学級づくり

「まちがえを歓迎する文化をいかにつくるか?」という問いはそもそもまちがいだった

算数授業をやっていて思うのは「まちがえ大歓迎!」「まちがえるからこそ賢くなる」みたいなキレイゴトを唱えて通用するのは、中学年までだろう。

高学年の子どもたちになれば

「わざわざ間違えるリスクはとりたくない」

「恥ずかしい思いだけは、なんとしてでもさけなければ」

となっていく。これはこれで正常な発達段階。

でも、やっぱりまちがえをしているときが、一番、脳みそをつかっているといった研究結果も示されている(Jo Boaler「Limitless Mind: Learn, Lead, and Live Without Barriers」)。その価値をいくらインストラクションしたところで、実際にわざわざ間違えをさらそうとする子は少ない。

アメリカ実践ではこういう間違えの価値を契約的に扱って、その文化を育てようとするアプローチが多い。でもこれって、なかなか実感と経験が伴わない心理主義的なアプローチであって、通用しづらい。だって、大人の僕でさえも間違えることの価値を知的に知ってはいるが、わざわざその間違えをさらそうとすることはあえてしない。したくない。そういう契約文化も日本には薄い。

じゃ、どうやって、まちがえを歓迎する学級の文化をつくることができるのだろうか。

このあたりのことをずっと課題と感じていただけに、先日LAFT研修で井本さんからの話にヒントとなる言葉がたくさんあった。

「算数ができる子というのは存在しない。解法のプロセスそのものがその子である。結果が正解したとかどうでもいいことであって、教師がこの子どものプロセスを見て取ることがとても大事である」

「(どんな解法であっても)ありのままを認めるということ。すると、子どもは穏やかになる。結果(正答)を求められると、緊張してしまう。プロセスを自分でふめると子どもは穏やかになるし、今ある手持ち(の知識で)でなんとか解決しようする」

まさに、ここだ。まちがえや失敗を推奨する文化には、あっている/まちがっているとかの評価軸を一度脇に置いておいて(KAIもそうだが、この外からの要請に忖度しない所が強い)、その子の考えてきたプロセスを「それおもしろいな」と認め、おもしろがれること。そういう子どもの側に立とうとしているサポーターとしての教師がいることが必要だった。

これって、算数数学だけに限ったことじゃない。

そうなると教科を越えて、どんなときでも関わり方は同じとなるはずだ。しかし、教師だって人間、常になんでも子どもの何かに興味をもてるわけではそうそうない。そのためには考えるに値する教材の準備が必要であるし(それがあって教師自身も興味関心がもてるはずだ)、それがあっての子どもたちの授業への本気の食いつきが生まれてくる。これはお付き合いレベルの授業では決して生まれないことだろう。

この自分なりのプロセスを踏むことは、その子らしさを発揮できていることに他ならない。評価されることを怖れている子は、なかなか自分なりの試行錯誤ができないし、わざわざ、よけいなことをしようとしない。

子どものプロセスをしっかりみること。

それに興味を持って励まし、価値づけること。

かかわるとは、こういうことだったのだ。

「子どもが、自分の考えを出したその瞬間をみつけて、教師がニコっと笑う。子どもは小さく喜ぶ。自分を出しても平気だと安心し、心がほぐれていく。すると、少しずついきいきと穏やかになっていく」

そして、井本実践では、この一対一の安心してまちがえることができる関係から、学習集団の中に共有する場をつくっていく。人は教師から学ぶよりも、子ども同士の群れの中から学ぶことのほうが多く育っていくからだ。

井本実践では、NHKプロフェッショナルにもあったように、だれかの「スーパー誤答例(自信をもって回答した解法)」をプリントアウトして配布する。すると

「なんでちがうの!?あってるじゃない!」

と本気で考え始めていく。

自分のままで考えたことが、他の人を動かすとはこういうことだ。そして、まちがえを承認されたってことでもある。これが、自分のありのままが人の心を動かし、人のありのままに心を動かされる文化となっていく。

こうやって心を動かす授業が練り上げられていく。僕のうすっぺらの「まちがえをベースに授業ができるといいな」という思いは打ち砕かれ、教材を仲介とした、人と人との関わりに還元されていく教育のスケールの大きさを知ったのだった。

「まちがえを歓迎する文化をいかにつくるのか」という問いは、「できる/できないの評価判断を保留して、そのプロセスに興味関心をもてるのか?」という問いこそが、ふさわしい問いだと気付けた。

