学級づくり

「数学者の時間」は資質・能力を育てる

神奈川県の鵠沼にある湘南学園小学校で開催された関東地区私立小学校教員研修会にて、「数学者の時間」について算数部門で実践報告をしてきた。

この研修会には、東京都の私学を除く神奈川県、山梨県、長野県など広範囲から参加者が集まり、特に算数に興味・関心のある先生方が多く集まっていた。僕としては、「数学者の時間」が算数教育に携わる先生たちにどのように伝わり、どのように評価されるのかがずっと気がかりであった。

研修はあっという間の3時間で、その後の質疑応答でも多様な質問が寄せられ、深く考える機会をもらえた。ある先生からは「日々の算数授業で資質・能力を高めようとしても難しいが、週に1回『数学者の時間』として取り組むことで、考える力を通じて資質・能力を育てることができるのではないか」というフィードバックを直接いただき、非常に励まされた。

「数学者の時間」の実践は、既存の算数・数学教育に対して新たな課題を投げかける側面があり(新しい実践には往々にしてそうした側面があるものだが)、受け入れられるか不安もあった。しかし、「なるほど、少しは文科省の役に立つ実践になっているのか」と前向きに捉えることができた。

また、子どもたちの実態を見ても、「数学者の時間」を本当に楽しんでいる子どもが多い。しかし一方で「考えることを楽しめない子どもをどう支援すべきか」という質問をいただき、大きな課題も浮かび上がってきた。このあたりも教室の姿をもとに、取り組みを描き出せるといい。

この時期は入試、研修会、LAFT、バスケの練習や観戦、『ゴースト・オブ・ツシマ』などに追われ、忙しい日々を過ごしていたため、なかなかじっくりと振り返る時間を取ることができなかったが、一区切りがついたので、年末に向けて少しゆったりと過ごせるといいなと思う。

最近は毎日8時間の睡眠を心がけているので、疲労やストレスにも強く、基本的に元気でしかない(笑)。

中動態でかわる、子どもの理解やとらえ

先日、「これって、中動態じゃないですか?」「幼稚園の実践をぜひ読んでほしい」と勧められ、その記録を読ませてもらった。それは保護者と共有するためのもので、ある幼児が雲底で挑戦したい技を見つけ、それがいつの間にか周りにいた子どもたちにも浸透していった実践記録だった。やがて「私とみんな」の境目が失われ、ふとした瞬間にまた「雲底をしている私」に戻る場面が描かれていた。その文体は非常に柔らかく、子どもの姿を鮮やかに捉えていて、読むだけで清々しい気持ちになれた。

中動態を学ぶことで、これまで見てきた子どもの姿に、これまでには見えなかった、または何となく見えてはいたけれど、うまく言語化できずに腹落ちしていなかったことに、たびたび出くわすようになれた。これは幼稚園でのいきいきとした遊びの実践に限らず、教室で日々起こる問題の数々についても、同様に見落としていた部分が見えるようになってきたと感じている。

教室でのトラブルもその一つである。子どもたちは日々、さまざまな失敗やトラブルを起こすが、これも大切な学びの場面である。叱られたり、考え合ったりする中で学んでいくことではあるが、決して問題を封じ込めてゼロにするべきことではない。

友だちとケンカしたり、物をなくしたり、忘れ物が多かったりといったことは、多くの場合、その子の責任として教え諭されたり指導される。でも、「中動態メガネ」の視点で見ると、その問題をその子一人にだけ背負わせるべきではないケースも多く見受けられる。教室環境や友だち関係、教師との関係、さらには家庭の影響など、さまざまな要因が絡み合って今の問題が生じていることがある。教育現場にいると、こうした多面的に見なければならない問題があることを痛感する。

確かに、こういった問題は、その子一人の責任だけでなく、関わる全ての人が「ゆるやかな・弱い責任」を持っていると気づかされる。だからこそ、集団の中で、「自分にもできることがある」「いっしょに改善できることがある」と一人一人が感じられるような共同の場を築くことが大切だと考えられるようになってくる。

中動態を学ぶことで、子どもが遊んでいる時や問題行動を起こした時の「捉え方や理解の仕方」そのものが変わってくるのをしみじみと感じている。

中動態について、『中動態の世界』の著者である國分功一郎さんとともに、今の教育現場を見つめ直す学びの場が開催されます。今日や明日にすぐ役立つものではないかもしれませんが、子どもの見方や教育の捉え方をじっくりと醸成する「中動態の視点」を、一緒に学んでみませんか。現在、参加者募集中です!

