子どもの自分らしいエピソードで、卒業式「別れの言葉」の台本ができあがるまで

子どもたちと卒業式にむけて、別れの言葉をつくっている。

子どもの声を大切にしている学校だけに、卒業式での呼びかけも、そのまま子どもの言葉をつかう文化がある。

僕がこれまで経験してきた、格調高い「別れの言葉」になりにくい。けれども、ほっこりする子どものエピソードや、その子ならではのぐっとくる等身大のエピソードが語れて、それがとてもいいと思う。

伝えたいことを文章にして、自分の言葉で話す。その舞台が卒業式であるっていい事だと思う。

もちろん、子どもたちが書いた最初の原稿は全員がほぼ、修学旅行と合宿のことだらけだったりもした笑。何度かブラッシュアップしていくと、少しずつその子らしい文章ができあがってくる。ここはもう個別にカンファランスの繰り返し。

そして、書いた文章は、書き言葉だったりもする。伝えるための文章へと多少の修正、校正はてこ入れするけど、どれもそのままの自分が感じたことや考えたこと、心に残っている言葉ばかりだ。

子どものそのままの声。

そして、どの子の文章をどのタイミングにいれるのか、歌の選曲や順番も実行委員の子どもたちが話し合って決める。遅々として進まなかったけれど、このプロセスは僕にとっても、「誰の」卒業式なのかをじんわりと理解するためにはとても貴重な体験だった。

明日はいよいよ台本のしあげ。追い込みしんどいけど、卒業のテーマである「自分らしく」その子らしく、別れの言葉を作れるように支えていけるといいなぁ。

学校って、授業だけでなりたっているわけじゃないんだなぁ

卒業時期が近づいてきた。来週末にはもう卒業式。

今日は、6年生を送る会があった。この6送会はおもしろくて、4時間目に全校であつまって、それぞれの学年の6年生に向けての出し物がある。お昼をはさんで、午後はたっぷり2時間、各委員会が考えた出店がたっぷりと遊ぶのがとてもいい。

2年生の出し物をみんなでみているときのこと。全校の前にでてきた数人の二年生が、「6年生、ありがとう。お別れがさみしいです。。。。」と言葉につまって、その場で泣いてしまった女の子がいた。それを見ていた、6年生ももらい泣きしてしまう。

2年生と6年生はパートナー制度があって、入学式の時から、一緒に登校してあげたり、これまで2年間ずっと面倒をみてきてあげたから、なおさらこみ上げてくるものがあった。

だから、みんな自分のパートナーをとても大切にするし、2年生もパートナーのことが大スキみたいだ。

こういうことは、通常の授業の中だけでは起こらないことがたくさんある。パートナーがやんちゃな子だった場合は、いろいろ振り回されたり本当に大変だ。けれども、けなげにちゃんとつきあってあげようとするお兄さん、お姉さんはだれもたくましくほほえましい。

あまりにも忙しすぎて、それぞれの行事が慌ただしく過ぎていくこともあるけれど、その中で、ちゃんと気持ちに区切りを付けながら、別れを惜しもうとする姿もうまれてきて、なんだがとてもいい時間だった。

こういう子どもたちの姿をみていると、学校って授業だけで成り立っているわけじゃないんだよなぁと、つくづく感じる。

数学者の時間は「ぶっとんだ授業」

弘前大学教育学部付属小の先生方が「数学者の時間」を2コマ、見学にこられた。自立した学習者をテーマに研究しているそうで、数学者の時間で取り組むワークショップ授業がそれに近いとのことだった。

僕の中にある3学期のテーマは「もの」を使って思考すること。でも、ものを使うと操作がある分、なかなかノートに記述されない問題をどう解決していくか。そこで、今回は、KAPLA積み木を使った授業とマッチ棒を使った問題を選択して、子どもたちと考えあってみた。

子どもたちは、KAPLAについてはすでに2時間かけて、橋を作ったり、橋の上にチョロQを通したり、すでに取り組んできた問題。だから、一般化を求めて「KAPLAを使った問題づくり」を持ち込んでみた。

