探究自学ノートをはじめました「知っていることを描き出すクモの巣マップ」

「わ〜!わたしすっごいたのしみ!はやくやりたーい!」と、素直な子からの嬉しい言葉にほっこりします。「えー、そんなのやりたくなーい」と、とんがり坊主に「こんにゃろめ、みておれー」とこれまたやる気に発破をかけられます。教室にはいろんな子がいていいし、いてくれることで深まっていくんだと。いよいよ学校が帰ってきたなぁと実感しています。

本格始動の探究自学ノート。これまでの学力やテストとのバランスをとる「自学ノート」とは少し方向転換。学習する人が、ほんとうにやりたいこと、知りたいこと、とことん楽しむための探究自学ノートを子どもたちと一緒につくっていこうと思います。休校中の3ヶ月、zoomで多くの先生達と交流しながらねりねりしてきました。満を持して、いよいよ実践スタート。

今年は2年生。1cm方眼ノートはちょっとまだ使いづらそう。そこで、12mm×17マスのさんすうノートを学年で購入。表紙には「さんすうノート」って書いてあるけど、気にしないことにしました笑。

この一月の間、国語の説明文で「ほたるの一生」から「問いと答え」と「順序よく説明」を学習してきました。そのパフォーマンス課題として「学んだこと(問いや順序)をいかして、自学ノートに自分の好きなことについて、調べて紹介しよう」としました。「事前に図書の時間(本校にはとってもすばらしいスーパー司書教諭がいて、こんな自学ノートやりたいんだけど、っと相談するとちゃんと形に整えて授業にしてくれちゃう)に、調べてまとめる練習を2回。いよいよ自分の興味関心のある本を1冊借りておいて、探究自学ノートづくりをスタートしました。

記念すべき1回目はノートを配って表紙に名前を書いたり、落書きしたり、自分だけの研究ノートをつくっていこうとわくわくする時間でおわってしまいました。それもまたよし。

そして、今日が探究自学ノートづくり2回目。クモの巣マップを使って「知っていること」のあらいだしです。これは、数学者の時間の数学的思考プロセス「問題解決サイクル」の計画段階にある「①分かっていること(知っていること)」「②もとめること(知りたいこと)」「③使えそうなこと」から、運用してきました。

僕の中に、問題を解決するときはいつも同じ思考スキルが使えるんだなってことが一つつながった

経験でした。これでますます、算数授業や数学者の時間がやりやすくなりそうです。

さて、各自がすでに選んでいる興味関心のあるテーマをもとに「分かっていること(知っていること)」をクモの巣マップで棚卸しからはじめました。最初はまず、僕から最近飼い始めてきたニャオタローのクモの巣マップで学習モデルを示すところから(まぁまぁいいかげんなモデルでOKとし、これを越えていってもらえるといいなと思っています)。

これを見た子どもたちの様子がこの冒頭のやりとりでした。子どもたちの反応はすこぶるよかったです。素直な反応が飛び出てきます。

  1. ノートの見開き2ページ、真ん中に拳骨大にテーマのイラストをかきます
  2. そこから知っていることを枝でつないで、どんどんのばしていきます。めざせ3回!

ただ、これだけのこと。中心のテーマから「枝だし」するには、その大分類と小分類との親子関係を理解するのが難しい子も数人もちろんいましたが、ニャオタローモデルとクラスの子たちからのアイディア「しゅるい」「とくいなこと」「いろ」「たべるもの」など、紹介しあうことでお互いフォローできました。次の時間は、この「枝だし」の親子関係をわかりやすいように(しゅるい > ざっしゅのネコ > 白と黒)カードを作っておこうと思います。

2年生なりにもぐちゃぐちゃしながら描いているのはとってもいい。きれいじゃなくたって、知りたいことを出すことで、知らないことやもっと知りたいことを見つけるおもしろさを感じてもらえるといいなと思っています。最後は、お互いのノートをギャラリーウォークで見合っておわり。自由に質問したりしている子もいました。

帰りの会のとき「本を持って帰ってはやく知りたい」とうずうずしている男の子がいました。「次の時間、質問作りをするからまだ、学校においといて読みたいのをがまんしておいてよ」と声をかけましたが、かくれてこっそりもってかえっていました笑。その子は、短い休み時間にも本を開いて恐竜のイラストを真剣に写していました。なにかはじめると、それにひびいてくれる子どもがかならずいる。そういう姿につきうごかされて、またがんばれるんだなぁと思うのです。

いやー、いいスタートがきれました。学びのスイッチがすちゃッと入るかんじがしました。

今回の探究自学ノートの取り組みで、これまでの自学ノートの概念を更新していけるといいなと思っています。休校中でも、自分で勝手に夢中になれる学び方を手渡せるといいなと思うのです。学校からの請負仕事(宿題)からいつか開放されて、本当に夢中になってやってみたいこと、知りたいこと、そういうことをとことん学ぶしくみやそのコミュニティを学校の中につくっていきたい。

以前のNHKでやっていた「ぼくの自学ノート」はまさにそれだったと思います。とてもステキな取り組みでした。

受験勉強にはムリ!?梅田君の探究的自学ノートで学んでいることとは? 「ボクの自学ノート~7年間の小さな大冒険~」 から

http://projectbetterschool.blogspot.com/2019/05/blog-post.html

あー、楽しかった。

オンライン学習への心配

今週からスタンフォード大学のオンライン学習を始めました。前々回のハーバード大学「学習の可視化」、前回の「マスマティカル・マインドセット」と併わせれば、これで3回目のオンライコースを受講することとなります。我ながら地味によくやるものだと関心です。


