2024年 8月 の投稿一覧

中動態から見えてくる子どもの遊び 主体性よりも関係性と文脈の力

明日は久しぶりのLAFT。今期のテーマは中動態で第3回目。僕は中動態という視点を得たことで、ものの見方が大きく変わったと感じている。特に「主体性」といった非認知能力が個人に備わっているという考え方が柔軟になった。「やる気のスイッチ」というものは、自分で入れるものではなく、ましてや他者がオンにしてくれるものでもない。むしろ、自然にスイッチが「入っちゃう」ものだと理解するようになった。

この中動態への理解に関連して、個人の中に能力が埋め込まれていて、それを伸ばすという教育観だけではバランスが悪いことも分かってきた。人の能力は個人の中に完全に備わっているものではなく、文脈に埋め込まれていて、流動的で場に依存するものである。そのため、現在の教育が一人ひとりの個別能力を伸ばすことに重点を置いていることに対し、違和感を抱けるようにもなってきた。

人が成長し、学び、知識を得る場面は、より社会的で協働的なものであり、単に情報を伝達したりダウンロードしたりするだけではない。人が成長し、生きていくということは、共に集まり、つながり、考え合い、より良いものに変えていこうとする行為そのものである。協働を通して能力を発揮し、より良いアイディアを見つけ、知的に活動することこそが要諦だと考えられるようになってきた。

中動態とはなんなのだろうか。

2016年に國分功一郎の『中動態の世界』によって広く知られるようになった。私がこの言葉を知ったのは、幼稚園の研究に参加したときである。中動態は、古代インド・ヨーロッパ語族(サンスクリット語や古代ギリシャ語)に見られるもので、能動でも受動でもない、第三の態である。これは、私を「場」として立ち上がるものを示す概念であり、「内と外」という構造を持っている。

このような考え方を持つ中で、子どもの「遊び」をどのように捉え、理解し、仮説を立てるかを学ぶ際には、中動態という概念が欠かせないと感じている。私たちは普段、能動と受動という二つの視点から物事を捉えているが、これは近代において発展したものであり、あまりにも当たり前になりすぎて、自覚することが難しい。しかし、中動態というもう一つの視点を知ることで、能動や受動だけでは見えなかった新たな視点が広がってくることが実感できる。

例えば、保育の実践において、子どもの遊びは能力育成に欠かせないとされているが、これを個人の問題として捉えることには限界がある。「いいことを思いついた!」という瞬間をどのように解釈するのかという問題に直面した時、能動的に「遊ぼう!」と思って遊んでいるわけではなく、また受動的に「遊ばされている」わけでもない。こうした能動と受動の対立構造では、子どもの遊びを正しく捉えることができない。ここで必要となるのが中動態の視点である。

子どもが「いいことを思いついた!」と言う場面を考えてみると、これは私が意図的に思いつくのではなく、その場にいる友だちが木に登ってみる姿、そこから飛び降りようとする姿などに触発され、私を「場」として、私の内側から自然に「いいこと」が思いつく状態を表している。その結果、私はその場に影響を受け、思いついたことを実行したくなる。遊びを中動態的な見方で捉えることで子どもの世界の豊かさがより見えてくるようになってくるのである。

この考え方については、佐伯 胖 (著, 編集), 矢野 勇樹 (著), 久保 健太 (著), 岩田 恵子 (著), 関山 隆一 (著)『子どもの遊びを考える: 「いいこと思いついた!」から見えてくること』の第1章から第4章で矢野が詳しく論じられており、とても参考になる。いつか対話してみたい人のひとりである。

近代の視点では、能動と受動、遊びの主体性や受動性について捉えるが、これだけでは不十分である。意思とは、単なる責任や意図の問題だけではなく、私たちが生活する文脈と密接に関連している。遊びは能動的でも受動的でもなく、中動的な行為であると考えるのが適切であることが分かってくる。

現在、私はこの中動態の視点を活かして、教室の中で「つい、いいアイディアを思いついちゃう」場を作り出すための条件についてLAFTで考えあっている。しかし、これは単純に材料を揃えればよいものではなく、絵画のようにキャンバスと絵の具があっても、完成する作品が異なるように、その場の特性によって大きく影響されてしまう。中動態的な授業は、その集団の場に大きく影響されるものであり、ワークショップ形式の授業と非常に親和性が高く、「いいこと思いついちゃう」場となりやすいと考えている。

