学級づくり

制服って本当にいるのかな?

10月の早朝はもう肌寒くなり、フリースを羽織ってトレーニングに通っている。子どもたちの制服も夏服から冬服へ衣替えがはじまった。みなれなかった紺色の制服が新鮮にうつる。

ところで、制服ってなぜあるのだろう。

公立学校で勤務しているときは、みんなそれぞれ「いつもの」服をきていた。別に気にもならなかったし、それが自然なことだと思っていた。学年があがるにつれておしゃれしてくる感じもまたかわいかった。

今の学校で勤務するようになって、最初、制服がまぶしく見えた。どうも制服を着ている子どもたちは、不思議とおりこうさんに見える。これはおもしろい効果だとおもう。

実際はかなりやんちゃで、ランドセルに入っているのは弁当箱と池ポチャ用の着替えと体操着ぐらいなのに。落ち着いた清楚な子どもとはほど遠いひざっこぞうをすりむいている昭和のにおいもする。

制服効果なるものがあるようだ。海外からの教育視察団は日本の何をもってかえるのかというと、制服だそうだ。制服は集団を統治するのに効果的だとか。なるほど、中高になるとそういうみえない意図があるのかもしれない。

一方で、制服は貧富を隠してもくれる。毎日同じ服をきていても誰からの何も言われない。ひとつ役にも立っている。

しかしだ。男子は半ズボン、女子はスカートというのはなんとも時代錯誤だと思う。最近では、卒業生たちの中でもスカートではなくパンツをはいている子もいる。男子だとか、女子だとかで着るべき服を着て異する必要はないはずだ。

気になって中高の先生に尋ねてみたことがある。ジェンダーの問題からかと思いきや、理由は動きやすいからだそうだ。僕は機能性の問題だけでも選択できるのはいいと思った。

実際に、本校の幼稚園でも制服をやめた。それは、「着替えの時間がもったいないから」だ。この理由とてもいい。とくに幼児にとってどんな時間を優先するのか、よく考えたい。生活練習をするよりも、たっぷりと遊びの時間をすごさせてあげたい。そんな願いが伝わってくる。

今日の運動会練習の後「イガせん、なんでこの紅白帽子って赤と白なのさ」と文句をいってきた子がいた。たしかに、べつにどんな色でもよさそうだ。運動会の紅白対抗をさわやかな緑と青にしたっていい。

すきな服を着て、おしゃれをしたい人はするし、気にしない人は制服きたっていい。そんなゆるやかな感じでいいんじゃないかな。

今日は七頭舞の衣装でゆかたとはかまを着付け。和装で登下校したっていいかもね。

映画「福田村事件」は今、実際に起こっている事件だ

森達也監督の「福田村事件」を観てきた。

これまでドキュメンタリー映画しか撮らなかった森達也がはじめてエンタメとしてタブー群像劇を撮ったとのこと。森達也といえばオウム真理教のその後を描いた「A」が印象的だったため、ぜひ観に行きたかった。

話はこうだ。

“1923年関東大震災が発生した9月6日のこと。千葉県今の野田市にあたる福田村に住む自警団を含む100人以上の村人たちにより、香川から訪れた薬売りの行商団15人の内、幼児や妊婦を含む9人が殺された。行商団は、朝鮮人と疑われ殺害された。行き交う情報に惑わされ生存への不安や恐怖に煽られたとき、集団心理は加速し、群衆は暴走する。”

「福田村事件」HP参照

「朝鮮人が村に火を付けた」「朝鮮人が井戸に毒をいれた」などの震災後のデマ、流言によって6000人が虐殺された。

このことは9月1日前後の新聞では毎日のように、取り上げられていた。教室でも校長による週1回のトピックスと呼ばれる授業においても取り上げられ、子どもたちと考え合っていたほどだ。

しかしだ。

8月30日の内閣方法室では、記者団からの質問

「関東大震災時に多くのデマが広がり、警察、自警団によって朝鮮人が虐殺されたと伝えられている。政府としてどう受け止めているか」

の質問に松野内閣官房長官は「 政府内において事実関係の記録が見当たらない」と述べていた。

「これは観に行かなければならない」と思った。

記録が見当たらない(実際に福田村事件についての資料は特に少ない)からこそ、語り次がれていく必要がある。生き残った香川の行商人たちは部落差別出身のため、口をつぐんでしまった経緯もあったようだ。今は、千葉県にその子孫が慰霊として訪れている。