MOOCs(Massive Open Online Courses)はオンラインで海外からでも学習に参加できる利便性はあるものの、その達成率はわずか10%だとか。僕は幸運にも仲間に恵まれ、なんとか単位を取得してきています。履歴書に「最終学歴ハーバード大学・スタンフォード大学(オンライン)」って書けるみたい笑。ウソっぽい。

 
そもそもどうして、やりたいはずの学習が9割の人もが脱落していくのでしょうか? オンライン学習のシステムそのものに問題があるとはなかなか思えません。なぜながらどこからでも場所を選ばず、時も選ばず、人も選ばず、しかもかなり格安で学ぶことができるから。それでも多くの人がコンプできません。


僕は、これまでと今の自分のオンライン学習の取り組みをふりかえってみて、少しわかってきたことがありました。それは「本当に自分にとって必要なものは何なのか?」、実は学習者自身が自分は一体何を学ぶべきなのかが、よくわからないんじゃないかなと、予想しています。


僕が思う人が学ぶことって、巻き込まれ、憧れて、影響されてってそういう相互作用の文脈や状況の中で、学びが躍進していくものだと理解しています。なにか、自分にとって「事前に学ぶべき事」が明確になっていて、それを「身につける為に学ぶ」のは10%の程度なのではないのかな。


僕自身がそうだったかと思います。きっと、管理職コースのオンライン学習を受講していたら、そっこーやめていたことでしょう。あ、これってやりたくないことが明確だからその例ではないかも!? 友達にさそわれるままにハーバードの学習の可視化はうまくいきました。そこには学び合う場(Ba)があったから。けれども、一人旅だったら、どうなっていたのでしょう。やりたいことのはずだったのに、いつのまにか優先順位がかわり、やり続けることがおっくうになっていたかもしれません。


おしなべて、今、教育現場で行われようとしてる小学校段階でのオンライン学習について、大いに疑問があります。僕は反対。やはり人が学ぶって、その「場(Ba)」を共有するものだと考えるからです。教室という場(Ba)の中で、こっちでは調べものをしている子がいて、あっちでは相談しつつおしゃべりして、そしてものづくりをしている音が聞こえてくる。そういう空気感が漂う中で、耳をピントそばだてながら、お互いの存在を感じながら「同じところ」にいることが、学びを誘ってくれるんだと思う。


zoomしていると、それが感じられない。陰で、チャットしていたり、関係のないHPをのぞいていても(よくある)、その行動さえも感知できません。僕が懸念しているのは、こういう人の存在をスクリーンからしかキャッチするアンテナを求められないこと。


オンライン学習は便利だし、このコロナの状況下で学校が休校して「しかたなし」にやることは、ほんとーにしかたないと思います。けれども、子どもたちが画面を嬉々としてのぞき込みながら、音声を聞き取ってやりとりしているのは、違和感がずっとあります。


一方、僕自身はApple製品、ガジェット大スキ。そういうのを新しく手に入れたときは、脳からアドレナリンがどばどばでてきます。でもそれが、いけないんだと思う。僕はもういい大人なので、自分で選んでやっています。画面に向き合う時間を、人と顔を合わす時間にしていかないとまじいけないなと思っています。


最近、高校生や大学生から相談のメールやzoomがありました。そこでは、オンライン授業があたりまえ。彼ら、彼女らはzoomづかれもしているし、なにか買い物クリックのように講座をとっている感覚に、人の学ぶことを選ばされているかんじ。オンラインとオフラインのバランスをくずしているから、悩みもより複雑になってしまう。人と会える「場」が、これまでちょっと話し合えたり、ほっと温かい言葉をかけあえたりする、顔をみられるだけで、いやされていたんだとわかってきました。


今、この状況からは、逃げることはできない。よりよいオンライン授業のあり方を模索していきたい。それまでは批判的にみながら「ホンモノにふれる体験」「人とぶつかり合う体験」といったガジェットやアプリではなく、五感というコスモを感じること、フル活用していきたい。


学校では、そういうことを大切にしたいな。最後まで、こだわっていきたい。オンライン授業に頼るざるを得ないときまで、タネをまいておきたい。それぞれの家庭でも探究をつづける自学ノートとか、模索していきたい。完全に休校継続となったら、そっちに舵を切るかもしれないけれど、それまでは、とことん人と会う力を信じて、もがいていこうと思う。


僕は若い頃、不登校の子どもたちとかかわる仕事をしていました。そういった子たちにはオンライン学習はとてもいいなと思う反面、はやり、人は「会って癒やされたい」ということを彼らから学んでいます。絆創膏としてのオンライン学習はあるかもしれませんが、根本的な問題解決にはならないと思っています。


大人であっても、本当に自分の学びたいことはわからない。シラバスだけでも人は学べない。それなのに、子どもたちへは、オンライン授業を推し進めていこうとすること。少し立ち止まって考え直したいです。もっと、議論しないといけない。こういうことを今、話題にあげにくい風潮になっていないかなぁと、懸念もしています。人の評価を気にせずに、自分のアンテナ感度を高めて、話し合っていきたいです。

