の時間」という年間を通して、学習者が試行錯誤できる時間。それに平行して、1コマ、1コマのテキスト算数授業が両輪となって動いている感じです。

試行錯誤する数学者の時間も、テキスト算数に影響されて深まりをみせるし、テキスト算数をやりながらも試行錯誤する数学的思考を運用していく機会ともなっています。

とまぁ、書いてはみたものの、ここ最近になってそういう効果があることが「継続」してみてわかってきたので、このあたりについてはもう少し、ていねいに研究していく必要がありそうです。今はそのうねりはじめの時期でしょうか。

今日の学習会で、あらためて確認したこと。数学者の時間は、数学的思考をつかった問題解決サイクルを回しながら、算数を楽しむ時間であること。これは、テキストベースの算数ではなかなか難しいところ。どうか、数学者も教科書も両者が上手に仲良く住み分けながら、お互い影響し合いながら、よりよい学びへと進化してく、そんな提案をこのメンバーたちでできるとうれしいです。

それには、まずはやっぱり授業。子どもたちと一緒につくっていけるよう、年末までは試行錯誤して、じりじりともがいていきますね。

あ〜、楽しかった。

自分が効果高し!と実感していた教え方は実はエビデンスが低かった(その逆もあり)!こととの乖離はどう埋めていくのだろう?

最初に、今回の課題本『学習に何がもっとも効果的か』を選定した思いを、教育エビデンスが抱える光と闇と称して(別に称してなかったけど)語りました。

  • エビデンスのもつ信頼度や強度の話
  • エビデンスと政策資金や方向性、知らず知らず形成されるコンピテンシーの話
  • 教師にとって都合のよい印籠エビデンス(これでもかー!と金科玉条のごとくかかげるエビデンス攻撃)
  • 結果としてのエビデンスでは価値あるプロセスを語れないこと

などをふまえ、自分の授業づくりのまたはマインドとのふりかえりにエビデンスを自己の批判的視点として、慎重扱っていこうと話し合いました。

P29にあるエビデンスの効果が高い、中くらい、低いものを仕分けして話し合いました。これは、すごくおもしろかったです。それぞれのあり方を垣間見ることもあったりして。けど、勉強不足で教育単語の翻訳のため?項目の意味がまだよくわからないものもありました。

ジョン・ハッティ著 原田伸之訳者代表『学習に何が最も効果的か』P29より

そこで、僕の中で刺さったことは、自分が効果高し!と実感していた教え方と実はエビデンスが低かった(その逆もあり)!こととの乖離はどう埋めていくのだろう?ということ。

今、自分が実践していてやっていて、効果があることでエビデンスが高いと、やっぱりうんうんと納得しちゃって思考停止するな。

「生徒の学習スタイルと教え方(d=0.17)」はこれまで、マルチプルインテリジェンスや一人ひとりをいかす授業の学びから、効果が高いと思っていました。実は、それほどでもなく、教師の力量に大きく左右されるもの。この内実を知りたい。

また、漠然と(他の項目と相対的に考えて)効果がなさそうだと思っていた「語彙力促進プログラム(d=0.67)については、実はとても効果があったりした。自分の中に納得感もって授業に組み込めるのかなぁ。もしくは、すべて効果の高いエビデンスを無理に組み込む必要はないのかもしれない。

都合のよく印籠エビデンスごとくつまみぐいしていくだけではだめで、自分にとって都合の悪そうなこと、つまりエビデンスの効果を低く見積もっていたものでも、実は効果が高かったものについて、慎重に学習していかないといけない。単純に、知るところからはじめていこう。

今は、まだ頭の中と言葉での空中戦でしかないので、これをもう少し具体的な実践案といった計画にうつしていったときに、少しイメージがたちあがって意味があるものとなりそうです。今後の自分たちに期待!ということで。

ただ、ここで慎重に語られることは、「汝、己の影響を知れ!」という、教師の学習者に対する理解です。それはとりもなおさず、教師の影響が与えられる学習者、クラスの子たち一人ひとりの様子をみていくことです。自分に焦点化しすぎず、かかわりや授業の影響について真摯にエピソードとして記述していけるといいですね。この延長線上に、自分をふりかえるヒントがありそう。

今回、エビデンス実践者でもある森さんからも、オンラインでいくつかレクチャーをいただきながら、エビデンスについて概要を整理してもらいました。今後、課題本の訳者である原田さんを紹介してくださるということだったので、みんなで「はらださんにききたいことおてがみ」を作ってみたいです。チャンスがあれば、ワークショップでじっくりエビデンスについて考える一日をつくってみたいな。

さて、LAFT2回目に向けて、オンライブッククラブ、フィードバック、授業案づくりなどまだまだ続きます。次回は11月15日(金)です。

LAFT1回目 すたーてぃん!

