秋の夜長にお薦め映画アマプラ14選

学生の頃から映画が大好きで、最近では家事をしながらよくみている。今年70本みてきた中で、特によかった自分ランキング★4つ以上を紹介したい。

「何みよっかな」「まだみてなかったな」など、アマプラ、Netflixなどでチェックしてみて。順不同。ではさっそく。

「マッドマックス 怒りのデスロード」

狂った北斗の拳世界を味わいたいなら間違いなくこれ一択。今年一番の最高なひゃっはーな映画。

「ハングオーバー1・2」

二日酔いで記憶をなくした男たちの大騒動。とくにアランが大スキだ。バチェラーパーティをやりたかったな。あまりにも好きすぎて、動画を購入。

「アナザー・ラウンド」

マッツ・ミケルセンすきにはたまらない。高校教師と3人の同僚は、朝から酒を飲み続け、常に酔った状態を保つと授業も楽しくなり、生き生きとする研究を開始する。しかし。。。いつかやってみたくもある。

「キャストアウェイ」

トム・ハンクスなのに、セリフがほとんど無く、飛行機事故から無人島での半裸でサバイバルしている映画。なんとバレーボールが友人となるくだりは感動。一度はみておきたい。

「とんび」

重松清に阿部寛はまちがいないでしょ。運送業者のヤスと息子の2人生活。仲間たちに支えられながら、不器用にも息子を愛し育て続ける。ある日、母の死の真相を知りたがるアキラに。。。

「海よりもまだ深く」

是枝裕和監督と阿部寛もたまらない。大人になりきれない男と年老いた母を中心に、夢見ていた未来とは違う現在を生きる家族の姿をつづった人間ドラマ。

「ディパーテッド」

ディカプリオとマット・デイモンの犯罪組織に潜入した警察官と警察に潜入したギャングの戦い。ハラハラの展開がしびれすぎる。

「マイ・ボディーガード」

元CIAの特殊工作員デンゼル・ワシントンは、9歳の少女ダコタ・ファニングの護衛を引き受け、彼女の純真さに癒されていく。そして彼女が誘拐犯に拉致されたとき、彼の過激な追跡が始まる。控えめに言って最高。

「グッバイリチャード」

余命180日の大学教授が残された時間をありのままに生きることで人生の愛おしさを見いだしていく姿をユーモラスに描いた。ジョニー・デップの演技が好きすぎる。

「ブラッドダイアモンド」

内戦下のアフリカで発見された巨大なピンク・ダイヤモンドを巡って繰り広げられる争い。ダイヤ密売人にレオナルド・ディカプリオはやはりかっこいい。

「Mr.ノーバディー」

ごく普通の中年男が、世の中の理不尽に怒りを爆発させて大暴れし、やがて武装集団やマフィアを相手に激しい戦いを繰り広げるハードボイルドアクション。こういうおじさんになりたいぞ。

「ジオストーム」

地球の気候をコントロールすることを可能にした人工衛星が暴走し、世界中が異常気象や大災害に見舞われる。その危機に立ち向かうディザスターパニックアクション大作。SF大スキ。

「リピーテッド」

事故の後遺症で、毎朝目覚める度に前日までの記憶を失ってしまうニコール・キッドマン。夫のベンは、自分のことを忘れてしまうクリスティーンを献身的に支え、暮らしていた。そんなある日のこと。誰を信じていいのか分からなくなる、これはまじやばい。

「罪の声」

実際にあった昭和最大の未解決事件をモチーフに過去の事件に翻弄される2人の男の姿を描くミステリー。小栗旬はやっぱええわ。小説もいいし脚本賞とるだけある。

学生時代みた映画でも、今、あらためて見なしてみるとちがった角度からそのオモシロさがわかってさらに好きになる。今年一番はやっぱり映画館でみた「ラストスラムダンク」だな。

「子どもの心 データで可視化」も気持ちわるい

子どもの心 データで可視化」今朝の朝日新聞の一面だ。

どうしてこれが気持ちわるいのか、このことはちゃんと考えておかないといけない。けど、今はじっくりと考えるほどのゆとりがないので、このイヤ〜な気持ちをちゃんと記録して忘れないようにしておきたい。

