2024年 1月 の投稿一覧

「まちがえを歓迎する文化をいかにつくるか?」という問いはそもそもまちがいだった

算数授業をやっていて思うのは「まちがえ大歓迎!」「まちがえるからこそ賢くなる」みたいなキレイゴトを唱えて通用するのは、中学年までだろう。

高学年の子どもたちになれば

「わざわざ間違えるリスクはとりたくない」

「恥ずかしい思いだけは、なんとしてでもさけなければ」

となっていく。これはこれで正常な発達段階。

でも、やっぱりまちがえをしているときが、一番、脳みそをつかっているといった研究結果も示されている(Jo Boaler「Limitless Mind: Learn, Lead, and Live Without Barriers」)。その価値をいくらインストラクションしたところで、実際にわざわざ間違えをさらそうとする子は少ない。

アメリカ実践ではこういう間違えの価値を契約的に扱って、その文化を育てようとするアプローチが多い。でもこれって、なかなか実感と経験が伴わない心理主義的なアプローチであって、通用しづらい。だって、大人の僕でさえも間違えることの価値を知的に知ってはいるが、わざわざその間違えをさらそうとすることはあえてしない。したくない。そういう契約文化も日本には薄い。

じゃ、どうやって、まちがえを歓迎する学級の文化をつくることができるのだろうか。

このあたりのことをずっと課題と感じていただけに、先日LAFT研修で井本さんからの話にヒントとなる言葉がたくさんあった。

「算数ができる子というのは存在しない。解法のプロセスそのものがその子である。結果が正解したとかどうでもいいことであって、教師がこの子どものプロセスを見て取ることがとても大事である」

「(どんな解法であっても)ありのままを認めるということ。すると、子どもは穏やかになる。結果(正答)を求められると、緊張してしまう。プロセスを自分でふめると子どもは穏やかになるし、今ある手持ち(の知識で)でなんとか解決しようする」

まさに、ここだ。まちがえや失敗を推奨する文化には、あっている/まちがっているとかの評価軸を一度脇に置いておいて(KAIもそうだが、この外からの要請に忖度しない所が強い)、その子の考えてきたプロセスを「それおもしろいな」と認め、おもしろがれること。そういう子どもの側に立とうとしているサポーターとしての教師がいることが必要だった。

これって、算数数学だけに限ったことじゃない。

そうなると教科を越えて、どんなときでも関わり方は同じとなるはずだ。しかし、教師だって人間、常になんでも子どもの何かに興味をもてるわけではそうそうない。そのためには考えるに値する教材の準備が必要であるし(それがあって教師自身も興味関心がもてるはずだ)、それがあっての子どもたちの授業への本気の食いつきが生まれてくる。これはお付き合いレベルの授業では決して生まれないことだろう。

この自分なりのプロセスを踏むことは、その子らしさを発揮できていることに他ならない。評価されることを怖れている子は、なかなか自分なりの試行錯誤ができないし、わざわざ、よけいなことをしようとしない。

子どものプロセスをしっかりみること。

それに興味を持って励まし、価値づけること。

かかわるとは、こういうことだったのだ。

「子どもが、自分の考えを出したその瞬間をみつけて、教師がニコっと笑う。子どもは小さく喜ぶ。自分を出しても平気だと安心し、心がほぐれていく。すると、少しずついきいきと穏やかになっていく」

そして、井本実践では、この一対一の安心してまちがえることができる関係から、学習集団の中に共有する場をつくっていく。人は教師から学ぶよりも、子ども同士の群れの中から学ぶことのほうが多く育っていくからだ。

井本実践では、NHKプロフェッショナルにもあったように、だれかの「スーパー誤答例(自信をもって回答した解法)」をプリントアウトして配布する。すると

「なんでちがうの!?あってるじゃない!」

と本気で考え始めていく。

自分のままで考えたことが、他の人を動かすとはこういうことだ。そして、まちがえを承認されたってことでもある。これが、自分のありのままが人の心を動かし、人のありのままに心を動かされる文化となっていく。

こうやって心を動かす授業が練り上げられていく。僕のうすっぺらの「まちがえをベースに授業ができるといいな」という思いは打ち砕かれ、教材を仲介とした、人と人との関わりに還元されていく教育のスケールの大きさを知ったのだった。

「まちがえを歓迎する文化をいかにつくるのか」という問いは、「できる/できないの評価判断を保留して、そのプロセスに興味関心をもてるのか?」という問いこそが、ふさわしい問いだと気付けた。

