学級づくり

入試が終わり、雪が降る

東京に雪が降った。去年よりも積もった。放課後は子どもたちと校庭ですごした。

いつも注意されている子はもちろんのこと、普段、あのやさしい子までが目の色を変えて、僕に雪玉のねらいすましていた。なんだろう。雪は人を狂わしてしまうのか。

午前中、授業の合間に放送で「先生方は職員室へ、集まってください」と連絡が入った。教室から「いえーい!」「もしかして休校!?」「やっほーい!」と早とちりした叫び声が、職員室で仕事をしていた僕にもれ聞こえたきた。子どもってそういうもんだとおもうし、僕もこっそり休校を支持している。

通常通りの登校だったら、雪遊びもそうだけど、雪の中で火起こしをやってみようかな。今朝のしぜん広場では、あまりにも寒くて火がおこせなかったそのリベンジ。マシュマロ焼きがいつまでたってもおあずけだ。

中学入試もここのところでようやく終わった。インフルエンザが流行しはじめ、一時はどうなることかとヒヤヒヤしたけど、なんとか食い止まり、ほっと一安心。これでようやく卒業に向けて、落ち着いてもろもろに取り組める時期がやってきた。

入試問題はなかなか難しいものが多い。「なにこのイジワル問題!?」みたいなのもあるけれど、中には考えるにふさわしい、おもしろい問題もいくつか見つけることもできる。

子どもたちには、せめてそういう問題を見つけて、楽しんで解いてきてほしいと伝えてきたし、この2年間は、子どもたちとはそういう考えたいと思うことを大事にしてきた。

今回、受験についてはいろいろ思うことがあった。しばらくしたら、ちゃんとふりかえりたい。

さぁ、どんな1日になるかな。いってきます。

早く行きたいなら一人で行こう。遠くへ行きたいならいっしょに行こう。

学びは継続にこそ、意味があると思う。最近、忙しくなるとなおさらその学びの時間をどう工面するかが悩ましい。

コロナの時はもっと難しかった。そこで、なにか自分にもできること、世のため人のため出来ることはないかと思い、学びの場LAFTを再開した。

僕は先生は本を読む人でありたいと思っている。けれども、教育書ってそもそも、読みにくいしわかりにくいし、翻訳書は意味が入ってこない。

だから、本について仲間と少しずつ話し合いながら、実践に移そうと挑戦してみる場が必要だ。さらにはその著者から直接話をきければ、最高じゃん。

そう思って再開したLAFTもそろそろ一年が経とうとしている。ここでしか出会えない人たちと知り合って、本当に楽しい。

一人では続かない学びも、人といっしょなら学び続けることができる。これ真実。

数学者の時間の研究もそうだったし、LAFTでの学びもそうだった。仲間がいたからできたことだ。元来、SSBシンドローム(スーパーさぼりたい症候群)を患っている僕にも、学び続けることができる自信をもらえた。

今週末、LAFTがある。今回で178回目だ。長く続けてこれたのは、まちがいなく参加メンバーのおかげだ。だって、主催しても僕が休んでも、進めてくれてたし笑。

今回は、LAFTで知り合った仲間、数学者でずっと研究してきた仲間、それぞれの算数実践発表だ。先月の井本さん研修会、KAIさんの研修会、そこでの学びのふりかえりやそこで考えたことの共有もしたい。そして『教科書では学べない数学的思考』のブッククラブもある。

僕は、学ぶことは続けることだと思っている。

だって次の日にはほとんど忘れちゃうし。

知ったところで、すぐにできないし。

何かを身につけようとするのなら、地味に時間がかかるし。

だから、継続した学びの場が必要だと思う。

そして、一番は学び合う仲間がそこにいること。何か知ろうと考えようとする人と一緒に話すのは本当に楽しい。「オレもがんばらなくちゃなー」って思える出会いが毎回ある。

さて、LAFTは今週末の土曜日、一緒に学び、遠くへ行きませぬか。

折り紙4回追って、4回切り込みいれて、線対称かつ点対称の算数アートをつくりました。

急遽、研究授業で「数学者の時間」カードゲームのルールづくりをやった

今日は研究授業日。僕が担任するクラスが残って「対称」を活かした算数と美術のコラボ授業「イカスクラス家紋をつくろう」だった。

のはずだった。

美術の先生が体調不良で休まれた。さて、どうしたものか。ということで、急遽、算数で僕が研究授業をやることにした。

たまたま1・2時間目が空いていたので、これまで温めておいた、年末に井本さんから学んだ「カードゲームのルールを子どもが考える」授業を計画してみた。そう、数学者の時間だ。