いよいよ満を持してLAFT再開です。今回は5回を1シーズンとして「教育のエビデンス(客観的根拠)」について研究。

会場の仙川まで来るのに、中には2時間かけて集まってくれるメンバーもいます。こんな遠くまで申し訳ない気持ちと、雨の中でもよく来てくれました!と、その情熱に頭が下がります。オンライン参加もあるんだからそっちでいいじゃん!と、実は思っていたかもしれない。けど、実際に会って話すことで、新しい発想やシナジーが生まれやすいんですね。そして、それに刺激をされて、僕もがんばろうと思うのです。

今回はオンラインでのオブザーバー参加もありました。遠方で直接はこられない。またはスケジュールが厳しい。でも、今回の学びに興味がある。基本、聞き役として参加してもらいましたが、今後、そこでの対話もよりうまく進んでいくといいなと思います。コアメンバーでここを運営していくのはちょっと煩雑になってしまうので、記録同様(今回、編集社の方に記録をしてもらいましたが、まとまっていて要点をおさえててすごい!)、オンライン参加のオブザーバーの中から、管理者をしてもらえると、自立して運営できて助かるなと思います。

また、今後、会場でのリアル対話とオンライン対話との往還も検討していきたい課題です。会の運営は、こういう役割が基本、ボランティアで成り立っている組織。参加者の協力やコミットが欠かせません。参加する人の、なんのためにやるのか大切にしたいなぁと思うのです。

なにはともあれ、1回性の学びにはあんまり効果はないと思っています。もんもんとしている時間やもがいている時間こそ、その後に一気に人の成長を引き上げてくれる力がある。そう思うと、じりじりと引きずりながら学び続けること、そこで一緒に、悩んだり考えたり、笑ったり、専門的な知識を交換しあったり、刺激し合えるメンバーがいることは本当にありがたいことです。

つづく「自分が効果高し!と実感していた教え方は実はエビデンスが低かった(その逆もあり)こととの乖離はどう埋めていくのだろう?」

サ道(サウナ道)、ととのったー!

ゆったりと椅子に腰掛けていると、指先と足先が静かにしびれてくる。まるで、スッとしたハッカ炭酸水の中にいるよう。全身の毛細血管が開きはじめ、弱い電気が全身に走り始める。肌の血色もねずこみのように赤く脈を打つ。

きたきた〜!

首筋からじんじんしながら、じわじわと脳みそへかけめぐるエクスタシー。宇宙をぐるぐると、さまよっているみたい。

ととのったー!!!!

と、サウナに入ると、ストレス解消、疲労回復、なによりもこんな深い瞑想状態に! 実は、風呂場でぼーっとしている裸のおっさんたちは、実は、こんなおいしい体験をしているのでした。サウナでのこの感覚は、合法ドラッグと呼ばれているほどです。

これまで、運動した後はサウナと冷水に交代で入る温冷交換浴をしていました。これだけでも、かなりの疲労がとれるものです。けれど、このマンガ本をきっかけに、冷水後に「椅子でゆったりタイム」をとるようになったら、あら、不思議。一気に、ニルバーナの世界へ。サウナの世界のディープさを知ることとなりました。すっげー、ゆるくてオススメのマンガ本です。

ちなみに、オイラのサ道は

  • ①サウナに6分間 
  • ②冷水に2分間 
  • ③のんびりと椅子に座って4分間

これを3ターンくりかえし。最後は水でしめて、清らかにあがっていきます。

昨日は、2ターン目でふかーい瞑想状態に。ちーん。サウナってすごい。そんなとき、たまたま実家の親父からサウナハットをプレゼントされるというセレンディピティ。世の中は不思議です。サウナハットをかぶっているだけで、サウナの上段(一番熱いところ)頭が熱気でやれないので、髪にも優しくのぼせない。サ道の主人公さんもかぶっているので、いつかかぶってみたかなったなー!って思っていたら、叶いました。(このサウナハットの表示ラベルをみたら驚きました。なんと…。)

最近は、静かなるサウナブームなんだそうです。男性諸君、一緒にいきましょう。整体も行き、サ道を究め、おじさん街道まっしぐらです。King of Ozisanを目指して今日も、身体も心も整えます。

歪んでいる

「あんた、歪んでいるよ」と、言われました。あまりのショックで、どのような言い回しだったかは定かではありません。

そう、整体に行き始めました。

歪んでいるとは腰のバランスらしい。決して、性格や人生ではありません。

最近、バスケしてても、ジムでトレーニングしていても、両膝の痛みが気になってきました。深くかがめない。けど、運動は長く続けていきたい。一緒にバスケをやっている仲間のキン肉マンにそうこぼすと、「整体に行くといっすよ。俺も週1でいってるっす」と、身体のメンテナンスについて教えてくれました。ついでにライザップのシステムも教えてくれました。いかないけど。