いつ暴走するのか。ハラハラして観ていた。そこまでの人間模様は冗長のようであったが、狂気に走る人々は実は普通の村民だということを描く必要があった。

僕はあの緊迫した場面に唯一いなかったのが「声を挙げられる人」、つまりリーダーだと感じた。リーダーは「言いにくかったこといえる」人であり、一目おかれる存在だ。民主的な村運営を村長は願ってはいたが、世襲村長彼のその声は集団には響かなかった。

はたして1人であっても声を挙げられるのか。私たち日本人は特に賛同してくれる人がいなければ、声を挙げようとしない傾向が特に強い。普段ものごとをはっきり言えない主人公の澤田が止めようとしたが既に遅かった。

「朝鮮人なら殺してもいいのか!?」朝鮮人への差別に加え、まだ残り続ける部落差別意識や「行かなきゃ村八分になるど」の村意識。新聞による社会統制、そして、それら差別からくる罪悪感と報復への恐怖と労働問題、軍国主義の高まりの時代背景など、さまざまな層が折り重なって起こるべくして起きてしまった事件だと理解できるように撮られている。

そして、そこにいた人達はみな、ふつうの人々だった。特に加害側に力点が置かれて物語は描かれていた。この善良な人が不安や緊張が高まる中、環境によっていつでも悪人に豹変してしまう事実。この描き方が森達也の真骨頂だ。

差別意識は気付かないところに誰にでもあるものだ。ただ「差別はいけないと教わっているから差別をしない」ままでは、いざ「差別をするのがあたりまえや得するとなった集団や社会」では、普通に差別が起こるのではないだろうか。学校のいじめも同じ構造だ。

差別撤廃、差別を禁じているだけではダメなのだ。無知から差別は生まれる。自分の内面にある偏見を見つめ、差別はもっと根っこの部分で理屈を越えるもの、怒りや義憤の感情を伴わなければならない。

福田村事件は私たちの生活の中、職場の中にも当たり前のように起こりかねないし、実際に規模は違えど同じような問題は世界でも起きている。

僕は若い頃、カンボジアのキリングフィールド、アウシュヴィッツ収容所に行ったことがある。そこから何を感じ、学んだのか。しばらく忘れていた感情を思い出させてくれた。

歴史から目を背けない。今だからこそ、もっと受けとめるべき事ががあると映画だったと思う。

僕の好きな往年の柄本さんやピエール瀧などシブい役者が脇をしっかり固めている。水道橋博士の自警団長役は見事だった。ぜひ、秋の映画ライフにおすすめしたい。観てきたら語り合いたい。

数学的思考は特殊化からはじまる 

数学的思考の核となる考えに「特殊化」と「一般化」がある。子どもたちとは「ためす」と「たしかめる」という言葉をあてている。

「特殊化」とは、具体的な一例として手軽にできることから試してみることだ。「一般化」とはそこに共通するパターンを見抜いて、他の例においても運用できるきまりをみつけることである。

この二つの取り組みを相互に駆動させることで、問題を解決させることにとどまらず、その問題がもっている数学的な特徴を明らかにしていくことができる。

ここでいる数学的思考の特殊化と一般化は、帰納と演繹に似たものとなるだろう。著者はこの言葉をあえて使っていない。なぜなら帰納と演繹は思考の型であり品目である。しかし、数学的思考は型では収まらず、その取り組みのプロセス自体に価値があるからである。

これは登山をすることに似ている。いくらキレイな写真を眺めてみてもキレイなことしかわからない。実際にのぼって経験してみないとその感動を味わえないのと一緒である。まったく臨場感がちがうのであるから、学ぶことは全くことなるはずである。

こういったことは具体的な問題例を経験しないとただの抽象的なキレイな話で終わってしまう。ぜひ、この問題をやってみてほしい。この問題はとくに特殊化、自分でやっていること、系統的にやってみることで、パターンがひらめていくるよい問題だ。特殊化を実感するにもってこいである。

『教科書では学べない数学的思考』P.7 手軽に特殊化を体験できる良問

特殊化の特徴を自分なりにまとめてみた。

①特殊化とはためしてみること

いくつかのケースを実際にためしてみること。例えば、数字や記号を使ってみる、表にしてみる、実物の紙を使ってやってみるなど、わかりやすいものを使って問題を探ることだ。