https://www.kokuchpro.com/event/4317e3efcba7240ec09eef46a8cc0775/

教師をこえていく子ども

新学期が始まり、慌ただしく1ヵ月間が過ぎてしまった。運動会も無事に終わり、この二日間は久しぶりに家でゆっくり過ごすことができた。これまで気になっていたことをやったり、家事をやったり、日々のメンテナンスをしたり、少しずつ自分を取り戻せるような丁寧な時間が戻ってきた。このペースでじっくりと2学期の歩みをすすめられるといいなぁ。

以前、担任した子どもから連絡をもらった。子どもといってもその子はもう来年から社会人。教員採用試験に合格したので、教壇に立つとのこと。

今の教育現場は大変なこともきっと知っているだろうし、その中で「あえて」学校の先生になってくれることは本当に嬉しい。どんな先生になるのかとても楽しみでしかない。

その子のことを思い出してみると自主学習もしっかりやっていたしっかりものの女の子だった。多分ちょうど自主学習ノートの本が出版したときの頃の子どもたちだったと思うから、もう12年以上も前のことだ。

久しぶりに、その当時の子どもたちのことを思い出してみた。いくつか通信もでてきたけれど、あまりにも恥ずかしすぎてヤバい! よくあけっぴろげに、思ったままに通信を書いていたことか! 読むに耐えず閉じてしまった笑。

けれども、等身大で子どもたちと関わっていたあの頃の自分を思い出してきて、なんだかやっぱりこの仕事っていい仕事だなって、大事なことを思い出させてもらった。

僕は今、どうして先生しているんだろう?

当時は子どもが好きで、管理職にバレないように、楽しいことばかり考えていた。勉強とかそっちのけだった。よく屋上でこっそりと遊んだ。屋上という場所は格好の遊び場だった。みんなで座布団もって昼寝もしたり、スイカ割りもしたり、雪合戦もした。楽しかったな。

あの頃に比べるとなんと今はマジメでツマラナイ先生になってしまっていることか。。。

とはいうものの、子どもたちには、どんどん伸びていってほしいなと思っている。教師としての自分を軽々と越えていってほしい。教師をやっていて、これにまさることはないなぁと思う。越えていくタイミングは人それぞれだけれども、1年の時もあるし、それが12年経ってからのこともあるから、この先生って仕事はおもしろいなぁと思ってしまう。

SNSのおかげもあってか、「先生になりました」という連絡を毎年もらえるようになった。何か、僕が何か影響を与えたことはないと思っている。でも、先生って仕事は悪い仕事じゃないんだということが伝わってると思うと、まんざら悪い先生でもなさそうかな。

はてはて。あと何年、こうやって子どもたちと一緒に学校していられるのかなぁとふと思う。

最近、DELLの27インチモニターを買ったら、作業効率爆上がりになって、ますますモニター時間が増えてしまいました笑。ガジェット大スキ。

学びの本質は「開かれたからだ」にある

そもそも「よっこらしょ」って、気持ちを入れ直さないと始まらない、学びってなんだろう? 

やってみたいなぁ、知りたいなぁ、もっと考えたいなぁ、などと、何か「からだ」からの声を聞きながら自然に始められる学び、そんな学びが本来の姿ではないだろうか。

一つ、そのヒントは子どもの遊びの中にあるんじゃないかなぁ。

小さな子どもたちの遊びは、遊びそのものに没頭している。何かを考えてから動くというよりも、その遊び、活動自体に夢中になり、その没入感の中でその子らしさが現れてくる。さらに「いいこと思いついた!」に巻き込まれるかのように、遊びが変化していく。これはいわゆる「命の響き合い」として表現される。

多くの学びは知的なもの、つまりメタ認知的な思考や操作を要求される。しかし、そういった「あたま」を使うこと、それだけで本当に十分なのだろうか?