社会をよりよくしていくために今、自分ができることはなんでだろう

分散登校がはじまり、1週間が終わりました。

お昼時にニャオタロー(ネコ)に餌をあげよう一度、家に戻ろうと昇降口で靴をはいていたら、前年度の子どもたちと久しぶりに会えました。「いやー!ひさしぶりー」とハイタッチならずのエアタッチ。どうもすかすかして気持ちがわるけど、うれしい。

3ヶ月会わないだけで、声変わりしている子やぐっと背が伸びた子もいました。「なにしてたの?」と尋ねると、「なにも〜」「ごろごろしてたー」と即答。いい時間を過ごせていたようです。

やっぱり、学校はいいなぁ。もうひとつの家族のようで。

今週は、分散登校と自宅でのzoomを使ったオンラインホームルームの交互勤務。自宅時間をうまく使って、これまで参加できなかった企業系の研修にzoom参加しました。以前、NPOでお世話になったゼロックスのフューチャーセンターでお会いした荻原さんの「知識創造プリンシプルフォーラム」。

ここ数ヶ月、創造的な学びについて思案している中、野中郁次郎さんの「知識創造のSECIモデル」にヒントがあるのでは? と行き着きました。そこで、コロナ禍のもと、これからの社会向けて企業が何を創り出していくのか動向を知りたく気軽にzoomウェビナーに参加。ほんと、この時代、とても気軽に研修に参加できるのは、でぶしょうの僕にとってはとても助かります。

気軽に参加したけれど、ドストライクでした。この知識創造世界でのグルであるラリー・プルサックさん(不勉強のため知らなかったので著書を購入、これから読みます)からの動画メッセージに「いかに社会の役にたてるのか?を語ろう」とありました。がーん。実は、これが一番、僕の胸につきささりました。目の前の学級の子どもたち、そして学年、学校づくりそういう視野では考えることはあったけれども、社会的意義については、後は野となれ山となれだったなぁ。。。

本校では「地球市民の時間」という新しい教科を立ち上げました。英語をツール化せずに、人権や差別、世界でおこっている出来事に目をむけながら学んでいきます。僕は、ここに大きな可能性を感じています。しかし、いきなりグローバルな視点ではむずかしいもの。自分が今、生きているこの社会っていったいなんなのだろうか? 僕にとっての社会ってなんなのだろうか? 大きな事でなくてもいいので、身近な生活がちょっとだけでもよくなっていくための問題解決をしていきたい。これは、ラリー・プルサックさんの「いかに社会の役にたてるのか?を語ろう」と、根っこの部分でつながっていることに気付きました。

このコロナ禍で、目の前のことをこなすことや慌ただしさの中で、見失ってしまいがちだったこと、思いださせてくれました。「社会にとっての今の自分」って一体何なのだろう。とても大事な問いをもらったと思いました。しばらくは、いまここでじっくりと考えていきたいと思います。

一方、忘れないようにしたいこと。それは、大きなビジョンを掲げて終わりにせずに、具体的な実践とセットで語れない限り、無力だと感じています。思いを描いて、計画にして、形にしていけるようなこと、これが今の僕にとって、創造的な学びの第一歩なんだと思えてきました。

たった一つでいいと思う。人とのつながりの中で、身近な社会や身近な生活を少しでもよりよく変えていくこと。その問題解決することを、僕自身がまずトライアンドエラーでやっていこうと思う。最初はしょぼしょぼだっていい。あきらめなければ。これこそTQJ(探究自学ノート)になっていくんじゃないだろうかな。そして、これはきっと夢中になる楽しさに没頭する学びとは対立することではないはずだから。こういったことも、のちのち子どもたちと一緒につくっていきたいなぁ。

そのため、まず都知事選挙に行こうと思う。政治家が今、何を語るかよりも、これまで何をやってきたのか、やれなかったのかを鑑みて、慎重に投票しようと思う。民主的であるって事は、こうも自分の頭で考えて、決断しなければならないことが多いとはねぇ。なかなか大変ではあるけれど、大変納得できることでもありますね。

社会をよりよくしていくために今、自分ができることはなんでだろう。何をやりたいんだろう。考え中。

分散登校がはじまりました

少しずつ新学期がはじまりました。ほっと一安心。やっぱり、子どもたちと面と向かってみると、会うことでしかわからない「なにか」が発動されますね。その「なにか」に突き動かされて、あれやってみよう、これをやってあげよう、と動き始めてきました。場を共有すること。その場にいること。とても大事なんだと思います。

遠隔操作でちゃちゃっちゃと、効率的に学ぼうとすることはやっぱりちがう。それは、もともとやる気のある人ができることだと思う。多くの家庭では、オンライン学習でやる気をうしなってしまっている記事も度々目にしました。

けれども、この期間中、オンラインでつながっていることは、つながれないことよりはぜんぜん「まし」。これって相対的でしかなくって、ただのましでしかないってこと。一歩、たちどまって考えてみたい。学校って何を大切にするところだったんだろう。体験することや五感で味わうこと、人とふれあって楽しんだり、葛藤したり、そういう時間を大切にしていきたい。オンライン学習への立ち位置はまたじっくり考えていこうと思う。今後も切っても切れないことだろうから。

本来、学校は、だれもが一緒に場を共にして、学び、考えあっていけるところ。今、ここを大切にしていこうと思う。どんなに立派なことをいったり、崇高な理念をもっていたとしても、今、ここでなにをしているか、どのように子どもたちとつながろうとしているか、そこと大切にする自分でいたいし、そういう人といっしょに学びあっていきたい。

まだ、分散登校の今、少人数だからこそできることはなんだろう?