②特殊化は、問題を身近に感じさせてくれる

一体、何を求めるとよいのか分からないときでさえも、特殊化を繰り返すことで、何を求めているのかその感覚をつかめてくる。特殊化を繰り返すことで、「もしかしたら、こうしたらできそうかも?」と問題との距離をつめることができる。まずは無作為にやってみることからはじめることだ。子どもたちはこれを「とりやる作戦(とりあえずやってみる作戦)」と呼んでいる。

③特殊化は自信をもたせてくれる

最初の問題との出会いでは解けそうもなさそうと不安になる。このやり方が正解へ導いてくれるか不安になる。いくつか試すことで、自分にとって答えとは何かを知り、その解法の正しさの感触をえることができる。このわかりにくいものへ、自信を持って取り組めるようにしてくれるものが特殊化なのである。

④系統立てた特殊化はパターンを予想してくれる

系統的な特殊化を続けることで、根拠のある予想がたちあがってくる瞬間が生まれる。順序立ててためしてみることで「もしかしたら次はこうくるのかも?」と一般化への予想が立つこととなる。試してみた全ての特殊化したケースは、共通するパターンを見いだすことを可能としてくれる材料である。ふと「あぁ!」と気付く瞬間が訪れるものである。この数学的興奮はやみつきになる。

また一般化されたパターンについて、本当にすべてのパターンにもあてはまるのか検証したくなる予想も生んでくれる。それを試すのがまた特殊化である。

⑤特殊化はたんなる一例でしかない

しかし、特殊化だけでは問題の解決にはならないこともある。それぞれの特殊化に共通するパターンをみつけたとしても、実はその事例でのみしかあてはまらないかもしれない。帰納的にもとめたパターンは真とは証明されないからである。もっと他のケースで試してみるしかない。しかしこれは、解決のきっかけにはなる。

⑥特殊化は行き詰まりを解決してくれる。

躓いたり、行き詰まったときにこそ、小さく具体的に特殊化して試してみることが必要である。そのための具体的な方法は以下の3つだ。

・「無作為」にやってみる。

・パターンを見抜くために系統的に順序よく確かめてみる。

・パターンが見えてきたら、他のケースにも当てはまるのか巧みにためしてみる。

僕はこの特殊化は誰にとっても使いやすい一番のツールだと考えている。問題で行き詰まったときには、とりあえず何かできそうなことからやってみる。そこから問題の感触をつかみ、解決の糸口をみつけていく。さらに、その糸口が本当に正しかったのかを巧妙に特殊化することで確かめていく。

これはポリア『いかにして問題を解くか』が主張する「計画段階の準備こそ問題解決」とは一線を画すものであり、計画段階はあくまでも取り組みの入り口にしかならないことが慧眼である。あたりまえである。計画段階ですべて見通しが持てないから問題なのである。

こういった思考法は意外にも授業の中で推奨されることはあまりない。それもそうだ。教室ではできるだけ無駄なく寄り道しないで理解してほしいからだ。しかし、数学的に考えるとはその対極にある。ムダと思われることを繰り返し、寄り道から出来そうな感覚をみつけていくのである。前者はタイパはよいがそこには思考はない。

この特殊化に子どもたちと名前をつけるといい。僕は「ためす」としている。名前をつけることでしか、そのプロセスを意識できないからである。子どもたちがノートに何気なく自分の考えをかいて取り組んでいるそのプロセスのことに名前をつけることは重要である。

「ためす(特殊化)」ことは算数・数学が苦手な人にとっての救いのツールになる具体的な一歩と思った。

「行き詰まり」は数学的思考の向上には欠かせない

今期のLAFT算数・数学では『教科書では学べない数学的思考』をブッククラブしている。

僕はこの本でブッククラブするのはたぶん4回目となるが、繰り返し読み返すことで少しずつ自分の中に数学的思考への理解が深まっている実感がわいている。

一度、読んだだけではわからない程度の読解力のため、繰り返し仲間と読み合うことで少しずつその全容がみえてくる感覚がつかめてきた。

ここにも、いくつかブッククラブ用のメモから考えたことをまとめてみる。興味があったらぜひこの本を手にとって読んでほしい。こういう本はきっかけがないとなかなか手に取れない本かもしれないから。