一方、僕のクラスはKAPLAから離れて、半具体物のマッチ棒を使った「マッチ棒パズル」を扱ってみた。こちらの方が、思考の足跡をメモしやすいと予想していた。毎回同じだけど、朝の朝まで、子どもたちに提示する良問を決められないで悩んでいる。たぶんこれはこの先も続いていくんだろうなぁ。

どちらの授業も、それぞれグループ(KAPLAの数に限りがあるため)で、そして個別(マッチ棒はたくさんあるので、こちらの授業はいつもの雰囲気に近かった)に活動しながら、考えていた。僕は、その途中途中の子どもたちのアイディアが面白すぎて、一緒に考えはするものの、思考をどこかに連れて行こうとするよりも、一緒に楽しんでいた。今回はそういうカンファランスだったと思う。

授業後、先生方との振り返りは2時間かかって話し合った。一番印象的だったのは「ぶっとんだ授業」だと言われたこと。これはこれまでの算数・数学文脈とは、異なった授業だったと好意的に僕は受け取っている(あってるかな?)。 参観されてた先生方は、授業をどうみていいのかはじめよく分からなかった様子で、意図を丁寧に説明し、はじめて理解された様子だった。

たしかに、何かを積み上げる授業ではないため、子どもたちは遊んでいるように見えてしまうことがある。成果がでそうででないその「どうにもならない」時間をどう解釈するのか。僕は知識が生み出されるにはこういう試行錯誤が必須だと思うし、そういう時間を大事にしたい。

何か知識を授けるのなら、的確なアドバイスや指導があるだろうけれども、この時間は子どもと僕も一緒に考えてしまう、そんな授業構造だからどうしてもこのムダに思えそうな「どうにもならない」いろいろ試している時間が必要。それが遊んでいるように見えるからこそ、授業として捉えにくいのかもしれない。でも、遊ぶように学ぶってこういうことなんじゃないかなぁ。こういうことを好意的な雰囲気で授業検討できたことはまたありがたかった。落ち着いたら、改めてフィードバックをいただけるとのことだったので、そのときじっくりと振り返っていきたい。

いかにもこの一ヶ月は忙しすぎた。何かを書き続けるリソースが自分の中でさけないままでいたから、また細々とつづけていけたらいいなぁ。

「数学者の時間」でKAPLAを使ってみた

ここ数回の数学者の時間は「もの」を使って考えることと、子どもがつくるルールや「問題づくり」にこだわってきた。

昨年末のLAFTで、井本陽久さんの話に、木製ブロックのKAPLAを使った数学実践があった。これはおもしろそうだったので早速取り寄せてみて、子どもたちと何ができるか、遊び始めた。

しかし、ただの同じ形のブロック(1:3:15の木製ブロック)でしかないため、どういう数学的な場面設定をつくるか、よく分からない。しかたないので、自分なりにいろいろ試しながら問題の場づくりを考えてみた。

まず思いついたのは「高さ」。できるだけ高く積むにはどういう数学的なパターンが必要なのか。これはおもしろそうだったが、「より少ないブロックで」といった条件を付けたときに、積み上がったタワーからブロックを抜くなどの修正がしずらい点もあり、問題としてあまりふさわしくない。

やはり橋のように渡してみるのはおもしろそうだ。自分でもやってみたが、橋をわたす幅とその最小ブロック数にはどうもパターンもかくれていそうでおもしろい。さまざまな幅で最小を競ってみてもいい。問題の提示の仕方によれば、橋をつくるだけから、隠れたパターンを探すことができそう。さっそく授業化してみた。

今回はKAPLAを使って、その2回目。前回ではより少ないブロック数で深い渓谷に橋を渡したが、今回はその橋の上を車を通す場面設定とした。その車は、平面しか走らない。これがなかなかよくて、子どもたちは熱中していたし、よく考えて話し合っていた。

橋が完成するたび、僕は呼ばれて一緒にチョロQが橋を走りきれるか息をのんで見守った。けれども数秒後、子どもたちの悲鳴とともに橋が崩れ落ちる。最高だ。考えることはこういうことの連続なのかもしれない。

ちなみにチョロQはすでに生産中止となっていることをはじめて知ることとなった。代わりにダイソーシリーズで手に入れられたが、なんだか大事な子ども時代を一つ失ってしまった気がして、ものさみしいなぁ。

