カンファランスしやすい子とカンファランスしづらい子

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週に1回ずつ続けてきた「一面展開図」も、いよいよゴールがみえてきました。子どもたちの中に作品を完成させた子がちらほらと出てきました。

ずらりと作品が並ぶにつれて、一人一人の作品の試行錯誤してきた物語には面白いものがあります。それと同じく、その作品の「出来」については、やはり様々あります。

もちろん僕は、この作品の「出来」は様々でいいと思っていますし、同じように整える必要もないと思っています。でも気になっていることがあります。

それは、この「出来」を左右するのに、カンファランスしやすい子とカンファランスしづらい子がいること。言いかえると「教師との協働を積極的な子」と「教師との協働に消極的な子」というのでしょうか。僕の中には、学ぶことは教師と子どもの協働作業と認識しているところが多分にあります。

僕は毎週の数学者の時間のエントリーでは、それぞれの取り組みが様々であるため、ミニ・レッスンが終わりそれぞれの活動に移ったときに、ぐるりと教室を一周して子どもたちそれぞれが何に取り組んでいるのか全体を軽くカンファランスします。

たいてい「教師との協働に積極的な子」は自分から話しかけてきてくれます。相談を持ちかけてくれます。だから、こちらも個別に相談にのることで作品をより良いものにしていけるアイディアを話し合えます。

一方で「教師との協働に消極的な子」は、それはそれで楽しそうに取り組んでいます。ゆるく友だちと談話しながら教師の手を借りずに「自分で」やろうとしています。僕は、こういう子はそれでいいと思っています。自分でやりたいので、僕からの介入は極力抑えつつ、でも「今日はこの子と少し話そう」と事前にカンファランスをする子を決めて、ある程度の平等性を持って関わっています。

僕がカンファランスしづらいなと思う子は、上記のような子ではありません。それよりももっと、サクサク自分で進め、あっさりと自分の限界を決めてしまう子です。そのため、作品もサクッと仕上がり、あっさりしたものになります。僕も話を聞きながら、いくつかアイディアを提案してみるのだけれど、あまり興味を示してもらえない。決して関係がわるいわけでもありません。

僕の中には作品作りの基準はもちろんあって、そこに「教師がつれて行く」ことはできるけれども、もうそういうことにはちょっと距離を置いてしまっています。以前の僕なら、カリスマ性!?を発揮して、ぐいぐい引っ張ることもありました。それはその子の経験にはなっても、その子の学びが駆動するってこととはちょっとあてはまらないように思うからです。

これまでみてきたカンファランスしづらい子の特徴には、自分への期待値を高くもてない傾向がある気がします。学びに対してくじかれるような経験をつんできてしまってきている。だからこそ、教師に対しても同じように期待をもてなくなっているのでは。同じように、自分自身にだってそうなのかもしれません。

学習をパフォーマンス課題で測ることは、そもそもよくないのではないか。その子の可能性って作品だけには現れないのかもしれないなと、思えるようになってきました。

じゃ、何でその子の成長をみとるのか。

人をみる、評価するって、もっとまるっとプロセス込みの全体的なものかもしれません。その作品だけでその子を理解することはできないってことが理解できたということです。だから、個人の能力の部分に特化した個別最適化は難しいんです。

僕との協働に興味がない子でも、まぁ、数学アート作品づくりには興味を持って楽しんで取り組んでくれているのがせめてもの救いです。

写真は、僕によく相談しにきてくれた子の作品。最初はドーナツの輪が小さすぎて、内側の壁を作れませんでした。輪を大きくすれば、その壁を作れるのでは!と、見事ドーナツを完成させていました。結果は、ドーナツ輪投げになりましたが。
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