9月にも同じような「子どもの気持ち、データ化」の新聞記事があったので、子どもの人権からブログに書いた。子どもにだって知られたくないこともある。

「子どもの気持ち、データ化」は気持ちわるい(2023年9月19日)

http://igasen.xsrv.jp/wp/2023/09/19/「子どもの気持ち、データ化」は気持ちわるい/

今回は、欠席や遅刻、早退や保健室の利用回数、国語や算数のテストの点数、身長に肥満度、友人関係や家庭での会話など、多岐にわたるデータを集めているようだ。授業改善というよりも、いじめ、自殺を予防するための取り組み。そのため多角的なデータを集めることで、もっと子どもの心を立体的に「心の天気」としてデータ化していく。

いじめ、自殺を予防することは必須だ。僕は反対はないし、それには首肯しかない。

とくにいじめ、自殺への対応が、データに頼る学校・教師になったとき、「データに表れませんでした」問題が必ず生まれる。もっとひどいのは「データには出ていましたが働き方改革のため、それを校内で閲覧する時間がありませんでした」みたいなことも起こらないとも限らない。

いじめの見抜くのは、結局は「違和感」だと思う。

これは経験がそうさせるというよりは、人として気づけるかだと思う。こういう感覚は、長年教師をやっていれば、だれもが経験することだ。

「この子に何か気になるところがある」

「今、教室で何か起こっている」

この違和感にどれだけ向き合えるか。それに真摯に向き合って、分かろうとできるのか。ここへの支援がほしいのだ。そのためのデータがほしい。順番が逆だ。

子ども一人ひとりをデータとして理解していると、データには表れないその何かを、見取ることはできなくなりそうで怖い。こういうことは、原因と結果のように、直線的に理解できることではなく、因果関係がみえにくいつながりの中にあるシステムの問題だからだ。

子どもの自殺やいじめを本当に減らしたいのなら、余計なことはしなくていいのでは。ただ、教員にヒマとゆとりを与えてほしい。それだけで、子どもの一挙手一投足にもっと敏感になれるはずだ。

ゆとりがあって、子どもと一緒にいられるだけの時間をもっと増やせるといい。一人ひとりをみられる環境をつくってくれればいい。データは大事であることは変わらない。しかし学校現場でほんとうにほしいものは、子どもの心のデータではないないだろう。この問題を早急に小手先の科学技術でカバーをすると、必ずしっぺ返しを食らうだろう。

朝日新聞 2023/11/05より

モテ期、到来か

僕は蚊に愛されている。

必ずと言っていいほど、毎日、蚊に刺される。このつらさ、誰かにわかってほしい。

虫除けぬればいいじゃないかと言われそうだが、僕はそういう身につけることはキライだ。なんせめんどくさい。時計だってしたくない。

ご多分に漏れず、今日もすこぶる蚊がよってきた。テラスのベンチに座ってお茶を飲んでいたら、半袖の腕には3匹くっついてきた。なぜなのか。

周りの人に相談したら「それはきっと足がくさいからでしょう」と断言された。くやしいので「なら嗅いでみてよ」というと「いやだ」と言う。ならば、自分で嗅いでみようとためしてみると、別にくさくない。

気になって、いろいろ調べることにした。蚊に刺されやすい人には、いくつか要因があるようだ。

汗っかき。僕はそれほど汗っかきではない。

アルコールをよく飲む。人と一緒なら飲むことは多いが、1人で飲酒の習慣はここ数年ない。

妊婦。そもそも僕は妊婦じゃないし、妊婦にはなれない。

黒い服を来ている。いや、白い服が多い。

血液型がO型だ。いやAB型だ。馬鹿にされるから秘めておきたかったが。

二酸化炭素によってくる。なら、なぜ僕の吐息にだけよってくるのか。僕以外は呼吸をしても二酸化炭素をだしていないのか。そんなことはない。

体温が高い。これは確かにあると思う。僕の平熱は37度近い。しかし、体温が高いだけなら、子どもたちだって体温が高いはずだ。一緒にしぜん広場にいくと刺されるのはいつも僕だ。納得できない。