PAのジップザップをやりました。ジップ光線をザップ光線ではねかえす超キケンなアクティビティ。教室にスポットマーカー(島)を1〜2m間隔でサークルに置いて、遊びました。そこの上からおちたらうんこ地獄だぞと。こういうときの子どもたちはおもしろいですね。つまさき立ちで、「うんこうんこ」といかにもうれしそう。

ジップ・ザップに夢中になると、子どもたちは、ついつい真ん中に集まって密になってしまう。けれども、スポットマーカーをおくことで、この悩みがいっきになくなりました。だれを指し示しているのかも明確。失敗するのに、なぜか大笑い。あぁ、こういう時間だ。こういう時間は家では味わえないものなんだ。ちょっとどこか高いところで自分の気持ちをモニターしている自分がいました。たった12人のジップザップだったけど、午後のグループの子どもたちは、中休みにも楽しそうに遊んでいました。

少しずつ、今年がはじまりました。今年は24人の2年生を担任しています。ゆっくりと、子どもの気持ちにチューニングしていけるよう、心のゆとりを大切にしていこうと思っています。どんなアドベンチャーがまっているのかな。学ぶこと、考えること、人とつながること、失敗しながらもたくましくのびていってほしいです。あくせく、せかせかすることなく、ゆったりと今、ここの時間をあじわっていこうと思います。

は〜、よいよい。

自分にとってどんな創造的な時間だったのかな?

学校が再開されました。この失われた3ヶ月は一体どういう意味が自分にあったんだろう? 慌ただしい中で、ちゃんとふりかえらないとするりと忘れ、失われてしまいそうです。


つくづく学校とは、人との関わりの中ではじめて成立するものだとわかりました。どんな人であれ、どこにいても、だれかとつながっていることが、励みとなるし、生きていく糧になるんだと。


その意味で、子どもたち一人ひとりとの個別メールはとても意味があったし、先生も、子どもも、保護者でさえも「つながり」を求めていました。そして、この休校中の時間を、これまでできなかった「創造的な時間」にしてほしいと学校からなげかけてきました。この部分は本校ならではのよさがでたものだとふりかえっています。漢字を進めたり、復習ドリルづけのあまり意味の感じられない、網羅するような学習とは一線を画すことができたはず。


一方、その創造的が家庭任せでなかったのかも、あらためて振り返っていく必要があります。遠隔教育では、フォローしてくれる保護者の家庭教育力の格差がでてしまいかねません。特に、医療従事者の家族にとっては、はたしてどこまでつながり、支えることができたのか。このあたりのことも、同僚と期をみてふりかえりたい大切なテーマです。


今年は研究事務局長なる役割があり、この数ヶ月を思い出すと、決して自分の仕事の範疇だけではないことにまで首をつっこんでしまったことが反省でもあります。ただし、こういった緊急事態は、気付いた人がやることが、この緊急事態をしのぐもの。これまでの指示系統が通用しせず、1週間先の社会状況も読めないとき、これまで通りのマインドセットではうまくいかないことがわかりました。

はたして、自分はどれだけ、だれがやってもいいような「草むしり」を自分の仕事として、取り組むことができたのかな。それなりに取り組んではみたものの、これまで本校が大切にしてきた民主的なプロセスだったか?といわれたら、そうとは言い切れない時間に追われる提案の日々でした。

こういったときに、やってもらってあたりまえではなく、「ご苦労さん」「ありがとね」と自然と声をきけると、なんともまあ単純で、またがんばってみようかなと思えてしまう自分がいます。

さて、果たしてこの3ヶ月間、自分の過ごし方が創造的な時間だったのでしょうか? 

思いつく限りのことをあげてみると、新聞の連載を書き上げたこと、イタリア料理の研究をはじめたこと、そして、全国の先生達とフェイスブック上で探究自学ノートの研究をスタートさせたこと。遊び心をテーマにシーズン2を向かえ、残すことあと1週間となりました。zoomをつかった学習サークルの運営方法にもあるていど手応えをもつことができました。


僕にとっては、この探究自学ノート(TQJ)のメンバーで毎週火曜日と金曜日の夜、zoomを使って日付が変わる時間までいろんな教育話やどうでもいい話ができたことが、なによりも「創造的な時間」でした。クリティカルな気づきは、話し尽くされた深夜に訪れることもおもしろい見地でした。

ここでは自分だけでつくれるものは、案外たかがしれているものです。人のアイディアや人とのつながりをいかしながら、共に考え、もがいて、悩んで、形にしていく探究の学び。zoomの共有会議だけではなく、その間のグループ間でのやりとりも刺激的で、オンライン学習とは一体なんだったのか? も自分なりに検討することができました。


人とのつながりは大事だな。と、素直におもいます。それが、この分断された社会状況だからこそ実感できました。


まだまだ、このコロナ対応で人とのつながりを分断するような新しい生活様式はつづいていきます。一方、その中でもできることを見つけてやっていこうと、思いを新たにしました。


ただ、なによりもくやまれるのは、昨年度の大スキだった子どもたちとの授業じまいができなかったこと。美しい算数アドベンチャー。2年越しの取り組みだっただけにそれぞれが追求した算数の美しさのプレゼンをみられなかったのが、本当に悔やまれます。あの子達だけ、留年にして一緒に学びたいぐらいです笑。