明日、LAFTで具体的な保育場面における中動態についてブッククラブを開催し、語り合う予定。教育的な理論や哲学、思想に偏ることなく、実践する力を参加者のみなさんと対話を通して伸ばしていきたいと思っている。

プロジェクト・アドベンチャー研修で学んだSELは算数そのもの

先週、久しぶりのPA研修に参加できた。アメリカのPA, Inc.からトレーナーのローラを呼んでのSEL(Social Emosional Learning)研修だった。声をかけてくれたすずめありがとう。控えめに言って最高の研修で、今の算数の本質について考えている僕にとって最高のタイミングだった。

参加者は顔なじみのアドベンチャー教育「いつメン」が集まった。そして、久しぶりのメンバーにも会えた。なんだかPAJの同窓会をしているみたいで嬉しかった。

これまでSELとはきいたことがあるけど、実際に経験して学んだことがなかったので楽しみだった。

SELとは

イェール大学にある感情知能センター(YCEI)は、感情知能スキルの開発を支援するための研究とトレーニングを行っている。特に学校向けには、RULERアプローチという社会的・感情的学習(SEL)プログラムを提供し、子どもたちや教師、リーダーの感情スキルの向上を図り、学校、家庭、職場においてポジティブな感情環境を促進し、健康で公正なコミュニティの構築を支援することに資している。

https://medicine.yale.edu/childstudy/services/community-and-schools-programs/center-for-emotional-intelligence/

CASEL(Collaborative for Academic, Social, and Emotional Learning)のHPをのぞいてみると、さらにSELに詳しい。

社会的・感情的学習(SEL)を教育の基本的要素とすることを目指し、幼稚園から高校までの教育において、SELを効果的に実施するための研究に基づいた実践やリソースを提供してくれている。

SELは、自己認識、自己管理、社会的気づき、対人関係スキル、責任ある意志決定など5領域の育成を目指しており、これらのスキルが子どもの成績や生涯の成功に直接結びつくとされているようだ。

さすがPAJの研修。いつものようにただの「お話きかせ」で終始せず、全てアクティビティ体験を通してそれぞれの5領域の要素について深く振り返られる研修設計となっていた。このデザイン力がまたていねいだった。そして、言葉だけに頼ることなく、ジェスチャーがあったりもして、その方法も多様だった。つい、手軽な言語の振り返りに行ってしまいがちなので、よい気づきをなった。

その中の一つに【感情の金魚鉢】という感情の語彙を豊かにするアクティビティがあった。簡単に言えば、その言葉をジェスチャーであてっこする。これがほんとに笑えておもしろい。同じ言葉でもビミョーな違いがあって、それを表現するって案外むずかしい。

「平然とした」「くつろいでいる」

これいっしょでしょ!!

このビミョーな違いをジェスチャーで表すって、もう神の領域笑。でも、ファシリテーターの進め方で意外にも意思疎通できてしまうのが興味深かった。

このムードメーターと呼ばれる感情語を表して80語を子どもたちと体験を通して集めていけるといいなと思う。感情を表現すること、感情をみつけること、自分の感情に気がつくこと、こういった感情を大事にするような集団文化ができるといいなと心から思った。

算数の良問をといているときは、感情との向き合い方が特に重要となる。しかもその感情は、「わからない」「もう無理」「やめたい」などとネガティブ感情のオンパレードだ。しかし、この感情こそが、ひらめきの種となるのが算数の真骨頂。

これまで算数の本質とは、冷静に論理的に思考することだと思われてきた。でもそれはちょっとちがっている。そればかりではなかった。

算数・数学の本当の本質は、自分に気付くことだ。自分の考えた道筋や予想、ひらめき、そしてそれを頭の中で駆け巡る感情への気づき。

これはSELでいうまさに「Self awerness(自己認識)」のことだ。

数学者の時間ではネガティブなら「うーん」、ポジティブなら「あぁ!」とメモするようにノートづくりをしてきていた。これからは、もう少し、感情言葉に目を向けながら自分の気持ちを算数授業においてこそ、表現していけるといい。

今、僕はこの自分への気づきこそ、学びに重要な要素だと考えられるようになった。だからこのタイミングでSELの研修に参加できたことは、自分の考えを組み立てる上でとても大事な土台となってくれた貴重な学びだった。

さて、積ん読本だったSELの吉田本『感情と社会性を育む学び(SEL): 子どもの、今と将来が変わる』『SELを成功に導くための五つの要素: 先生と生徒のためのアクティビティー集』『学びは、すべてSEL: 教科指導のなかで育む感情と社会性』を読もうと思うよ。

なんのための数学的思考か それは自分への「気づき」

数学者の時間にある問題解決のサイクルでは、数学的思考がその軸となっている。原稿のやりとりをしていたら、吉田新一郎さんから『教科書では学べない数学的思考』を参照とした大事なフィードバックをもらった。

なんのために、数学的思考を学ぶのか?

