いもいも森の教室から考える「教わってできることよりも、自分でやってみること」の価値

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LAFT研修の午後は井本実践の話。これがまたおもしろかった。一気に引き込まれた。休憩無しの3時間半の講演! グアムへの直行便と同じ時間だし笑。このあたりの変態さかげんがまたステキすぎる。そして「井本さん、変態ですね」というと井本さんは喜ぶことも分かった。

夜の懇親会で、参加者でそれぞれ印象にのこったことをふりかえってみたが、それぞれだった。それだけ話も広く、多くの人のニーズに刺さった場であったことはまちがいない。

井本実践では、いもいもデイスクール、森の教室で子どもたちがまる1日ノンスケジュールで遊びつくす姿が語られた。

森の中に子どもたちを連れ出すと必ずでてくるのが、たいくつする子。遊べない子。でもそれでいいってこと。

「ほおっておけば、じきに子どもは何かをやりだす」

これは同感である。大人が遊びを用意する必要はなく、ましてや人工的な遊び道具だっていらない。ただ、ほおっておけさえすれば、自然とそのうち勝手に何か遊びをはじめるものだということを知っている。

しかし、まてないのが大人だ。

僕は、この勝手に何か始める遊びこそが、その子の個性の芽のようなものだと思っている。子どもの個性を伸ばそうと、いろいろ習い事や能力を高めようとするが、僕は逆のことをやっているのではないかと考えてしまう。同じ事を井本さんも語ってくれた。

自然の中につれていって、そおっとしておけば、その子なりの興味を見つけてくるものが子どもだし、人間だと思う。

ただ、一人ではそれは駆動しない。異学年ってところが井本実践のよいところだった。

川遊びでつるつるする岩を選んで1日遊んでいた。森の教室へは、何かを身につけるために学びにきているわけではない。でも、そこで子どもは勝手に、石の滑る角度や摩擦など自然といろんな事を体感していることが語られた。そう、子どもは遊びながらすでに学んでいる。何かを獲得している。

そう考えると、大人が自覚なしにうばってしまっているものがあまりにも多すぎることを突きつけられた気がした。森の子どもたちは、大人の目がないところ(安全は管理されていた)で、スケジュールなく好き勝手遊ぶ時間。これは魅力的だった。

「人から教わってきるようになったことは案外少ないものだ。だれしも体系的に物事を教えないと身につかないと思っている」そう語る井本さんからは、薪割りのエピソードが紹介された。

薪割りの達人が、親切心で大人は子どもに割り方を教えようとしている。しかし子どもは「食い気味に」即答。自分でやりたいと笑。

そういうものだ。子どもはそもそも教わることを求めていない。自分で薪割りをやってみたいのだ。それにも関わらず教え込もうとしたとき、つまり自分で学ぶべきはずの試行錯誤をとりあげてしまったとき、薪割りという遊びはツマラナイものにかわっていってしまう。

学校とはこういった事例がいかにこのことが多いことかを考えさせられる。カリキュラムオーバーロード、余計に教えようとする事が多すぎる。子どもがもっとイキイキすること。自分でおもうようなやり方や考え方でさえもやらせてもらえているのだろうか。

「学びを通して、できるようにさせてあげよう。あらゆる方面からできるようにしてあげることで、結局は自分には価値がないと思えるようになってくる」

このなにかをできるようにさせる場である学校という存在自体が、問いなおされる森の教室実践であった。

でも井本さんはなおも優しい。「だれも悪くない」という。何か責任を感じていて、みんな手放せないからだという。

教えるという営みとは何なのだろう。最近では、教え込みはさすがに授業ではやらなくなってきたが、やはり学期末になるとやるべき事や教えるべき事が多すぎると、教え込みたくなる。それは、子どもたちに、自分には考える価値がないというメッセージを伝えていることなのに。

このあたりは共感でしかなかった。僕は何か誰かから「教わったり」「教えてもらう」ことよりも、「自分で考えたい」傾向が強い。

それはおもしろいことと思っていたし、結果、自分なりの試行錯誤することで勝手に学んできたことが多くあった。

結局は、自分の頭で考えたり、やってみたりすること、それは強力はエンパワーメントであり、自分らしさなんだと腹落ちした。

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