次回は、子どもたちにもっと楽しくなるためのKAPLAをつかった場面設定を「問題づくり」として考えてもらおうと思う。これはこれでとてもおもしろそうだ。

このKAPLAを使う数学。やってみると決定的残念事例が起こる。活動に夢中になりすぎて、数学者ノートへの記述がいっさいなくなってしまう。

しかし、それでもよく考えていることは事実。証拠はないが、よく考えている。

これをどう捉えていくのかは、今後また検討していきたい。ふりかえりの感想にもう少し、そのプロセスを振り返って記述してもらってもよかったかも。

でもこうやって授業を考えているときは、本当におもしろいなぁ。

雪の中で火起こししてからの焼きマシュマロうまし

予想通り、今朝は2時間遅れのスタート。その日の出授業を組み直したら、予定をみた校長さんが「いいの? 雪遊びをしないで。僕の授業はいつでもできるからさ」と、わざわざ雪遊びを誘ってきた。

校長さんは、クラスの子どもたちに、時間割りが変更になったことを6時間目にクラスに来て話してくれた。「この間、みんなが火起こししている様子をみてたら、本当に楽しそうでいいなと思ったんだ。だから、よりよい方を提案してみたんだ。みんなもいいなと思うことはどんどん提案しよう」と。

そういう学校です。

ということで、雪遊びもそこそこ、火起こし道具(七頭舞の棒、板きれ、去年どこからか見つけてきたロープ、麻紐、バケツ)もって、しぜん広場にやってきた。

こういう雪の中でわざわざ火起こしして、マシュマロを食べようとたくらむこと。とてもいい。これまでの火起こしで一番ハードモードだ。熱も入る。

実は火起こしってものすごく繊細な配慮が必要。すりあわせる板と棒の素材もそうだけど、ほんの小さな失敗で火がおこらないことがほとんどだ。子どもたちがやりがちな失敗は、つい土にその棒先をおとしてしまい温度を下げてしまうとか、種火を集められないとか、ものすごく繊細な「気づき」の積み重ねで成り立つのが火起こしだ。

決して力業では、ただ煙だけおきて、つまらない代物。マシュマロ焼きだって、ここ一ヶ月挑戦しているが、なかなかマシュマロを焼けるところでは来ていない。

別にライターがあればことすむことだけど、自分で火をおこせるスキルをもっていると、なんだか人類の英知を受け継いだ気がしてしまう。そこに子どもたちも魅了されるのかもしれない。そして、身につけてみて初めて知る、自分の身体への圧倒的な信頼感。これに勝るものなし。こうして、やんちゃキッズは魅了されていく。

二度ほど失敗はあったが、炎を作ることができた。僕も今回は焼きマシュマロたべたいからけっこう、口を出していた。けど、みんなで起こした火からうれしくて、うれしくて、小6男子が大きな体を揺さぶって喜んでいる姿はいい。

火があがると不思議で、これまで焚き火に興味を示さなかった雪遊びをしていた子達が「なんか食べられそう」と集まってきた。その子達にも焼きマシュマロをわけて、おいしいほっこりとした時間となった。

学校ってどういうところなんだろう。

もっと自然と一緒に生活したり、味わったりできるといい。学校は、勉強だけでない経験もできるところなはず。カリキュラムはあっていいけど、カリキュラム通りと、しばられちゃいけないなぁ。まぁ本当は、予定通り授業をすすめたいけど、「今」しかないことがあるし、そこに意味があるはず。

次はホットココア(マシュマロ入り)を飲もうとなった。ココアは温める時間がかかるので、マシュマロに比べてかなり上級だが、雪の中でも火がおこせれば、もはや敵はいない。

煙にいぶされ1日くさかったなー。

入試が終わり、雪が降る

東京に雪が降った。去年よりも積もった。放課後は子どもたちと校庭ですごした。

いつも注意されている子はもちろんのこと、普段、あのやさしい子までが目の色を変えて、僕に雪玉のねらいすましていた。なんだろう。雪は人を狂わしてしまうのか。

午前中、授業の合間に放送で「先生方は職員室へ、集まってください」と連絡が入った。教室から「いえーい!」「もしかして休校!?」「やっほーい!」と早とちりした叫び声が、職員室で仕事をしていた僕にもれ聞こえたきた。子どもってそういうもんだとおもうし、僕もこっそり休校を支持している。