僕らは子どもたちに、能力的にできることを期待しがちなため、この評価判断を保留することがとても難しい。そのための「子どもに期待する姿」や「考えるに値する教材」、そして「子どものプロセスをみる」ことだったりしながら、できる/できないといった、二分世界からの評価判断を越えていくことができるんだとおもう。

このかわいくないウーパーぬいぐるみは、どういうプロセスでこうなったのか興味がわいてくる

ほおっておいても子どもから自然遊びは生まれない。まずは「強制的」に巻き込むことから

「目の前に自然があるだけでは、子どもたちはその中にはなかなか入っていかない。自然を伝えたり、魅力的なカリキュラムの必要性がある」

先日のLAFT合宿で、KAIがそのためにウィルダネスプログラム(野外プログラム)を導入した経緯を話してくれた。ほおっておいてもなかなか自然遊びは生まれない。そこでアウトワード・バウンド的強制力を発揮したということだった。

どこの子どもたちは同じようだ。

自然あふれる環境にある子どもたちであってもそうなら、都会の子どもたちならなおさらのこと。休み時間ともなれば、教室でトランプしたり、おしゃべりしたり、わざわざ外へ出なくなってくる。

もちろん、それでもいいと思っている。でもどこかちょっぴりさみしい。もっとオモシロいことが外遊びでは生まれることや、遊びから学べることがたくさんあることを知っている僕としては。KAIは課題解決の力を自然の中から学ぶと話してくれたがまさにその通りだと思う。

だから、子どもたちを自然の中に強制的に連れ出すカリキュラム化することに納得してしまう。

僕は、ここ4年間、朝、しぜん広場に行くというだけの「強制」を続けてきた。コロナのこともあって、人とふれ合う機会が失われてしまった。外なら部屋と違って空気感染しないし、いいだろうとおもって、朝遊びを続けてきた。

瓢箪から駒で、結果、しぜん広場から学ぶことの方が実に多いことが知ってしまった。そして、いろんな子どもの姿がみてとれた。

雨上がりこそ、びしゃびしゃになって泥まみれになって遊ぶ子。

となりの家の2階を超える高さまで木登りする子。

卒業制作のトーテムポールを転がし、ペアで玉乗りし始める子。

一年間、池のヤゴをとり続ける子。都会の中でめったにみることないギンヤンマのヤゴを何体みせてもらったことか!

起伏の激しいフィールドでの鬼ごっこを極める子。やってみると分かるが、大人にはなかなかしんどいし、体幹とバランスが試される。

一年間、遊び倒した子たちは、そのおもしろさを親にも伝えたいと、年度最後のまとめの会に「しぜん広場一緒にあそぼう企画」を考え、己の能力の高さを示し、親たちを驚かせしめた。

何をやってもいい時間と場を用意することは、ここまで一人ひとりの個性を上手に引き出してくれる自然のもつ力はすごいと感嘆しかない。その力を十全に発揮するためには、全員で外に行く場が必要だった。

低中学年の子どもたちは、自然の中で自由に遊びはじめる。でもただ連れ出せば、何か始まるかというと、そうでない発達段階の子たちもいることがわかってきた。それが高学年の子どもたちであり、ここ2年間ずっと悩み続けていることのひとつでもある。

これまでの経験にしぜん遊びの文化が少ないと、そもそも率先して遊ぼうとしなかったり、できない子が増えてくる。そこでいくつか、仕掛けを用意することにした。

例えば、「落ちているものを食べる」とか。

この秋には、ずいぶんと自然広場に落ちている果実を食べた。柿、夏みかん、モモ、大抵おちているものは、熟れておいしく食べ頃だ。たいてい子どもたちは、「落ちているものは食べられはしない」と怪訝な顔をして言う。

そして、二分される。「それたべれるの?」「おちてるとかやばくない?」と警戒する子と「なになにそれ?いいにおい」「おれ、食べてみたい」と何も疑わないチャレンジャーだ。先発隊の毒味が終わると「わたしも一口だけなら」と恐る恐る口にし「案外、うまい」と、だんだんその遊びの渦に巻き込まれながら、感染していく様子が見て取れる。

「寒いね、そのへんにおちているもので火起こししよう」

これは、とくにやんちゃな子たちにヒットした。以来、その辺におちているもすべてが火起こし道具に使えないか、常にそんな話題となっていく。どこから拾ってきたのか、ひもを使ったり、木材をみつけてくるのもおもしろい。自然の中にあるものへの解像度が火起こしのために変わっていく。