この空き時間に指導案をちゃっちゃと2枚ほど書き上げた。職場の人から羨望のまなざしで「仕事できる人だ」と言われたけれども、そんなことはなく、いい加減なもんだ。そもそも指導「案」であってないようなもの。あんまり気にしていないからいくらでも書けてしまう。頭の整理にもってこいだった。

どんな良問にしようか少し悩んだが、この本からの引用とした。結果、おもいもしなかった「創造的カンチガイ」が生まれて、面白い授業となった。

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これまで授業では、様々な問題を使って特殊化(小さく試す、系統的に試す、表にしてみるなど)はやってきたので、今度はみっちりと一般化の練習をしようと考えた。一般化とは「カードゲームの必勝パターンをみつける」ことにした。

問題のパターンをみつけるために、何度も試してことで機能的に一般化する「経験的一般化(まずジャンケンに勝つ、相手を勝たせないように邪魔するカードをとる、5を先にとるなど)」から、上記の発見を使ってこのゲームをさらにオモシロくするルールを付け加える「構造的一般化」をこころみた。

提示した良問も、ちょうどいい難易度だったので、残りの時間はたっぷりと「問題づくり」もとい、カードゲームの「ルールづくり」にあてることが予定どおりできた。

全て15になる3つの組み合わせを系統的に表にする子がでてきた。さらには、5をとると手詰まりがなくなりそうなことも見つけている子もいた。中には、2や6のほうが扱いがイイという子もいた。これはこれでまだ特殊化が足りずその過程にいるからでそれももちろんOK。

研究授業っていつもクラスでやんちゃしている子が輝くあるあるがある。

「3つのカードで15をつくればいいんでしょ。ならこのカードの間に÷と×を書いて」と自分の机に鉛筆で÷と×を書いて、15をつくりはじめた。これはおもしろかった。たしかに問題には、「足し算で15をつくれ」とは書いていない。

このアイディアは、ゲームのルールづくりにもってこいと、みんなの前で紹介してもらった。ちょっとそのタイミングがはやかったこともあり、みんなはまだピンと来ていなかったようだが、ルールの多様さは少しずつ広がっていった。

子どもたちは必勝法(負けない方法)を見つけるにつれ、ルールづくりを始めていた。持ち札を5枚にしてみたり、合計を30を目指したり。ワイルドカードでジョーカーをいれている子もいた。次回もこれを続けていくので、どんなルールが出版されるか楽しみだ。

その後の研究協議は、子どもたちの名前とエピソードが飛び交う時間だった。うちの学校のいいところだ。そして参観した先生たちとで、トランプをしながら、先生ルールを一緒に考えて楽しんだ。僕にとってはこれが一番学びの多い時間だった。

あわただしかったけど、最近、入試の練習ばかりが続いていたので、なにかに夢中になれる数学者の時間ができてほんとうによかった。

奈良教育付属小の問題は、教育現場の自由実践の抑圧にならないか

奈良教育付属小学校の履修問題に関して、文部科学省は各付属校に通知を発行した。この事態を受け、僕は教育現場における自由な実践が躊躇され、萎縮するような状況が生じてはならないと懸念している。

研究の本質はその性質上、ガバナンス(組織統治)とは相容れないもの。全国で一律の管理下では、イノベーションが生まれる余地はほとんどありえない。

公教育における管理職の重要な機能の一つは「平等」の実現にある。これは、北は北海道から南は沖縄に至るまで、どの地域でも一定水準の教育を提供することを意味する。でも、このような管理を強化すればするほど、教育現場は息苦しくなってしまう。なぜなら、教員個々の「自由」な実践の保証が失われてしまうからだ。