通常通りの登校だったら、雪遊びもそうだけど、雪の中で火起こしをやってみようかな。今朝のしぜん広場では、あまりにも寒くて火がおこせなかったそのリベンジ。マシュマロ焼きがいつまでたってもおあずけだ。

中学入試もここのところでようやく終わった。インフルエンザが流行しはじめ、一時はどうなることかとヒヤヒヤしたけど、なんとか食い止まり、ほっと一安心。これでようやく卒業に向けて、落ち着いてもろもろに取り組める時期がやってきた。

入試問題はなかなか難しいものが多い。「なにこのイジワル問題!?」みたいなのもあるけれど、中には考えるにふさわしい、おもしろい問題もいくつか見つけることもできる。

子どもたちには、せめてそういう問題を見つけて、楽しんで解いてきてほしいと伝えてきたし、この2年間は、子どもたちとはそういう考えたいと思うことを大事にしてきた。

今回、受験についてはいろいろ思うことがあった。しばらくしたら、ちゃんとふりかえりたい。

さぁ、どんな1日になるかな。いってきます。

早く行きたいなら一人で行こう。遠くへ行きたいならいっしょに行こう。

学びは継続にこそ、意味があると思う。最近、忙しくなるとなおさらその学びの時間をどう工面するかが悩ましい。

コロナの時はもっと難しかった。そこで、なにか自分にもできること、世のため人のため出来ることはないかと思い、学びの場LAFTを再開した。

僕は先生は本を読む人でありたいと思っている。けれども、教育書ってそもそも、読みにくいしわかりにくいし、翻訳書は意味が入ってこない。

だから、本について仲間と少しずつ話し合いながら、実践に移そうと挑戦してみる場が必要だ。さらにはその著者から直接話をきければ、最高じゃん。

そう思って再開したLAFTもそろそろ一年が経とうとしている。ここでしか出会えない人たちと知り合って、本当に楽しい。

一人では続かない学びも、人といっしょなら学び続けることができる。これ真実。

数学者の時間の研究もそうだったし、LAFTでの学びもそうだった。仲間がいたからできたことだ。元来、SSBシンドローム(スーパーさぼりたい症候群)を患っている僕にも、学び続けることができる自信をもらえた。

今週末、LAFTがある。今回で178回目だ。長く続けてこれたのは、まちがいなく参加メンバーのおかげだ。だって、主催しても僕が休んでも、進めてくれてたし笑。

今回は、LAFTで知り合った仲間、数学者でずっと研究してきた仲間、それぞれの算数実践発表だ。先月の井本さん研修会、KAIさんの研修会、そこでの学びのふりかえりやそこで考えたことの共有もしたい。そして『教科書では学べない数学的思考』のブッククラブもある。

僕は、学ぶことは続けることだと思っている。

だって次の日にはほとんど忘れちゃうし。

知ったところで、すぐにできないし。

何かを身につけようとするのなら、地味に時間がかかるし。

だから、継続した学びの場が必要だと思う。

そして、一番は学び合う仲間がそこにいること。何か知ろうと考えようとする人と一緒に話すのは本当に楽しい。「オレもがんばらなくちゃなー」って思える出会いが毎回ある。

さて、LAFTは今週末の土曜日、一緒に学び、遠くへ行きませぬか。

折り紙4回追って、4回切り込みいれて、線対称かつ点対称の算数アートをつくりました。

急遽、研究授業で「数学者の時間」カードゲームのルールづくりをやった

今日は研究授業日。僕が担任するクラスが残って「対称」を活かした算数と美術のコラボ授業「イカスクラス家紋をつくろう」だった。

のはずだった。

美術の先生が体調不良で休まれた。さて、どうしたものか。ということで、急遽、算数で僕が研究授業をやることにした。

たまたま1・2時間目が空いていたので、これまで温めておいた、年末に井本さんから学んだ「カードゲームのルールを子どもが考える」授業を計画してみた。そう、数学者の時間だ。

