学級づくり

蚕を育てています

今年は蚕の研究をしています。卵からていねいに育てている自称クワ男です。

たまごっち→かいこっち→まゆっち→シルクっちになる予定です。週明けに卵を観察しようと思っていたら、雨が降った次の日、いっきに暑くなり、蚕の卵が、いっきに孵化しまくっていました!

うぎゃー!

生命尊重、最高です。

算数の時間は急遽中止となり、子どもたちと算数補助員さんも支援員さんもみんなで、孵化したての蚕をぎゃーぎゃー言いながら、仕分け作業。それぞれの「かいこっちケース」に4~5匹しまいました。

うー、目がしばしばした。

虫好きな子はアゲアゲでしたが、芋虫ぎらいな子は固まっていました。さて、どうなることやら。

ちなみに蚕の卵は500つぶで2000円でお買い得。

幼稚園の雑誌座談会に参加してきました

本校の幼稚園へ呼ばれ、ある子ども雑誌の座談会に参加してきました。エリクソン研究の久保健太さんと幼稚園の先生方、そして小学校代表?(たぶん一番幼稚園へジャマしに行っているから)の僕とが、子どもの動画を元に、語り合う場でした。3歳児の男の子が木の実を集めるエピソード、これがまたとってもほっこりして最高に癒やされます。

詳しくは対談集にゆずりますが、幼児期における何かに夢中になることや遊びのその価値について、考え合いました。子どもの姿で話しが始まったのですが、いつの間にか、我がクラスのドロダンゴ団の遊びから我が生い立ちまで話が逸れるにそれ、それはそれはカオスでしたがきっとすばらしく編集でなんとかしてくれることでしょう(笑)。

最後のオマケのトークで、「日本/アジアでは本当の意味でチャレンジが難しい国だ」という話がおもしろく、南北イタリアの信頼観のちがいについて教えてもらいました。

北イタリアはレッジョ・エミリアにみるように「一般的信頼」と呼ばれる成熟した市民社会や民主主義が台頭しています。一方、南イタリアにおいては、僕が大好きなドン・コルレオーネ率いるゴッドファーザーの世界であり、そこには多様性などといったものはなく、ボスが黒といえば黒となる「特殊的信頼」の世界だそうです。

ちなみに、僕はコロナ前のここ数年、南イタリアへ遊びに行き「レモンチェッロが最高〜!」としか覚えておらず、その特殊的で信頼な風を全く感じることなくとても残念であります。

この、チャレンジすることへの多様さを認めてもらえないこと、なにか声をあげたり、変えようとすること、新しくたくらもうとすることへ、ことごとく風当たりが強く、我が身にも覚えがあるところです。その意味で言うと、本校は、アジア枠ではあらじ、チャレンジと自由の台頭する民主的な学校と自負しています。

民主的でありたいと願う「一般的信頼」は即決できない多様な意見を引き取るだけに、時間もかかるしそれぞれの成熟度が求められます。汐見稔幸さんはそれを「(白黒つかず)決着をつけないしんどさ」と言っていたそうです。いつか汐見さんとも直接、お話が聞けるといいなぁ。

普段とまったく違うフィールドの人たちと、話をするとおもしろいなぁ、というなんとも落ちのない投稿でした。

失敗をしない限り、人はクリエイティブにはなれない

失敗をしない限り、人はクリエイティブにはなれない

コーネル大学の数学者であるスティーブ・ストロガッツの言葉です。

何よりもモガキながら進むことこそ重要なんですね。完璧な自分、専門家という自分をいかに手放し、知らないということの好奇心へとつなぐことができるか。

特に算数の授業で起こりがちなこと。「この問題はわからない」「できない」「答えられない」といった恐怖心は、何百万人の子どもたちに共通している感覚なはず。また、自分よりも他の子がより早く問題を解くことで「自分はできない」と思ってしまいがち。これらはその後の数学嫌いへと、しつこくつきまとってくる算数の呪いですね。

算数・数学が苦手なのは、決してその子になにか問題や数学脳の欠損があるわけではありません。そもそも数学脳などはありません。もちろんスピードの問題ではありません。これは個別最適化したカリキュラムを個別のペースで隠したところで、このマインドセットは解決されるものでもなさそうです。

失敗してもいいし、ミスしてもいい。そしてその失敗からこそ、学べることができる、と勇気づけてあげられること。僕は、このへんは思考の習慣だと考えています。一回っきりの教師からの「説諭」でも難しい。日々の授業や生活の中で、くりかえし体験し、その言葉への理解と体験が重なるところまで、日々反復連打し続けることだと思う。