どれも納得できない。

そこで、徹底して調べてみることにしたら、蚊を引き寄せる「誘因源」が強いらしい。そして、その誘因源は、遺伝的要因にきまっているとか。

『あなたは嫌いかもしれないけど、とってもおもしろい蚊の話』

たしかにじいちゃんはよく蚊にさされていた。僕の先祖も、きっとポリポリと蚊にさされて掻いていたことだろう。

いくらモテ期だろうが、蚊のあの羽音がラブソングにきこえてくることは決してない。

だれかにわかってもらいたかったショウモナイ話。

人生で一番ぜいたくなトリュフピッツァ

立川志らく「師匠」から学びの本質を知る

明日から入試。なかなかタフな日程が続く。英気を養うため、今日はのんびりと家で読書。昨日、新宿の本屋でたまたま手にした本がおもしろすぎて一気に読み終えてしまった。

しばらく落語を聞きに行けてなかったので、約束していた人と会う前に落語関連の本を探そうとふらっと本屋に寄った。

ちなみに新宿の本屋でいうと、僕は新宿紀伊國屋よりも新宿ブックファーストのほうが好き。あの本の杜に迷い込む感じがとくにいい。

しめしめ、立川流の本が新しく出版されていた。

立川志らく『師匠』

立川談志にたいする愛が語られている本だった。本の帯には「師匠のことは大キライ」とかかれているのが立川流。

以前、読んだ立川談春の『赤めだか』には、立川談春は志らくのことを、かなりはなもちならない奴だったと読み取れた。一方、志らく『師匠』からは談春こそ芸はするどいが、怠惰な奴だと仕返しされていた。

兄弟弟子のやりとりが本を通してやりあっているのが特におもしろい。

同じ修業時代でも、師匠である立川談志から厳しく育てられた談春と、天才とほめそやされて育った志らくの別々から、今はなき立川談志の破天荒さがたちあがってくる。

立川談志の修業時代の徒弟制度からは「学びの本質」について考えさせられることが多い。

弟子は、全てにおいて師匠の一挙手一投足すべてに気をつかわなければならない。その気迫が本から伝わってくる。

自分が談志を師とあおぐならば、その談志の意図とは関係なく、全てが修業となる。弟子は、勝手に何かを学んでしまっている。それほどアンテナを張り巡らし、常に師匠と一緒にいる。

この「しまっている」のが学びの本質が凝集されているのではないか。自分はこの師から学ぶと決めたら、もう学びは勝手に駆動してしまう。

談志は自分では抱えきれなくなった弟子たちに「築地に行って修行してこい」と命じる。その無理難題に談春ふくめ3人の弟子たちは文句をいいながらも素直に従う。なぜならそれが徒弟制だからだ。師の言うことは絶対である。この築地修業時代のくだりは談春の『赤めだか』にくわしく、とくにおもしろい。

しかし、志らくは「それはいやだ」と師に背く。落語家になるために修業しているのに、なぜなら魚屋になりたいわけではないからだ。気骨のあるとはこういうこと。あの立川談志を前に、そうそう言えない。だから談志に愛された。

「築地に行ってこい」といわれ、一方はこれも芸の足しになる、修業なのだと思って素直に行く。もう一方は断る。断るとなるとその理由を考え、思考が回せざるをえない。

同じ場面に立たされても、人はまったく違うことを考え、行動し、育っていく。学びってそういうもの。あこがれる、ほれこむ、この人から学ぶ、と思えたならばすなわちそれが学びとなって起動する。そういう学びが芸の世界にある。

落語が好きだ。

古今亭志ん生、古今亭志ん朝といった人気どころはききやすく、好きだ。しかし、立川談志をきいてしまうと志ん朝には物足りなさを感じてしまう。

今はやはり立川一門が好きだ。あの立川談志の毒ある口調、そして人の弱さを肯定してくれる落語が。志らくを聴いていると、談志のものまねが実にうまい。乗り移っているようにも聞こえる。