僕らは子どもたちに、能力的にできることを期待しがちなため、この評価判断を保留することがとても難しい。そのための「子どもに期待する姿」や「考えるに値する教材」、そして「子どものプロセスをみる」ことだったりしながら、できる/できないといった、二分世界からの評価判断を越えていくことができるんだとおもう。

このかわいくないウーパーぬいぐるみは、どういうプロセスでこうなったのか興味がわいてくる

ほおっておいても子どもから自然遊びは生まれない。まずは「強制的」に巻き込むことから

「目の前に自然があるだけでは、子どもたちはその中にはなかなか入っていかない。自然を伝えたり、魅力的なカリキュラムの必要性がある」

先日のLAFT合宿で、KAIがそのためにウィルダネスプログラム(野外プログラム)を導入した経緯を話してくれた。ほおっておいてもなかなか自然遊びは生まれない。そこでアウトワード・バウンド的強制力を発揮したということだった。

どこの子どもたちは同じようだ。

自然あふれる環境にある子どもたちであってもそうなら、都会の子どもたちならなおさらのこと。休み時間ともなれば、教室でトランプしたり、おしゃべりしたり、わざわざ外へ出なくなってくる。

もちろん、それでもいいと思っている。でもどこかちょっぴりさみしい。もっとオモシロいことが外遊びでは生まれることや、遊びから学べることがたくさんあることを知っている僕としては。KAIは課題解決の力を自然の中から学ぶと話してくれたがまさにその通りだと思う。

だから、子どもたちを自然の中に強制的に連れ出すカリキュラム化することに納得してしまう。

僕は、ここ4年間、朝、しぜん広場に行くというだけの「強制」を続けてきた。コロナのこともあって、人とふれ合う機会が失われてしまった。外なら部屋と違って空気感染しないし、いいだろうとおもって、朝遊びを続けてきた。

瓢箪から駒で、結果、しぜん広場から学ぶことの方が実に多いことが知ってしまった。そして、いろんな子どもの姿がみてとれた。

雨上がりこそ、びしゃびしゃになって泥まみれになって遊ぶ子。

となりの家の2階を超える高さまで木登りする子。

卒業制作のトーテムポールを転がし、ペアで玉乗りし始める子。

一年間、池のヤゴをとり続ける子。都会の中でめったにみることないギンヤンマのヤゴを何体みせてもらったことか!

起伏の激しいフィールドでの鬼ごっこを極める子。やってみると分かるが、大人にはなかなかしんどいし、体幹とバランスが試される。

一年間、遊び倒した子たちは、そのおもしろさを親にも伝えたいと、年度最後のまとめの会に「しぜん広場一緒にあそぼう企画」を考え、己の能力の高さを示し、親たちを驚かせしめた。

何をやってもいい時間と場を用意することは、ここまで一人ひとりの個性を上手に引き出してくれる自然のもつ力はすごいと感嘆しかない。その力を十全に発揮するためには、全員で外に行く場が必要だった。

低中学年の子どもたちは、自然の中で自由に遊びはじめる。でもただ連れ出せば、何か始まるかというと、そうでない発達段階の子たちもいることがわかってきた。それが高学年の子どもたちであり、ここ2年間ずっと悩み続けていることのひとつでもある。

これまでの経験にしぜん遊びの文化が少ないと、そもそも率先して遊ぼうとしなかったり、できない子が増えてくる。そこでいくつか、仕掛けを用意することにした。

例えば、「落ちているものを食べる」とか。

この秋には、ずいぶんと自然広場に落ちている果実を食べた。柿、夏みかん、モモ、大抵おちているものは、熟れておいしく食べ頃だ。たいてい子どもたちは、「落ちているものは食べられはしない」と怪訝な顔をして言う。

そして、二分される。「それたべれるの?」「おちてるとかやばくない?」と警戒する子と「なになにそれ?いいにおい」「おれ、食べてみたい」と何も疑わないチャレンジャーだ。先発隊の毒味が終わると「わたしも一口だけなら」と恐る恐る口にし「案外、うまい」と、だんだんその遊びの渦に巻き込まれながら、感染していく様子が見て取れる。

「寒いね、そのへんにおちているもので火起こししよう」

これは、とくにやんちゃな子たちにヒットした。以来、その辺におちているもすべてが火起こし道具に使えないか、常にそんな話題となっていく。どこから拾ってきたのか、ひもを使ったり、木材をみつけてくるのもおもしろい。自然の中にあるものへの解像度が火起こしのために変わっていく。