整体っていってもなぁ。なんかおじさんくさいしい。と思っていたら、もうすでにおじさんだった自分を知り、あきらめて駅ちかくで、ネットの評判がよさそうなところにメールを。早速、返事がきました。

訪れてみると、「膝の痛みの多くは、姿勢の悪さから来るのだ」と、その整体・整骨士さんはうれしそうな顔をして、強烈な電気がでるマシーンを股関節(ちょうようきん)にグリグリあててきます。

僕は筋肉がめっちゃ固いらしい。よくこれで、大きな痛みもなく、これまで運動ができていたことに、驚かれました。筋肉が固いと収縮がされずに可動領域も狭まる。そのため、動きが小さくなりクッション性もなくなり、膝が痛み出す。すべてはつながりの中にあることを知りました。

そんな話をきかされ、また電気をぐりぐり。筋肉を剣山でざくざく刺されている痛さです。顔が歪みます。けど、なんか痛いほど効果が高いそうで、堅くなってしまった筋肉の奥深くに電気が届いてぐりぐりほぐしてくれるらしい。そうおもうと、少しでも多くの電気をもらおうと、つい痛みにのけぞりながらも、電気をほしがってしまう。

あまりの電気の強さに足が勝手に曲がり始めました。それを押さえつけて、これでもか!とさらにぐいぐい。もう、涙がちょちょぎれてしまいました。

「あんた、意外に痛みに強いね。普通の人はこの半分で根を上げているよ。今はマックス120だ!」と、痛みタフネスを褒められました。生まれて初めて、痛みに強い自分を褒められ、なんだか少しうれしくなりました。自分にもそんな能力があったのだなぁと、初めてわかりました。けれど、身体的な痛みは強いのに、批判的な痛みは弱いのよ。みんな優しくしてね。あはは。

おかげで、少し膝がゆるやかに曲がるようになってきました。

はーあ、くせになりそ。

しばらく、整体に通ってみます。みなさんも、身体のメンテナンスを忘れずに。ちなみに、料金は痛みがあるため保険が適用されても1回4000円ちょっと程度。なかなかのお値段ですが、これでも安いようですよ。

尚、今、思い出したけど、整体士さんの口調はとても優しく、穏やかでした。

ただ、ずんぐりむっくりで強そうな整体士さんの電気を当ててくる押さえ込みのパワーと眼力にびびりながら、今日も通うのです。

一人ひとりをいかす算数授業 その④ 一人ひとりを見届ける記録ノート「カンファランスノート」

子どもたちの学習や生活の記録は何に、どうやってつけるのが一番いいのだろう? ずっと試行錯誤してきました。今回は、とくに一人ひとりの様子を理解するという視点から、シンプルに名簿記録に戻りました。その名簿ファイルのことをかっちょよく「カンファランスノート」と呼んでいます、

ちなみに挫折してきた記録方法

  • デジタルPDFの名簿に書き込む(電源問題と一覧性の面から断念)
  • 日々のふりかえりとして、pagesに文書と写真や動画など記録していたけど、「全員を見届ける」という視点では甘くなっていました。焦点が気になっている子や目立ってしまう子に行きがち。結局、エピソード記述のふりかえり一つではうまくいかないものです。
  • その都度、Evernoteにメモとタグ付けして記録。後での検索能力は素晴らしい。けど、端末依存型すぎてなんか人間的にいや。

今は、学級名簿(紙ベース)+エピソード記録(クラウドベース)に落ち着きました。A4の学級名簿に、1時間ごとの練習問題の評価を入れています。気になったことや間違えの類型をそこにメモしたり。

結局、色々ためしてみたけどこれがシンプルで経済的にも続いています。名簿は子どもたちと一緒に確認することもあるので、学習の記録のようなものや連絡事項の記録、メモ書き程度にしています。

それを元にして、具体的な気になった子のエピソードや授業のふりかえりなど、今はEvernoteにフォルダを作ってタグ検索できるように、打ち込むようににしています。時間にして20分弱ぐらいかな。授業進度とは別に、一人ひとりの成長やハプニングのようなものは、学習とは少し別なので、エピソードとして記録が必要です。

結局は、授業中にすぐにメモできること。その場で積み重ねられること。これは、デジタルデバイスでは、電力や個人情報の面でやはり難しい。そして、記録する時間を授業以外で確保すること。これは、振り返りの時間のこと。結局は、この二つのことを地味に続けることが、少しずつ子ども一人ひとりをみようとする観察力が高まっていく筋トレなのかもしれないです。

記録する方法論だけでは、「一人ひとりをいかす授業」はもちろんうまくはいきません。学習内容を記録する意味のあるものにしていかないと結局は、記録ノートは、忘れ去れてしまいます。過去の自分がそうであったように…。

これ、A4の名簿用2穴ファイル。今は進化して穴に入れやすくなっているんですね。