平等と自由はしばしば対立する概念だ。管理職は教員への配慮を心がける必要があり、同時に、教員も管理職の役割に理解を示し、互いに協力し合う姿勢が求められる。今回の件は、職場における基本的な思いやりが欠けていることが、問題の根底にあるのではないかと想像してしまう。管理職も現場教員も同じ仲間集団でありたい。人に優しくありたい。

文科省が通達を行ったとしても、日本の教育が著しく改善されるとは思えない。革新的な教育実践は、教員一人ひとりの独自性と自由に基づいて成し遂げられると僕は考えている。振り返ってみても、管理職の指示に従っているだけでは、子どもたちにとって必要な新しい教育実践を創造することはできなかった(単に自分に力量がなかったのだが)。

このことは管理職が無能であると言っているのではなく、単に彼らの役割が異なり、現場の教員には子どもとの直接的な関わりを通じて得られる教員固有の教育手法があるということだ。

僕が懸念しているのは、教育現場の教員が、指導要領、カリキュラム、教科書に沿った教育を、無意識のうちに過度に忖度し、重視してしまう風潮が今後ますます強まることだ。これにより、教育の革新と多様性が失われる可能性があると危惧している。

僕は教育実践において自由を重視している。「数学者の時間」では、自由実践に見える活動の背後には、カリキュラムとの対立を避けるための緻密な設計があり、教科書の使用を基本としている。

この「数学者の時間」は、指導要領と並行するデュアルプログラムとして機能する。教科書ベースの授業で得られた基本的な知識をさらに深め、豊かにすることが可能だからだ。算数・数学メガネを通じて世の中や問題解決に対する深い理解と探究心を育てることを目指している。だから、逆に教科書から感謝されてもいいくらい。

今後、自由な教育実践が制限されそうな状況に直面したとき、僕は積極的に声を挙げ、若い実践者たちの試行錯誤を守っていきたい。実践者たちは新しいアイデアを試み、教育に新たな息吹をもたらす貴重な役割を担っているから。

この点について、先週まで読んでいた山崎雅弘氏の『アイヒマンと日本人』(祥伝社新書、2023年)に触れたい。

第5章からの論考が圧巻だった。

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みなさんは、アイヒマンという名前を聞いたことがあるだろうか。アドルフ・アイヒマン。ナチス・ドイツ政権下で国策として実行された数百万人ものユダヤ人に対する大量虐殺を、ナチス親衛隊の中間管理職として指揮した人物である。彼は「(大量虐殺を実施したのは)自分はただ与えられた命令に従っただけだ」と主張し続けた。

おどろくべき言い訳! 一体、これのどんな点に問題あるのだろうか。われわれ日本人の中にもある「アイヒマン的なまじめさ」があると著者の山崎は説いている。

哲学者ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマンがホロコーストに従ったのは、彼の異常性ではなく、普通の「正常性」の中にあったと指摘した。アーレントによれば、アイヒマンは実際にはそのナチス政党やその取り組みを「支持」していたと解釈できるとし、アイヒマンが単に上司の命令に「服従」したのではなく、自分で考えることをやめ、命令に従うことを選ぶ率先した「支持」をしたと分析している。ホロコーストの責任から逃れるためにアイヒマンが「自分はただ与えられた命令に従っただけだ」との服従を理由にすることは、政治的や道徳的に誤りであると主張したのだ。

アイヒマンの例は、命令に忠実であることと、職場内での個人的な利益や保身を優先することの危険性を僕につきつけてきた。

これは、真面目に与えられた命令を遂行しようとする僕は、知らず知らずのうちにアイヒマンのような状況に陥る可能性がある、という恐ろしい事例だ。

職場で上司と対立することを望まないのは自然なことで、多くの人々は上位者との衝突を避け、命令に従って良好な関係を保つことを選ぶかもしれない。日本社会において、このような思考形態は一般的と考えられている。

しかしこの本は、組織の一員として働くことと、正しいことをするという個人の責任との間でバランスを取る必要性を浮き彫りにしてくれる。

アイヒマン的な「支持」に従うことは、言われたことを無批判に受け入れることに他ならない。イエスマンになってはいけないのである。命令や不公正な行動に対して、反対の声を上げる勇気が求められる。これは教育の現場においても重要な教訓である。