この空き時間に指導案をちゃっちゃと2枚ほど書き上げた。職場の人から羨望のまなざしで「仕事できる人だ」と言われたけれども、そんなことはなく、いい加減なもんだ。そもそも指導「案」であってないようなもの。あんまり気にしていないからいくらでも書けてしまう。頭の整理にもってこいだった。

どんな良問にしようか少し悩んだが、この本からの引用とした。結果、おもいもしなかった「創造的カンチガイ」が生まれて、面白い授業となった。

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これまで授業では、様々な問題を使って特殊化(小さく試す、系統的に試す、表にしてみるなど)はやってきたので、今度はみっちりと一般化の練習をしようと考えた。一般化とは「カードゲームの必勝パターンをみつける」ことにした。

問題のパターンをみつけるために、何度も試してことで機能的に一般化する「経験的一般化(まずジャンケンに勝つ、相手を勝たせないように邪魔するカードをとる、5を先にとるなど)」から、上記の発見を使ってこのゲームをさらにオモシロくするルールを付け加える「構造的一般化」をこころみた。

提示した良問も、ちょうどいい難易度だったので、残りの時間はたっぷりと「問題づくり」もとい、カードゲームの「ルールづくり」にあてることが予定どおりできた。

全て15になる3つの組み合わせを系統的に表にする子がでてきた。さらには、5をとると手詰まりがなくなりそうなことも見つけている子もいた。中には、2や6のほうが扱いがイイという子もいた。これはこれでまだ特殊化が足りずその過程にいるからでそれももちろんOK。

研究授業っていつもクラスでやんちゃしている子が輝くあるあるがある。

「3つのカードで15をつくればいいんでしょ。ならこのカードの間に÷と×を書いて」と自分の机に鉛筆で÷と×を書いて、15をつくりはじめた。これはおもしろかった。たしかに問題には、「足し算で15をつくれ」とは書いていない。

このアイディアは、ゲームのルールづくりにもってこいと、みんなの前で紹介してもらった。ちょっとそのタイミングがはやかったこともあり、みんなはまだピンと来ていなかったようだが、ルールの多様さは少しずつ広がっていった。

子どもたちは必勝法(負けない方法)を見つけるにつれ、ルールづくりを始めていた。持ち札を5枚にしてみたり、合計を30を目指したり。ワイルドカードでジョーカーをいれている子もいた。次回もこれを続けていくので、どんなルールが出版されるか楽しみだ。

その後の研究協議は、子どもたちの名前とエピソードが飛び交う時間だった。うちの学校のいいところだ。そして参観した先生たちとで、トランプをしながら、先生ルールを一緒に考えて楽しんだ。僕にとってはこれが一番学びの多い時間だった。

あわただしかったけど、最近、入試の練習ばかりが続いていたので、なにかに夢中になれる数学者の時間ができてほんとうによかった。

奈良教育付属小の問題は、教育現場の自由実践の抑圧にならないか

奈良教育付属小学校の履修問題に関して、文部科学省は各付属校に通知を発行した。この事態を受け、僕は教育現場における自由な実践が躊躇され、萎縮するような状況が生じてはならないと懸念している。

研究の本質はその性質上、ガバナンス(組織統治)とは相容れないもの。全国で一律の管理下では、イノベーションが生まれる余地はほとんどありえない。

公教育における管理職の重要な機能の一つは「平等」の実現にある。これは、北は北海道から南は沖縄に至るまで、どの地域でも一定水準の教育を提供することを意味する。でも、このような管理を強化すればするほど、教育現場は息苦しくなってしまう。なぜなら、教員個々の「自由」な実践の保証が失われてしまうからだ。

平等と自由はしばしば対立する概念だ。管理職は教員への配慮を心がける必要があり、同時に、教員も管理職の役割に理解を示し、互いに協力し合う姿勢が求められる。今回の件は、職場における基本的な思いやりが欠けていることが、問題の根底にあるのではないかと想像してしまう。管理職も現場教員も同じ仲間集団でありたい。人に優しくありたい。

