探究自学ノート「質問づくり」から知りたいことを

はっぱって、どうしてきせつごとにかわるんだろう? よそう。もしかして、おこりっぽくなったり、なきむしになったりしているのかな〜?

どうしてはっぱって、しゅるいによってかたちがちがうのかな? よそう。なかまがどれか、わかるように?”

子どもたちの質問に予想を書くことで、その問いがどこからくるのか、その子の中にある物語やアニミズムの世界に、少し触れることができた気がしました。

教室で探究自学ノートづくりを進めています。「知っていること」をクモの巣マップで出し合ったので、今度は「知りたいこと」に向けて質問づくりをしました。以下の本を参考に。

この手順で進めていくと、すぐに答えの出るクローズな問いとすぐに答えはだせない・もしくはないかもしれないオープンな問いとの仕分けが出てきます。けど、その問いの仕分けって2年生にはちょっとまだ早すぎると考えました。子どもたちは純粋に、オープンだろうが、クローズだろうが、どっちも知りたい。クローズな問いを見つけるる経験が積み重なっていく打ちに、「こんな問いはツマラン」と気付いて少しずつ、「答えのない問い」へ魅了されていけばいいんじゃないかなぁと思います。

ここで僕がこだわったのは、本にはないけれども「予想」を書き出すこと。見方を変えれば、数学的思考ではこれは決定的に重要なこと。そもそも予想は言葉で捕まえられれば、もう大収穫!この辺りはまたじっくりと「数学者の時間」で語りたい。子どもたちの予想は、きっとこの後の答えを見つけた、見つけられなかったとき、そのギャップに自分の考えに当たりをつけていくように、自己修正する練習にもなりそうです。

子どもたちの様子をみていると、質問を見開き2ページを目安に書き始めました。2つの子もいますし、12個書き出せる子もいます。今は個々での取り組みなので(グループワークで質問出し合ったりはしていません)、差があってもいいと思っていました。それでも、やってみると「質問の数ではないな」と思い直せました。

少ない問いにも、なにかキラリと光るようないいものがあります。いい問いってなんなんでしょうね? 僕は子どもらしい、その子の知りたいことが素直にでてくるものなら、なんでもいいなと思うのです。知りたい対象に働きかけがありそうな問い、調べてみたら驚くようなことが待っているかもしれない。どれも小さな冒険であり、探究の入り口。知りたいことがあるってわくわくすること。

いくつか質問をつくってみて、クラス全体で共有してみました。すると問いのキーワードが浮かび上がってきました。「どうして」「なぜ」「名前のゆらいは」「色」「かず」「たべもの」「すみか」など、問い作りのパーツが集まりました。こういったことを整理して、教室に掲示しておくと、また次のテーマで質問づくりをしたとき、もっと多様な視点での問いづくりが練習できそうです。こういう気づきがうまれるのは、低学年の担任のよさでもありますね。

探究自学ノートでは、こちらから「学習のネタ」を用意することはやめることにしました。いろんなテーマは考えてはいたのですが。そのかわりといってはなんですが、その子の興味関心のあることで勝負をしようと決めました。その子の視点や興味をおもしろがったり、一緒に考え、なにか作ったりおもしろそうなこと、やれそうなことを提案していける、そんな個別カンファランスに舵をきっていこうと思います。

人が学ぶとき、楽しいときって「与えられた何か」ではなく「自分だけのもの」を見つけたり、夢中になっているときなんじゃないかな。「そこにオーナーシップはあるんか?」「女将さん!」と、なにか大切なものは忘れちゃいけないと思いました。

それはオトナも一緒。まず、こういったなにか夢中になる体験をオトナもしないといけないな、と思うのです。その楽しさや難しさを経験していないで、手順書のように学びや遊びをガイドすることはできないはずです。

この休校中は、探究自学ノートづくりの研究を2シーズンにわたって協同研究してきました。これまで教材を準備することに重きをおいてきましたが、心機一転、ちょっとベクトルを変えてみようとチャレンジしてみます。これからは「その人の中にあるなにか」から、遊ぶように学ぶタネを見つけ、いっしょに育てていこうと。言葉にするととても美しくなっちゃう笑。けれど、かなりしんどいことだと予想しています。

そして、夏休み前の今、オンラインでも全国の先生達とも探究自学ノートづくりシーズン3に着手しました。おかげさまでコアメンバーは一日待たずに満席。あざっす。オブザーバーの募集を始めました。また、熱いメンバーが金曜日の深夜のzoomに集まることでしょう。2ヶ月の間、もがいていこうと思います。みんなでモガッキーになります。

もがくこと。それは脳の発達にはとても効果的だと脳科学でも証明されています。僕が今、受講しているスタンフォードの数学オンラインコースでも、度々、紹介されています。失敗することや、できないこと、わからないでもがき続けることこそ、脳に効果的なんだとか。もがきのないスルスルとした(繰り返しのパターン計算練習のような)学習だけでは、せっかくつながった神経細胞のルートも消失するようです。

この本に出会って(特に、母親の癌を克服するために娘が親身になって調査するモガキのエピイソードは必見)、理解することにはモガッキーになることが必要だと分かってきました。それまでは、どこか避けてきたところがあったのに! 

とはいうものの、こういった脳科学で証明されていてもそのモガキからの脳みそ成長は「実感」が伴いません。エビデンスを示されたところで「よし!ナイスな情報!明日からはもがきまくるぞ!オイラのなまえはモガキじゃ!」とはなかなかなれません。どこか懐疑的な自分がまだいます。

この科学的な根拠と自分の実感との穴埋めはやはり慎重でないといけない。エビデンス・リテラシー向上にむけ「疑いを持ってリソースにあたってみる」と現在、研究中です。このあたりは、LAFTの勉強会で、一度、エビデンスにじっくりとっくんでみたので、その組み手がわかってきました。

少しずつ、僕の中で、まわりでも、学びのスイッチが起動しはじめました。この夏休み、大切にすごして、深く学んでいこうと思います。ちなみに僕の個人的なテーマは「2−3ゾーンディフェンスの理論と実践」ですから!マニアックー!