その反復連打の中で「わからない自分がはずかしいと感じている」と正直に言えるようになってほしいし、自分もそうでありたい。その勇気はすごいことだと思う。「わからない。もっと知りたい」と、できない自分を受け入れること。そして、「あ、まちがえた。これはおもしろい!」「なんとかなるさ、これは挑戦だ」と思えること。こういうマインドセットの文化を育てていきたい。

そして、どうして、ここまで失敗の価値が語れるのに、失敗をいかして、もがくことがなかなかできないのか? 僕の中で一つ大きなブレイクスルーがありました。それは、知識を増やそうとする収集心が、今ある手持ちの知識で考えようともがき続けることを阻害してしまっている。そこに気付きました。

ケーキ分割問題という数学界では名の知れた有名な問題があります。ケーキや土地のような連続した物体を、二人以上の間で均等に分けて、それぞれの当事者が満足するように分けることができるか、という問題。これには多様の解法があると同時に、何年間も数学者を魅了し続ける問題でもあるそうです。

そして、このケーキ分割問題を、2人の若いコンピュータ科学者が劇的に解決してしまいました。この2人には、数学者が持っていたような豊富な数学の知識は持っていませんでした。そうなんです。「知らないこと」が、これまでの常識に縛られずに創造的に問題解決にアプローチすることができたのです。

「私たちの成功は、他の人よりもそのトピックについての知識が少なかったことが原因であり、それによって自分たちは違った考え方をすることができた」

と振り返っています。

僕は、この二人はきっともがいたに違いないと思っています。安易に、知識を集めようとせずに、今ある手持ちの知識を組み合わせ、統合させようと、常にぐるぐる考え続けていたんだと思います。

僕に必要なことはここだ!とピンときました。

何か分からないことがあれば、すぐに知識を増やそうとして対応してしまう自分がいます。でもそれって、「知っている」程度の浅いところでしかない。その知識は応用する、統合する、創造するところまで引き上げられていない。くんずほぐれず、今知っている知識でサバイブしようと考えることにコミットすること。これがもがく事なんだと思います。

失敗することはいいことだ。これは誰にでも言えます。一歩だけ推し進めて、失敗してもがき続けるには、「余計な知識を知ろうとするクセを手放せ、今ある知識でもがいてみせろ」。知識を収集することに注力することから解法された気がしました。知識を統合することにこそ、時間を割く必要があると思います。しばらくは、考えることにコミットしてみます。

ちなみに、僕が好きになってしまった数学者の一人、スティーブ・ストロガッツさん。TEDトークにも出ています。なぜ、魚や鳥がシンクロするのか数学的に解明しようとしています。まぁ、それよりも彼が素晴らしいのは、誰もが共通してもっている「微分・積分なんかオトナになってなんの役に立つのか!?」という怒りにも似た問いへ明快に答えてくれる良書があることです。ぜひ!

TED「驚くべきシンクロ現象」

Appleペンシルに負けるな!子ども時代に体験しておいてほしいこと

Appleペンシルになくて、鉛筆にあるもの、なーんだ?(答えは最後)

うちの学校には肥後ナイフの学習があります。僕はとてもいいものだと思います。ナイフは使い方によってはとても便利なもの。でも、自分を傷づけることもあるし、人を傷つける道具にもなり得ます。それだけに、子どもにどのタイミングで刃物体験がふさわしいのか、悩ましいところです。うちの学校では、その肥後ナイフを使う授業が1年生からあります。今回はコロナで少しだけしかできずに、2年生でも取り組むことにもなりましたが。

学校で刃物の使い方をちゃんと学べること。しかも小さいうちから。ここに僕はいいなと思うのです。肥後ナイフで鉛筆を削っているときには緊張感もあり、上手に削れたときには、「見て見てー!」と自慢もしたくなるし、「いいじゃんそれ!」となれば一人前として認めてもらえる。その経験は子どもにとって計り知れない自信となっているようです。その成長のとば口に立てる経験が肥後ナイフで鉛筆削りです。

僕も子どもの頃、じいちゃんから肥後ナイフをもらいました。使い方なんてよくわからなかったけど、かちゃかちゃ刃物がでるのが不良みたいで格好良かったのを覚えています笑。ちきり(ナイフの背にある突起で、これを押さえないとナイフが折りたたまれてしまい、柄を握っている指を切ってしまう)の使い方など自分で確かめていきました。それでミニ四駆を改造したり、心を静めようとお地蔵さんも彫ったりもしました。もちろん、何度も指を切り、少しずつ上手なケガの仕方を知り、ナイフの力加減も身につけていきました。今思うと、そういう体験こそが何かつくるときに「なんでもつくれそう」という感覚があるんだと思います。