YouTubeでいくらでも過去の名演技を見られるこの時代はありがたい。この秋、しばらく落語にふけようかとおもう。

イガせん、音楽かけて

「僕は、アレクサではありませんから〜」と返答する。

クラスの子どもたちは毎週木曜日の昼食の時間を楽しみにしている。

コロナ感染予防から、しっとりと落ち着いてお弁当を食べようと続けてきた毎週木曜日の「音楽の日」。

子どもたちは教室の連絡用ホワイトボードに「聴きたい曲」をリクエストを書いておく。僕はそれをただYouTubeで流し、みんなで楽しみながら聴きいている。

これはなかなかおもしろい取り組みとなった。なぜなら僕は流行の曲はまったくといっていいほど興味がないからだ。

あると言えば、尾崎豊か浜田省吾しかしない。今も僕の体にはこの2人の音楽が流れている。でもだれもまだリクエストした子はいない。できれば、「卒業」ライブバージョンとかリクエストしてほしいものだが。

ここでは初めて買ったシングルCDが「壊れかけのRadio」ということはふせておきたい。誰にも触れてほしくない傷もあるものだ。

今、どんな曲がキャッチーで流行っているのか、僕にとっては貴重な情報収集の場でもある。それは学期末に作っている映像のまとめにも使える。

僕が子どもの頃と言ったらみんな同じ曲を聴いていた。でも、今の子どもたちはみんな共通の曲がないくらい、多様すぎる。

電子音の声のガチャガチャした音楽も慣れてくるとおもしろい。不思議な旋律づくりだ。アイドル好きな子どもたちからは、きゅんきゅんするような恋の歌を僕もきゅんきゅんしながら聴く。最近のアニメソングはふつうにかっこいい。マニアック路線すぎる歌もある。

みんな独自路線で、自分が好きを前面にだしてきて、僕が少しはずかしいくらい。

たまに親の世代の影響か、米米CLUBやTheアルフィー、そして北斗の拳「愛を取り戻せ」など、懐メロの流れてほっこりする。一番子どもたちにクリティカルヒットしたのが、吉幾三の「おら東京さいくだ」だ。余りにも愛しすぎて、ハロウィンは吉幾三になっている子もいた。

でも、こうやって共通音楽経験を重ねていると、応援団で応援歌を決めるときも案外、「あれねあれあれ」と共通体験をもっていると強いことがわかった。音楽は人をつないでくれる。

僕はまだ「15の夜」をリクエストできていない。卒業前に勇気を持って伝えたい。魂の歌を。100円玉で買えたぬくもりを教えてあげたい。

人は変われるとあの頃の僕に教えたい

僕は、読んだり、書いたりをしない子どもだった。

書くことは別に好きでも嫌いでもなかった。苦手だなという意識だけはもっていた。書いたものはいつも母が手直しをしてくれていたので(優秀なゴーストライター)、自分で書いた経験はまったくなかった。

唯一おもぼえているのは、二年生の国語で自分で物語をつくる単元があった。僕は昔話の「三枚のお札」をモチーフに、とんちんかんな絵本をつくったことを覚えている。これはすべて学校で完成させたから、大変まんぞくだった。

姉はよく本を読んでいた。我が家には図書館文化はあった。だった。あの名作手塚治虫シリーズを少年時代に「すべて」読破できたことは大変、豊かな経験だった。

つまりマンガしか読んでいない。

当時、流行っていたジャンプ専門だった。ジャンプの黄金期を少年時代で迎えられたのはとても幸せなことだ。キン肉マン、ドラゴンボール、北斗の拳、聖闘士星矢、シティーハンター、ジャングルの王者ターちゃん。こち亀、おしりふりふりもんがもんが、ゆうてみやおうぺぺぺぺぺぺぺ、なんでも覚えている。ジャンプ放送局もすきだった。