Appleペンシルに負けるな!子ども時代に体験しておいてほしいこと

Appleペンシルになくて、鉛筆にあるもの、なーんだ?(答えは最後)

うちの学校には肥後ナイフの学習があります。僕はとてもいいものだと思います。ナイフは使い方によってはとても便利なもの。でも、自分を傷づけることもあるし、人を傷つける道具にもなり得ます。それだけに、子どもにどのタイミングで刃物体験がふさわしいのか、悩ましいところです。うちの学校では、その肥後ナイフを使う授業が1年生からあります。今回はコロナで少しだけしかできずに、2年生でも取り組むことにもなりましたが。

学校で刃物の使い方をちゃんと学べること。しかも小さいうちから。ここに僕はいいなと思うのです。肥後ナイフで鉛筆を削っているときには緊張感もあり、上手に削れたときには、「見て見てー!」と自慢もしたくなるし、「いいじゃんそれ!」となれば一人前として認めてもらえる。その経験は子どもにとって計り知れない自信となっているようです。その成長のとば口に立てる経験が肥後ナイフで鉛筆削りです。

僕も子どもの頃、じいちゃんから肥後ナイフをもらいました。使い方なんてよくわからなかったけど、かちゃかちゃ刃物がでるのが不良みたいで格好良かったのを覚えています笑。ちきり(ナイフの背にある突起で、これを押さえないとナイフが折りたたまれてしまい、柄を握っている指を切ってしまう)の使い方など自分で確かめていきました。それでミニ四駆を改造したり、心を静めようとお地蔵さんも彫ったりもしました。もちろん、何度も指を切り、少しずつ上手なケガの仕方を知り、ナイフの力加減も身につけていきました。今思うと、そういう体験こそが何かつくるときに「なんでもつくれそう」という感覚があるんだと思います。

先月。3年生の子どもたちが鉛筆の削り方を教えに来てくれました。子どもたちにとってはシャカシャカけずるお兄さん、お姉さんはキラリと輝く憧れの存在。自分も上手に、削れるようになりたいなと。初めて削った鉛筆はまだでこぼこだけど、どこか美しいものです。

その後、毎朝の10分間、自分の鉛筆や色鉛筆をピンピンに削ってきました。日々のカオスである教室は一変し、この時間だけはしーんとした空気がながれます。朝のマインドフルネスです。すごくいい。月曜日の朝が落ち着かない都市伝説はこれで変わりますね。

僕が「すごいな」と思ったのが、指を切ったりする子がいないこと。それは切らない指導法が徹底されているから。そして、刃物の危険やその安全な使い方を学べるから。このへんは昭和からの歴史と伝統を感じるし、それがあっての実践。子どもたちは「僕にも安全にできる!」そんな気持ちが持てるようになっています。なんてったって、ナイフは動かさずに鉛筆だけ動かすことからなのです。

先週末、その肥後ナイフの試験をしました。「集まれ!肥後ナイフの森10」プリントをつくって、先生達と相談して10の評価基準を共有してはじめました。はやりに乗っています笑 

そして、練習ではやっぱり思ったようにうまくいかない。最後の最後で、芯がポキッとおれてしまう。刃が削り幅に深く入ってしまう。指先にぐっと神経を集中させ、芯を削り出そうとするけど、ぼこぼこしてうまくいかない。これはほんとうに粘り強さがためされます。指先の巧緻性、やっぱり小さいうちから刃物に触れておく体験は大切だなと思うのです。なにより、手作業は子どものやりたいという気持ちを引き出してくれます。

鉛筆削り試験の途中、緊張のためか深呼吸が何度か聞こえてきました。いつもゆるりと家族のような教室で、たまにはピリリとこういう時間もいいものです。ピンピンにとがらせ、床に削りかす一つものこさず、片付けるところまで。やりながら向上していくのを見越して、8/10点以上を合格としました。そして、みごと全員が合格。帰りの会が終わって、下校の時間。最後の最後に一人となっても削っている子もいました。こういう姿を見られたこと、またいいものです。

合格したらいよいよ一人一本、肥後ナイフをラインドセルのチャックがある所しまう約束で持って帰ることができます。成人したらナイフを長老より手渡されるヒゴナイ部族のようです。なんか、厳かでした。子どもたちは「わーい。家の宿題で鉛筆削りができる!」と喜んで帰って行きました。

これまで僕は教室で刃物を扱うことにとても慎重派でした。子どもたち、しかもやんちゃな子ほど、ちゃんと扱おうとするし、それを通して落ち着きを身につけていることが分かってきました。ときには厳しい口調で注意するときもありますし。武道にも通じるものがあるんじゃないでしょうか。

先日、オンラインへの心配についてポストしました。誤解のないようにいっておきます。僕はICT大スキです! 便利な物はどんどん使っていけばいいと思っているプラグマティックな部分があります。それだけに、もっと多くの人とちゃんと子ども時代のコロナ時代のオンライン授業について議論していかないといけないなと、思いを新たにしました。小学校時代に、自分の世界や少し視野を広げて世の中、社会よりよくしていくためにできることを考え合っていける、そんな時代にしたいです。このあたりはまたじっくりと。

子ども時代、臨界期前に身につけることは一体どんなことでしょう。iPadの操作、腕一本の行動範囲でヴァーチャル世界にどれだけの時間をかけたらいいのでしょうか? 僕が思うに、子どもたちの指先感覚、ちょっとヒヤリとする経験から物事に慎重に、そして自分も人をも傷つける力を持っている怖さも、学んでいってほしいなと思うのです。

小学校時代に体験しておいてほしいこと。五感を使って経験すること。少し前はこういった当たり前だったこと、忘れないでいたいです。昭和かよ! っていわれそうだけど、たまには親指クリックだけじゃないことに目を向けて、真剣に取り組むのもいい時間です。小学校時代に、鉛筆一つ削れるかどうか。削ってきたかどうか。学力では試されないかもしれないけれど、なにか大人より上手に削れている子どものへへんとした顔はかっこいい。そして次は、また学年をまたいで1年生に教えに行くのが楽しみです。こうやって学校の文化をうけとっていくし、よりいいものにしていくんだと思います。