「数学者の時間」で大事にしたいことは、「誰もが数学的に考えることができる」ということ。そしてこの本の1章にこそ、人はだれもが数学的に考えることができる手順が示されている。その中でも、大切な要素が挙げられる。

最も重要で、覚えて置くべき教訓は「行き詰まり」は大切な状態であり、思考を向上するうえにおいて欠かせない過程であるということです。

『教科書では学べない数学的思考』Pⅱ

これがおもしろい。算数・数学はできることを目指しているはずにもかかわらず「行き詰まり」、スタックすることこそが重要だということ。脳科学的にもできないほうが脳への刺激が豊かだと何かの本でも読んだ記憶もあるが、できないことに焦点を向けることはもっとポジティブにとらえられるといい。そんな算数・数学になるとほんといい。

「わからない〜!」「できない〜!」という経験は誰にでもあることだ。これらの経験から、いかに気づきや数学的思考に変えていくかがこの本に見事示されている。

なぜ、行き詰まりが大切なのか。

それはよく考えるからだ。すぐに答えが得られる問題よりも、なかなか答えが得られないものの方から人は多くを学べるもの。これは人生もしかり。

「うーん」とうねったままになっても「これは学べるチャンスだ」と学習者が捉えている限り、「うーん」と考えることはよいことでしかない。このあたりは、教師にとっても必要な算数・数学観のパラダイム転換だ。

悩み悩んだ問題解決のプロセスはノートに記録される。そのノートを読み返すと、最初の試みが教科書に書いてあるような解法になる事は滅多にない。

人は回り道からよく学ぶ。

その回り道を学びにいかに昇華するのか。そのための数学的思考はつかえるのではないだろうか。

本書P.3 やってみると、驚きの結果が!? その結果からどうして?と確かめたくなる問題

白組応援団長の3人を応援したい

怒濤の1週間がおわった。今週は学級閉鎖もあり、そのツケがまわって応援団や学年競技など、いろんなことが一気に押し寄せてきた。けれども大きな充実感もある。

それは、子どもの思いをとことん受け止められたこと。うちの学校のいいところに「子どものやりたいを大事にする」ところがある。

今日は、5年生をふくめて応援団長を決めた。「イガせん、5年生もいれて投票したら同数なんだけど、どうしたらいい? もう一回やったほうがいいのかな」というので、「いいんじゃない。やりたいって言う人にやってもらうのが一番だよ」ということで、応援団長がなんと3人になってしまった。これは僕の経験でも初めてのこと。

センター団長、右団長と左団長。さらにその脇を固めるのが二人の副団長。5人そろって応援団役員!とお!

僕はこういうことができる文化が、うちの学校の良さだと思っている。団長は一人って決めなければならないとか、応援団は4人までとかこれまで経験したこともあった。そのたびに、子どもたちにはツライ思いをさせてきてしまった後悔もある。

なによりも、子どもたちの「やりたい」を大事にしたい。子どもの声をきこうとすることからはじめられるといい。

正直、応援団長が3人いたら「それどうなの?」「うまくいくの?」って声があがりそうだ。でも、それでいいと思っている。実際に3人は「私はこれやるから、こっちやって」といいかんじにうまくやれているみたいだから、なおさらいい。なにごとも試してみることだ。

みんなやりたいことをやるのが1番だ。「やってみたい」とか「挑戦してみたい」とか「あんな風になりたい」とか、その思いがあるならば、それを全力で叶えられるように環境をつくるのは、本来、大人の役割だ。そのための教育活動のはずだ。それは将来のためではなく、いまここで経験を積み重ねることからはじめられるといい。

無理に挫折を味わわせたり、規定されたルールの中で生きていくことを課すのであれば、そこで学ぶこともあるかもしれない。けど、傷を残すことはさけられない。そんな辛い思いよりも、やりたい応援団長やって上手くいかない経験をして、どうすればうまくいくのか思い悩んだ方がいい。

うちの学校は「なんで団長が3人もいるんですか? 一人にしぼってください」なんていわれる学校ではないと信頼している。「ああいうの、面白かったねー」と言ってくれそうな学校だとそう思っている。そしてそういう学校であり続けたいと願ってもいる。