僕が懸念していることは、今後ますます「指導要領どおりに」「カリキュラムどおりに」「教科書どおりに」「学年同一歩調で」「掲示物はみんな一緒で」「お尻の拭き方もみんな右手で」などという風潮を、現場の教員が勝手に忖度してしまわないかという危惧でもある。

もちろんやるべき事はやるし守るべき事は守る。だが、文部科学省や管理職の指示に盲従するのではなく、現場の教員がカリキュラムを網羅することの不安に囚われることなく、教員一人ひとりの自由な実践が尊重され、ビビらず安心して働ける教育実践環境を願ってやまない。履修アンケートとかいらないからね。

おそれることはない。これまでもこれからも自由な実践を大事にしていきたい。

子どもたちの声でつくる「まとめの会」はなかなかしんどい

毎年やってきた「まとめの会」づくりの時期。今年も、さっそく子どもたちと話し合いがはじまったが、悩ましいスタートを切った。

まとめの会とは、一年間のまとめに向けて、各クラス独自に取り組む行事のことだ。僕がこれまで担任してきたクラスでは、ミュージカル、美しい数学発表(コロナで頓挫)、各教科学習発表ワークショップ、親にしぜん広場あそびレクチャー会など、その年、その年の子どもたちと話し合ってつくってきた。

基本、僕はなんでもいいし、何やってもいいと思っている。その内容や結果よりも、どうこの会をつくりあげていくのかそのプロセスにとても意味があることをこの学校に勤めることで体験的に知ってきた。

今年も実行委委員の5名が準備を進めてくれ、さっそくアンケートを募ってみると、6年生最後のまとめの会では「劇」と決まった。

しかし、劇の演目が二つに分かれてしまった。

「やっぱ楽しいことしたいじゃん」「約ネバやりたい!」とどこからきたのか『約束のネバーランド』劇が激推しされた。

「それって、オニが子どもを頭からバリバリ食べるやつじゃん?」ときいてみると「大丈夫。テーマは『友情』だから」ともさもありなんな解答が返ってきた。

ちなみに僕は「約ネバ」が好きだ。

もちろん全巻制覇し『英米文学者と読む約束のネバーランド』 (集英社新書)も読み、この話の文学的背景と設定にも興味を持っている。また六本木の原画展まで行っている。さらにはオマージュとなっているカズオイシグロ『わたしを離さないで 』は大好きな小説の一つだ。

が、そういう話は一切子どもたちには口にしたことはない。この先、僕がこの『約ネバ』の子どもたちの捉え方に、黙っていられるかが問題だ笑。

一方で「これまでまとめの会では、私たち好きなことやってきたから、最後はなんか、まとめらしくなるといいな」「まとめの会としてふさわしいのは、1年間のまとめの会であり~」だから、『クラスのの日常劇』をやりたいと、最後のまとめの会を意識しているまっとうな意見が出た。

自分がやりたいことの追求と、クラスみんなで取り組むことの価値について僕も語ってみたが、ときすでにお寿司で、あんまり響かなかった。子どもとはそういうもんだ。

劇は『約束のネバーランド』と『クラスの日常』の二本立てに決まり、全員がどちらかの劇で演じることになった。照明や音響、舞台監督などの裏方はもう一方がやってあげることになった。

さて、まとめの会、どうなってしまうんだろう。不安だ。

子どもたちの話し合いを聞きながら、僕の中には「学級日常劇ならばできる見通しがあるから、みんなこれをやろうと思ってくれないかな〜」などとしみじみ思ってしまった。

しかし、そんな予定調和で教育的な取り組みだけでいいのだろうか? という葛藤も逡巡していた。

「うまくいくからやる」よりも、「やってみたい/おもしろそう」だから、とりあえずやってみる。

このことは、僕にとっても必要な挑戦なのかもしれない。たくさん話し合って、いろいろ言い訳つけて、上手くいく見通しが立ってから始めるようでは、いつまで経っても成長しないしなぁ。