こんな時期だからこそ、学校にはいろいろ要求されます。今、子どもたちと相談しながら、身につけておいてほしいことを考え合っていきたいです。やるべき勉強は、あたらしいものだけでもプログラミング教育や英語教育と、時間とり合いだし、せめぎ合いです。小学校時代に、なにを大切にして、その時間を使っていくのか、その「核となる規準」をおちついて考え直してみてもいいなと思います。勢いに流されてしまっている自分にならないように。核となる規準をもっていれさえすれば、それにそぐわないことでも、オカミの言うことでも多少のことは上手に流せるんじゃないかな。

『この世界の片隅に』のすずさんのように、鉛筆一本をあたりまえのように大切にする気持ち。子どもたちに忘れずに持っていてほしいと思います。教室には、鉛筆がコロコロ落ちていたりするから。今度、子どもたちの中からモニター募って「筆箱中身、えんぴつ1本プロジェクト」をやってみたいな。提案してみよう。それだけで、いろんな気づきが生まれるんじゃないかなぁ。オモシロそーだ。

さて「Appleペンシルになくて、鉛筆にあるものなーんだ?」の答え。Appleペンシルはけずれませんから!と思った人いたでしょ。でもね、答えは、僕が思うに世界中とのつながりです。興味がある人はこちらの絵本をどうぞ。僕も毎年読んでいるいい本です。

『いっぽんの鉛筆のむこうに (たくさんのふしぎ傑作集)』

ちなみに僕はもういい大人なのでAppleペンシル2を購入しました笑。大人はいいんです。自己責任なのだから。

探究自学ノートをはじめました「知っていることを描き出すクモの巣マップ」

「わ〜!わたしすっごいたのしみ!はやくやりたーい!」と、素直な子からの嬉しい言葉にほっこりします。「えー、そんなのやりたくなーい」と、とんがり坊主に「こんにゃろめ、みておれー」とこれまたやる気に発破をかけられます。教室にはいろんな子がいていいし、いてくれることで深まっていくんだと。いよいよ学校が帰ってきたなぁと実感しています。

本格始動の探究自学ノート。これまでの学力やテストとのバランスをとる「自学ノート」とは少し方向転換。学習する人が、ほんとうにやりたいこと、知りたいこと、とことん楽しむための探究自学ノートを子どもたちと一緒につくっていこうと思います。休校中の3ヶ月、zoomで多くの先生達と交流しながらねりねりしてきました。満を持して、いよいよ実践スタート。

今年は2年生。1cm方眼ノートはちょっとまだ使いづらそう。そこで、12mm×17マスのさんすうノートを学年で購入。表紙には「さんすうノート」って書いてあるけど、気にしないことにしました笑。

この一月の間、国語の説明文で「ほたるの一生」から「問いと答え」と「順序よく説明」を学習してきました。そのパフォーマンス課題として「学んだこと(問いや順序)をいかして、自学ノートに自分の好きなことについて、調べて紹介しよう」としました。「事前に図書の時間(本校にはとってもすばらしいスーパー司書教諭がいて、こんな自学ノートやりたいんだけど、っと相談するとちゃんと形に整えて授業にしてくれちゃう)に、調べてまとめる練習を2回。いよいよ自分の興味関心のある本を1冊借りておいて、探究自学ノートづくりをスタートしました。

記念すべき1回目はノートを配って表紙に名前を書いたり、落書きしたり、自分だけの研究ノートをつくっていこうとわくわくする時間でおわってしまいました。それもまたよし。

そして、今日が探究自学ノートづくり2回目。クモの巣マップを使って「知っていること」のあらいだしです。これは、数学者の時間の数学的思考プロセス「問題解決サイクル」の計画段階にある「①分かっていること(知っていること)」「②もとめること(知りたいこと)」「③使えそうなこと」から、運用してきました。

僕の中に、問題を解決するときはいつも同じ思考スキルが使えるんだなってことが一つつながった

経験でした。これでますます、算数授業や数学者の時間がやりやすくなりそうです。

さて、各自がすでに選んでいる興味関心のあるテーマをもとに「分かっていること(知っていること)」をクモの巣マップで棚卸しからはじめました。最初はまず、僕から最近飼い始めてきたニャオタローのクモの巣マップで学習モデルを示すところから(まぁまぁいいかげんなモデルでOKとし、これを越えていってもらえるといいなと思っています)。

これを見た子どもたちの様子がこの冒頭のやりとりでした。子どもたちの反応はすこぶるよかったです。素直な反応が飛び出てきます。

  1. ノートの見開き2ページ、真ん中に拳骨大にテーマのイラストをかきます
  2. そこから知っていることを枝でつないで、どんどんのばしていきます。めざせ3回!

ただ、これだけのこと。中心のテーマから「枝だし」するには、その大分類と小分類との親子関係を理解するのが難しい子も数人もちろんいましたが、ニャオタローモデルとクラスの子たちからのアイディア「しゅるい」「とくいなこと」「いろ」「たべるもの」など、紹介しあうことでお互いフォローできました。次の時間は、この「枝だし」の親子関係をわかりやすいように(しゅるい > ざっしゅのネコ > 白と黒)カードを作っておこうと思います。

2年生なりにもぐちゃぐちゃしながら描いているのはとってもいい。きれいじゃなくたって、知りたいことを出すことで、知らないことやもっと知りたいことを見つけるおもしろさを感じてもらえるといいなと思っています。最後は、お互いのノートをギャラリーウォークで見合っておわり。自由に質問したりしている子もいました。

帰りの会のとき「本を持って帰ってはやく知りたい」とうずうずしている男の子がいました。「次の時間、質問作りをするからまだ、学校においといて読みたいのをがまんしておいてよ」と声をかけましたが、かくれてこっそりもってかえっていました笑。その子は、短い休み時間にも本を開いて恐竜のイラストを真剣に写していました。なにかはじめると、それにひびいてくれる子どもがかならずいる。そういう姿につきうごかされて、またがんばれるんだなぁと思うのです。