人はやりたいことは一生懸命やれるもの。でも、そのやりたいこを見つけることは本当にむずかしい。それをすでにもっている子には応援したい。僕は応援団長こそ応援したいと思う。

この指とまれ方式で子どもがやりたいクラブ活動を

僕が今の学校に赴任してから毎年、これいいなと思っていることがある。それは、団活動。いわゆる「クラブ活動」のことで、このつくり方がとても魅力的だ。

一般的にクラブ活動はどのクラブをもちたいか「先生の」希望やその特徴で決まっていた。すでにどんなクラブがあるのかはすでに決まっている。一応、昨年度に子どもたちから入りたいクラブアンケートをとってその傾向をつかんでいるのはいいほうだった。

しかし、団活動はちがう。「子どもの」希望できまるこの指止まれ方式だ。つくりたいクラブを自分で声を挙げて、その魅力をうったえる。

「1年生から6年生までの民舞をおどれるようになりませんか? ぜひ民舞団にはいってください」

「競技かるたって知っていますか。1000年以上の歴史があって〜」

どの紹介も、自分たちがやりたい思いが困っているから熱がこもる。

タグラグビー団は「情熱」と書かれたカードをかかげ、「ファミリーになりましょう!」と呼びかけていた。

「パティシエ団では、和菓子も作れますか?」

という質問があり、それにその場で回答しなければならない。

今日、行われたのは後期の呼びかけ集会。新しくつくりたい団活動を紹介する会だ。前期は6年生が見本をみせるが、後期は5年生も団活動に声を挙げられる。体育館にあつまった子どもたちの約半数が、新しく作りたい団の呼びかけるため、待機しているさまは圧巻だった。

もちろん、呼びかけたからといって全てが成立するわけではない。5年、6年がある程度の人数がそろわないと団は成立しない。成立した団のポスターにはお花紙が飾られる。それをみる子どもたちは一喜一憂している。成立しなかった団の呼びかけ人は何を感じ、何を学ぶのか。

子どもたちの主体性を〜、子どもから声を〜とよく聞くが、本当にその声を聞こうとするなら、とことんやるといい。その仕組みと文化が今の学校にはある。子どもたちは民主主義のよい練習ををしているなと思う。

クラスに帰ったら、くりくり坊主の少年が「和菓子がくいてぇ」とパティシエ団を第一希望に書き直しているのをみて、こういうのいいなとおもってしまった。それってパティシエ団あらため、和菓子職人団じゃん。

アンラーンに必須の認知4点セット

僕には相手の話をすぐに評価判断してしまうクセがあった(①意見)。

あったというのは過去形で今ではだいぶそれがアンラーンできている。これは嬉しいことだ。熊平さんから直接、教わったことが今、生きている。

特に、教育実践の話を聞いているときに「よい実践」と「自分にあわない/残念な実践」とピピンと嗅ぎ分けてしまっていた。自分の教育観と異なる実践話には、瞬時の評価判断が入ってしまい、パタンと耳にも心にもフタをしてしまう。

そのため、自分の中に新しい気づきや相手との間に創造的なアイディアが生み出しにくくなってしまっていた。これはゆゆしき問題だであり、教師マルトリートメントみたいなものだ。きっと周りを嫌な思いもさせてきたはず。伝えないまでも創造的な関係になるチャンスもたくさん逃してきてしまった。

「人はだれからでも学べる」とは頭では分かっているが、実際にできていなかった。これは切実にアンラーンしたい。

そこで、この評価判断クソヤロウをアンラーンするために、最初の一歩はメタ認知からはじめた。自分の中にある「②経験」「③感情」「④価値観」を見つめ直すことからだった。

②経験とは?

長く教員をしていると自分の成功体験から、ついアドバイスしてしまうがちだった。説得もしていた。だがその人の実践の場、つまり子どもたちの実態を把握せずに聞いていることが多く、自分の文脈に置き換えて聞いてしまっていることが多かった。

③感情とは?

この経験と結びついている感情には「教えてあげなければ!」とか「それは違うよ」という親心からきているものがありそうだ。そして、自分は相手よりも分かっている、知っているという優れているといった感覚をもってしまう。結果、相手との協働を阻害してしまっている。

こういった感情は、自覚する前に出てしまうこともあるし、でてこないことも多くあるため、こうやってふりかえっていかないと、なかなか感知しづらいものだった。

④価値観は?