僕たちは、近代的な思考様式を学ぶことで、何か大切な「身体性」を失っているのではないだろうか。このことは中動態を学ぶことから大きく気付かされることばかりだ。こういった疑問をもてるようになったことは、中動態を理解しようとする試みの中で、深く考えさせられる利点だと思う。

昨年度末の数学者の時間は「物を使って考える」というテーマにこだわってみた。やはり、具体的な物や半具体物を使い、それを操作することで人の思考は活発になっていく。

ここから考えをさらに広げてみると、人が「考える」という行動に移るのは、「考えたくなるから考える」のだと思う。

では、どうすれば自然と考えたくなるのだろうか? 

その答えの一つは「からだを開く」ことにあると思う。逆説的ではあるけど、からだを開くためにはまずしっかりと基礎基本を学ぶ必要がある。学びを通じて土台としての基礎を身につけ、その上で一度それを手放すこと。

つまり学んだことにとらわれすぎないことが大切だろう。アンラーンすることで、初めて何か新しいものが立ち上がってくる。そして、その瞬間には開かれたからだが必ず存在している。この構造はまっくもって中動態のようなものだ。

学びと身体はつながっている。この考えは、多くの本で語られているし、禅思想の中でも強調されている。

今、遊びや学びについて少しずつ理解できるようになってきた。単なる未来予想から差分して必要な力を身に付けるような浅薄な学力観にならないようにしたい。

今、子ども自身を主語にして考えること。

そして、人が学ぶことや遊ぶこと、その本質とは何かを考えていきたい。

西平直『稽古の思想』

矢野勇樹さんの論文があまりにもいいと書いたら、連絡をいただけた。そのとき、中動態という言葉を使ってはいないけれども、中動態のプロセスを考えていく上で参考になる本だと紹介いただいた。

今週、丁寧に読み進めてきた。中動態について理解しようと思って読み始めた本だが、それ以上に深い知見が描かれていた。今の自分の持っている思考の枠組みが溶かされていくような感覚になる。この本は一読をお勧めする。世阿弥の稽古の考えをベースに、これほど難しい概念をわかりやすく述べた文章は他に読んだことがない。

『遊びは、授かった命をいきいきと輝かすこと』

次の10年間の学校ビジョンを作成するため、夏の研修で話し合った案をもとに整理し、広報用のパンフレットにまとめる作業を進めていた。僕は、この話し合いのプロセス自体がとても重要だと感じている。なぜなら、職員全員で「どんな学校にしていきたいか?」を話し合い、共通ビジョンを合意してつくり上げることは、学校づくりには欠かせない仕事だからだ。

今回の話し合いの中で、「学び、遊び、自治の過程を大事にする」という一文を提案した。遊びを通して友だちとケンカしたり、うまくいかない過程そのものが、子どもたちにとって大切な経験になるのだと夏の研修で意見をもらっていたので、「学び、遊び、自治の過程を大事にする」という表現を並列にすることにした。

しかし、校長さんが「遊びって過程じゃないんじゃないかな」と意見をくれた。その時はピンとこなかったが、よく考えてみると、学びは結果に至るまでのプロセスが大事であるとよく言われるが、遊びは結果を求めるものではなく、遊ぶそのものに夢中になることが本質だと気づかされた。遊びには、時間の感覚を忘れ、その瞬間に没入する力があるものね。

3時間半の会議はあっという間に過ぎ、言葉の背景にある願いや思想を語り合う時間の価値を感じることとなった。

その後、校長さんからも「遊びは、授かった命をいきいきと輝かすことだという考えをもっています」というメールが届き、さらにその考えを深める、じわっている。

学校の歴史を振り返ると、昔は「無だ!」と、教育目標すらなかったという話も聞き、驚かされたが、それもまたこの学校らしい。今後、変わりゆく世界に対応しながら、学校目標を時代に合わせて手直ししていくことも含め、素敵な学校づくりがまだまだ続いていくのだと感じている。

○○メソッドの前に、考えたい教材の価値 あり方とやり方を捉え直す

今日の午後は、比較的ゆったりと学級事務や校務に時間を割くことができ、同僚と興味深い話をする機会を得た。

教育界では「新しいメソッド」への関心と実践が進んでいるが、重要なのは、方法論に先立って「どのような教材を扱うか」である。子どもたちに何を伝えたいのか、扱う教材やテーマがなければ、方法論は空虚なものになるのではないか。