先月。3年生の子どもたちが鉛筆の削り方を教えに来てくれました。子どもたちにとってはシャカシャカけずるお兄さん、お姉さんはキラリと輝く憧れの存在。自分も上手に、削れるようになりたいなと。初めて削った鉛筆はまだでこぼこだけど、どこか美しいものです。

その後、毎朝の10分間、自分の鉛筆や色鉛筆をピンピンに削ってきました。日々のカオスである教室は一変し、この時間だけはしーんとした空気がながれます。朝のマインドフルネスです。すごくいい。月曜日の朝が落ち着かない都市伝説はこれで変わりますね。

僕が「すごいな」と思ったのが、指を切ったりする子がいないこと。それは切らない指導法が徹底されているから。そして、刃物の危険やその安全な使い方を学べるから。このへんは昭和からの歴史と伝統を感じるし、それがあっての実践。子どもたちは「僕にも安全にできる!」そんな気持ちが持てるようになっています。なんてったって、ナイフは動かさずに鉛筆だけ動かすことからなのです。

先週末、その肥後ナイフの試験をしました。「集まれ!肥後ナイフの森10」プリントをつくって、先生達と相談して10の評価基準を共有してはじめました。はやりに乗っています笑 

そして、練習ではやっぱり思ったようにうまくいかない。最後の最後で、芯がポキッとおれてしまう。刃が削り幅に深く入ってしまう。指先にぐっと神経を集中させ、芯を削り出そうとするけど、ぼこぼこしてうまくいかない。これはほんとうに粘り強さがためされます。指先の巧緻性、やっぱり小さいうちから刃物に触れておく体験は大切だなと思うのです。なにより、手作業は子どものやりたいという気持ちを引き出してくれます。

鉛筆削り試験の途中、緊張のためか深呼吸が何度か聞こえてきました。いつもゆるりと家族のような教室で、たまにはピリリとこういう時間もいいものです。ピンピンにとがらせ、床に削りかす一つものこさず、片付けるところまで。やりながら向上していくのを見越して、8/10点以上を合格としました。そして、みごと全員が合格。帰りの会が終わって、下校の時間。最後の最後に一人となっても削っている子もいました。こういう姿を見られたこと、またいいものです。

合格したらいよいよ一人一本、肥後ナイフをラインドセルのチャックがある所しまう約束で持って帰ることができます。成人したらナイフを長老より手渡されるヒゴナイ部族のようです。なんか、厳かでした。子どもたちは「わーい。家の宿題で鉛筆削りができる!」と喜んで帰って行きました。

これまで僕は教室で刃物を扱うことにとても慎重派でした。子どもたち、しかもやんちゃな子ほど、ちゃんと扱おうとするし、それを通して落ち着きを身につけていることが分かってきました。ときには厳しい口調で注意するときもありますし。武道にも通じるものがあるんじゃないでしょうか。

先日、オンラインへの心配についてポストしました。誤解のないようにいっておきます。僕はICT大スキです! 便利な物はどんどん使っていけばいいと思っているプラグマティックな部分があります。それだけに、もっと多くの人とちゃんと子ども時代のコロナ時代のオンライン授業について議論していかないといけないなと、思いを新たにしました。小学校時代に、自分の世界や少し視野を広げて世の中、社会よりよくしていくためにできることを考え合っていける、そんな時代にしたいです。このあたりはまたじっくりと。

子ども時代、臨界期前に身につけることは一体どんなことでしょう。iPadの操作、腕一本の行動範囲でヴァーチャル世界にどれだけの時間をかけたらいいのでしょうか? 僕が思うに、子どもたちの指先感覚、ちょっとヒヤリとする経験から物事に慎重に、そして自分も人をも傷つける力を持っている怖さも、学んでいってほしいなと思うのです。

小学校時代に体験しておいてほしいこと。五感を使って経験すること。少し前はこういった当たり前だったこと、忘れないでいたいです。昭和かよ! っていわれそうだけど、たまには親指クリックだけじゃないことに目を向けて、真剣に取り組むのもいい時間です。小学校時代に、鉛筆一つ削れるかどうか。削ってきたかどうか。学力では試されないかもしれないけれど、なにか大人より上手に削れている子どものへへんとした顔はかっこいい。そして次は、また学年をまたいで1年生に教えに行くのが楽しみです。こうやって学校の文化をうけとっていくし、よりいいものにしていくんだと思います。