いやー、いいスタートがきれました。学びのスイッチがすちゃッと入るかんじがしました。

今回の探究自学ノートの取り組みで、これまでの自学ノートの概念を更新していけるといいなと思っています。休校中でも、自分で勝手に夢中になれる学び方を手渡せるといいなと思うのです。学校からの請負仕事(宿題)からいつか開放されて、本当に夢中になってやってみたいこと、知りたいこと、そういうことをとことん学ぶしくみやそのコミュニティを学校の中につくっていきたい。

以前のNHKでやっていた「ぼくの自学ノート」はまさにそれだったと思います。とてもステキな取り組みでした。

受験勉強にはムリ!?梅田君の探究的自学ノートで学んでいることとは? 「ボクの自学ノート~7年間の小さな大冒険~」 から

http://projectbetterschool.blogspot.com/2019/05/blog-post.html

あー、楽しかった。

オンライン学習への心配

今週からスタンフォード大学のオンライン学習を始めました。前々回のハーバード大学「学習の可視化」、前回の「マスマティカル・マインドセット」と併わせれば、これで3回目のオンライコースを受講することとなります。我ながら地味によくやるものだと関心です。


MOOCs(Massive Open Online Courses)はオンラインで海外からでも学習に参加できる利便性はあるものの、その達成率はわずか10%だとか。僕は幸運にも仲間に恵まれ、なんとか単位を取得してきています。履歴書に「最終学歴ハーバード大学・スタンフォード大学(オンライン)」って書けるみたい笑。ウソっぽい。

 
そもそもどうして、やりたいはずの学習が9割の人もが脱落していくのでしょうか? オンライン学習のシステムそのものに問題があるとはなかなか思えません。なぜながらどこからでも場所を選ばず、時も選ばず、人も選ばず、しかもかなり格安で学ぶことができるから。それでも多くの人がコンプできません。


僕は、これまでと今の自分のオンライン学習の取り組みをふりかえってみて、少しわかってきたことがありました。それは「本当に自分にとって必要なものは何なのか?」、実は学習者自身が自分は一体何を学ぶべきなのかが、よくわからないんじゃないかなと、予想しています。


僕が思う人が学ぶことって、巻き込まれ、憧れて、影響されてってそういう相互作用の文脈や状況の中で、学びが躍進していくものだと理解しています。なにか、自分にとって「事前に学ぶべき事」が明確になっていて、それを「身につける為に学ぶ」のは10%の程度なのではないのかな。


僕自身がそうだったかと思います。きっと、管理職コースのオンライン学習を受講していたら、そっこーやめていたことでしょう。あ、これってやりたくないことが明確だからその例ではないかも!? 友達にさそわれるままにハーバードの学習の可視化はうまくいきました。そこには学び合う場(Ba)があったから。けれども、一人旅だったら、どうなっていたのでしょう。やりたいことのはずだったのに、いつのまにか優先順位がかわり、やり続けることがおっくうになっていたかもしれません。


おしなべて、今、教育現場で行われようとしてる小学校段階でのオンライン学習について、大いに疑問があります。僕は反対。やはり人が学ぶって、その「場(Ba)」を共有するものだと考えるからです。教室という場(Ba)の中で、こっちでは調べものをしている子がいて、あっちでは相談しつつおしゃべりして、そしてものづくりをしている音が聞こえてくる。そういう空気感が漂う中で、耳をピントそばだてながら、お互いの存在を感じながら「同じところ」にいることが、学びを誘ってくれるんだと思う。


zoomしていると、それが感じられない。陰で、チャットしていたり、関係のないHPをのぞいていても(よくある)、その行動さえも感知できません。僕が懸念しているのは、こういう人の存在をスクリーンからしかキャッチするアンテナを求められないこと。


オンライン学習は便利だし、このコロナの状況下で学校が休校して「しかたなし」にやることは、ほんとーにしかたないと思います。けれども、子どもたちが画面を嬉々としてのぞき込みながら、音声を聞き取ってやりとりしているのは、違和感がずっとあります。


一方、僕自身はApple製品、ガジェット大スキ。そういうのを新しく手に入れたときは、脳からアドレナリンがどばどばでてきます。でもそれが、いけないんだと思う。僕はもういい大人なので、自分で選んでやっています。画面に向き合う時間を、人と顔を合わす時間にしていかないとまじいけないなと思っています。


最近、高校生や大学生から相談のメールやzoomがありました。そこでは、オンライン授業があたりまえ。彼ら、彼女らはzoomづかれもしているし、なにか買い物クリックのように講座をとっている感覚に、人の学ぶことを選ばされているかんじ。オンラインとオフラインのバランスをくずしているから、悩みもより複雑になってしまう。人と会える「場」が、これまでちょっと話し合えたり、ほっと温かい言葉をかけあえたりする、顔をみられるだけで、いやされていたんだとわかってきました。


今、この状況からは、逃げることはできない。よりよいオンライン授業のあり方を模索していきたい。それまでは批判的にみながら「ホンモノにふれる体験」「人とぶつかり合う体験」といったガジェットやアプリではなく、五感というコスモを感じること、フル活用していきたい。


学校では、そういうことを大切にしたいな。最後まで、こだわっていきたい。オンライン授業に頼るざるを得ないときまで、タネをまいておきたい。それぞれの家庭でも探究をつづける自学ノートとか、模索していきたい。完全に休校継続となったら、そっちに舵を切るかもしれないけれど、それまでは、とことん人と会う力を信じて、もがいていこうと思う。


僕は若い頃、不登校の子どもたちとかかわる仕事をしていました。そういった子たちにはオンライン学習はとてもいいなと思う反面、はやり、人は「会って癒やされたい」ということを彼らから学んでいます。絆創膏としてのオンライン学習はあるかもしれませんが、根本的な問題解決にはならないと思っています。


大人であっても、本当に自分の学びたいことはわからない。シラバスだけでも人は学べない。それなのに、子どもたちへは、オンライン授業を推し進めていこうとすること。少し立ち止まって考え直したいです。もっと、議論しないといけない。こういうことを今、話題にあげにくい風潮になっていないかなぁと、懸念もしています。人の評価を気にせずに、自分のアンテナ感度を高めて、話し合っていきたいです。