だいたい一学期間を費やした試行錯誤の火起こしの末、ペアで火起こしするのが一番楽だということが経験的にわかってきた。本当にそのへんにある材料をつかって火起こしをできるスキルを身につける猛者も生まれた。自分が起こした種火を使って、火が起きたときは感動だった。忘れられない出来事でもあり、生きていくための自信にもなったはずだ。

僕は小さくてもいいから、こういう日々、連綿とした帯でしぜん遊びを続けていく必要があると考えている。ときに「だるい」「めんどくさい」という圧力に屈しかけるときもあるが、これも必要な勉強のひとつ、と割り切って、連れて行く。

すると、いつのまにか、その辺にあるもので遊び始める。この秋、6年生にとっての落ち葉の山は一番の遊び道具だった。

自然には力がある。けれども、自然から遊ぶには熟達レベルが求められる。悲しいかな。すぐには遊べないのである。だから、低学年のうちから、豊かな自然遊び経験の量をつんできてほしい。1年間を通して外に出続けていると、ただの外遊びでは経験できないセンス・オブ・ワンダーを自然から感じ取れることがたくさんある。その点、最近の月曜日の朝は、3〜4学級がしぜん広場で遊ぶ混雑ぶりだ笑。それでいいと思う。

さて、いよいよ3学期。しぜん広場で何しようか。はたまた、しぜん広場ではない、自然豊かな場所にこっそりいこうか。はたして、そんなヒマあるのだろうか。画策中である。

自分史上一番地味な一年の計「本を開いておくこと」

一年の計は元旦にありという。さて、具体的な一歩はなんだろうと考えたとき、僕は「本を開いておく」ことに決めた。これはたぶん、自分史上一番地味で小さな一年の計だ。

毎年、大きな抱負を考えてきたけど、いまいちそうならない。『数学者の時間』に至っては、「書く書く詐欺」を続けてきてもう10年が経つ。ここまでくると、詐欺ではなく、いっぱしの芸風だ。まぁ、現場で実践研究していくにはそれほど骨の折れる仕事ということか。

けれども、昨年の後半からだんだん「いいかんじ」になってきたことが増えてきた。それはブログとトレーニングだ。日々、思ったことを忖度無しにブログへ自由に綴ることもできてきた。バスケットを続けるために、毎朝のトレーニングも続いている。

すると、やりたいことが、やりやすくなってくることが増えていることに気がつく。なるほど、日々の自分の生活の質を高めるための継続したメンテナンスが必要だということか。きっとそれを習慣ともいうのだろう。

何かを始めるに当たって、自分の中にその熟達度には段階があることが分かってきた。人の成長には段階があることを、この本を読んで知った。

「『まず言われたことを言われたようにやり、基本を覚えることが大事である』という人もいれば『自分で考え自分に合ったものを選ぶことが大事である』という人もいる。また『量が大事だ』『質が大事だ』や、『考えろ』『考えるな、感じろ』というものもある。今ならわかるが、これらは段階が違うだけなのだ。」

為末大『熟達論』より

新年に、いきなり大きな野望をたてても、それは届かなかったのは、大きく跳ぶための準備・段階ができていなかったから。

そこで慎重に慎重を期して一番、小さな習慣とは何かを考えてみたら「本をひらいておく」ことだった。

決してカッコいいとは言えないけれど、昨年度、なかなか読むことが増えずにいたため、研究も進まなかった(これはシステムの問題で働き方とかいろんな係数が関係しているが、いきなりそこに手は入れられないのでこのシステム問題は保留にしつつも検討し続ける)。これで、自分の中に「読む」「書く」「動く」のステータスを身につけることができるはずだ。

情報収集的に速読すれば年間100冊は軽い。けど、そういう読み方は本のスクリーニングする程度では、ほとんど何も残らない。今、手元にある本はじっくりと考えながら読みたい本ばかり。ちゃんと読んで考える大人になりたい。そのときグラスを片手に、カランとウィスキーでもロックですすれば絵としては最高だ。

元来のめんどくさがりや。読みたいことは読むけど、めんどくさいことはやりたくない。本を開くのだって、めんどくさい。なら、徹底して、本を開いてそこら中に置いておいておけばいいのでは。

エウレカ!である。今、これの記事は風呂に入りながら書いているが、このまま風呂から出て町内を駆け回りたい気分だ。

ということで、まずは服を着てから、「ただ、本を開いておくだけ」実験をはじめる。乞うご期待。

KAIから元旦に最高の写真をもらった。本来みるはずだっただろう金時山からの富士山

教育スペシャリストに共通する絶対的マインド  〜いいわけだらけのあなたへ〜

この1週間にまるまる3日、LAFTの研修をつめこんだ。その甲斐あってか、井本さん、KAIさん、それぞれの教育スペシャリスト2人に共通するものがみてとれた。僕はこれこそが自分のマインドを変える、決め手だと思ったものがあった。