こんな時期だからこそ、学校にはいろいろ要求されます。今、子どもたちと相談しながら、身につけておいてほしいことを考え合っていきたいです。やるべき勉強は、あたらしいものだけでもプログラミング教育や英語教育と、時間とり合いだし、せめぎ合いです。小学校時代に、なにを大切にして、その時間を使っていくのか、その「核となる規準」をおちついて考え直してみてもいいなと思います。勢いに流されてしまっている自分にならないように。核となる規準をもっていれさえすれば、それにそぐわないことでも、オカミの言うことでも多少のことは上手に流せるんじゃないかな。

『この世界の片隅に』のすずさんのように、鉛筆一本をあたりまえのように大切にする気持ち。子どもたちに忘れずに持っていてほしいと思います。教室には、鉛筆がコロコロ落ちていたりするから。今度、子どもたちの中からモニター募って「筆箱中身、えんぴつ1本プロジェクト」をやってみたいな。提案してみよう。それだけで、いろんな気づきが生まれるんじゃないかなぁ。オモシロそーだ。

さて「Appleペンシルになくて、鉛筆にあるものなーんだ?」の答え。Appleペンシルはけずれませんから!と思った人いたでしょ。でもね、答えは、僕が思うに世界中とのつながりです。興味がある人はこちらの絵本をどうぞ。僕も毎年読んでいるいい本です。

『いっぽんの鉛筆のむこうに (たくさんのふしぎ傑作集)』

ちなみに僕はもういい大人なのでAppleペンシル2を購入しました笑。大人はいいんです。自己責任なのだから。

探究自学ノートをはじめました「知っていることを描き出すクモの巣マップ」

「わ〜!わたしすっごいたのしみ!はやくやりたーい!」と、素直な子からの嬉しい言葉にほっこりします。「えー、そんなのやりたくなーい」と、とんがり坊主に「こんにゃろめ、みておれー」とこれまたやる気に発破をかけられます。教室にはいろんな子がいていいし、いてくれることで深まっていくんだと。いよいよ学校が帰ってきたなぁと実感しています。

本格始動の探究自学ノート。これまでの学力やテストとのバランスをとる「自学ノート」とは少し方向転換。学習する人が、ほんとうにやりたいこと、知りたいこと、とことん楽しむための探究自学ノートを子どもたちと一緒につくっていこうと思います。休校中の3ヶ月、zoomで多くの先生達と交流しながらねりねりしてきました。満を持して、いよいよ実践スタート。

今年は2年生。1cm方眼ノートはちょっとまだ使いづらそう。そこで、12mm×17マスのさんすうノートを学年で購入。表紙には「さんすうノート」って書いてあるけど、気にしないことにしました笑。

この一月の間、国語の説明文で「ほたるの一生」から「問いと答え」と「順序よく説明」を学習してきました。そのパフォーマンス課題として「学んだこと(問いや順序)をいかして、自学ノートに自分の好きなことについて、調べて紹介しよう」としました。「事前に図書の時間(本校にはとってもすばらしいスーパー司書教諭がいて、こんな自学ノートやりたいんだけど、っと相談するとちゃんと形に整えて授業にしてくれちゃう)に、調べてまとめる練習を2回。いよいよ自分の興味関心のある本を1冊借りておいて、探究自学ノートづくりをスタートしました。

記念すべき1回目はノートを配って表紙に名前を書いたり、落書きしたり、自分だけの研究ノートをつくっていこうとわくわくする時間でおわってしまいました。それもまたよし。

そして、今日が探究自学ノートづくり2回目。クモの巣マップを使って「知っていること」のあらいだしです。これは、数学者の時間の数学的思考プロセス「問題解決サイクル」の計画段階にある「①分かっていること(知っていること)」「②もとめること(知りたいこと)」「③使えそうなこと」から、運用してきました。

僕の中に、問題を解決するときはいつも同じ思考スキルが使えるんだなってことが一つつながった

経験でした。これでますます、算数授業や数学者の時間がやりやすくなりそうです。

さて、各自がすでに選んでいる興味関心のあるテーマをもとに「分かっていること(知っていること)」をクモの巣マップで棚卸しからはじめました。最初はまず、僕から最近飼い始めてきたニャオタローのクモの巣マップで学習モデルを示すところから(まぁまぁいいかげんなモデルでOKとし、これを越えていってもらえるといいなと思っています)。

これを見た子どもたちの様子がこの冒頭のやりとりでした。子どもたちの反応はすこぶるよかったです。素直な反応が飛び出てきます。

  1. ノートの見開き2ページ、真ん中に拳骨大にテーマのイラストをかきます
  2. そこから知っていることを枝でつないで、どんどんのばしていきます。めざせ3回!