社会をよりよくしていくために今、自分ができることはなんでだろう

分散登校がはじまり、1週間が終わりました。

お昼時にニャオタロー(ネコ)に餌をあげよう一度、家に戻ろうと昇降口で靴をはいていたら、前年度の子どもたちと久しぶりに会えました。「いやー!ひさしぶりー」とハイタッチならずのエアタッチ。どうもすかすかして気持ちがわるけど、うれしい。

3ヶ月会わないだけで、声変わりしている子やぐっと背が伸びた子もいました。「なにしてたの?」と尋ねると、「なにも〜」「ごろごろしてたー」と即答。いい時間を過ごせていたようです。

やっぱり、学校はいいなぁ。もうひとつの家族のようで。

今週は、分散登校と自宅でのzoomを使ったオンラインホームルームの交互勤務。自宅時間をうまく使って、これまで参加できなかった企業系の研修にzoom参加しました。以前、NPOでお世話になったゼロックスのフューチャーセンターでお会いした荻原さんの「知識創造プリンシプルフォーラム」。

ここ数ヶ月、創造的な学びについて思案している中、野中郁次郎さんの「知識創造のSECIモデル」にヒントがあるのでは? と行き着きました。そこで、コロナ禍のもと、これからの社会向けて企業が何を創り出していくのか動向を知りたく気軽にzoomウェビナーに参加。ほんと、この時代、とても気軽に研修に参加できるのは、でぶしょうの僕にとってはとても助かります。

気軽に参加したけれど、ドストライクでした。この知識創造世界でのグルであるラリー・プルサックさん(不勉強のため知らなかったので著書を購入、これから読みます)からの動画メッセージに「いかに社会の役にたてるのか?を語ろう」とありました。がーん。実は、これが一番、僕の胸につきささりました。目の前の学級の子どもたち、そして学年、学校づくりそういう視野では考えることはあったけれども、社会的意義については、後は野となれ山となれだったなぁ。。。

本校では「地球市民の時間」という新しい教科を立ち上げました。英語をツール化せずに、人権や差別、世界でおこっている出来事に目をむけながら学んでいきます。僕は、ここに大きな可能性を感じています。しかし、いきなりグローバルな視点ではむずかしいもの。自分が今、生きているこの社会っていったいなんなのだろうか? 僕にとっての社会ってなんなのだろうか? 大きな事でなくてもいいので、身近な生活がちょっとだけでもよくなっていくための問題解決をしていきたい。これは、ラリー・プルサックさんの「いかに社会の役にたてるのか?を語ろう」と、根っこの部分でつながっていることに気付きました。

このコロナ禍で、目の前のことをこなすことや慌ただしさの中で、見失ってしまいがちだったこと、思いださせてくれました。「社会にとっての今の自分」って一体何なのだろう。とても大事な問いをもらったと思いました。しばらくは、いまここでじっくりと考えていきたいと思います。

一方、忘れないようにしたいこと。それは、大きなビジョンを掲げて終わりにせずに、具体的な実践とセットで語れない限り、無力だと感じています。思いを描いて、計画にして、形にしていけるようなこと、これが今の僕にとって、創造的な学びの第一歩なんだと思えてきました。

たった一つでいいと思う。人とのつながりの中で、身近な社会や身近な生活を少しでもよりよく変えていくこと。その問題解決することを、僕自身がまずトライアンドエラーでやっていこうと思う。最初はしょぼしょぼだっていい。あきらめなければ。これこそTQJ(探究自学ノート)になっていくんじゃないだろうかな。そして、これはきっと夢中になる楽しさに没頭する学びとは対立することではないはずだから。こういったことも、のちのち子どもたちと一緒につくっていきたいなぁ。

そのため、まず都知事選挙に行こうと思う。政治家が今、何を語るかよりも、これまで何をやってきたのか、やれなかったのかを鑑みて、慎重に投票しようと思う。民主的であるって事は、こうも自分の頭で考えて、決断しなければならないことが多いとはねぇ。なかなか大変ではあるけれど、大変納得できることでもありますね。

社会をよりよくしていくために今、自分ができることはなんでだろう。何をやりたいんだろう。考え中。

分散登校がはじまりました

少しずつ新学期がはじまりました。ほっと一安心。やっぱり、子どもたちと面と向かってみると、会うことでしかわからない「なにか」が発動されますね。その「なにか」に突き動かされて、あれやってみよう、これをやってあげよう、と動き始めてきました。場を共有すること。その場にいること。とても大事なんだと思います。

遠隔操作でちゃちゃっちゃと、効率的に学ぼうとすることはやっぱりちがう。それは、もともとやる気のある人ができることだと思う。多くの家庭では、オンライン学習でやる気をうしなってしまっている記事も度々目にしました。

けれども、この期間中、オンラインでつながっていることは、つながれないことよりはぜんぜん「まし」。これって相対的でしかなくって、ただのましでしかないってこと。一歩、たちどまって考えてみたい。学校って何を大切にするところだったんだろう。体験することや五感で味わうこと、人とふれあって楽しんだり、葛藤したり、そういう時間を大切にしていきたい。オンライン学習への立ち位置はまたじっくり考えていこうと思う。今後も切っても切れないことだろうから。

本来、学校は、だれもが一緒に場を共にして、学び、考えあっていけるところ。今、ここを大切にしていこうと思う。どんなに立派なことをいったり、崇高な理念をもっていたとしても、今、ここでなにをしているか、どのように子どもたちとつながろうとしているか、そこと大切にする自分でいたいし、そういう人といっしょに学びあっていきたい。

まだ、分散登校の今、少人数だからこそできることはなんだろう?