「アクティビティそのものはプロジェクト・アドベンチャーではなく、考え方そのものである。」

そこから、プロジェクト・アドベンチャーは体験学習のサイクルを学ぶひとつのツールということが伝わってくる。だからこそ、日常の生活、日々の教科指導、連れションにいたってまで、すべてにわたってプロジェクト・アドベンチャーであり、体験学習なのである。至言なり。

KAI実践のスタートは、そこにいる人達のCゾーン(安心ゾーン)をつくることから始まる。学年最初の学級づくりは、凝集性高めであるのは、この安心できる居心地の良い場づくりのためだ。そのCゾーンづくりに向けて「温める」「(お互いを)知っている」「群れて遊ぶ」「勝ち負け概念を崩す」「失敗のはずかしさをとる」など、プロジェクト・アドベンチャーを通して体験的に、学んでいく。頭でわかったことなんて、体験に比べたら足下にも及ばないからだ。

そこから、少しずつアドベンチャー色が高まるイニシアティブ(課題解決のアクティビティ)が始まる。子どもたち同士が本音でぶつかるストーミング(対立)が起こることで、その集団、学級は少しずつ成長していく。

と、ここまでが一学期であって、二学期以降はアクティビティをやらない。そこでこう問われた。

「パイプライン(パイプをつなげて玉をゴールに運ぶアクティビティ)では子どもたちは協力できても、日頃の掃除の場面ではぜんぜん協力しないのはなぜ?」

そこで、日常における、アドベンチャーの必要性が問われる。日常の何気ない活動にアドベンチャー、つまりは自分たちで何かを変えようとトライアンドエラーしながら体験的に学ぼうとできる「体験学習のサイクル」がそこにあるかどうかで、プロジェクト・アドベンチャーでの学びを活かせるのか、その場限りの体験となるのか、分かれ目となる。学んだことを、よりオーセンティックに実際に活かせるすべて場でホールデザインしているのがKAI実践の真骨頂でもある。

(体験学習のサイクルを学んだのなら、その)ならったことをつかおうよ。あたりまえといっちゃ、あたりまえなのだが、僕らはどうして「この活動はこれ」「あの学習はあの学習」と分断して捉えてしまうのだろうか? これは学校教育もっている構造の問題でもありそうだ。そして、そこからどうしたら解脱できるのだろうか。

KAIの公立校実践では、お掃除ボランティア、教室リフォーム、そして給食準備もしかり、日常全てがアドベンチャーとなっていく。さらには、国語、算数、理科、社会、全てがアドベンチャーになるように、子どもたちの挑戦できる設計をしていく。学校生活「全て」がアドベンチャーに変わっていく。

KAI曰く

「社会科見学は一番アドベンチャーに変えやすい! 現地集合、現地解散とかな。他の学校が先生に連れられて集団行動しているけど、うちの学校は藪の中から『たどりついたー!』と方々から集まってくる。がはは。おもしろいでしょー」

ここで、だれもがこう思うはずだ。

「そこまでやれるのだろうか」

「とはいうものの。。。」

「だって〜、保護者が」

「もう学年の先生とは、管理職とはうまくやれないのではないか」

など、様々な不安がよぎる。そこで、KAIに直接、その場できいてみた。

KAIらしいつきぬけた実践をするためには、どんな心構えが必要なのか、どうしたら、「解脱」できるのか?

すると、KAIは

「誰がその姿(いまやっている活動で学び取る姿)を望んでいるのか? 子どもは本当にその姿を願っているのか? 保護者もか? 例えば、休み時間は全員外遊びに外へ行かせることとか、教師自身は本当に望んでいないけど、これって本当に辛くない?」

とことん、子ども中心、学習者中心である。この全てに通底する信念があってこそのKAI実践だ。最後に勇気をもらう言葉をもらう。

「アドベンチャーを学校教育の中でやっていると、『これからの教育はこういうことが必要ですよね』と保護者は言ってくれる。子どもや保護者に理解してもらってきた。子どもの姿が変われば、少しずつ親の姿や管理職も変わってくる。だから、先生自身がアドベンチャーすること。最後に、あとは先生の覚悟次第。アドベンチャーを子どもは大歓迎してくれるよ」