ただ、これだけのこと。中心のテーマから「枝だし」するには、その大分類と小分類との親子関係を理解するのが難しい子も数人もちろんいましたが、ニャオタローモデルとクラスの子たちからのアイディア「しゅるい」「とくいなこと」「いろ」「たべるもの」など、紹介しあうことでお互いフォローできました。次の時間は、この「枝だし」の親子関係をわかりやすいように(しゅるい > ざっしゅのネコ > 白と黒)カードを作っておこうと思います。

2年生なりにもぐちゃぐちゃしながら描いているのはとってもいい。きれいじゃなくたって、知りたいことを出すことで、知らないことやもっと知りたいことを見つけるおもしろさを感じてもらえるといいなと思っています。最後は、お互いのノートをギャラリーウォークで見合っておわり。自由に質問したりしている子もいました。

帰りの会のとき「本を持って帰ってはやく知りたい」とうずうずしている男の子がいました。「次の時間、質問作りをするからまだ、学校においといて読みたいのをがまんしておいてよ」と声をかけましたが、かくれてこっそりもってかえっていました笑。その子は、短い休み時間にも本を開いて恐竜のイラストを真剣に写していました。なにかはじめると、それにひびいてくれる子どもがかならずいる。そういう姿につきうごかされて、またがんばれるんだなぁと思うのです。

いやー、いいスタートがきれました。学びのスイッチがすちゃッと入るかんじがしました。

今回の探究自学ノートの取り組みで、これまでの自学ノートの概念を更新していけるといいなと思っています。休校中でも、自分で勝手に夢中になれる学び方を手渡せるといいなと思うのです。学校からの請負仕事(宿題)からいつか開放されて、本当に夢中になってやってみたいこと、知りたいこと、そういうことをとことん学ぶしくみやそのコミュニティを学校の中につくっていきたい。

以前のNHKでやっていた「ぼくの自学ノート」はまさにそれだったと思います。とてもステキな取り組みでした。

受験勉強にはムリ!?梅田君の探究的自学ノートで学んでいることとは? 「ボクの自学ノート~7年間の小さな大冒険~」 から

http://projectbetterschool.blogspot.com/2019/05/blog-post.html

あー、楽しかった。

分散登校がはじまりました

少しずつ新学期がはじまりました。ほっと一安心。やっぱり、子どもたちと面と向かってみると、会うことでしかわからない「なにか」が発動されますね。その「なにか」に突き動かされて、あれやってみよう、これをやってあげよう、と動き始めてきました。場を共有すること。その場にいること。とても大事なんだと思います。

遠隔操作でちゃちゃっちゃと、効率的に学ぼうとすることはやっぱりちがう。それは、もともとやる気のある人ができることだと思う。多くの家庭では、オンライン学習でやる気をうしなってしまっている記事も度々目にしました。

けれども、この期間中、オンラインでつながっていることは、つながれないことよりはぜんぜん「まし」。これって相対的でしかなくって、ただのましでしかないってこと。一歩、たちどまって考えてみたい。学校って何を大切にするところだったんだろう。体験することや五感で味わうこと、人とふれあって楽しんだり、葛藤したり、そういう時間を大切にしていきたい。オンライン学習への立ち位置はまたじっくり考えていこうと思う。今後も切っても切れないことだろうから。

本来、学校は、だれもが一緒に場を共にして、学び、考えあっていけるところ。今、ここを大切にしていこうと思う。どんなに立派なことをいったり、崇高な理念をもっていたとしても、今、ここでなにをしているか、どのように子どもたちとつながろうとしているか、そこと大切にする自分でいたいし、そういう人といっしょに学びあっていきたい。

まだ、分散登校の今、少人数だからこそできることはなんだろう?