しかし、本という本を読んだ記憶はない。攻略本はむさぼるように研究していた。マンガを読んで、ファミコンやって、ゲーセン行って、駄菓子や行って、いつも外遊びしていた。それに夢中だった。

今はといえば、こまめによく書いている。そして読んでいる。

今読んでいる本はいろいろある。僕は場所によって読み方を変えている。じっくりと長くはよまない。最近は本を聞き流せるため、大変ありがたい。

じっくりとこれ。

『教科書では学べない数学的思考』

今シーズンのLAFT課題図書。ブッククラブも4週目。

運動しながらこれ。

白井 聡・他『コモンの「自治」論』

戦後の学生運動からの大学自治論の流れが実におもしろい。

夕飯つくりながらこれ。

田中 泰延『読みたいことを書けばいい』

バンカラな文体ですき。おかげさまで「マッドマックス」3部作を見直すほど!ひゃっはー!

トイレではこれ。

孫 泰蔵『冒険の書 AI時代のアンラーニング』

おしっこしている間に読みやすく刺激的(失礼か)。

寝床ではこれ。

浅見陽輔『最強の懸垂トレーニング』

寝る前には朝トレのモチベーションの一冊に。

『無職転生 ロキシーだって』

ゲームの世界観が好きすぎて(『指輪物語』の世界観ね)、いよいよスピンオフにまで手をだしている。寝落ち本。

歩きながらこれ

橋本 治 『人はなぜ「美しい」がわかるのか』

美しさを追求しているから。数学的のね。

すき間時間にはこれ

山井教雄『まんが パレスチナ問題』

やはり今、知っておかないといけないなぁと。読みやすそうなところから。

なにが書きたかったのかわからなくなってきたけど、つまり、人は変われるってこと。変わろうと思うこと。それが変われる一歩。あの頃の僕に教えてあげたい。

「子ども面談」はじめました

そろそろ保護者と個人面談がはじまる。6年生ともあって、進路について話し合う大事な面談。

それに先だって、子どもたち一人ひとりと「子ども面談」を始めることとなった。僕はこれまで一対一で「全員と」話し合うことはこれまでの実践でやったことは無かったかもしれない。

あ、うそ。遠い昔、初任者の頃、やろうとしてあまりの時間づくりのむずかしさに挫折したことを遠い目で思い出した。

本当に聴き取りたいことがあれば一人ひとり面談よりもアンケートをつくってきた。そのほうが焦点をしぼって的確に質問でき、なおかつ時間をもうまく使える。

しかし、書くまでもないことや、書くことに抵抗がある子たちにとってはどうか。対面であることの意味を、今回の子ども面談で考えながら行っていきたい。

昼休みや放課後を使って今日からはじめたが、最初の感覚はとてもよかった。なによりも、話を聞くことは相手への最大のエンパワーメントになる。

そこから話題を膨らんだり、寄り道したり、困っていることを聞きと立ったり、具体的なアドバイスなどもできる。嬉しいのが、その場で相手の反応をすぐに受け取ることができる。これは日々のジャーナルでの意見の交流ではなかなか成立しないこともあっただけに嬉しい。

日頃、なかなかかかわりをなかなか持ちづらい子とも、その機会をつくることができる。思春期まっただ中で、みんなの前ではちょっと反抗期を装っていても、一対一だと、素直になっちゃうところはかわいい。

最初は5分だけといっていたのが、結局いろいろ話を聞いていると面白く、なかなか先に進まないのが悩ましいところ。

こういった面談は実に楽しい。教師は話すことが多いから、よい問いを準備してじっくりと「聴く」ことを大事にしたい。

一緒に桐朋小学校をつくりませんか?

