LAFTに國分功一郎さんをお招きし、「中動態」とは何かについて教えていただいた。また、その後の対話を通じて、中動態にまつわるさまざまな視点を共有する場を設けた。
なぜ自分は中動態という概念にこれほどまでに魅了されているのだろう。
この問いのきっかけは、2018年頃にさかのぼる。当時から幼稚園の共同研究者であった大妻女子の久保健太さんから教えてもらった「中動態」という言葉。その響きに当初は漠然とした興味を持ちつつ、「主体性とは果たして個別の意思だけで成り立つものなのか」という問いが生まれた。それ以来、細々とその関心を持続させてきたが、今年はついに中動態をLAFTのテーマとして本格的に取り上げることに決めた。
中動態という古くも新しい概念を学ぶ中で、これまで目にしていたのに見えていなかったものが、少しずつ輪郭を帯びてきた。あるいは、気づこうとしても気づけなかったもの、と言えるかもしれない。僕たちは普段、言語を介して思考を規定されている。能動と受動という文法構造は、当たり前のように日々使われているため、その「あたりまえ」に目を向けることが非常に難しい。しかし中動態は、能動の対になるものが受動ではなく、中動態という第三の「態」であることを教えてくれた。
この理解が少しずつ深まることで、教育における違和感にも改めて気づけるようになった。たとえば、子どもの遊びにおける主体性の捉え方、一人ひとりの能力を伸ばすことを強調する風潮への違和感、あるいは新自由主義を批判的に捉え、「コモン」や「コミュニティ」といった概念を通じて、人と人がどのように弱さを共有し合いながら生きていくのかを考える視点が芽生えてきた。こうした考えの変遷は、常に中動態と共にあったと思う。だからこそ、中動態は単なる文法の「態」にとどまらず、教育観を見直すための強力な概念として僕に響いている。今回、國分功一郎さんをLAFTに招いた背景には、こうした思いがあったのだった。
國分さんの話の多くは書籍で既に触れた内容だったかもしれない。でも、中動態の第一人者から直接話を伺うことで得られるライブ感、そこから生まれる高揚感は特別としかいいようがなかった。ミーハーな気持ちでこっそりサインももらってしまった笑。
印象に残ったのは、責任や意思という概念が本来持っているはずの別の可能性についての話だった。「応答するもの」という責任の語源、そしてそれが刑法をベースにした個人責任の枠組みにどうねじ曲げられたのか。古代ギリシャでは2000年ほど前までは言語にはかつて「意思」というものが存在しなかった。この能動と中動態という二つの態で表現されていた言語が、個別の責任を帰属させるために変容し、現在の「能動」と「受動」という枠組みへと固定化された背景は非常に興味深かった。
では、これを教育にどう活かせるのか。
今回の研修だけでは答えを出し切ることは難しかったが、参加者とこのテーマについてもっと語り合う機会を近々設けたいと考えている。そうした場を通じて、さらに中動態と教育の可能性を探求していきたい。
それでも、翌日のある会議では、責任を誰かに押し付けるのではなく、「みんなで引き取る」という発想をさっそく共有することができた。これは間違いなく今回の研修が後押ししてくれた成果だったはず。ある問題の背景や文脈、関係性を丁寧に紐解いていくことで、子どもたちが抱える問題も自然と解消されていくのではないか。その責任を短絡的にその子にのみ押しつけても、表面的には見えなくなっただけで本質的には解決していない。その行動のは畏敬そのものを捉える、このプロセスこそが子どもを理解することの本質であり、そこから立ち上がる新たなアイデアやヒントは、中動態的な発想の中で生まれるものだと思えるようになってきた。
しばらく自分の内側にわきおこってくる中動態的な何かを大切にしながら生活していこうと思う。様々な分野、そして遠くからもLAFT中動態へ参加してくださった方、ありがとうございました。次回は、オンラインでやる予定です!