なるほどと首肯すると同時に、自分の実践ではどのようなテーマや教材を子どもたちと共有すべきか、自問してしまう。

この学校独自の文化を大切にしながら、それを温故知新の精神で時代に合わせて変えていくとは、何を意味するんだろう。

最近は算数に関連することが多いが、僕は「良問」と呼ばれる教材を通じて、子どもたちに算数世界の幅を拡げ、考える楽しさの共通の体験したいと考えている。そのために「数学者の時間」という実践方法を導入しているが、メソッドとは言えるほど一般化できる訳でもなく、そこにはやはり、どういう算数でありたいのかが埋め込まれているつもり。

あり方とやり方は、やはり密接に繋がっているものである。

手元には西村佳哲著『かかわり方のまなび方』という懐かしい本があり、文庫版で改めて購入した。この本は、あり方とやり方について考えるための補助線を与えてくれたものである。

“ある成果を形にするには、それを実現するための技術や知識がいる。しかし技術や知識は何を持って良しとするのかといった考え方や価値観があることで初めて生きる。さらにその基盤として、物事に対する態度や姿勢、別の言い方をすれば、あり方や存在がある。”(P.34)

“僕は上側の技術や知識については教えることにあまり抵抗感を覚えないようだった。教えやすくもある。しかし考え方や価値観になるとブレーキがかかる。それは外から与えられるべきものではないと感じているようだ。あり方や存在に至っては何かを言わんやである。”(P.35)

最近は新しいやり方やメソッドを耳にする機会が増え、研修に参加することも多くなっている。昨日もラフトで中動態について考え、その授業設計の実践化にまで話が及んだ。

このようなメソッド化によって失われこぼれてしまいがちな教育哲学や思想を大切にし、自分らしさや学校らしさが反映されたあり方が通底する教材を通じて、方法を学ぶ仕組みを築いていく必要があるんじゃないかな。

中動態から見えてくる子どもの遊び 主体性よりも関係性と文脈の力

明日は久しぶりのLAFT。今期のテーマは中動態で第3回目。僕は中動態という視点を得たことで、ものの見方が大きく変わったと感じている。特に「主体性」といった非認知能力が個人に備わっているという考え方が柔軟になった。「やる気のスイッチ」というものは、自分で入れるものではなく、ましてや他者がオンにしてくれるものでもない。むしろ、自然にスイッチが「入っちゃう」ものだと理解するようになった。

この中動態への理解に関連して、個人の中に能力が埋め込まれていて、それを伸ばすという教育観だけではバランスが悪いことも分かってきた。人の能力は個人の中に完全に備わっているものではなく、文脈に埋め込まれていて、流動的で場に依存するものである。そのため、現在の教育が一人ひとりの個別能力を伸ばすことに重点を置いていることに対し、違和感を抱けるようにもなってきた。

人が成長し、学び、知識を得る場面は、より社会的で協働的なものであり、単に情報を伝達したりダウンロードしたりするだけではない。人が成長し、生きていくということは、共に集まり、つながり、考え合い、より良いものに変えていこうとする行為そのものである。協働を通して能力を発揮し、より良いアイディアを見つけ、知的に活動することこそが要諦だと考えられるようになってきた。

中動態とはなんなのだろうか。

2016年に國分功一郎の『中動態の世界』によって広く知られるようになった。私がこの言葉を知ったのは、幼稚園の研究に参加したときである。中動態は、古代インド・ヨーロッパ語族(サンスクリット語や古代ギリシャ語)に見られるもので、能動でも受動でもない、第三の態である。これは、私を「場」として立ち上がるものを示す概念であり、「内と外」という構造を持っている。

このような考え方を持つ中で、子どもの「遊び」をどのように捉え、理解し、仮説を立てるかを学ぶ際には、中動態という概念が欠かせないと感じている。私たちは普段、能動と受動という二つの視点から物事を捉えているが、これは近代において発展したものであり、あまりにも当たり前になりすぎて、自覚することが難しい。しかし、中動態というもう一つの視点を知ることで、能動や受動だけでは見えなかった新たな視点が広がってくることが実感できる。

例えば、保育の実践において、子どもの遊びは能力育成に欠かせないとされているが、これを個人の問題として捉えることには限界がある。「いいことを思いついた!」という瞬間をどのように解釈するのかという問題に直面した時、能動的に「遊ぼう!」と思って遊んでいるわけではなく、また受動的に「遊ばされている」わけでもない。こうした能動と受動の対立構造では、子どもの遊びを正しく捉えることができない。ここで必要となるのが中動態の視点である。