この経験や感情から見えてくる僕が大切にしている価値観は「教師は、優れた実践から学ぶ必要がある」と考えていることだった。人はどんな実践からも学ぶことはできるはずなのに。

その時代や環境、子どもの実態、保護者の様子、自分の状態などいろいろな要素が絡まり合って教育が執り行われていく。一つでもそれが異なれば、教育の様態はすべて異なるはずだ。結局は完璧な教育存在しないはずなのにエラソウだった。

この価値観が相手との対話を邪魔していたんだと、気がつくことができた。自分の成功体験や価値観をアンラーンできないと、新しいフェーズには入れないことを知る。

ここまで自分を棚卸しできれば、アンラーンの半分が進んできたはず。つぎのステップは、実際にアンラーンするための対策へ。続きは次回。今日はここまで。

相手と同じところをみようとすること

朝トレはじめたら初日でメンタル無敵になった話

朝方がだいぶ涼しくなってきた。布団の足下に愛猫が入り込んでくる。あったかい湯たんぽみたい。さっと布団をかけてあげて僕はそのまま身支度をして、家の外にでた。6時前のこと。

今朝はトレーニングに出かけてみた。

昨日、同僚と校庭の整備をしているときに「伊垣さんはトレーニングを週に何回ぐらいしているの?」ときかれた。今年は6年担任のせいか、特に仕事をうまくまわせずになかなか早く帰れないでいる。そのためトレーニングできないこと自体がしんどかった。

この歳でバスケを続けるためには、日々の体幹トレーニングとランニングは欠かせない。これまでは、週に2〜3回は筋トレできてたし、バスケも週に2回はできていた。それが今年はかなわない。

夜になるとその時間をつくりづらくなってしまうので、朝に変えてみようと思った。そして朝トレをはじめることにした。

僕は何かを続けると決めたら、比較的継続した習慣をつくるのが上手な方だと思う。そのコツは1つだけ、それは「無理をしない」こと。

最近、毎日の出来事を書くようになって、そろそろ1ヵ月になる。これまでしっかり書こうとして書き切れずにおわってしまっていたことが多かったので、800字ぐらいで気軽に書こうと思ってはじめてみた。気軽さが一番の継続のもと。

習慣になってくると、自然と書きたいことにアンテナが立ってくる。続けてきたことが、今日も継続するためにどう動いたらいいのかっていうマインドセットになっているので、後はほっといても継続できていることが多い。

僕はトレーニングをやるときには比較的しっかりやってしまう方だ。だからハードルが高くなっている。これを無理しないで、1回45分間ときめて、種目を減らしてセット数を増やしてしっかり追い込む。それを週に数多く通ったほうがいいのではないか。バスケの休息日をいれて週に6回毎日通ってみたい。

今の生活リズムなら、朝の時間なら無理しないで続けていくことが可能だと思う。新しい習慣を1つ手に入れたと思うと、なんだかワクワクして楽しみである。今朝も少年のように勝手に早起きしてしまった。

そして、朝の方がトレーニングルームは空いていて気持ちが良かった。身体も頭もまだ寝ているから丁寧にウォーミングアップをしないと、怪我してしまう。いつもよりじっくり丁寧にアップを入れていく必要がある。どこのエリアも空いているので気兼ねなく取り組めて、気持ちがいい。

習慣づくりの面白いところは常に工夫ができるところだ。

「どうすれば面白くなるのか」

「どうすれば負荷なく続けられるのか」

「どうすれば朝のメラトニンをふやし、ノルアドレナリンをおさえることができるのか」

「どうしたら続けることで意味のあることができるのか」

この辺はとても面白いと思うので自分とむきあっていきたい。

ということでメンタルだけ無敵です笑。そして、ここに継続していくことを誓います。その結果、バスケパリ五輪に行くことを誓います(観客も含む)。

みなさんはどんな習慣づくりしたいですか?