変化をすることから逃げないこと。予定調和で終わらせないこと。さて、僕がどこまで子どもたちをサポートできるか、ためされる一ヶ月がやってきたわけだ。がんばりたい。

「イガせん、何の役やりたい?」

「お? おれも入れてくれるの? じゃぁ」と

これまでやってみたかった子ども役をやらせてもらうことにした。

「イガせんもクラスの一員じゃん」と言ってもらえてうれしい反面、あんまり僕は先生としてみられてないなと笑ってしまう。人なつっこい子どもたちともあと数ヶ月だ。

「運動すると疲れない」という逆説

新学期がはじまって1週間がすぎた。この一週間、毎夜l帰宅が21時を過ぎていた。僕の働き方を振り返ってみても、これは異常事態だ。

ここ数年、この時間まで、しかも継続して遅くまで仕事をすることはなかったし、ちゃんと切り上げてこれた。けれども、今年度はそうもいかないことがいろいろ重なり、これも見通しのなさからくること。これは学校の仕組みだけの問題ではなく、僕のマインドの問題でもあるのでちゃんと忘れずにここに記しておきたい。反省。

忙しくなると生活がささくれだってくる。いろんなものにしわ寄せがいってしまう。結果、仕事の質が下がってしまう。すべてはシステム。

でも、どんなに忙しくなっても継続していることがあって、それのおかげで乗り切れているところがあった。

それは朝のトレーニングだ。

バスケが好きで、バスケをこれからも仲間と末永く続けるために、基礎体力と筋力を高めたい。でも仕事帰りだと疲れてしまっていて、気持ちもキレてしまうこと多い。そのために10月から朝に始めることにしたら、案外これが続いてしまったのが驚きだ。

http://igasen.xsrv.jp/wp/2023/09/26/朝トレはじめたら初日でメンタル無敵になった話/

習慣とはおそろしいもので、冬休みだろうと、週末だろうと、ちゃんと朝の時間にせっせと起きてしまう。もっと寝ていてもいいのに。

早朝トレーニングは時間にしても家からの往復いれて1時間程度。12月末は腰も痛めていたから、満足なトレーニングもできなかったが、しっかり体づくりだけは続けてきた。

バスケのために始めたのに、二次的なプレゼントがあることに気がついた。

なんと、疲れないのだ!

職場で遅くまで仕事をしていても、だるいとか疲れたとかがなかった。そんなことつぶやいていたら、同僚から「モット仕事をあげよう」といわれたので、職場ではもう言わないことにした。

体力ってほんと大事だ。

僕の尊敬するトレーナーのアキラさんが毎朝、トレーニングしているときいたとき、「うそだろ」と思ったけど、いざ僕自身もやり続けてみると、そうしないと気持ち悪いぐらい習慣となってしまった。

とは言ってもキン肉マンになったわけではまったく無く、バスケが出来る程度のコンディショニングは整えることがちゃんと出来ている。おかげでゴール下ではフィジカルで戦える場面が圧倒的に増えてきた。

けど、そんな僕でも月曜日はだめだ。

日曜のバスケ練習の疲れが、背中、下半身にどうしてものこってしまっているので、一日中全身がだるい。それでも、ちゃんと栄養とって、休息とって、朝起きしていると、水曜日までにはちゃんと復活している。年をとっても身体ってすごいなと思う。

まぁ、この体力のおかげで、この一週間、遅くまで稼働できたし、気持ちとしては充実したチャレンジで、メンタルおつりがきたということ。これからもどんなに忙しくとも、習慣化した運動は手放さないようにしていこうと思う。風邪引かないように気をつけていこうと思う。

みんなはどんな運動しているの? 

もし、運動しなければ、と思っているのなら、絶対はじめたほうがいい。それも朝、歩き始めるだけでいい。今は、6時前は真っ暗だけど、だんだん明るくなってくる空を感じられるのも気持ちいスタートとなるから。なんだか生きている充実感もオマケでついてくるよ。