すべてにおいて、KAIの目にはゴールに子どもの姿が映っている。そこには忖度やおつきあいは存在しないのかもしれない。貫ける信念、あり方がぶれないこと。これは覚悟の問題だ。これは先日のLAFTで井本さんも言葉は違うが、同じ姿勢、同じ実践をみせてくれ、2人に共通するものだ。

子どもにとって、どれだけ本気になれるかだ。心を奮い立たせられ、揺さぶられる。

なんと!忘年会からのファシリテータートレーニング!まじなやつ。

不屈の精神でのぞむアドベンチャー教育を体験する『LAFT忘年会冬合宿』 にKAIさんをお招きして

ついにKAI(現在風越学園副校長、日本におけるアドベンチャー教育の第一人者)を呼んでの箱根温泉合宿が行われた。あっという間の二日間だったが、告知通り、歴史にのこる研修となったことは、参加者だれもが首肯するはずだ。

温泉と忘年会をめあての甘い気持ちで参加したもの達は、この崇高なる教育という仕事は勤まらないことに、目が覚めたことだろう。何を隠そう、甘い気持ちはこの僕自身だった。

研修の数日前に参加者全員に、いきなりメールが届く。寒さ対策のアウター、インナーは必須。ヘッドランプ忘れるなとのこと。一体何が行われるのか、忘年会はどこいったのか。一気にアドベンチャー色が強くなり、KAIが本気を出してきたことがわかった。

このメールの意図を読み取れなかった人は、大きな心理的アドベンチャーが課され、革靴にガムテープをまきながら登山することになった。一方で僕はこういうときの危機管理意識が高すぎるため、プログラムは事前に一切聞いていなかったが、登山フル装備で来てしまい、アドベンチャーレベルを自分で下げてしまったことは本当に残念でならない。なんだったら僕も裸一貫、精神的なサバイバルをしたかった。

初日は、じっくりとKAIからアウトワード・バウンドの理念をベースにこの二日間をすごすことも告げられた。具体的なKAI実践は、Adventure In The Classroomについて公立校からの実践、風越学園での実践が丁寧に語られた。全ての取り組みが、目的にかなった活動となっている実に理路の通った説明は、KAIの強みでもある。

学校教育におけるアドベンチャー実践の本

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そして、KAI節が炸裂する。

“若者に大人の意見を押し付けるのは 魂の罪であるが、 やりたいかどうかにかかわらず わかるように、健康的な体験をさせないで放っておくのは罪である。(クルト・ハーンの言葉から引用)”

「アドベンチャーは、本気になるし、協力もする。そして、目標が生まれ、達成感も大きい。『チャレンジしないのもチャレンジ』といって挑戦をさけるのは、そんなの嘘」

チャレンジ・バイ・チョイス(参加者自らが課題に対して挑戦する度合いや方法を自らが選択する)を、バッサリだ。

このKAIの洞察は、プロジェクト・アドベンチャーでは経験できなかった一人ひとりの課題解決力不足の問題を、アウトワード・バウンドのルーツである「奉仕、努力、不屈」の精神で見事解決したものだ。

同じ事を僕も教室実践で感じていたことがあり、最近ではプロジェクト・アドベンチャーを使うのは学期の始めである1学期ぐらいしかやっていなかった。ふわっと温かいクラスになるが、何かものたりない。居心地のいいメインテナンス機能は高まるが、課題達成のパフォーマンス達成機能はそこそこで終わってしまう経験が僕にもたくさんあった。

だからといって集団の力を活かすプロジェクト・アドベンチャーをまったく否定するものではない。そこでは捉えきれなかった個の力をアウトワード・バウンドで補完したのだ。アドベンチャー教育のルーツは、本来アウトワード・バウンドで生かし切れなかった文脈(激しい自然の中の経験から学んだことを町の中での生活に転移することはなかなか至難の業だった)を、プロジェクト・アドベンチャーで補完したが、その逆をKAIは実践的に学び、形にした。学校教育が本当の意味で、チャレンジの場となっているのだろうか。ここに切り込んだ。これは、日本におけるアドベンチャー教育の大きな発展だと思う。KAI偉大なり。

“パニックゾーンの方が絶対学びが大きいとも。諸説あり。”

“子どもたちに、勝利と敗北をあじわわせること。 失敗を経験すること”