子どもが「いいことを思いついた!」と言う場面を考えてみると、これは私が意図的に思いつくのではなく、その場にいる友だちが木に登ってみる姿、そこから飛び降りようとする姿などに触発され、私を「場」として、私の内側から自然に「いいこと」が思いつく状態を表している。その結果、私はその場に影響を受け、思いついたことを実行したくなる。遊びを中動態的な見方で捉えることで子どもの世界の豊かさがより見えてくるようになってくるのである。

この考え方については、佐伯 胖 (著, 編集), 矢野 勇樹 (著), 久保 健太 (著), 岩田 恵子 (著), 関山 隆一 (著)『子どもの遊びを考える: 「いいこと思いついた!」から見えてくること』の第1章から第4章で矢野が詳しく論じられており、とても参考になる。いつか対話してみたい人のひとりである。

近代の視点では、能動と受動、遊びの主体性や受動性について捉えるが、これだけでは不十分である。意思とは、単なる責任や意図の問題だけではなく、私たちが生活する文脈と密接に関連している。遊びは能動的でも受動的でもなく、中動的な行為であると考えるのが適切であることが分かってくる。

現在、私はこの中動態の視点を活かして、教室の中で「つい、いいアイディアを思いついちゃう」場を作り出すための条件についてLAFTで考えあっている。しかし、これは単純に材料を揃えればよいものではなく、絵画のようにキャンバスと絵の具があっても、完成する作品が異なるように、その場の特性によって大きく影響されてしまう。中動態的な授業は、その集団の場に大きく影響されるものであり、ワークショップ形式の授業と非常に親和性が高く、「いいこと思いついちゃう」場となりやすいと考えている。

明日、LAFTで具体的な保育場面における中動態についてブッククラブを開催し、語り合う予定。教育的な理論や哲学、思想に偏ることなく、実践する力を参加者のみなさんと対話を通して伸ばしていきたいと思っている。

プロジェクト・アドベンチャー研修で学んだSELは算数そのもの

先週、久しぶりのPA研修に参加できた。アメリカのPA, Inc.からトレーナーのローラを呼んでのSEL(Social Emosional Learning)研修だった。声をかけてくれたすずめありがとう。控えめに言って最高の研修で、今の算数の本質について考えている僕にとって最高のタイミングだった。

参加者は顔なじみのアドベンチャー教育「いつメン」が集まった。そして、久しぶりのメンバーにも会えた。なんだかPAJの同窓会をしているみたいで嬉しかった。

これまでSELとはきいたことがあるけど、実際に経験して学んだことがなかったので楽しみだった。

SELとは

イェール大学にある感情知能センター(YCEI)は、感情知能スキルの開発を支援するための研究とトレーニングを行っている。特に学校向けには、RULERアプローチという社会的・感情的学習(SEL)プログラムを提供し、子どもたちや教師、リーダーの感情スキルの向上を図り、学校、家庭、職場においてポジティブな感情環境を促進し、健康で公正なコミュニティの構築を支援することに資している。

https://medicine.yale.edu/childstudy/services/community-and-schools-programs/center-for-emotional-intelligence/

CASEL(Collaborative for Academic, Social, and Emotional Learning)のHPをのぞいてみると、さらにSELに詳しい。

社会的・感情的学習(SEL)を教育の基本的要素とすることを目指し、幼稚園から高校までの教育において、SELを効果的に実施するための研究に基づいた実践やリソースを提供してくれている。

SELは、自己認識、自己管理、社会的気づき、対人関係スキル、責任ある意志決定など5領域の育成を目指しており、これらのスキルが子どもの成績や生涯の成功に直接結びつくとされているようだ。

さすがPAJの研修。いつものようにただの「お話きかせ」で終始せず、全てアクティビティ体験を通してそれぞれの5領域の要素について深く振り返られる研修設計となっていた。このデザイン力がまたていねいだった。そして、言葉だけに頼ることなく、ジェスチャーがあったりもして、その方法も多様だった。つい、手軽な言語の振り返りに行ってしまいがちなので、よい気づきをなった。

その中の一つに【感情の金魚鉢】という感情の語彙を豊かにするアクティビティがあった。簡単に言えば、その言葉をジェスチャーであてっこする。これがほんとに笑えておもしろい。同じ言葉でもビミョーな違いがあって、それを表現するって案外むずかしい。

「平然とした」「くつろいでいる」

これいっしょでしょ!!