けんじもトレーニングで日々努力している人。
こないだ彼が着ていたTシャツ、算数テキストの昭和テイストなタッチと同じで笑えた。

芝生の上から狂言と能

仕事終わりに、狂言と能の能楽「森の薪能」を堪能してきた。

会場は、秋を感じさせる新宿御苑の夜。心地よい風と涼しさと鈴虫の音。能楽には珍しい屋外講演だった。いよいよかがり火がたかれ、能の舞台が整った。

僕は日本古来700年続く身体表現に興味がある。野村萬斎の登場はやはり、すり足からだった。すり足とは、地面から出てくる悪魔を払い、清める所作。

狂言は、かけ合いの対話が説明調でわかりやすい。庶民の僕でも十分楽しめるものだ。演目は「茸(くさびら)」。山伏が、神通力で祈れば祈るほど、とってもとってもはえてくる茸に翻弄される滑稽話。昔の人はこうやって、立派で地位のある人達をおかしみにかえてしまう。

野村萬斎口調で「おびただしいくさびらだ!」「ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」とくるくるしながら逃げていく様は滑稽そのもの。あの口調はついついマネっこしたくなる。

だいたい狂言の次には能がくる。「いよーぉー」「ほっ!はっ!」ぴーひゃららら♪のあれである。演目は「一角仙人」だ。シンプルな空間に上半身がまったくぶれない腰の据わった舞。降り立つ龍神。

しかしだ。まったく意味がわからない。目をこらし、耳を澄ませてみようとも、解説なしには全く理解できない。能は今回がはじめてじゃないけれど、毎回、昔の人に思いをはせておわってしまう。昔の人は一体これをどうやって楽しんでいたのだろうか。庶民の僕にはわかrなあい。わからないから、また観に行こうと思う。

文化的な生活にはまだ及ばないが、たまにはこういう秋夜の過ごし方もいい。

でもアマプラやNetflixもすきよ。

評価されない時間があったっていいんじゃない?

僕は学校の中に、子どもたちがなんら評価されない時間があったっていいと考えているし、そういう時間を大切にしたいと思っている。

どの教科においても、常に評価にさらされたり、できる/できないを要求される場ってどうなんだろう。きっと息を抜けないんじゃないかな。とくに勉強が苦手な子や嫌いな子にとっては。

そのうち文科省は、休み時間も評価の対象にしてしまうのではないだろうか。「ナオト君は勝手な一人遊びが多いので、集団あそびができません。評価1。留年決定」みたいな。おおこわ。

授業の中で、できる/できないを求められない授業ってなんだろうと思うと、今できている時間はやっぱり数学者の時間だと思う。

数学者の時間で、良問(答えが一つではなかったり、考え方が多様であったり、自分の力量よりもちょっと難しい問題など)を解いている時間だけは、評価から解放されている時間になっていると思う。

もちろん、数学者の時間であってもパフォーマンス課題(各自がつくった問題や算数ものづくりなど)があったりするが、自分の頭で考えてみること、それを楽しもうとする時間こそ、大切にできるといいなと思っているから、わかった/わからない、できた/できないを要求することはないなぁと、ふりかえってみて思う。

問題をとけるともちろんうれしいが、とけなくたって、考えることをぜんぜん楽しめている様子だ。この問題はできないといけない、わからないといけない、といったプレッシャーにさらされることがないため、子どもたちは算数の評価に踊らされていないから、楽しめているのかもしれない。

もっといえば、問題にとけないでスタックしている様子やできない姿をみて「ふふふ。しめしめ」と伝えているぐらいの僕は悪い先生だ。でも子どもたちもそれを喜んでいるようだし、決して教わりたいと思っていないようで自分で考えたいとのこと。

ただ、そこには問題をネタのように解いているわけではなく、問題解決のサイクル(数学的思考)がはたらいていることが大切だ。このあたりは、今じっくりと原稿にしているので、機会があったらそれを読んでもらえるとうれしい。

この問題解決のサイクルを子どもたちはどうつかっているかは、気になるところで、子どもたちにはもっと思考のあしあとを残してほしいと思っている。このあたりはまだまだ課題が多いが、続けていけば解決される問題だと思う。

そして何よりも、数学者の時間は「ワークショップ授業」ということ。ここあたりを理解できないと、数学者の時間もただのコンテンツやネタの提供となってしまい、ひとつの教科の枠をこえた学びとなっていかない。

数学することを通して、ワークショップ授業で、どうやって人と学び合い、弱さも含みこんで一緒にいきていく集団、コミュニティをつくっていくのか。このあたりは継続してLAFTで追求し、言葉にしていきたい。

学校はもっと居心地のいい場所にしていけるようになるといいなぁ。