学びの本質は「開かれたからだ」にある

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そもそも「よっこらしょ」って、気持ちを入れ直さないと始まらない、学びってなんだろう? 

やってみたいなぁ、知りたいなぁ、もっと考えたいなぁ、などと、何か「からだ」からの声を聞きながら自然に始められる学び、そんな学びが本来の姿ではないだろうか。

一つ、そのヒントは子どもの遊びの中にあるんじゃないかなぁ。

小さな子どもたちの遊びは、遊びそのものに没頭している。何かを考えてから動くというよりも、その遊び、活動自体に夢中になり、その没入感の中でその子らしさが現れてくる。さらに「いいこと思いついた!」に巻き込まれるかのように、遊びが変化していく。これはいわゆる「命の響き合い」として表現される。

多くの学びは知的なもの、つまりメタ認知的な思考や操作を要求される。しかし、そういった「あたま」を使うこと、それだけで本当に十分なのだろうか?

僕たちは、近代的な思考様式を学ぶことで、何か大切な「身体性」を失っているのではないだろうか。このことは中動態を学ぶことから大きく気付かされることばかりだ。こういった疑問をもてるようになったことは、中動態を理解しようとする試みの中で、深く考えさせられる利点だと思う。

昨年度末の数学者の時間は「物を使って考える」というテーマにこだわってみた。やはり、具体的な物や半具体物を使い、それを操作することで人の思考は活発になっていく。

ここから考えをさらに広げてみると、人が「考える」という行動に移るのは、「考えたくなるから考える」のだと思う。

では、どうすれば自然と考えたくなるのだろうか? 

その答えの一つは「からだを開く」ことにあると思う。逆説的ではあるけど、からだを開くためにはまずしっかりと基礎基本を学ぶ必要がある。学びを通じて土台としての基礎を身につけ、その上で一度それを手放すこと。

つまり学んだことにとらわれすぎないことが大切だろう。アンラーンすることで、初めて何か新しいものが立ち上がってくる。そして、その瞬間には開かれたからだが必ず存在している。この構造はまっくもって中動態のようなものだ。

学びと身体はつながっている。この考えは、多くの本で語られているし、禅思想の中でも強調されている。

今、遊びや学びについて少しずつ理解できるようになってきた。単なる未来予想から差分して必要な力を身に付けるような浅薄な学力観にならないようにしたい。

今、子ども自身を主語にして考えること。

そして、人が学ぶことや遊ぶこと、その本質とは何かを考えていきたい。

西平直『稽古の思想』

矢野勇樹さんの論文があまりにもいいと書いたら、連絡をいただけた。そのとき、中動態という言葉を使ってはいないけれども、中動態のプロセスを考えていく上で参考になる本だと紹介いただいた。

今週、丁寧に読み進めてきた。中動態について理解しようと思って読み始めた本だが、それ以上に深い知見が描かれていた。今の自分の持っている思考の枠組みが溶かされていくような感覚になる。この本は一読をお勧めする。世阿弥の稽古の考えをベースに、これほど難しい概念をわかりやすく述べた文章は他に読んだことがない。

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