このビミョーな違いをジェスチャーで表すって、もう神の領域笑。でも、ファシリテーターの進め方で意外にも意思疎通できてしまうのが興味深かった。

このムードメーターと呼ばれる感情語を表して80語を子どもたちと体験を通して集めていけるといいなと思う。感情を表現すること、感情をみつけること、自分の感情に気がつくこと、こういった感情を大事にするような集団文化ができるといいなと心から思った。

算数の良問をといているときは、感情との向き合い方が特に重要となる。しかもその感情は、「わからない」「もう無理」「やめたい」などとネガティブ感情のオンパレードだ。しかし、この感情こそが、ひらめきの種となるのが算数の真骨頂。

これまで算数の本質とは、冷静に論理的に思考することだと思われてきた。でもそれはちょっとちがっている。そればかりではなかった。

算数・数学の本当の本質は、自分に気付くことだ。自分の考えた道筋や予想、ひらめき、そしてそれを頭の中で駆け巡る感情への気づき。

これはSELでいうまさに「Self awerness(自己認識)」のことだ。

数学者の時間ではネガティブなら「うーん」、ポジティブなら「あぁ!」とメモするようにノートづくりをしてきていた。これからは、もう少し、感情言葉に目を向けながら自分の気持ちを算数授業においてこそ、表現していけるといい。

今、僕はこの自分への気づきこそ、学びに重要な要素だと考えられるようになった。だからこのタイミングでSELの研修に参加できたことは、自分の考えを組み立てる上でとても大事な土台となってくれた貴重な学びだった。

さて、積ん読本だったSELの吉田本『感情と社会性を育む学び(SEL): 子どもの、今と将来が変わる』『SELを成功に導くための五つの要素: 先生と生徒のためのアクティビティー集』『学びは、すべてSEL: 教科指導のなかで育む感情と社会性』を読もうと思うよ。

なんのための数学的思考か それは自分への「気づき」

数学者の時間にある問題解決のサイクルでは、数学的思考がその軸となっている。原稿のやりとりをしていたら、吉田新一郎さんから『教科書では学べない数学的思考』を参照とした大事なフィードバックをもらった。

なんのために、数学的思考を学ぶのか?

新さんの不思議なところは、直接、こういったフィードバックではなく「私は、○○本の○○ページに書いてあることがよいと思っている」といった感想めいたフィードバックであるが、それがなんとも僕にとってはジワるものとなる効果にある。

そこで、改めて、今、数学的思考についてていねいに読み直してみた(多分、もう10回は熟読している!けどよくわからないことばかりだ)ら、これまで読んでいても、読めていないことが見えてきた。読むことって、どのタイミングで読むのかって、文脈がものすごく大事だ。

読んで、考えを整理し、原稿にするのに、3日間もかかってしまったが、あっという間だった。特に、気になった点は原書を持ち出して、読み直したり、読み比べたりしながらそれこそじっくりと考えながら読むことができた。ここに読み砕いた自分なりの理解を少しだけまとめておこうと思う。

数学的思考の目的とは、自分への気づき(Self-awareness)を育てることに他ならない。 

どんなに美しい解法を見つけたとしても、どんなに難しい問題を解決できたとしても、単に答えを得るだけでは満足できないことがある。

数学的思考の目的は、単に数学的に考えること自体にあるわけではない。むしろ、数学的に考える「問題解決のサイクル(これは数学者の時間において身につけたい核となるもの)」を理解し、それを身に付けることで、より一般的な問題に応用し、世界の理解を深めていくために自分自信への豊かな気づき(自己認識)を成長させることにある。

これ本当にいいと思う。この自分を知り、世界を知るところに、数学する価値を設けていくこと。痺れるぜ。

そして、算数・数学は、このような数学的思考の目的を達成するための「気づき」を育成する上で非常に効果的な教科である。

ではこの「気づき」を身に付けていくためにはどうしたらよいのだろうか。?