僕は今の学校に来て6年目になりますが、うちの学校に勤務するようになってから、良かったことをふりかえってみると二つほど思いつくことがあります。

それは、「自由な実践」と「民主主義の空気」です。

ひとつめの「自由な実践」、それは本当にやりたいこと、子どもも大人もワクワクすることへ挑戦できる学校です(これは今年の研究テーマでもあります)。

本校は創設68年目。創設当時には、ジョン・デューイから「子どもが構成し、創造し、そして能動的に探究するための作業所・実験室・材料・道具が、いや そういうことに必要な空間」、「伝統的な学校におけるカリキュラムおよび教育方法の画一」を変えることなどを学び、そうした考えを大切にして初等部がつくられてきました。(「」印は『初等部誕生物語』より)。

その文化は脈々と続き、先生方それぞれの独自の実践を大切にしている校風があります。僕はというと、年間通してサークル対話をやったり、低中学年では2年間続けて毎朝、しぜん広場に遊びにいったり、数学ワークショップ「数学者の時間」の実践研究を続けられています。それだけに年間3回ある研究会では、お互いの実践に敬意をもっている職場でもあります。

ふたつめの民主主義。職場の決めごとは基本、話し合いで決まります。それは決してお飾りの話し合いではなく、一人ひとりの声が尊重されます。(だからまぁ、会議は長くなってしまうのですが、納得感はあります)。

自分たちの教育のハンドルを自分たちで持っているということ。これは本当に実感している。これは決して教師だけのことではなく、子どもたちも含めてちゃんと声を聞きとられ、取り上げられていく。自治活動がほんとうに大切にされている学校で、ここがすごいと思うのです。それだけに定期的に、どんな学校でありたいかをよく話し合われています。

僕は民主主義の空気を学校生活を通して、生まれてはじめて感じることができました。この感覚を持てたことは自分の人生の主役になれることと同意だと感じられるようになってきました。

僕の声が、そして、子どもの声が学校の運営に反映される。そんな学校です。もちろん、そのために費やす努力もあるけれど、それはそれで意味のある時間、やりがいとなります。

僕の勤務している桐朋小学校が専任採用の募集1名始めました。よかったら一緒に働きませんか。募集要項が以下となります。

https://shogakko.toho.ac.jp/wp-content/uploads/2023/10/%E5%8B%9F%E9%9B%86%E8%A6%81%E9%A0%85%E5%B0%82%E4%BB%BB%EF%BC%892023%E3%80%8010%E6%9C%88.pdf

桐朋小学校HP https://shogakko.toho.ac.jp

自由と民主主義を標榜とする桐朋小学校。よかったら同僚になって一緒に学校つくりませんか。

今朝は毎年恒例のしぜん広場で、こっそりと柿をもいできました

算数ノートに自分の考えを書けない理由

数日前に、自分の考えをノートにメモすることの価値について書いた。

記録しないなんてもったいない!

http://igasen.xsrv.jp/wp/2023/10/13/記録しないなんてもったいない!/

よいと分かっているのに、なぜ書かないのか、なぜ書けないのか。そこへの洞察が昨日のLAFTのブッククラブであったので、それこそメモしておく。

思考のプロセスを記録することの恩恵は、自分の考えをゆっくりしてくれること。自分の考えを記録することは、自分の思考スピードを落とさせてくれる装置でもある。

自分がどのように思考し、どのように間違いを犯し、どこに解決の糸口がうまっているのか、その記録から立ちあがってくる。

こういう練習を積み重ねることで、ますます自分の内面のできごとに焦点をあてて、言葉にすることに長けてくる。自己モニタリング機能を高める練習にも鳴っている。

思考プロセスを書かない手はない!

にも関わらず、どうしてその過程を自分の考えをノートに書かない子がいるのだろう。

思考を可視化することって、プライドとの戦いだと思う。

・本当はもっとすんなりとスマートに解決にいたりたい。

・自分は失敗しないで巧みにできる。

こういった正答を求めている「かちこちマインドセット」が通底している。それもそのはず、教科書ベースばかりの算数・数学は寄り道するほど時間にゆとりがない。つまり失敗したり、スタックしながらその失敗にこそひらめきの価値があると「自力で」ワイルドに問題解決していく時間が保証されにくい構造となっている(ここに数学者の時間を提供できるその価値があると考えている)。