今年は、2年生の教室を任されました。2年生の子どもたちとzoomでつながっているときの顔は本当にいきいきしていて、かわいいものです。いろんな不安を抱えている子もいるはずです。この失った3ヶ月のをとりもどせるかわかりません。それでも、また今年も笑いながら取り組むのがいいなと思います。

最後にいい詩をみつけました。

楽しさとは、

あなたの学んだことによってもたらされる心のありようだ。

学ぶとは、

このような楽しさを経験するとば口を、

くぐろうとすることだ。

楽しさなくして 学びなし。

学びなくして 楽しさなし。

ワン・ケン『喜びの歌』

深い学びの起動スイッチは、教材への愛でした 美しい算数編2

PBLや探究のもつ、子どもたちのあの「わっ」とした学びの雰囲気がとても好きです。教室内が騒然となり、それぞれが夢中に自由勝手のように学んでいる。でも、そこには教師の見通しと支えがある。子どもたちにとって、「今日もあの勉強がある!」と楽しみにしている授業。

でも。。。

ここ数年、そういう学びが本当に「深く」学べているのか? 授業へ取り組んできて、そんなふりかえりが度々生まれます。悩みながら取り組みつつも、ようやく一つ、自分の中で納得のいくやり方のようなものが、プッと見えてきました。プッとです。

一言でいうと、教材への深い愛。。。そうなんだ、きっと愛なんです。まるでなにかの歌詞のようですが。

この3学期、「数学者の時間」の総まとめとして、探究算数を進めています。それを算数アドベンチャーと呼び、子どもたちの探究をていねいに支えていこうと取り組み始めたところ。この探究算数がなかなかのくせもので、一体「なに」をテーマにして探究し、深く学ぶのか? その子どもたちが学ぶべき「なに」をどう設定して、扱うのかが、かなりむずかしい。それまでは、学級づくりや協同学習のスキルを練習してさえすれば、子どもたちは一人ひとりが夢中になってがんがん学んでいくんだろう、なーんとなく考えてしまっていました。探究という名の放任のようなものです。それが、それなりにうまくいってしまっていたので、なーんとくしか考えられなかったんですね。教師の力量と探究で扱えるテーマは比例する!?(比例関係は2倍、3倍したら、一方も2倍、3倍することをいうので数学的には正確な表現ではないですねー)。

数年前に、一人ひとりが探究のテーマをもって、数学者学会発表する形式はやったことがあります。あのときの3年生の子どもたちの発想は本当におもしろかったです。

「自分だけのオリジナルの角度づくり」
「教室内に描ける最大円の半径とは」
「地球は何回まわって何秒前にできたのか」
「新しいかけ算の筆算の仕方」など。

こっちも頭をひねりながら、試行錯誤の3学期間でした。

一人1テーマの探究算数だと、さすがに多過ぎ! 当時は、一人ひとりをカンファランスしきれませんでした。数学者の時間の研究仲間たちからも意見があって、「クラスでこれまで学んできた単元から2テーマ」が妥当ではないか? と議論を重ねてきました。そこから、いつかは「年間を通した、一人ひとりがそれぞれの問いを追求する探究算数」をやりたい! そこにつながる学習のステップはなんだろう? 教師がどういうことを身につけていけばいいのだろう? 全く未知の領域でした。  

一方、昨年の3年生では、クラス全員で「数字をつくろう」をやりました。全員が同じテーマ「数字の歴史」でオリジナル数字をつくることで、探究の素地を耕してきました。あのオリジナル数字づくりがうまくいったのは「教師が教えることの焦点化」が、できていたことにつきます。

どういうことかというと、探究算数で扱う教材テーマを「数字の歴史」にしぼりました。そのテーマ関連で子どもたちに示すよい絵本をなかなか見つけられず、自分でつくってみたのですが、今となっては、それが一番といっていいほどの教材研究でした。教えることを「数字の歴史」に絞ったからこそ、安心して集中して教材づくりができました。授業の中で見せる子どもたちの間違いや戸惑いをいかしながらも、十進位取り法のよさや、0の発見のすばらしさにつなげるミニレッスンがつくれました。また、それを補う何を個別に関わったらよいのかの明確なカンファランスができてきました。結果、教材への圧倒的な知識量や理解が自分の中に自信となって下支えしてくれ、授業の中で子どもたちの不確実な発言もどーんと対応できたのだと思うのです。ここまで、「学び方」を追求してきて僕にとっては、「教材を絞り、教師がまず深く知ること」がバランスをとってくれる最後のワンピースを見つけた思いでした。

今年は持ち上がり学年なので、クラス全員で1テーマから、一歩でもステップアップしたい。それには先ほどの「教材愛」が欠かせないんです。そういうことが、自分の力量とやりたい授業の開放度と関連しながら分かってきました。残念ながら、ひとっとびに教師は成長しないってことですね。僕にかぎってのことかもしれませんが。。。

もう何年もまえのこと。総合的な学習の時間で「環境」で8グループの8つのテーマで探究学習に取り組みました。あのときは、パンクしました。ぼくからのカンファランスの手が足りずに、ネコの子も借りたい状態でした。実際、英語支援員さんとかにも、教室に入ってもらって子どもの相談に一緒にのってもらっていたほど。でも、当時の僕は、カンファランスで「どうにかしよう」と思っていたんですね。でも、そうじゃなかったんです。探究テーマって、その場しのぎのカンファランスではなんともならない。残念。でもこれ事実。大事なことなので、もう一度書きます。個別指導や個別のグループ相談したところで、探究が進むかといったらそうじゃないんです。今風に言えば、カリキュラムデザインです。ひらたく言えば、学習者が学ぶことの単元計画への綿密な準備です。