そのヒントは相手に役に立ってる? 学び合いのレベルアップへ

3学期の授業がはじまった。算数1発目の授業びらきは、先日の合宿で経験したファシリテータートレーニングからはじめてみた。

ファシリテーターはまず「みる」から。けど、どうやったら「みる」ことができるの?” 2024/01/05

「頭の目かくしをとる」問題をあつかいつつ、「学び合う質の向上」をめざした。

僕は、子どもたち同士の「学び合い」では、よく「教え込み」が起こることをずっと懸念していた。会話を聞いていると

「ここはこうするでしょ。ほら、できたでしょ」

みたいなやり方をよくレクチャーしている。これでは、学習者は何も考えないで、アドバイスをくれる友だちと待ってしまう。ヒントをこっそりと期待してしまう。

そこで、先日のLAFT合宿で経験したKAIが提案した「不可能な立体」づくりを問題を扱ってみた。考えることに加え、自分の「学び合い」のプロセスをメタ認知する練習をしたいと思ったからだ。

「この答え、わかった人は、絶対に教えてはいけません。もちろん、ヒントもダメです。でも、相談には乗ってあげてください。じゃ、がんばって」

頭のやわらかい子は発想を転換して、すぐに問題を解けてしまう子もいた。

「この問題、TikTokでみたことある!」といっていた子は、ただ見たこと有る様だけなので、解けるまでかなりの時間を要していた。見たことあるだけではわからないのは世の常だ。

「何をしているかずっと(友だち)を見ているけど、ついヒントを教えたくなってしまう」

「どこを切っているのかを見ていたけど、どこまで言っていいのか難しかった。できそうだったらヒントを言いたくなっちゃう」

「まちがっていた人にどうしても答えを言いたくなりました。教えることもとても頭を使う」

答えが分かった子は「教えたくてむずむずする」ようだった。「教える方が解くより数倍難しかった」と。

一方で、相談にのってもらっている子達の気持ちも聞いてみた。

「まわりがみんな簡単に解いちゃうから焦った」

「できるようになりたい」「教わりたい」という子も一定数いるようだったが、別の意見が出てきた。

「自分でひらめけてすごい嬉しかった。嬉しくて分かった分かった!って叫んじゃった」

やっぱり、自分でひらめきたいし、答えまでたどり着きたい。

だからヒントは極力いらないと。

考えている人を尊重しようと、そこでまず「みる」「きく」ことから相談者ははじめることとなった。

相談に乗ってくれている人は

「ヒントを出すと、いい気持ちになる」

と共有してくれた。ドッと笑いが起きたが、これ真実だろう。常に、人より優れていたいと表す心模様なのかも。

学び合いをしているようで、じつはたくさんの教え込みにあることを気付いた。

子どもたちとは、僕が相談しているときに使っているツールをプレゼントした。

①「今、どんなかんじ?」(現状の確認)

②「どうしたいの?」(本人のゴールの確認)

③「こういうのはどう?」(現状とゴールのギャップを埋める提案、ここではじめてヒントがでてくる)

「あ、イガせんのいつものやつね」

「つかえそうじゃん!」

少しずつ、また教え合いの質が変わっていけるといいなと思う。

最後まで、解けない子もいたけど、次の理科の時間にずっとこっそり手を動かして、やっとできて嬉しかったと教えてくれた。

自分で考えたいなって思える子、いいなと思う。そういう授業をつくっていきたい。

誰もいない所で誠実な行いができるかどうか?

新学期がはじまった。子どもたちはいつもどおりで、教室に活気が戻ってきた。

子どもたちと卒業カレンダーをつくってみた。お休みだった子もいたので、欠席の子のカレンダーをなくさないように、僕が集めていたらふと気付いたことがあった。

その集めたプリントには、すでにうすく鉛筆書きで担当する日付と名前がメモしてあった。本来、何もかかなくてもいいプリントのはず。

欠席の子が担当カレンダーが分からなくならないようにと、親切心で隣に座っている子が書いてくれていたようだった。

「これ、やってくれたの?」そう尋ねると、ニコッとうなずきを返してくれた。

僕は、こういう小さな親切は、実は特別な何かを起こしてくれると思っている。小さな誠実さは、周りの人の心を温めるようにみえて、実は自分の心を満たしてくれている。

誰かへの小さな親切は、清々しい気持ちになったりする。その小さな誠実さの積み重ねこそ、周りの人への喜び、そして自分の喜びとなり、ひいては、また小さな行動の継続へとつながっていくもの。