文科省が通達を行ったとしても、日本の教育が著しく改善されるとは思えない。革新的な教育実践は、教員一人ひとりの独自性と自由に基づいて成し遂げられると僕は考えている。振り返ってみても、管理職の指示に従っているだけでは、子どもたちにとって必要な新しい教育実践を創造することはできなかった(単に自分に力量がなかったのだが)。

このことは管理職が無能であると言っているのではなく、単に彼らの役割が異なり、現場の教員には子どもとの直接的な関わりを通じて得られる教員固有の教育手法があるということだ。

僕が懸念しているのは、教育現場の教員が、指導要領、カリキュラム、教科書に沿った教育を、無意識のうちに過度に忖度し、重視してしまう風潮が今後ますます強まることだ。これにより、教育の革新と多様性が失われる可能性があると危惧している。

僕は教育実践において自由を重視している。「数学者の時間」では、自由実践に見える活動の背後には、カリキュラムとの対立を避けるための緻密な設計があり、教科書の使用を基本としている。

この「数学者の時間」は、指導要領と並行するデュアルプログラムとして機能する。教科書ベースの授業で得られた基本的な知識をさらに深め、豊かにすることが可能だからだ。算数・数学メガネを通じて世の中や問題解決に対する深い理解と探究心を育てることを目指している。だから、逆に教科書から感謝されてもいいくらい。

今後、自由な教育実践が制限されそうな状況に直面したとき、僕は積極的に声を挙げ、若い実践者たちの試行錯誤を守っていきたい。実践者たちは新しいアイデアを試み、教育に新たな息吹をもたらす貴重な役割を担っているから。

この点について、先週まで読んでいた山崎雅弘氏の『アイヒマンと日本人』(祥伝社新書、2023年)に触れたい。

第5章からの論考が圧巻だった。

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みなさんは、アイヒマンという名前を聞いたことがあるだろうか。アドルフ・アイヒマン。ナチス・ドイツ政権下で国策として実行された数百万人ものユダヤ人に対する大量虐殺を、ナチス親衛隊の中間管理職として指揮した人物である。彼は「(大量虐殺を実施したのは)自分はただ与えられた命令に従っただけだ」と主張し続けた。

おどろくべき言い訳! 一体、これのどんな点に問題あるのだろうか。われわれ日本人の中にもある「アイヒマン的なまじめさ」があると著者の山崎は説いている。

哲学者ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマンがホロコーストに従ったのは、彼の異常性ではなく、普通の「正常性」の中にあったと指摘した。アーレントによれば、アイヒマンは実際にはそのナチス政党やその取り組みを「支持」していたと解釈できるとし、アイヒマンが単に上司の命令に「服従」したのではなく、自分で考えることをやめ、命令に従うことを選ぶ率先した「支持」をしたと分析している。ホロコーストの責任から逃れるためにアイヒマンが「自分はただ与えられた命令に従っただけだ」との服従を理由にすることは、政治的や道徳的に誤りであると主張したのだ。

アイヒマンの例は、命令に忠実であることと、職場内での個人的な利益や保身を優先することの危険性を僕につきつけてきた。

これは、真面目に与えられた命令を遂行しようとする僕は、知らず知らずのうちにアイヒマンのような状況に陥る可能性がある、という恐ろしい事例だ。

職場で上司と対立することを望まないのは自然なことで、多くの人々は上位者との衝突を避け、命令に従って良好な関係を保つことを選ぶかもしれない。日本社会において、このような思考形態は一般的と考えられている。

しかしこの本は、組織の一員として働くことと、正しいことをするという個人の責任との間でバランスを取る必要性を浮き彫りにしてくれる。

アイヒマン的な「支持」に従うことは、言われたことを無批判に受け入れることに他ならない。イエスマンになってはいけないのである。命令や不公正な行動に対して、反対の声を上げる勇気が求められる。これは教育の現場においても重要な教訓である。

僕が懸念していることは、今後ますます「指導要領どおりに」「カリキュラムどおりに」「教科書どおりに」「学年同一歩調で」「掲示物はみんな一緒で」「お尻の拭き方もみんな右手で」などという風潮を、現場の教員が勝手に忖度してしまわないかという危惧でもある。