PAのジップザップをやりました。ジップ光線をザップ光線ではねかえす超キケンなアクティビティ。教室にスポットマーカー(島)を1〜2m間隔でサークルに置いて、遊びました。そこの上からおちたらうんこ地獄だぞと。こういうときの子どもたちはおもしろいですね。つまさき立ちで、「うんこうんこ」といかにもうれしそう。

ジップ・ザップに夢中になると、子どもたちは、ついつい真ん中に集まって密になってしまう。けれども、スポットマーカーをおくことで、この悩みがいっきになくなりました。だれを指し示しているのかも明確。失敗するのに、なぜか大笑い。あぁ、こういう時間だ。こういう時間は家では味わえないものなんだ。ちょっとどこか高いところで自分の気持ちをモニターしている自分がいました。たった12人のジップザップだったけど、午後のグループの子どもたちは、中休みにも楽しそうに遊んでいました。

少しずつ、今年がはじまりました。今年は24人の2年生を担任しています。ゆっくりと、子どもの気持ちにチューニングしていけるよう、心のゆとりを大切にしていこうと思っています。どんなアドベンチャーがまっているのかな。学ぶこと、考えること、人とつながること、失敗しながらもたくましくのびていってほしいです。あくせく、せかせかすることなく、ゆったりと今、ここの時間をあじわっていこうと思います。

は〜、よいよい。

自分にとってどんな創造的な時間だったのかな?

学校が再開されました。この失われた3ヶ月は一体どういう意味が自分にあったんだろう? 慌ただしい中で、ちゃんとふりかえらないとするりと忘れ、失われてしまいそうです。


つくづく学校とは、人との関わりの中ではじめて成立するものだとわかりました。どんな人であれ、どこにいても、だれかとつながっていることが、励みとなるし、生きていく糧になるんだと。


その意味で、子どもたち一人ひとりとの個別メールはとても意味があったし、先生も、子どもも、保護者でさえも「つながり」を求めていました。そして、この休校中の時間を、これまでできなかった「創造的な時間」にしてほしいと学校からなげかけてきました。この部分は本校ならではのよさがでたものだとふりかえっています。漢字を進めたり、復習ドリルづけのあまり意味の感じられない、網羅するような学習とは一線を画すことができたはず。


一方、その創造的が家庭任せでなかったのかも、あらためて振り返っていく必要があります。遠隔教育では、フォローしてくれる保護者の家庭教育力の格差がでてしまいかねません。特に、医療従事者の家族にとっては、はたしてどこまでつながり、支えることができたのか。このあたりのことも、同僚と期をみてふりかえりたい大切なテーマです。


今年は研究事務局長なる役割があり、この数ヶ月を思い出すと、決して自分の仕事の範疇だけではないことにまで首をつっこんでしまったことが反省でもあります。ただし、こういった緊急事態は、気付いた人がやることが、この緊急事態をしのぐもの。これまでの指示系統が通用しせず、1週間先の社会状況も読めないとき、これまで通りのマインドセットではうまくいかないことがわかりました。

はたして、自分はどれだけ、だれがやってもいいような「草むしり」を自分の仕事として、取り組むことができたのかな。それなりに取り組んではみたものの、これまで本校が大切にしてきた民主的なプロセスだったか?といわれたら、そうとは言い切れない時間に追われる提案の日々でした。

こういったときに、やってもらってあたりまえではなく、「ご苦労さん」「ありがとね」と自然と声をきけると、なんともまあ単純で、またがんばってみようかなと思えてしまう自分がいます。

さて、果たしてこの3ヶ月間、自分の過ごし方が創造的な時間だったのでしょうか? 

思いつく限りのことをあげてみると、新聞の連載を書き上げたこと、イタリア料理の研究をはじめたこと、そして、全国の先生達とフェイスブック上で探究自学ノートの研究をスタートさせたこと。遊び心をテーマにシーズン2を向かえ、残すことあと1週間となりました。zoomをつかった学習サークルの運営方法にもあるていど手応えをもつことができました。


僕にとっては、この探究自学ノート(TQJ)のメンバーで毎週火曜日と金曜日の夜、zoomを使って日付が変わる時間までいろんな教育話やどうでもいい話ができたことが、なによりも「創造的な時間」でした。クリティカルな気づきは、話し尽くされた深夜に訪れることもおもしろい見地でした。

ここでは自分だけでつくれるものは、案外たかがしれているものです。人のアイディアや人とのつながりをいかしながら、共に考え、もがいて、悩んで、形にしていく探究の学び。zoomの共有会議だけではなく、その間のグループ間でのやりとりも刺激的で、オンライン学習とは一体なんだったのか? も自分なりに検討することができました。


人とのつながりは大事だな。と、素直におもいます。それが、この分断された社会状況だからこそ実感できました。


まだまだ、このコロナ対応で人とのつながりを分断するような新しい生活様式はつづいていきます。一方、その中でもできることを見つけてやっていこうと、思いを新たにしました。