僕は、その人の人生がうまくいくかどうかは「誰も見ていないところで、正しい行いができるかどうか」がとても大切だと思っている。

子どもたちには大人に向けて、そういう人にチャレンジしていってほしい。さて、明日で怒濤の今週が終わる。一息つけるといいなぁ。

くららのすごいふりかえりを読ませてもらった

年始、そろそろ溜まっている仕事を始めないと思い、こっそり職場に行った。机に座って「さぁ、はじめるぞ」と思った矢先、KAIからメールがきた。

「くららのふりかえり読んだ?」

この間のLAFTの合宿へ参加した、「くらら」こと大倉さんのふりかえり。彼にとっては、はじめての学びの場だったらしい。それだけに、ちゃんとふりかえっていたのだろうか。ふりかえりは自主的に書いてたようだ。

はて? グループメッセンジャーをさがしてみても、くららからのそんな記述はみあたらず。そこでKAI経由で、さっそく送ってもらって読ませてもらった。

そのくららのふりかえり、なんと23000字!

僕がこれまで読ませてもらった振り返りの中で、群を抜く印象をうけた。読後感が清々しく、あまりにもよかった。なんでだろう。何がこうよかったんだろう。

ひとつは、このくららのふりかえり(長いので略して「くらり」とする)を読めば、くららの合宿中のプロセス全てが分かってしまうほど克明に時系列に沿って書き出されていた。

まずこういう体験的な研修のふりかえりの多くは、客観的な事実の記録や書き出しが出来ない中で、これはすごい。

研修のKAI語録に限らず、そのプロセス、そして忘年会の席で話し合っていた内容、そして、深夜に露天風呂でこっそりビールを飲みながら話していたことさえもふりかえりに書かれていた(宿主にはナイショね)。

つまり、参加していなくとも「くらり」さえ読めば、どんな研修だったのか大概のことが分かってしまう。

その克明な記録とあわせて、くららの心の動きがリアルに書かれていた。対話した相手の意図や、研修作成の意図など、その射程、思うところがまた広い。

自分の知っていることと結びつけて書かれていて、いろいろな小説や教育書からの参照もあった。

自分のために一週間かけてじっくり書いたようだ。そして形に仕上げたこともすばらしい。これから合宿参加者には23000字のふりかえりを「強制」することにしたい。

合宿に参加したみなさんは必読ですよ。

また、参加されなかったかでも、ぜひ直接、くららとメッセンジャーで連絡をとって、ふりかえりを読ませてもらうといいです。全国には4年目にしてこういうステキな若い先生がいるってことを知れるはず。そして、僕と同じように、己の残念さを深く反省する機会をもてるはず。

23000字もあるけど。一気に読めるはずだ。

くららこと、大倉良介さん。ぜひ、Facebookでつながってほしい。ていねいに読んでちゃんとフィードバックしてあげてほしい。これは読んだこととセットでなければならないチャレンジ・バイ・NOチョイス。

これから、くららはもっと自分が子どもたちがのぞむいい先生になっていくはず。

朝登山はくららと同じグループでした

ファシリテーターはまず「みる」から。けど、どうやったら「みる」ことができるの?

LAFTの冬合宿、わずかな忘年会の時間に、ファシリテータートレーニングをやった際、話題になったことがある。

KAIから「これと同じものを正方形の一枚の紙で作ってください。ただし、答えがわかった人は絶対に他の人にその答えを教えてはいけません。わかった人はファシリテーター役になってください」と、それぞれの机の上に、紙で折られたなんとも奇妙な形をしている、立体模型パズルが置かれた。一見、すぐにつくれそうなものだが、実際に一枚用紙に切れ身をいれてみると、そうなかなかうまくいかない。

詳しくはプログラムの詳細になってしまうので、ここには書かないが、この紙パズルは難解で、発想の転換をしないと解けないものだった。

このイラストはchatGPTで描いた不可能な折り紙だけど、ほんものはもっとシンプルだったはず。

そのおかげで、忘年会中、ずっと紙をいじりたおして、「そろそろお開きにしましょうか」という頃合いになって、「できた!」と深夜に歓喜の奇声をあげる輩までいたほどだった。それほど熱中していた。