PAのジップザップをやりました。ジップ光線をザップ光線ではねかえす超キケンなアクティビティ。教室にスポットマーカー(島)を1〜2m間隔でサークルに置いて、遊びました。そこの上からおちたらうんこ地獄だぞと。こういうときの子どもたちはおもしろいですね。つまさき立ちで、「うんこうんこ」といかにもうれしそう。

ジップ・ザップに夢中になると、子どもたちは、ついつい真ん中に集まって密になってしまう。けれども、スポットマーカーをおくことで、この悩みがいっきになくなりました。だれを指し示しているのかも明確。失敗するのに、なぜか大笑い。あぁ、こういう時間だ。こういう時間は家では味わえないものなんだ。ちょっとどこか高いところで自分の気持ちをモニターしている自分がいました。たった12人のジップザップだったけど、午後のグループの子どもたちは、中休みにも楽しそうに遊んでいました。

少しずつ、今年がはじまりました。今年は24人の2年生を担任しています。ゆっくりと、子どもの気持ちにチューニングしていけるよう、心のゆとりを大切にしていこうと思っています。どんなアドベンチャーがまっているのかな。学ぶこと、考えること、人とつながること、失敗しながらもたくましくのびていってほしいです。あくせく、せかせかすることなく、ゆったりと今、ここの時間をあじわっていこうと思います。

は〜、よいよい。

自分にとってどんな創造的な時間だったのかな?

学校が再開されました。この失われた3ヶ月は一体どういう意味が自分にあったんだろう? 慌ただしい中で、ちゃんとふりかえらないとするりと忘れ、失われてしまいそうです。


つくづく学校とは、人との関わりの中ではじめて成立するものだとわかりました。どんな人であれ、どこにいても、だれかとつながっていることが、励みとなるし、生きていく糧になるんだと。


その意味で、子どもたち一人ひとりとの個別メールはとても意味があったし、先生も、子どもも、保護者でさえも「つながり」を求めていました。そして、この休校中の時間を、これまでできなかった「創造的な時間」にしてほしいと学校からなげかけてきました。この部分は本校ならではのよさがでたものだとふりかえっています。漢字を進めたり、復習ドリルづけのあまり意味の感じられない、網羅するような学習とは一線を画すことができたはず。


一方、その創造的が家庭任せでなかったのかも、あらためて振り返っていく必要があります。遠隔教育では、フォローしてくれる保護者の家庭教育力の格差がでてしまいかねません。特に、医療従事者の家族にとっては、はたしてどこまでつながり、支えることができたのか。このあたりのことも、同僚と期をみてふりかえりたい大切なテーマです。


今年は研究事務局長なる役割があり、この数ヶ月を思い出すと、決して自分の仕事の範疇だけではないことにまで首をつっこんでしまったことが反省でもあります。ただし、こういった緊急事態は、気付いた人がやることが、この緊急事態をしのぐもの。これまでの指示系統が通用しせず、1週間先の社会状況も読めないとき、これまで通りのマインドセットではうまくいかないことがわかりました。

はたして、自分はどれだけ、だれがやってもいいような「草むしり」を自分の仕事として、取り組むことができたのかな。それなりに取り組んではみたものの、これまで本校が大切にしてきた民主的なプロセスだったか?といわれたら、そうとは言い切れない時間に追われる提案の日々でした。

こういったときに、やってもらってあたりまえではなく、「ご苦労さん」「ありがとね」と自然と声をきけると、なんともまあ単純で、またがんばってみようかなと思えてしまう自分がいます。

さて、果たしてこの3ヶ月間、自分の過ごし方が創造的な時間だったのでしょうか? 

思いつく限りのことをあげてみると、新聞の連載を書き上げたこと、イタリア料理の研究をはじめたこと、そして、全国の先生達とフェイスブック上で探究自学ノートの研究をスタートさせたこと。遊び心をテーマにシーズン2を向かえ、残すことあと1週間となりました。zoomをつかった学習サークルの運営方法にもあるていど手応えをもつことができました。


僕にとっては、この探究自学ノート(TQJ)のメンバーで毎週火曜日と金曜日の夜、zoomを使って日付が変わる時間までいろんな教育話やどうでもいい話ができたことが、なによりも「創造的な時間」でした。クリティカルな気づきは、話し尽くされた深夜に訪れることもおもしろい見地でした。

ここでは自分だけでつくれるものは、案外たかがしれているものです。人のアイディアや人とのつながりをいかしながら、共に考え、もがいて、悩んで、形にしていく探究の学び。zoomの共有会議だけではなく、その間のグループ間でのやりとりも刺激的で、オンライン学習とは一体なんだったのか? も自分なりに検討することができました。


人とのつながりは大事だな。と、素直におもいます。それが、この分断された社会状況だからこそ実感できました。


まだまだ、このコロナ対応で人とのつながりを分断するような新しい生活様式はつづいていきます。一方、その中でもできることを見つけてやっていこうと、思いを新たにしました。


ただ、なによりもくやまれるのは、昨年度の大スキだった子どもたちとの授業じまいができなかったこと。美しい算数アドベンチャー。2年越しの取り組みだっただけにそれぞれが追求した算数の美しさのプレゼンをみられなかったのが、本当に悔やまれます。あの子達だけ、留年にして一緒に学びたいぐらいです笑。

今年は、2年生の教室を任されました。2年生の子どもたちとzoomでつながっているときの顔は本当にいきいきしていて、かわいいものです。いろんな不安を抱えている子もいるはずです。この失った3ヶ月のをとりもどせるかわかりません。それでも、また今年も笑いながら取り組むのがいいなと思います。

最後にいい詩をみつけました。

楽しさとは、

あなたの学んだことによってもたらされる心のありようだ。

学ぶとは、

このような楽しさを経験するとば口を、

くぐろうとすることだ。

楽しさなくして 学びなし。

学びなくして 楽しさなし。

ワン・ケン『喜びの歌』

深い学びの起動スイッチは、教材への愛でした 美しい算数編2

PBLや探究のもつ、子どもたちのあの「わっ」とした学びの雰囲気がとても好きです。教室内が騒然となり、それぞれが夢中に自由勝手のように学んでいる。でも、そこには教師の見通しと支えがある。子どもたちにとって、「今日もあの勉強がある!」と楽しみにしている授業。

でも。。。

ここ数年、そういう学びが本当に「深く」学べているのか? 授業へ取り組んできて、そんなふりかえりが度々生まれます。悩みながら取り組みつつも、ようやく一つ、自分の中で納得のいくやり方のようなものが、プッと見えてきました。プッとです。