実際に、ノートに自分の問題解決の足跡をふりかえってみると、言い訳ができない。その言い訳できなおい自分と対峙するしかないのである。中には、まちがえをすぐに消しゴムで消そうとする子もいる。そういう子はかならずといっていいほど、正解/不正解の算数・数学で傷ついている経験がある。

数学者の時間では「うっかりミスは別としても、しっかり考えたことでまちがったところはのこしておいて。本当に消したいところは×だけしておいて」と伝えることが多い。

まちがえても、ミスしても、それがうまくいくコツというリッチな問題解決経験に乏しければ、それはメモすることはおっくうとなる。よりよいノートモデルを示したら、上手くノートを書けるようになるということだけではないことに気がついた。

書くことが自分をよりよくしてくれることに気がつきさえすれば、自然とかけるようになってくるとおもう。これからも授業では書くことにこだわっていけるといい。

このブログも等身大の自分自身の記録だなぁ。まずは言葉にしてまな板にあげる勇気が必要なのかもね。

だれかが木のうろにドロダンゴをかくしてた。よくみたらそのクモの巣の構造が数学的でおもしろい。

過保護すぎる算数問題

今日はLAFTで少しだけ最近の数学者の時間の実践話をした。

昨日の「ロープにつながれたヤギ問題」の価値を再確認できたことが今日のハイライトだった。

実際に6年生の子どもたちだけでなく、LAFTのメンバーであっても次のような問題のミスリードが生まれていたことがわかった。

そもそもヤギは小屋の中からどう出るの?

小屋って柱4本でしょ?

小屋の中には芝生が生えているの?

これらはどれも素直な反応で、決しておかしなことではない。以前似たような問題を解いたことが合って、自分の中に問題の形式がストックされるような一般化されていない子にとっては、こういった理解は普通に起こってしまう。

本来考えるべきはずの問題の本質と違うところで躓いてしまう。問題の持つ特徴に行き着けないことが問題だと思っていた。こういう反応が起こってしまうことは、そもそも問題の設定がまちがっていると捕らえていた。でも、それはちがうのかもしれない。

それこそ『教科書では学べない数学的思考』を読むことで、わかってきたことがある。それは「特殊化(ためす」ことの重要性だ。

問題に出会って、実際に解き始めるとき、上のような反応があっていいし、そう予想たてて実際にノートに書き始めたり、ためしたりし始めることこそが、特殊化の一歩のはず。これこそ歓迎され、認められることだ。

問題の意味を確かめるために、特殊化して問題を自分に引き寄せていると理解すべきだった。

そう思えなかったのはなぜだろう。それは、いつも解きやすいやわやわの問題を与えられているからなのだとおもう。この整然とされて迷うことのない条件文と求答文の問題ばかり!解いていることが、「よく分からない問題をよくわらかないまま、自分のものにしようと試行錯誤する力」を奪っていたのかもしれないことに気付いた。

普段から、教科書問題にならされ過ぎてしまっている人にとっては、「ロープにつながれたヤギ問題」は、初めて読んだ時、これ問題なのか?と思うのが自然な反応だとおもう。

特殊化試すことで、問題を自分に引き寄せるこのプロセスを経験することから始める。それは数学的にとても意味のあることに気付けた。

これまでこういう問題を提示したとき、子どもが勝手な解釈をし始めることで授業にのれないで失敗だと思っていた。そのため、教師が問題の入り口でしっかりと「わかっていること」「もとめること」を規定してあげることが必要だと理解していたけどそうじゃなかった。

問題を自分に引き寄せるための特殊化が足りなかったのかもしれない。とことに気がついた。

たまにはこういう不親切なもんだいもいいものだ。そしてそういう問題こそ、オーセンティックで日頃私たちが触れている日常の問題だからだ。世の中の問題はそもそも何が問題かもわからない。今ある条件をフル稼働させ、特殊化して問題の感触を自分に引き寄せることで、問題を理解する。こういう野生の力が必要なのだと分かった。問題も過保護すぎるとよくないな。とわかったのが1番の収穫。

教室の戸締まりにいくと、机の上に秋の収穫がおいてありました