言葉は過激だが、言わんとすることはとてもよく伝わってくる

そして、後の2日間が、チャレンジはそれぞれと言われつつも、挑戦を強いられる心理的・身体的アドベンチャーに身を投じることとなっていく。痺れるね。

つづく

この研修は、温泉若旦那の三号の計らいもあり、箱根温泉「みたけ」で研修は行われた。普段は温泉宿であったはずだが、箸を切り出したり、火起こししたり、登山があったりと宿に収まらず箱根フィールドを堪能できたのは、三号のおかげであり、ここに感謝の念を伝えたい。本当にありがとうございました。

https://mitakeryokan.jp/

みなさんもぜひ、硫黄の薫り高い白濁した温泉とともに研修施設の可能性を広げていってほしい。今後、全ての研修は温泉とともにありたい。

このあとしょうさんの箸がなくなるという大きなアドベンチャーがまっていることは本人はつゆ知らず

いもいも森の教室から考える「教わってできることよりも、自分でやってみること」の価値

LAFT研修の午後は井本実践の話。これがまたおもしろかった。一気に引き込まれた。休憩無しの3時間半の講演! グアムへの直行便と同じ時間だし笑。このあたりの変態さかげんがまたステキすぎる。そして「井本さん、変態ですね」というと井本さんは喜ぶことも分かった。

夜の懇親会で、参加者でそれぞれ印象にのこったことをふりかえってみたが、それぞれだった。それだけ話も広く、多くの人のニーズに刺さった場であったことはまちがいない。

井本実践では、いもいもデイスクール、森の教室で子どもたちがまる1日ノンスケジュールで遊びつくす姿が語られた。

森の中に子どもたちを連れ出すと必ずでてくるのが、たいくつする子。遊べない子。でもそれでいいってこと。

「ほおっておけば、じきに子どもは何かをやりだす」

これは同感である。大人が遊びを用意する必要はなく、ましてや人工的な遊び道具だっていらない。ただ、ほおっておけさえすれば、自然とそのうち勝手に何か遊びをはじめるものだということを知っている。

しかし、まてないのが大人だ。

僕は、この勝手に何か始める遊びこそが、その子の個性の芽のようなものだと思っている。子どもの個性を伸ばそうと、いろいろ習い事や能力を高めようとするが、僕は逆のことをやっているのではないかと考えてしまう。同じ事を井本さんも語ってくれた。

自然の中につれていって、そおっとしておけば、その子なりの興味を見つけてくるものが子どもだし、人間だと思う。

ただ、一人ではそれは駆動しない。異学年ってところが井本実践のよいところだった。

川遊びでつるつるする岩を選んで1日遊んでいた。森の教室へは、何かを身につけるために学びにきているわけではない。でも、そこで子どもは勝手に、石の滑る角度や摩擦など自然といろんな事を体感していることが語られた。そう、子どもは遊びながらすでに学んでいる。何かを獲得している。

そう考えると、大人が自覚なしにうばってしまっているものがあまりにも多すぎることを突きつけられた気がした。森の子どもたちは、大人の目がないところ(安全は管理されていた)で、スケジュールなく好き勝手遊ぶ時間。これは魅力的だった。

「人から教わってきるようになったことは案外少ないものだ。だれしも体系的に物事を教えないと身につかないと思っている」そう語る井本さんからは、薪割りのエピソードが紹介された。

薪割りの達人が、親切心で大人は子どもに割り方を教えようとしている。しかし子どもは「食い気味に」即答。自分でやりたいと笑。

そういうものだ。子どもはそもそも教わることを求めていない。自分で薪割りをやってみたいのだ。それにも関わらず教え込もうとしたとき、つまり自分で学ぶべきはずの試行錯誤をとりあげてしまったとき、薪割りという遊びはツマラナイものにかわっていってしまう。

学校とはこういった事例がいかにこのことが多いことかを考えさせられる。カリキュラムオーバーロード、余計に教えようとする事が多すぎる。子どもがもっとイキイキすること。自分でおもうようなやり方や考え方でさえもやらせてもらえているのだろうか。

「学びを通して、できるようにさせてあげよう。あらゆる方面からできるようにしてあげることで、結局は自分には価値がないと思えるようになってくる」

このなにかをできるようにさせる場である学校という存在自体が、問いなおされる森の教室実践であった。

でも井本さんはなおも優しい。「だれも悪くない」という。何か責任を感じていて、みんな手放せないからだという。

教えるという営みとは何なのだろう。最近では、教え込みはさすがに授業ではやらなくなってきたが、やはり学期末になるとやるべき事や教えるべき事が多すぎると、教え込みたくなる。それは、子どもたちに、自分には考える価値がないというメッセージを伝えていることなのに。

このあたりは共感でしかなかった。僕は何か誰かから「教わったり」「教えてもらう」ことよりも、「自分で考えたい」傾向が強い。

それはおもしろいことと思っていたし、結果、自分なりの試行錯誤することで勝手に学んできたことが多くあった。

結局は、自分の頭で考えたり、やってみたりすること、それは強力はエンパワーメントであり、自分らしさなんだと腹落ちした。

子どもがうっかりルールを考えたくなる教材開発づくり

メリークリスマスマティック!