一言でいうと、教材への深い愛。。。そうなんだ、きっと愛なんです。まるでなにかの歌詞のようですが。

この3学期、「数学者の時間」の総まとめとして、探究算数を進めています。それを算数アドベンチャーと呼び、子どもたちの探究をていねいに支えていこうと取り組み始めたところ。この探究算数がなかなかのくせもので、一体「なに」をテーマにして探究し、深く学ぶのか? その子どもたちが学ぶべき「なに」をどう設定して、扱うのかが、かなりむずかしい。それまでは、学級づくりや協同学習のスキルを練習してさえすれば、子どもたちは一人ひとりが夢中になってがんがん学んでいくんだろう、なーんとなく考えてしまっていました。探究という名の放任のようなものです。それが、それなりにうまくいってしまっていたので、なーんとくしか考えられなかったんですね。教師の力量と探究で扱えるテーマは比例する!?(比例関係は2倍、3倍したら、一方も2倍、3倍することをいうので数学的には正確な表現ではないですねー)。

数年前に、一人ひとりが探究のテーマをもって、数学者学会発表する形式はやったことがあります。あのときの3年生の子どもたちの発想は本当におもしろかったです。

「自分だけのオリジナルの角度づくり」
「教室内に描ける最大円の半径とは」
「地球は何回まわって何秒前にできたのか」
「新しいかけ算の筆算の仕方」など。

こっちも頭をひねりながら、試行錯誤の3学期間でした。

一人1テーマの探究算数だと、さすがに多過ぎ! 当時は、一人ひとりをカンファランスしきれませんでした。数学者の時間の研究仲間たちからも意見があって、「クラスでこれまで学んできた単元から2テーマ」が妥当ではないか? と議論を重ねてきました。そこから、いつかは「年間を通した、一人ひとりがそれぞれの問いを追求する探究算数」をやりたい! そこにつながる学習のステップはなんだろう? 教師がどういうことを身につけていけばいいのだろう? 全く未知の領域でした。  

一方、昨年の3年生では、クラス全員で「数字をつくろう」をやりました。全員が同じテーマ「数字の歴史」でオリジナル数字をつくることで、探究の素地を耕してきました。あのオリジナル数字づくりがうまくいったのは「教師が教えることの焦点化」が、できていたことにつきます。

どういうことかというと、探究算数で扱う教材テーマを「数字の歴史」にしぼりました。そのテーマ関連で子どもたちに示すよい絵本をなかなか見つけられず、自分でつくってみたのですが、今となっては、それが一番といっていいほどの教材研究でした。教えることを「数字の歴史」に絞ったからこそ、安心して集中して教材づくりができました。授業の中で見せる子どもたちの間違いや戸惑いをいかしながらも、十進位取り法のよさや、0の発見のすばらしさにつなげるミニレッスンがつくれました。また、それを補う何を個別に関わったらよいのかの明確なカンファランスができてきました。結果、教材への圧倒的な知識量や理解が自分の中に自信となって下支えしてくれ、授業の中で子どもたちの不確実な発言もどーんと対応できたのだと思うのです。ここまで、「学び方」を追求してきて僕にとっては、「教材を絞り、教師がまず深く知ること」がバランスをとってくれる最後のワンピースを見つけた思いでした。

今年は持ち上がり学年なので、クラス全員で1テーマから、一歩でもステップアップしたい。それには先ほどの「教材愛」が欠かせないんです。そういうことが、自分の力量とやりたい授業の開放度と関連しながら分かってきました。残念ながら、ひとっとびに教師は成長しないってことですね。僕にかぎってのことかもしれませんが。。。

もう何年もまえのこと。総合的な学習の時間で「環境」で8グループの8つのテーマで探究学習に取り組みました。あのときは、パンクしました。ぼくからのカンファランスの手が足りずに、ネコの子も借りたい状態でした。実際、英語支援員さんとかにも、教室に入ってもらって子どもの相談に一緒にのってもらっていたほど。でも、当時の僕は、カンファランスで「どうにかしよう」と思っていたんですね。でも、そうじゃなかったんです。探究テーマって、その場しのぎのカンファランスではなんともならない。残念。でもこれ事実。大事なことなので、もう一度書きます。個別指導や個別のグループ相談したところで、探究が進むかといったらそうじゃないんです。今風に言えば、カリキュラムデザインです。ひらたく言えば、学習者が学ぶことの単元計画への綿密な準備です。

あの当時は、メンバーの組み合わせと、子どもたちの潜在能力の高さ、さらには各テーマが面白かったせいもあり「たまたま」うまくいってしまいました。だからこそ、ここに気づけませんでした。あのとき大事だったこと、それは、8テーマのそれぞれをしっかりと教師が「見通し」をもっていることだったんです。

それを「数字をつくろう」をじっくりと教材化することで、分かってきました。つまり、教師があるテーマを教材として扱うとき、「この単元でこんな力を身につけてほしいし、その証拠をものづくりで示してほしいぞ」「学習のスタート場面では子どもたちはこうなるだろうな」「中だるみしがちな中盤では、こんなつまずきにスタックしそうだ」「学習のまとめのころにはこういうことができるだろうな」「こんな基礎知識をもっていたら、飛躍するだろうな」などといった、そのテーマの明確な見通しがなければいけなかったんですね。

あたりまえっちゃあたりまえでした。

これを、協働学習を生業とする教師は、メンバーの組み合わせと場づくりでなんとかしてしまうしできてしまうから、教材を愛し興味を持って教師自身が探究し続けること、そのことが見えにくくなっていたんだと思います。

探究学習ってなんか、すごい盛り上がるし、勝手にがしがし子どもたちが学習を進めていってしまう! なんてところについ目がいってしまいがちです。本当にそこで好奇心をもって、学んでいるその「何か」を教師が各テーマごとに準備できていると、もっともっと深く学べるはずなのに。

そういうことなんですよ。

アクティブラーニングとか、協働学習、個別学習とか「教え方」とか「学び方」に夢中になっているときは、とくに気をつけた方がいいです。教材への洞察が浅いと、学びはあっさり薄口さっぱり風味になってしまいます。すると、なんのために仲間の力を使って学び合うのか、構成主義の学びのよさとは一体なんだったのかが、見えにくくなってしまいます。学びを通して、その算数のもつ本質を味わいたいですよ!

