年度の初めに数学者の時間をはじめると、たまに出会うのが「考えるのが面倒くさい」といって、手がとまっている子だ。
数学者の時間では、「良問」と呼ばれる問題を扱っている。すぐには答えが求められず考え方や答えが多様で、パターンが隠れていて、なによりも自分にも出来そうと思わせておいて、なかなかできない、やってみると深まりがあっておもしろい問題のこと。
考えるのがメンドーなその理由をよくよく話をきいてみると、「塾でやっていることとちがう」「すぐに答えがでないからおもしろくない」ということのようだ。
一方で普段、「こういう問題、頭ひねるからおもしろい」「練習っぽくないから好き」などと算数が苦手な子ほど、よくできてしまう逆転現象が生まれる。また、塾には通って徹底して勉強している全国トップレベルの子からは「こういうのはおもしろい。塾ではやったことがないから」と夢中になって、くやしがっている子もいた。
この違いは何だろう。
考えることがメンドーと言っている子によく共通しているのは、中途半端に塾に通ったり、家庭学習で繰り返しドリル練習を訓練している子だったり、いずれにしても何かを達成して身につけるために、「答えのある問題」をたくさんこなしている子が多い。
世の中には、「答えのある問題」と「答えのない問題」がある。答えのある問題は、正答と誤答しか存在せず、自分の意見をも必要はうまれない。答えがあるから、効率よくてっとりばやく正答を調べてみつけてしまえばよいとなってしまう。あぁ、数学者の時間以外、そういう授業ばかりをしていないだろうか。自分にはねかえってくる。。。
一方で「答えのない問題」は、答えがないからこそ、自分の意見や考えを求められる。そして、答えがないことは、間違った意見も正しい意見も存在せず、多様な意見や考えが許容される。
しかし、数学者の時間で扱う良問はどうだろう。たとえば、「川渡り問題」や「食料問題」などは、「すぐに」答えを導けるような問題ではないけれども、答えはある。しかし、意見をもつために考えなくてよいかというと、そういうことではない。自分の考えをもたなければ、そもそも正答へもつながらない。
人が考えるという作業を考えるとき、この「答えのある問題」と「答えのない問題」という二分に無理があるのではないか。そして、「ある」と「ない」のその間があるのではないだろうか。
「答えがあるけれどもない問題」ととりあえず名前をつけておこう笑。これはまた継続して考えていく必要があるから。
結局、考えるのがめんどくさいという子はその後どうなっていくかというと、やっぱり考えるようになっていく。それはどうしてかというと、学校の教室という力が働くから。僕はここに最近、「中動態」という概念をもちこんで教室をながめてみることで、お互いの主体性や思考を創発させる効果がみてとれることがあるんじゃないかとわかってきた。場が持つちから。それにはいくつかポイントがあって、「ひらめきの授業」としてブログにもまとめている。
なんだか、このブログ自体が答えのないポストとなってしまったけれども、まぁそれでいいと思う。あーだ、こーだ、思考しているその筋道を忘れずにのせておくことも大切な思考のひとつの表現ということで。こういうのをプロセスエコノミーというらしい。これは完成物だけでなく、そこに至るまでの過程に価値をみとめ、そのプロセスを示すこと。
結局、考えることを要求しない授業をやっていると、子どもたちは「いいね/わるいね」のただの反応しか起こさなくなってしまう。教室がSNS化した反応の渦になってしまう。自分の意見をもつためにも、考えるというメンドクササに向き合う必要がある。
今日は終戦記念日。平和の今、周りに流されずに自分の考え、意見をしっかりもって生きていく人になるためにも、考えることから逃げ出してはいけない。