LAFTで井本陽久さんをお招きして、1日研修会が行われた。井本さんと会いたい先生には遠くは和歌山から、近くは徒歩2分(僕)の総勢45名が集まった。

井本さんは、午前中から丸1日、そして夜の会までずっと参加してくださった。ここには書けない普段では聞けないような興味深い話もたくさんあった。

午前中の講座は、トランプを使った数理問題をみんなで楽しんだ。「インディアンポーカー」や「1〜10を揃える」どれもこれまでPAでやったことのありそうなおもしろそうな課題だった。

ただひとつちがうのは、そのトランプゲームには、数学的な問題を扱いながらコミュニケーション課題も味わえる「一粒で二度おいしい」グリコ状態が埋め込まれているものだった。

そして、この数理問題を味わいながらも、その後、井本さんから、人とどのようにコミュニケーションをとるのか、他者性とは何か、はたまた論理的思考と何か、「できる/できない」を取り除いた後に残るものとは何かを投げかけられながら、考えることなった。

その意味で、目的にかなった活動がみごとに組み込まれている研修デザインだった。

僕はこのトランプアクティビティを「クラスでもやってみたい」というよりは、僕にとっての「トランプ」とは何かを考えていた。

つまり、自分が教材化できる得意なものはなんだろう?  2年生の時に、九九を覚えやすく親しみやすく、楽しみながら覚えられるようにするために、UNOの発想を取り込んだカードゲーム「九九脳」開発した。でもその後の教材開発は続かなかった。

井本さん曰く、「おもしろい教材は子どもが考えてくれる」とのこと。数学的な特徴をもつ問題を子どもに与えておけば、自然と子どもは遊びを拡張していく。

勝手にルールをつくったり、自分たちルールで遊び始める。これをつぶさに拾い上げるのだ。ここにアンテナが立つかどうかは、やはりこれまでの教師が教材に対する興味関心というか、ものを見る専門性が求められる。

もしそれがあれば、子どものやろうとしていることややりたいことを拾いやすく、見つけやすく、言語化されやすくなる。こうして「先生が」考えた教材から、「○○さんが」考えた教材へと広がりを増し、子どもたちの中に共有されていく。

遊びが広がる、子どもたちが勝手にルールを考え始められるような拡張性の高い数学的ゲームを授業で扱えるようになるにはどうしたらよいのだろうか。

この子どもも数学的な問題を扱いながらもそのルールを広げてくれる問題「やわらかい良問」とよびたい。僕がこれまで扱ってきた良問はどうしても、条件文を変えるとか、求答文を変えるといったような授業の作法のようなものが強かった。もっと根源的に、楽しい、遊びたい、原動力で「こうなったらどうなるんだろう?」「やってみたいな」「やってみようよ」となるような「やわらかい教材」を用意してあげたい。

そして、その柔らかい良問をトランプやカードゲーム、ものを使ったりするようなフィジカルに遊べる数学的なものを開発できるといい。それによって、できる/できない算数数学を越えて、うっかり考えてしまっている、地頭が育っていくのだろう。

まずは井本さんにならって、トランプゲームから始めてみようかと思う。ヒントはPAとかのアクティビティのルール設定をヒントにしながらやったら、おもしろいのがおもいつきそうだ。この冬休み2〜3ゲーム考えて、子どもたちとゲームを拡張していきたい。どなたか一緒に教材開発してみませんか? こういうのはたくさんの人数でわいわいやったほうが盛り上がりそうだし。

そんなヒントをもらった貴重な午前中だった。


受付でちゃっかり、学級経営がうまくいく石などあやしいグッズも販売してみたが、一笑に付してだれにも買われなかった

明日はLAFTでイモニイをよんでの一日講座

1名キャンセルがでました!よかったらぜひ!絶対損しませんよ。

これは楽しみすぎる。井本陽久さん(イモニイ)は都合をつけて、丸1日参加してくださるとのこと。50名の参加者とどんな話が展開するか楽しみ。

明日のイモニイの場は、きっと対話がベースに進んでいくだろうから、いろいろ考え、揺さぶられることもあると思う。僕は、自分の授業を見つめ直すきっかけがもらえるといいなぁ。