あの当時は、メンバーの組み合わせと、子どもたちの潜在能力の高さ、さらには各テーマが面白かったせいもあり「たまたま」うまくいってしまいました。だからこそ、ここに気づけませんでした。あのとき大事だったこと、それは、8テーマのそれぞれをしっかりと教師が「見通し」をもっていることだったんです。

それを「数字をつくろう」をじっくりと教材化することで、分かってきました。つまり、教師があるテーマを教材として扱うとき、「この単元でこんな力を身につけてほしいし、その証拠をものづくりで示してほしいぞ」「学習のスタート場面では子どもたちはこうなるだろうな」「中だるみしがちな中盤では、こんなつまずきにスタックしそうだ」「学習のまとめのころにはこういうことができるだろうな」「こんな基礎知識をもっていたら、飛躍するだろうな」などといった、そのテーマの明確な見通しがなければいけなかったんですね。

あたりまえっちゃあたりまえでした。

これを、協働学習を生業とする教師は、メンバーの組み合わせと場づくりでなんとかしてしまうしできてしまうから、教材を愛し興味を持って教師自身が探究し続けること、そのことが見えにくくなっていたんだと思います。

探究学習ってなんか、すごい盛り上がるし、勝手にがしがし子どもたちが学習を進めていってしまう! なんてところについ目がいってしまいがちです。本当にそこで好奇心をもって、学んでいるその「何か」を教師が各テーマごとに準備できていると、もっともっと深く学べるはずなのに。

そういうことなんですよ。

アクティブラーニングとか、協働学習、個別学習とか「教え方」とか「学び方」に夢中になっているときは、とくに気をつけた方がいいです。教材への洞察が浅いと、学びはあっさり薄口さっぱり風味になってしまいます。すると、なんのために仲間の力を使って学び合うのか、構成主義の学びのよさとは一体なんだったのかが、見えにくくなってしまいます。学びを通して、その算数のもつ本質を味わいたいですよ!

自分の得意とする教材を生み出すことです。それを繰り返し磨いて自分の必殺技にしていくことです。PAのアクティビティでいったら、僕にとってはパイプラインのようなもの。先に挙げた「数字をつくろう」のようなもの。これさえあれば教師に見通しもあって、子どもたちは夢中になって好奇心を発揮し、学びが深まっていくっってものを確信。

そこで今回、僕は算数アドベンチャーは、ちょっとだけ背伸びして8テーマにしてみました。
角、平面図形、しきつめ、対称、平行と垂直、音楽、円、点と線
おもしろそうでしょ! 確実におもしろくなります。

これはとこの2年間で学んできた単元をより深めるためと、日頃の自学ノートからくる子どもたちの興味関心、そして、この8つのテーマなら、僕も図書資料も合わせながら、なんとかたえうるから。さらに、僕自身が教科の本質を追究していきたい気持ちだからです。

こういった、紆余曲折があって、各テーマをくしざす今回の大テーマである「算数の美しさとは?」にたどり着けました。

算数アドベンチャー 美しい算数編1

6年前、こういったことをやりたかったんだろうなぁとつくずく感じています。当時はまだ数学者の時間がなんなのかもまったくみえておらず(それもそのはず、そもそもそんな実践なかったので)、ここ数年ずっと引きずりながら、学びながら、もがきながらやってきたこと、いろんなものがつながって、ようやっと一つの実践になってきそうな予感です。はい!まだ予感です。計画段階なので、なんとでもいえちゃいます。

  • 学級づくりと学習コミュニティ
  • 一斉指導とミニレッスンのちがうことと同じ事
  • 年間を通した探究と学期ごとの探究
  • コンピテンシーを越える好奇心
  • 問題解決のサイクル(数学的思考)と問題づくり
  • 知識づくりとmeaning making
  • 概念と学習の転移・パフォーマンス評価とものづくり
  • 共有の時間と共通のテーマ
  • 形成的評価とフィードバック
  • 個別カンファランスと明確な学習目標
  • ルーブリック評価と発表スキル
  • 構成的な学びと非構成的な学びのバランス
  • 学習者による学習の選択とモチベーション
  • ひとりひとりをいかすための教科書の教材化挑戦的な課題とフロー
  • 算数授業との往還
  • そして、教科の専門性こそ学習者へのガイド

こういった部分、部分、これまで学んでできたことが、僕の頭の中ですこーしずつ、つながりはじめてきました。まだ詳細でばっちりな学習計画にまで落とし込めていませんが、走り出せそうな予感とわくわくする楽しさ、そして、うまくいくのかちょっとした不安。


けど、たぶん楽しい学びになるはず。子どもたちはすごい力があるのをみてきたから。そして、同時期に取り組もうと準備している、他校の仲間の実践に刺激をもらっているから大丈夫。

いよいよ来月から、「算数における美しさをみつけて、表現しよう!」を大きな目標に探究する算数、はじまります。2ヶ月後が楽しみです。
そおさ〜、今こそ!算数アドベンチャー!!(こういうの古いっていわれるけどしょうがない)

数学者の時間 子どもの思考は力わざだ

三学期も始まり、落ち着いた日常がもどってきました。久しぶりの数学者の時間は、トピック問題でクラスの子からもらった年賀状問題から。最近、子どもたちからの年賀状はオリジナル問題を送りつけられてきます。それもまたよし。