この研修はいかにこのパズルをつくるかではなく、この研修デザインが秀逸で、答えを見つけた人が、まだ解いている人にいかにファシリテートするかであった。

僕は、驚いたことに、このパズルを案外スムーズに解けてしまった。

まずは「とりあえず無作為にやってみる」ことから始めてみると、だんだんと、辺の長さに目が向いたり、面積の組み合わせを考えてみること思いつき、少しずつ系統的な手立てが予想として立ちあがってきた。

しばらくすると、この図形は、筋道だてて考えてもできないかもしれないと疑いの予想がわいてきた。「もしかして今、思っている考えに『あたまのめかくし(思い込み)』があるな。どうやって転換したらいいのだろうか?」と思いながら、実際に紙をいじってみると。。。

あら、不思議。ひらめいた!

なるほど。解けてみると案外簡単だが、アイディアがひらめかないと、どつぼにはまるやつだ。解けて素直に嬉しい。数学的思考バンザイ。

でも、次のステップである「ファシリテーターとして」どうかかわるのか、これはなかなか難しい。

答えを教えてはならない。しかし、仲間が解決できるように何ができるのだろうか。学習者のプロセスをみるとはいうものの、一体どうやったらみるのだろうか。そこに的確にどう寄り添っていったらよいのだろうか。しんどい。お酒も回ってきているから、なおさらしんどい。

一人ひとり頭の中で起きていることは違うことも知っている。ヒントを出すことは、ファシリテーターへの依存を生むことなので、やらないことも知っている。なら、何をどうファシリテートするのか。

そこで、僕がカンファランス3原則と呼んでいる強力なツール

①今、どんなかんじ?(現在地の確認)

②次、どうなるといい?(目的地、ゴールの確認)

③こんな方法はどうだろう?(やり方、方法の提案、学習者の選択)

でかかわってみた。

「今、どんなかんじ? どこまですすんだの?」

たずねてみるが、仲間のK氏は「さっぱりわからん」と即答。

「じゃ、どうなるといい?」と尋ねると

「そんなのわかっとんじゃー!」とキレられそうだったので、

「今、分かっていることで、次どうなるといいの?」

と質問を小さくしてみた。

「辺の長さに着目してみたら?」

「面積は?」

「この考えでどうしてとけないだろう?(思い込みをはずす質問)」

すると

「今、ここをこうしたいんだけど、こうすると、こうできないから。。」

と「ここ」を連発して説明してくれていたが、僕にはいっさい伝わってこない。けど、自問自答しているのを側で聴いているだけだったが、K氏は何か閃いたようで、一人でまた黙々と作業にもどっていった。

その後、KAIから答えは明かされぬままに

「ファシリテーターがまずやることは?」問いかけがあり、

「みること、質問することからだ」とファシリテーターの姿勢についてレクチャーされた。

「教師はつい、ヒントを出してしまう。ヒントを出しているのは、教えていることと一緒。子どもに『先生、ヒントちょーだい!』と言われると、『あぁ、私、先生している!きかれてすごく嬉しい』という罠にはまっていってしまう」

つまり、考えるはずの問題が、教師からいかにヒントを引き出すのか、思考の主体が「自分から教師へ」とかわっていってしまう。

まぁ、これには「全員が達成できること」という、教師に思い込みがあるからこのスパイラルから抜けられないわけで。

僕はこのカンファランス3原則のおかげで、直接のヒントを出すことはなかったが、「頭の目隠し」をとるための質問をうまく投げかけられなかった実感がのこった。この感覚はけっこう授業でもよくあるものだった。

小手先のツール(カンファランス3原則)をこねくりまわしているだけではダメだ。この教材への見方がなければ、「みる」とはいっても、何をどう、みて、かかわるのか、見えていても知覚できずに情報は素通りしてしまう。ただ、「みよう」「みよう」としても、みてとれないことがよく起こる。それは、みようとする学習対象の専門性に欠けているときによく起こる。

学習者のプロセスをみようとするのなら、学習の対象である教材への分析的な研究がなければ、多くの情報を見過ごしてしまう。だから、教材準備や研究は大事だ。教材への愛は、学習者の学習プロセスをみるために必要な重要なへそなんだと気がついた。

教材への愛は、学習者への愛

そんなLAFTの熱い忘年会を年末にすごした。