参加者の人たちとたくさん話してみたい。算数が苦手意識があったり、キライだったりする先生達がこんなにも集まる機会はそうないはず。中には愛してやまない人もコッソリまぎれておりますが。それもまたいい。

とはいうものの、学期末と進学関連のこと、この研修ともう一つの研修、いっきに押し寄せてなかなか慌ただしかった。それでも同僚に助けられたり、LAFTのメンバーがそれぞれの仕事を担ってくれて、今回の研修に関して僕はほとんど事前調整ぐらいの準備でよいのが本当に助けられている。

もつべきものは仲間よ。こうやって、ずっと一緒に切磋琢磨して、つきあってきたいなぁ。また職場の先生も何人か参加しているのが嬉しい。同じ学びを共有できる暗黙知は大きいはず。

1㎜でも日本の教育をよくしていけたらと願い、LAFTを再開したのがコロナ禍の中。そこから夢中になって読んだり、考えたり、書いたりしているけれど、あと何年かしたらもっと大きな何かにつながっていくといいなと思う。

参加されるみなさん、明日は本校でお会いしましょう。お楽しみに。

https://www.kokuchpro.com/event/061715a68ab00c85872395612c4a68dc/

優れた教師は、平凡すぎてほとんどの人がやらないことをできる人のこと

最近、だんだん分かってきたことがある。

優れた教師ってどういう人のことを指すのだろうか。

優れた授業実践や実践者は、何か特別な能力やスキルをもっている人がやることなのではない。日々の小さなできることの積み重ね、これを圧倒的に多く継続できることなんだと思う。

平凡で誰にでもできそうなこと、小さな積み重ねが大事だとわかってきた。もちろん100%の解決方法なんてないかもしれない。けれども、1%の解決方法を100コみつければいい。これなら自分にもできる(かもしれない)。

とはいうものの、平凡だからだれにでもできそうなものだ。けれども平凡だからほとんどの人がやらない。この平凡なことを積み重ねられる、実行できることが大きな力となって、実践力になっていく。

案外、こういうことなのかもしれないな。

僕にとって日々をていねいに生きるって、こういうことだったりするんだと思う。小さな事をコツコツと。

だれがつくったんだろう? 美術室の前に飾られてた紙コップでつくった雪だるまの「ゆきちゃん」。名前を募集していた。

入り口に座っている

クラスの人数は37人。なかなか多い。僕の机はスタンダードに黒板横に鎮座している。いやはずだった。

でも、掃除の度、机の配置が少しずつせばめられ、僕の席のスペースが狭くなり、ついには座れないほどつめられてしまっていた。

あぁ、まぁそれもしかたない。人数多いしな。

ということで、机を教室の入り口に置くことにした。ちょっとわくわくした。

入り口に引っ越してみると、窓の外も見られて景色もいい。冬のひんやりと寒い空気もまた季節感があったいい。必要な教科書類はわざわざ黒板横の戸棚まで取りに行かなければらないが。けれど、ここいいかも。

子どもたちは「どして?どして?」と僕の引越しに新鮮だったみたいだ。

すると「机、いっしょに使わせて」と隣にすわって、自学ノートをやる子もでてきた。自然と会話も弾む。

教室から出入りの導線は一つなので(もう一つはテラスへ抜ける出口)、必然的にみんなと話す機会となっている。

これいいですよ。

普段、気にはなっていてもわざわざ近い付いていって声をかけることまではないことも多い。しかし、今の席だと、けっこう声かけやすい。高学年ともなるとそんなに近寄ってこないので(みんなそれぞれの友だちと勝手に仲良くやっている)、平等に誰とでも声をかけようと思わないと、なかなかその機会がとれなくなる。

教室のレイアウトを考えるのはけっこうすき。本当はベンチをずっとおいておきたいけれど、6年生は身体も大きくベンチにせませましく座りにくい。出授業が多いため、うちの学校ではちょっと機能的に不便すぎる。低中学年を担任しているときは、ちょっと教室が大きくて、ふつうにベンチを常時配置でるから話し合いには、便利だった。まさにベンチは自治の象徴ともなった。あぁ、教室は広いに越したことはない。

人が動く導線に机を用意することで自然と会話が増えたという話。こういうの環境デザインとして面白いなと思った。

さ、あと一週間。元気に終業式を迎えられるように体調を整えながらすごそうっと。