これはなかなか頭をひねる問題でした。しかもうっかりミスも問題の中にあり、さらに難易度を増していました。ならばこれを授業で使わない手はないな、とさっそくみんなで解いてみることに。


二学期の復習もあり、問題解決のサイクルの「問題」「計画」「解決」「ふり返り」を忘れずに〜と声がけしました。「そうだそうだ。思い出した」などといいながら、数学者ノートに、計画を立てて取り組みはじめました。

改めて思うけど、こういうこれまで解いたことのない未知の問題は、解決の見通しとして「使えそうなこと」は最初は当てずっぽうでしかない。解き進めていくうちに少しずつ勘所がわかってきて、解法の見通しがたってくる。それでいいと思うし、そうでなければ、「教科書のように前時のアイディア使えさえすれば解決の見通しが立てられちゃう」思考から抜け出せないだろうな、そんなことを感じました。

二学期に学んだ「計算のきまり」を使っての問題。答えを組み合わせると、なんかの言葉ができるとか。多くの子たちはまずはためしに自分ひとりで考えたいと取り組んでいました。しばらくして、思い思いに立ち歩きはじめ、年賀状の送り主に「ヒントちょうだい!」ってすりすりしていました笑。

四則計算は解けるけど、その数字を使って「言葉をみつける」段階がわからない。だれもが頭を悩ませていました。すると、その答えを「きっと言葉は、イガせんことしもよろしくだな!」と無理やり推論してみて、その解答にあてはまるような50音暗号の組み合わせ試し始める子が増えてきました。このときがこの時間のハイライトでした。まさにアブダクション(推論のひとつで仮説思考。シャーロックホームズはこういった思考が得意ですね)! 強引な解決にみえるけど、すごい力業の論理的思考。じっくりとあきらめない思考体力だけでなく、瞬発力ある思考力がすばらしい。

余談だけど、このアブダクション(という言葉は使っていなかったけど)と同じことを、国語教育でもだいじだねって、内田樹さんがブログに書いていました。長いけど、人がどう育つってことはとても示唆に富んでいる指摘です。
アブダクションの本ではこの本がとてもおすすめ! 帰納・演繹をていねいに整理されています。

その後、じわじわと答えをだそうと広がりつつありました。が、ここでタイムアップ。後でノートを見てみると2〜3人が解けていました。「もっとやりたいー!」「ひさびさに頭つかったー」と三学期1発目の数学者の時間が終わりました。

次の時間はいよいよ数学的思考ミニレッスン10のまとめへ。そして、問題解決のサイクルを使った探究学習の算数アドベンチャーがはじまります。

子どもたちに必要なことを語り合えること

このお正月からの休み。何年ぶりだろう? ずっと風邪で寝込んでいました。節々の痛み、喉の痛み、腹の痛み、頭痛、そして倦怠感。高熱だけは出なかったけど、インフルエンザかな? と疑うも、これはきっと予防接種のおかげとおもい、薬も飲まずにおとなしく布団で寝ることにしました。次の日も続くので、寝ることに。その次の日も。そしてその次の日も。なんだかんだいって昨日まで寝ていました。さすがにこのままじゃ職場に行けないと思い、1週間を前に病院に行きました。きっとインフルエンザだぜ!しかも治りかけだぜ!と大きな期待をふくらましつつ検査をすると「インフルじゃありませんね。ただのかーぜ」と肌の荒れた小太りの医者に言われ、なぜか落ち込みながら帰ってきました。ちょ、つまんないの。

そんなこんなで、年賀状の返信や、秘密で5年間書きためてきたブログを読み直したり、1年間のふり返りを書いたり、この1週間で人と会ったり、読みかけの課題本を読み終えたり、原稿書いたり、新学期の準備をしたりと、一切なーんもできずに、今日を迎えました。でもまぁ、こんな年の始まりもいいかな、健康を大切にしようと改めて職場に向かうのでした。

今日は久しぶりの学校。行きの電車の中で、資料と動画のチェック、午前中に自分が担当の校内研修が一つ。じっくりと先生たちみんなと1時間ほど、ワールドカフェ方式で対話の時間をとりました。そこでどのグループからも共通して出てきたのが

「児童期に大切にしたいことは、まず五感を使った実体験、自己選択・自己決定すること、自分と人とのつながりや関わりを大切にしていこう」という言葉の数々。

僕はこれがとてもいいなぁと思います。さらに、心打たれたのが、何かを表現する方法を身につける前に、何かを表現したくなるそんな気持ちそのものをていねいに育てたいという願いね。

くー。こうくことはついつい忘れがちになってしまい、将来のための準備だったり、未来の不確定な時代や身につけるべきコンピテンシーなど、そのために今ここの子どもたちをふりまわしがち。やはり、地味だけど、今、ここで、このときにしか体験できないことの積み重ねたその先に、その人一人ひとりにとって、本当に必要な力は見えてくるんだと思います。

この先、たくさん迷うと思う。この旗印をもとに、ていねいに進んでいこうと思います。こういう願いを率直に語り合える、いい職場だなぁと心から思います。

うちの学校の6年間の算数で大切にしたいこと。それは、「論理的な思考を育む算数」「感動する美しい算数」「生活につながる算数」の3つ。それらを串ざすものが、今日、話し合われた「五感を使った実体験」と「自分と人とのつながり」になりそう。おしおし。何か新しい未来が見えてきたぞ。

さて、明日はいよいよ始業式。久しぶりに子どもたちに会えます。何しよう?