問題を解くこと以上に、問題解決サイクルの中で、自分の中に「気づき」がしっかりと意識されていることが必要だ。

この「気づき」とは、知識、情報、体験、知覚などを感情と結びつけて総合的に捉えることを意味する。この感情と結びつけて考えようとする数学的思考の捉えがとくに気に入っている。

問題に行き詰まりを感じたとき、そのネガティブな気持ちに気づくことからはじめる。そして、その感情を問題解決に変えていくのである。算数・数学は、この「気づき」を意識的に育てる場として機能していく(このコツはちゃんとあって、詳しくは出版原稿で)。

問題の特徴をみつけることや問題に取り組む方法を知ること、そして、ふりかえりをすることなどといった問題解決のサイクルを経験することは、問題を解決することは喜びと自信をもたらてくれる。そして、自分の「気づき」に焦点をあてることで、この問題解決サイクルを意識的な取り組みとして、数学的思考を育てることができる。

算数・数学において数学的思考を働かせることは、この「気づき」をアートとして捉えることに他ならないといいたい。つまり、取り組みと感情への気づきをアートとして捉えることができるということだ。

こういう算数・数学をするとなると、現状の算数・数学教育への課題と向き合わざるを得なくなる。これについてはまた次回。

真剣に遊ぼうと思っても大人が遊べないのは体力不足

子どももそうだけど、大人も真剣に遊ぼうと思わないと遊べない時代になってきたと思う。

あまりにもやることが多すぎるのかもしれない。オンラインでつながってしまうと、常にデバイスに見張られてしまう。これはよくない。

遊ばないとツマラナイ大人になってしまうのではないか。いつもオモシロいことを企んでいたいし、ヤバそうなギリギリのところを攻めて遊んでいたい。

今年は友人2人と共に、島を旅してきた。この歳になってもまだ一緒に遊んでくれる仲間がいることにほんと感謝。ありがとう。また遊んでください。僕は友人に恵まれている。

今回、選んだのは未踏の沖永良部島だ。行ってみるまでどんな島かほとんど知らなかったけれど、海の美しさと洞窟のアドベンチャーに魅了されてしまった。

旅といっても浜辺にテントを張っての野宿旅でしかない。そして食べたいものを焼いて食べる。控えめに言ってサイコーじゃん。

この暑さ、なかなかしんどく夜のテントは地獄だったりもするけど。でも、それがなんだか楽しい。

「今日はどこにテントを張るのか」「あそこは水場があって便利だ」「ここは海がキレイだけど、満潮時には波にさらわれる」「氷は買ったか?」「黒糖焼酎はうまい」などなど、つねに考えながら島中をうろうろする。

途中で、キレイな海があれば素潜りするし、うまそうな店をみつければビールを昼間から飲む。観光地は時間があまっている人のやることで、僕らは生活するのに忙しいのでほとんどスルー。

なんでこんなおもしろいこと、みんなやらないんだろう。

なるほど。体力だな。遊びには、すべてをかなぐりすてて遊びに没頭できるだけの体力が必要なのだ。

こういった無茶な遊びは体力こそ一番必要になる。身体にタフさがないとすぐに気持ちも弱気になって、ゴージャスなホテルでパーリーナイトに逃げてしまう。

いい大人の僕だって、じつはお金はありあまるほどあるので(言ってみた)、わざわざこんなに体力使うようなことはしなくてもよいのに、と思うことはある。けれども止められないんだよね。こういうのが楽しいんだよ。

「明日はどこにいるんだろうなぁ。。。」って海をぼーっと眺めているとき。そして、「明日は無事に寝泊まりできるのだろうか、雨が降ったらしんどいな」

この不安になる感じがたまらなく好き。こういうときに、自分は何を感じ、考えたりするのか、試されている気がするから。日常にはない非日常をあじわっているのがアドベンチャーかもしれない。

地元の人に教えてもらった珊瑚が恐ろしくキレイなところに潜った。念願のウミガメをふれ合うこともできたので、大満足だ。

そして、これ以上もぐったら戻れないと思うところまで攻めてみたら、背中にヒレをもったフカと出会ったてビビって窒息しかけた。こういうひりひりするようなリスクテイクがたまらなく好きなのね。アホだなこりゃ笑。

真剣に遊んだ方が、パフォーマンスたかまるじゃん。大人こそまじめに遊んだほういい。遊ぼうって決めないと遊べない。そして遊ぶためには体力づくりが必要だ。

来年はどこで何をしているのかなぁ。一緒に冒険する体力ある人、募集中!

旅の同胞、K2が撮ってくれました。

乗せてもらうはずのウミガメは、主を忘れて速攻、竜宮城へ