ただ、なによりもくやまれるのは、昨年度の大スキだった子どもたちとの授業じまいができなかったこと。美しい算数アドベンチャー。2年越しの取り組みだっただけにそれぞれが追求した算数の美しさのプレゼンをみられなかったのが、本当に悔やまれます。あの子達だけ、留年にして一緒に学びたいぐらいです笑。

今年は、2年生の教室を任されました。2年生の子どもたちとzoomでつながっているときの顔は本当にいきいきしていて、かわいいものです。いろんな不安を抱えている子もいるはずです。この失った3ヶ月のをとりもどせるかわかりません。それでも、また今年も笑いながら取り組むのがいいなと思います。

最後にいい詩をみつけました。

楽しさとは、

あなたの学んだことによってもたらされる心のありようだ。

学ぶとは、

このような楽しさを経験するとば口を、

くぐろうとすることだ。

楽しさなくして 学びなし。

学びなくして 楽しさなし。

ワン・ケン『喜びの歌』

算数アドベンチャー 美しい算数編1

6年前、こういったことをやりたかったんだろうなぁとつくずく感じています。当時はまだ数学者の時間がなんなのかもまったくみえておらず(それもそのはず、そもそもそんな実践なかったので)、ここ数年ずっと引きずりながら、学びながら、もがきながらやってきたこと、いろんなものがつながって、ようやっと一つの実践になってきそうな予感です。はい!まだ予感です。計画段階なので、なんとでもいえちゃいます。

  • 学級づくりと学習コミュニティ
  • 一斉指導とミニレッスンのちがうことと同じ事
  • 年間を通した探究と学期ごとの探究
  • コンピテンシーを越える好奇心
  • 問題解決のサイクル(数学的思考)と問題づくり
  • 知識づくりとmeaning making
  • 概念と学習の転移・パフォーマンス評価とものづくり
  • 共有の時間と共通のテーマ
  • 形成的評価とフィードバック
  • 個別カンファランスと明確な学習目標
  • ルーブリック評価と発表スキル
  • 構成的な学びと非構成的な学びのバランス
  • 学習者による学習の選択とモチベーション
  • ひとりひとりをいかすための教科書の教材化挑戦的な課題とフロー
  • 算数授業との往還
  • そして、教科の専門性こそ学習者へのガイド

こういった部分、部分、これまで学んでできたことが、僕の頭の中ですこーしずつ、つながりはじめてきました。まだ詳細でばっちりな学習計画にまで落とし込めていませんが、走り出せそうな予感とわくわくする楽しさ、そして、うまくいくのかちょっとした不安。


けど、たぶん楽しい学びになるはず。子どもたちはすごい力があるのをみてきたから。そして、同時期に取り組もうと準備している、他校の仲間の実践に刺激をもらっているから大丈夫。

いよいよ来月から、「算数における美しさをみつけて、表現しよう!」を大きな目標に探究する算数、はじまります。2ヶ月後が楽しみです。
そおさ〜、今こそ!算数アドベンチャー!!(こういうの古いっていわれるけどしょうがない)

学習サークルLAFT in 仙川スタートします

学びの場をは再会と思います。100回を越えていたLAFT(Learning Association of Facilitative Teachers)も1年以上お休みが続いていました。いよいよここで授業づくりにコミットしたいな。

興味のある方、一緒に学び合い、考え合いませんか?

教師の学習サークルは、なかなか継続が難しいものですね。多忙の中で、さらにプラスアルファで学び続ける。ありまえっちゃぁ、あたりまえなんですが、しんどいときも多くあります。また、サークル内だけでは、なかなか深まっていかないことも!? 僕は、これまでずっと1回性の学びでは意味がないなぁと思い、継続した学習チームが必要だと思っていました。そういう思いでLAFTを続けてきました。けどそれだけではやっぱり足りなくて、

・人が成長するには、試行錯誤する一定の長さの時間軸が必要でした。

・学びが深まっていくには専門性や良質なインプットが必要でした。

・学んだことを、とりあえず少しでも形にしていくアウトプットも必要でした。

ようやく欠けていたピースがそろった気がします。まだ、気だけかも知れないけどね。。。

そこで、今月10月から、毎月1回ずつの5回を1シーズンとした学びの場を京王線仙川駅にてスタートします。できれば、少人数にして、対話が深まる場にしたいと思っていましたが、すでに20人近いメンバーの希望があります。どうするか、また考えます。

「お気楽いつものメンバー」ではなく、多様性を担保する意味でもいろんなジャンルやいろんな経験層の方たちとも、継続して学び合ったり、考え合ったりできるといいな、と思っています。