もちろんやるべき事はやるし守るべき事は守る。だが、文部科学省や管理職の指示に盲従するのではなく、現場の教員がカリキュラムを網羅することの不安に囚われることなく、教員一人ひとりの自由な実践が尊重され、ビビらず安心して働ける教育実践環境を願ってやまない。履修アンケートとかいらないからね。

おそれることはない。これまでもこれからも自由な実践を大事にしていきたい。

子どもたちの声でつくる「まとめの会」はなかなかしんどい

毎年やってきた「まとめの会」づくりの時期。今年も、さっそく子どもたちと話し合いがはじまったが、悩ましいスタートを切った。

まとめの会とは、一年間のまとめに向けて、各クラス独自に取り組む行事のことだ。僕がこれまで担任してきたクラスでは、ミュージカル、美しい数学発表(コロナで頓挫)、各教科学習発表ワークショップ、親にしぜん広場あそびレクチャー会など、その年、その年の子どもたちと話し合ってつくってきた。

基本、僕はなんでもいいし、何やってもいいと思っている。その内容や結果よりも、どうこの会をつくりあげていくのかそのプロセスにとても意味があることをこの学校に勤めることで体験的に知ってきた。

今年も実行委委員の5名が準備を進めてくれ、さっそくアンケートを募ってみると、6年生最後のまとめの会では「劇」と決まった。

しかし、劇の演目が二つに分かれてしまった。

「やっぱ楽しいことしたいじゃん」「約ネバやりたい!」とどこからきたのか『約束のネバーランド』劇が激推しされた。

「それって、オニが子どもを頭からバリバリ食べるやつじゃん?」ときいてみると「大丈夫。テーマは『友情』だから」ともさもありなんな解答が返ってきた。

ちなみに僕は「約ネバ」が好きだ。

もちろん全巻制覇し『英米文学者と読む約束のネバーランド』 (集英社新書)も読み、この話の文学的背景と設定にも興味を持っている。また六本木の原画展まで行っている。さらにはオマージュとなっているカズオイシグロ『わたしを離さないで 』は大好きな小説の一つだ。

が、そういう話は一切子どもたちには口にしたことはない。この先、僕がこの『約ネバ』の子どもたちの捉え方に、黙っていられるかが問題だ笑。

一方で「これまでまとめの会では、私たち好きなことやってきたから、最後はなんか、まとめらしくなるといいな」「まとめの会としてふさわしいのは、1年間のまとめの会であり~」だから、『クラスのの日常劇』をやりたいと、最後のまとめの会を意識しているまっとうな意見が出た。

自分がやりたいことの追求と、クラスみんなで取り組むことの価値について僕も語ってみたが、ときすでにお寿司で、あんまり響かなかった。子どもとはそういうもんだ。

劇は『約束のネバーランド』と『クラスの日常』の二本立てに決まり、全員がどちらかの劇で演じることになった。照明や音響、舞台監督などの裏方はもう一方がやってあげることになった。

さて、まとめの会、どうなってしまうんだろう。不安だ。

子どもたちの話し合いを聞きながら、僕の中には「学級日常劇ならばできる見通しがあるから、みんなこれをやろうと思ってくれないかな〜」などとしみじみ思ってしまった。

しかし、そんな予定調和で教育的な取り組みだけでいいのだろうか? という葛藤も逡巡していた。

「うまくいくからやる」よりも、「やってみたい/おもしろそう」だから、とりあえずやってみる。

このことは、僕にとっても必要な挑戦なのかもしれない。たくさん話し合って、いろいろ言い訳つけて、上手くいく見通しが立ってから始めるようでは、いつまで経っても成長しないしなぁ。

変化をすることから逃げないこと。予定調和で終わらせないこと。さて、僕がどこまで子どもたちをサポートできるか、ためされる一ヶ月がやってきたわけだ。がんばりたい。

「イガせん、何の役やりたい?」

「お? おれも入れてくれるの? じゃぁ」と

これまでやってみたかった子ども役をやらせてもらうことにした。

「イガせんもクラスの一員じゃん」と言ってもらえてうれしい反面、あんまり僕は先生としてみられてないなと笑ってしまう。人なつっこい子どもたちともあと数ヶ月だ。