だいたい一学期間を費やした試行錯誤の火起こしの末、ペアで火起こしするのが一番楽だということが経験的にわかってきた。本当にそのへんにある材料をつかって火起こしをできるスキルを身につける猛者も生まれた。自分が起こした種火を使って、火が起きたときは感動だった。忘れられない出来事でもあり、生きていくための自信にもなったはずだ。

僕は小さくてもいいから、こういう日々、連綿とした帯でしぜん遊びを続けていく必要があると考えている。ときに「だるい」「めんどくさい」という圧力に屈しかけるときもあるが、これも必要な勉強のひとつ、と割り切って、連れて行く。

すると、いつのまにか、その辺にあるもので遊び始める。この秋、6年生にとっての落ち葉の山は一番の遊び道具だった。

自然には力がある。けれども、自然から遊ぶには熟達レベルが求められる。悲しいかな。すぐには遊べないのである。だから、低学年のうちから、豊かな自然遊び経験の量をつんできてほしい。1年間を通して外に出続けていると、ただの外遊びでは経験できないセンス・オブ・ワンダーを自然から感じ取れることがたくさんある。その点、最近の月曜日の朝は、3〜4学級がしぜん広場で遊ぶ混雑ぶりだ笑。それでいいと思う。

さて、いよいよ3学期。しぜん広場で何しようか。はたまた、しぜん広場ではない、自然豊かな場所にこっそりいこうか。はたして、そんなヒマあるのだろうか。画策中である。

自分史上一番地味な一年の計「本を開いておくこと」

一年の計は元旦にありという。さて、具体的な一歩はなんだろうと考えたとき、僕は「本を開いておく」ことに決めた。これはたぶん、自分史上一番地味で小さな一年の計だ。

毎年、大きな抱負を考えてきたけど、いまいちそうならない。『数学者の時間』に至っては、「書く書く詐欺」を続けてきてもう10年が経つ。ここまでくると、詐欺ではなく、いっぱしの芸風だ。まぁ、現場で実践研究していくにはそれほど骨の折れる仕事ということか。

けれども、昨年の後半からだんだん「いいかんじ」になってきたことが増えてきた。それはブログとトレーニングだ。日々、思ったことを忖度無しにブログへ自由に綴ることもできてきた。バスケットを続けるために、毎朝のトレーニングも続いている。

すると、やりたいことが、やりやすくなってくることが増えていることに気がつく。なるほど、日々の自分の生活の質を高めるための継続したメンテナンスが必要だということか。きっとそれを習慣ともいうのだろう。

何かを始めるに当たって、自分の中にその熟達度には段階があることが分かってきた。人の成長には段階があることを、この本を読んで知った。

「『まず言われたことを言われたようにやり、基本を覚えることが大事である』という人もいれば『自分で考え自分に合ったものを選ぶことが大事である』という人もいる。また『量が大事だ』『質が大事だ』や、『考えろ』『考えるな、感じろ』というものもある。今ならわかるが、これらは段階が違うだけなのだ。」

為末大『熟達論』より

新年に、いきなり大きな野望をたてても、それは届かなかったのは、大きく跳ぶための準備・段階ができていなかったから。

そこで慎重に慎重を期して一番、小さな習慣とは何かを考えてみたら「本をひらいておく」ことだった。

決してカッコいいとは言えないけれど、昨年度、なかなか読むことが増えずにいたため、研究も進まなかった(これはシステムの問題で働き方とかいろんな係数が関係しているが、いきなりそこに手は入れられないのでこのシステム問題は保留にしつつも検討し続ける)。これで、自分の中に「読む」「書く」「動く」のステータスを身につけることができるはずだ。

情報収集的に速読すれば年間100冊は軽い。けど、そういう読み方は本のスクリーニングする程度では、ほとんど何も残らない。今、手元にある本はじっくりと考えながら読みたい本ばかり。ちゃんと読んで考える大人になりたい。そのときグラスを片手に、カランとウィスキーでもロックですすれば絵としては最高だ。

元来のめんどくさがりや。読みたいことは読むけど、めんどくさいことはやりたくない。本を開くのだって、めんどくさい。なら、徹底して、本を開いてそこら中に置いておいておけばいいのでは。

エウレカ!である。今、これの記事は風呂に入りながら書いているが、このまま風呂から出て町内を駆け回りたい気分だ。

ということで、まずは服を着てから、「ただ、本を開いておくだけ」実験をはじめる。乞うご期待。

KAIから元旦に最高の写真をもらった。本来みるはずだっただろう金時山からの富士山