今回、最初のテーマにしたのは「教育のエビデンスを活かす」です。学習にどのようなことが効果が高いのか、なんとなくわかっているけれど授業にまで活かすことができていない現状があるんじゃないかなぁと。そこを、ガッツリと教育エビデンスをむしゃぶりついて、教育エビデンスを最大限に利用した授業実践をしよう!という教育エビデンスの半年です。

そこで、専門性を磨くためにもテーマ本を決めました。今回はハッティ著『学習の可視化を授業にいかす』です。8年ほど前、まだ未邦訳だったため、しかたなしに洋書で同僚とブッククラブをしましたが、いまいち理解が進まなかった本。ありがたいことに邦訳されてます。

ここには、何が学力に効果的なのかエビデンスの面から明らかにされています。例えば、学習に効果が高いことには、「学習者の自己評価をいれること」「カンファランス(相談・介入)指導すること」「信頼される教師であること」「形成的評価すること」などが挙げられています。

これらを自分の教育理念に照らし合わせて授業をみたとき、今よりも、もっとよりよい形で授業を授業知識、授業技術面からサポートしてくれるはずです。そして、ちゃんと実践に活かしたからこそ、エビデンスの効果あるなし、意味のあるなしを、いい意味で批判的に受け止めていけるとよいです。

一人ではなかなか読み解くことが難しい本を、メンバーと交流しながら、授業実践に継続しておりまぜながら、半年間、読みながら考えてやってみると試行錯誤してみること。しかもこれを無料で!やってみようという試みです。すでに、他の県からとのコラボの話もあります。

一人では読みがなかなか深まらない教育専門書をかたっぱしからやっつけて、今の興味に沿って学びの場を作っていこうと思っています。おもしろくなるぞー!というか、おもしろく一緒にしませんか?

というお誘いです。今回は、コアメンバーの若干名を募集しています。LAFTでは、コアメンバーを中心に進めていきます。コアというだけに、コアな体験をコアにできると思います。けど、大変です。その見返りは、ゆるりと半年すごすよりは、あるんじゃないかなぁ。

また、今回、がんがん実践は今は難しいけど、一緒に本を読んで考えて、学びの場に参加してみたい、飲み会だけは参加したいぞ、というオブザーバー参加にも詳細に興味がありましたらご連絡ください。日程や内容の詳細と簡単なアンケートを送ります。

現在、ハッティ著『学習の可視化を授業にいかす』は8冊ほど、アマゾンに在庫があります。LAFT参加希望の方は、本が売り切れる前に手に入れておいてください。そうじゃない人は、買わないでね笑。

一人ひとりをいかす算数授業 その①

算数は、単元内自由進度はやめました。

僕の未熟さもあり、子どもたちにとっては算数はスピードレースとなりがちだったので。今では鬼の形相で「算数にスピードはいらぬ!」と優しく訴えています。

進む子はどんどん先にいって、満面の笑みを浮かべて、算数大好きとなっていく。一方、学習方略を持たない子にとっては、なんだかいつも遅れをとり、置いて行かれている感じがどこかに残ってしまう。先生や友だちもサポートしてくれるんだけど、まだまだ自信が足りない。

そもそも、やるべき課題がズラーッとならんでいる単元表を渡されるのも、なんだか気持ち悪いものです。すでに学びにエンジンがかかっている子にとっては、単元計画表などの見通しはやる気に変わる強力ツール。けれども、まだ自分の学びの責任にコミットできない子にとっては、かなり苦しい。フルマラソン42.195㎞にいきなり挑戦させられるようで、不安が先行してしまう。

これを支える安心感のクラスの関係性や学習内容や課題の調整、そこでの試行錯誤の時間こそが大切だといわれれば、そうなのかもしれない。けれども、ぼくはどこか他の道はないかと模索してみました。

一人ひとりの理解度にそった授業を「継続して」できないかな?

そう思って、4年わり算の習熟では、一人ひとりの意欲もそうだけど、安心してやれること、その子に応じた課題があるといい。習熟の早い子も、普通の子も、時間のかかる子もだれもが「うーん」と頭をひねってシナプス爆発フィーバーしていてほしい。

これまで、『一人ひとり〜』関連本をいくつか読んできたけど、日本の教育実践で継続して取り組めるイメージがわかなかった。なら、つくるしかないかな。このおいドンが!と思い、一人ひとりに焦点を合わせた授業づくりをはじめてみました。

しばらく、そのことについて考えたことややったこと、効果があったことや効果がなかったことなど、記録していこうと思います。