自分の得意とする教材を生み出すことです。それを繰り返し磨いて自分の必殺技にしていくことです。PAのアクティビティでいったら、僕にとってはパイプラインのようなもの。先に挙げた「数字をつくろう」のようなもの。これさえあれば教師に見通しもあって、子どもたちは夢中になって好奇心を発揮し、学びが深まっていくっってものを確信。

そこで今回、僕は算数アドベンチャーは、ちょっとだけ背伸びして8テーマにしてみました。
角、平面図形、しきつめ、対称、平行と垂直、音楽、円、点と線
おもしろそうでしょ! 確実におもしろくなります。

これはとこの2年間で学んできた単元をより深めるためと、日頃の自学ノートからくる子どもたちの興味関心、そして、この8つのテーマなら、僕も図書資料も合わせながら、なんとかたえうるから。さらに、僕自身が教科の本質を追究していきたい気持ちだからです。

こういった、紆余曲折があって、各テーマをくしざす今回の大テーマである「算数の美しさとは?」にたどり着けました。

算数アドベンチャー 美しい算数編1

6年前、こういったことをやりたかったんだろうなぁとつくずく感じています。当時はまだ数学者の時間がなんなのかもまったくみえておらず(それもそのはず、そもそもそんな実践なかったので)、ここ数年ずっと引きずりながら、学びながら、もがきながらやってきたこと、いろんなものがつながって、ようやっと一つの実践になってきそうな予感です。はい!まだ予感です。計画段階なので、なんとでもいえちゃいます。

  • 学級づくりと学習コミュニティ
  • 一斉指導とミニレッスンのちがうことと同じ事
  • 年間を通した探究と学期ごとの探究
  • コンピテンシーを越える好奇心
  • 問題解決のサイクル(数学的思考)と問題づくり
  • 知識づくりとmeaning making
  • 概念と学習の転移・パフォーマンス評価とものづくり
  • 共有の時間と共通のテーマ
  • 形成的評価とフィードバック
  • 個別カンファランスと明確な学習目標
  • ルーブリック評価と発表スキル
  • 構成的な学びと非構成的な学びのバランス
  • 学習者による学習の選択とモチベーション
  • ひとりひとりをいかすための教科書の教材化挑戦的な課題とフロー
  • 算数授業との往還
  • そして、教科の専門性こそ学習者へのガイド

こういった部分、部分、これまで学んでできたことが、僕の頭の中ですこーしずつ、つながりはじめてきました。まだ詳細でばっちりな学習計画にまで落とし込めていませんが、走り出せそうな予感とわくわくする楽しさ、そして、うまくいくのかちょっとした不安。


けど、たぶん楽しい学びになるはず。子どもたちはすごい力があるのをみてきたから。そして、同時期に取り組もうと準備している、他校の仲間の実践に刺激をもらっているから大丈夫。

いよいよ来月から、「算数における美しさをみつけて、表現しよう!」を大きな目標に探究する算数、はじまります。2ヶ月後が楽しみです。
そおさ〜、今こそ!算数アドベンチャー!!(こういうの古いっていわれるけどしょうがない)

数学者の時間 子どもの思考は力わざだ

三学期も始まり、落ち着いた日常がもどってきました。久しぶりの数学者の時間は、トピック問題でクラスの子からもらった年賀状問題から。最近、子どもたちからの年賀状はオリジナル問題を送りつけられてきます。それもまたよし。

これはなかなか頭をひねる問題でした。しかもうっかりミスも問題の中にあり、さらに難易度を増していました。ならばこれを授業で使わない手はないな、とさっそくみんなで解いてみることに。


二学期の復習もあり、問題解決のサイクルの「問題」「計画」「解決」「ふり返り」を忘れずに〜と声がけしました。「そうだそうだ。思い出した」などといいながら、数学者ノートに、計画を立てて取り組みはじめました。

改めて思うけど、こういうこれまで解いたことのない未知の問題は、解決の見通しとして「使えそうなこと」は最初は当てずっぽうでしかない。解き進めていくうちに少しずつ勘所がわかってきて、解法の見通しがたってくる。それでいいと思うし、そうでなければ、「教科書のように前時のアイディア使えさえすれば解決の見通しが立てられちゃう」思考から抜け出せないだろうな、そんなことを感じました。

二学期に学んだ「計算のきまり」を使っての問題。答えを組み合わせると、なんかの言葉ができるとか。多くの子たちはまずはためしに自分ひとりで考えたいと取り組んでいました。しばらくして、思い思いに立ち歩きはじめ、年賀状の送り主に「ヒントちょうだい!」ってすりすりしていました笑。

四則計算は解けるけど、その数字を使って「言葉をみつける」段階がわからない。だれもが頭を悩ませていました。すると、その答えを「きっと言葉は、イガせんことしもよろしくだな!」と無理やり推論してみて、その解答にあてはまるような50音暗号の組み合わせ試し始める子が増えてきました。このときがこの時間のハイライトでした。まさにアブダクション(推論のひとつで仮説思考。シャーロックホームズはこういった思考が得意ですね)! 強引な解決にみえるけど、すごい力業の論理的思考。じっくりとあきらめない思考体力だけでなく、瞬発力ある思考力がすばらしい。

余談だけど、このアブダクション(という言葉は使っていなかったけど)と同じことを、国語教育でもだいじだねって、内田樹さんがブログに書いていました。長いけど、人がどう育つってことはとても示唆に富んでいる指摘です。
アブダクションの本ではこの本がとてもおすすめ! 帰納・演繹をていねいに整理されています。

その後、じわじわと答えをだそうと広がりつつありました。が、ここでタイムアップ。後でノートを見てみると2〜3人が解けていました。「もっとやりたいー!」「ひさびさに頭つかったー」と三学期1発目の数学者の時間が終わりました。

次の時間はいよいよ数学的思考ミニレッスン10のまとめへ。そして、問題解決のサイクルを使った探究学習の算数アドベンチャーがはじまります。