今朝、職員室の机上に書類が一通届いていた。開けてみるとこれまでにない興味深いものだった。それは僕のこれまで書いてきた著作物の中から(どれかは言えない)、受験に採用されることになったらしい。その問題と許諾願い、そして、決して安くはない使用料についての詳細が届いた。
なるほど、こういう許諾願いが届くのか。ありがたいものだ。
ためしに僕もその問題を解いてみようと試みた。しかし、残念ながら答えはよくわからない。悲しい。作者である僕ができないのなら、子どもはおしてしるべし。いま、もしかしたら子どものほうがよく解けるのかもしれない。問題そのもはなかなか思慮深く、時代が反映されている良い問題だと思った。詳細は書けないのが口惜しい。
作者の気持ちを推し量る問題はこれまでよく解いてきた。実際に、自分がその立場になって思う。
あのとき書いた自分はもういない。もう作者の気持ちはわからない。
これが書くことの本質かもしれない。書く前の自分と書き上げたときの自分、そして書き終わったものを改めて読む自分、これはすべて自分であっても自分ではない。
書き始めることで、思ってもみなかったこと、言葉にならないことが言葉にすることができる。書き終わったそのときの自分は、もはや書き始めた時の自分ではない。
書くという行為そのものは、そのときの自分を微分して細かく表現したに過ぎず、その微々たるピースがあいまって動的に今の自分を突き動かしているのかもしれない。書くとは動的なものなので常に更新されていくものだと思う。だから、書くってちょっぴり恥ずかしい行為かもね。
自分の書いたものが、誰かの考える役に立っているかと思うと小さな喜びがこみ上げてくる。これまでにない不思議な経験だった。

今朝、3年生の先生から蚕を数匹もらってきた。自学のマイテーマとして調べている子がいるから一緒に飼うことにした。大きくなりますように。