第1章「脳の最良の学習方法」「Upgrade Your Teaching Understanding by Design Meets Neuroscience」

冬休みばんざーい。ゆっくりと本を読める時間がとれるのがなによりもありがたいです。

さてさて、「Upgrade Your Teaching Understanding by Design Meets Neuroscience」の第1章「脳の最良の学習方法」についてふりかえり。

この章は脳みそがどう動いているか?って話。良くも悪くも脳みそは変化しています。それを脳の可塑性というけれど。目や耳や音や味や触覚など私たちはたくさんの情報にさらされています。けれどもそれが脳みそに入ってくるのはわずか1%だけ! なぜなら脳みそは酸素や栄養素をぜんぜん保存できないから(それでも栄養素と酸素の20%を消費!)、超節約家のけちんぼ。だからこそ、サバイバルにいかせそうな情報だけを取り入れています。それが、パターン!

脳はこのパターンの変化にとっても敏感です。新しいことやこれまでと異なること、予想していなかったことや変化していることなど、これまでのほほんと生活してこれたことに、急遽変化が起こることに大きく反応してしまいます。

私たちの脳みそは、すでにインプットされているパターンに新しい情報を関連付けて知識を増やしていきます。すでにあるものに付け加えることで、脳みそを効率的に動かそうとするからです。まあ!なんてケチなんでしょ!

つまり、脳はパターンを通して理解すると脳にとってもやさしいってこと。けど、それだけだと脳は活性化しません。同じ事の繰り返しで退屈で飽きてきてしまうので、必要な情報として受け付けてくれなくなってしまいます。だから、脳には刺激が必要なんですよね。

脳が活性化するときは、脳はこれまでにあるパターンを使って、この先に何がおこりそうなのか「予想」しているとき。その予想があっていれば、大喜びをしてドーパミン(やる気を高める神経伝達物質)をどぱどぱ出して、大喜びして、さらに強化されていきます。これを繰り返すことで、より正確な予想ができるようになってきます。そして、これがまさに学習に応用できるってことです。しない手はありませんね。

”パターンを予想することによって導かれるこの予測能力は、成功するリテラシー、計算能力、受験、適切な社会的感情的行動、および理解の基盤です。予測の成功は、脳の最高の問題解決戦略の1つです。”

つまり、すでにもっているパターン、ここでは既有知識に結びつけて、新しい知識が獲得されていくため、このすでにもっている知識を使わない手はないってことです。これは、エビデンス本『学習に何がもっとも効果的か』にも繰り返し出てくる話です。

余談ですが、この知識の積み重ねがないと、一体なにに関連づけて教育していくのかわからない。だからこそ、そこまで何を身につけているのかを明確にする6年間の見通しや年間計画が大切になってくるってことなんですね。我、納得。

ちなみに、暗記は最も学習の転移がきかない、限られた文脈にだけしか効果がないことのもっとも悪い例としてあげられていました。短期記憶にいれられた新出漢字も、それが必要な文脈や豊かな体験がないと、長期記憶に送られないどころか、すっかり消去されてしまうということです。おそろしやー。

さて、この脳みそを効果的に使ったある有名な方法があります。そう何か、われわれは体験してきていることです。そう、あの不朽の名作で全世界で最もうれたあのゲーム「○ー○ー○○○ブラザーズ」です。

この章では「ビデオゲームモデル」を例に、生徒の学習を強化できると解いています。それは以下の4つ。

(1)望ましい目標の確立
(2)達成可能な課題の提供
(3)特定のフィードバックによる継続的な評価の提供
(4)最終目標に至るまでの進捗と達成の確認

マリオにあてはめると(あ、いっちゃった!)、
① ピーチ姫を助けるために(明確な目標)
② 繰り返し練習すればクリアできるコースで(達成可能な課題)
③ Bダッシュで穴をこえれば進めるし、落ちれば死んじゃう即座のフィードバックがあって(形成的な評価)
④ 今、8ー2まできた!と、どこまで進んでいるかが分かる仕組み(達成の確認)

この④のコースをクリアして、今8の2のBダッシュで越えなければいけない大きな穴のところまで来た!ってときに、それを越えたときに、ドーパミンをどぱどぱでるそうです。そう、少年ナオトはどぱどぱ出していたんですね。はずかしい。

”学習目標、その達成の証拠、および特定の目標が自分にどのように関係しているかについて明確に理解している場合、学生は関与して努力する可能性が高くなります。言い換えれば、目標は、脳が注意を集中し、エネルギー資源を適用し、課題が生じたときに持続するように動機付けるため、すべての学習にとって重要な要素です。”

ふむ。その通りです。ゲームに気付かずしばられていた仕組みがわかってきました。そこで、気になりなり、あの頃のゲームってそんなに考えられて作り込まれていたのでしょうか? 急遽気になったら、止まらない。この本を読んでみてすごい納得。

実なぜ少年ナオトがマリオやドラクエに夢中になってしまったのか? 実は巧妙にそうなるようにデザインされ、誘われていたことを今知る衝撃! マリオには明確な目標は設定されておらず(ピーチ姫を助けるの説明書を読んで後付けで知る)、右に進みたくなるようにデザインされていたってこと。あぁ、この本のアイディアも上手に使いながら、学習を予想とそれに反することをリズミカルにデザインしていけるようにしたいものです。

あー、楽しかった。

明日の第2章へと続く。