新さんの不思議なところは、直接、こういったフィードバックではなく「私は、○○本の○○ページに書いてあることがよいと思っている」といった感想めいたフィードバックであるが、それがなんとも僕にとってはジワるものとなる効果にある。

そこで、改めて、今、数学的思考についてていねいに読み直してみた(多分、もう10回は熟読している!けどよくわからないことばかりだ)ら、これまで読んでいても、読めていないことが見えてきた。読むことって、どのタイミングで読むのかって、文脈がものすごく大事だ。

読んで、考えを整理し、原稿にするのに、3日間もかかってしまったが、あっという間だった。特に、気になった点は原書を持ち出して、読み直したり、読み比べたりしながらそれこそじっくりと考えながら読むことができた。ここに読み砕いた自分なりの理解を少しだけまとめておこうと思う。

数学的思考の目的とは、自分への気づき(Self-awareness)を育てることに他ならない。 

どんなに美しい解法を見つけたとしても、どんなに難しい問題を解決できたとしても、単に答えを得るだけでは満足できないことがある。

数学的思考の目的は、単に数学的に考えること自体にあるわけではない。むしろ、数学的に考える「問題解決のサイクル(これは数学者の時間において身につけたい核となるもの)」を理解し、それを身に付けることで、より一般的な問題に応用し、世界の理解を深めていくために自分自信への豊かな気づき(自己認識)を成長させることにある。

これ本当にいいと思う。この自分を知り、世界を知るところに、数学する価値を設けていくこと。痺れるぜ。

そして、算数・数学は、このような数学的思考の目的を達成するための「気づき」を育成する上で非常に効果的な教科である。

ではこの「気づき」を身に付けていくためにはどうしたらよいのだろうか。?

問題を解くこと以上に、問題解決サイクルの中で、自分の中に「気づき」がしっかりと意識されていることが必要だ。

この「気づき」とは、知識、情報、体験、知覚などを感情と結びつけて総合的に捉えることを意味する。この感情と結びつけて考えようとする数学的思考の捉えがとくに気に入っている。

問題に行き詰まりを感じたとき、そのネガティブな気持ちに気づくことからはじめる。そして、その感情を問題解決に変えていくのである。算数・数学は、この「気づき」を意識的に育てる場として機能していく(このコツはちゃんとあって、詳しくは出版原稿で)。

問題の特徴をみつけることや問題に取り組む方法を知ること、そして、ふりかえりをすることなどといった問題解決のサイクルを経験することは、問題を解決することは喜びと自信をもたらてくれる。そして、自分の「気づき」に焦点をあてることで、この問題解決サイクルを意識的な取り組みとして、数学的思考を育てることができる。

算数・数学において数学的思考を働かせることは、この「気づき」をアートとして捉えることに他ならないといいたい。つまり、取り組みと感情への気づきをアートとして捉えることができるということだ。

こういう算数・数学をするとなると、現状の算数・数学教育への課題と向き合わざるを得なくなる。これについてはまた次回。

真剣に遊ぼうと思っても大人が遊べないのは体力不足

子どももそうだけど、大人も真剣に遊ぼうと思わないと遊べない時代になってきたと思う。

あまりにもやることが多すぎるのかもしれない。オンラインでつながってしまうと、常にデバイスに見張られてしまう。これはよくない。

遊ばないとツマラナイ大人になってしまうのではないか。いつもオモシロいことを企んでいたいし、ヤバそうなギリギリのところを攻めて遊んでいたい。

今年は友人2人と共に、島を旅してきた。この歳になってもまだ一緒に遊んでくれる仲間がいることにほんと感謝。ありがとう。また遊んでください。僕は友人に恵まれている。

今回、選んだのは未踏の沖永良部島だ。行ってみるまでどんな島かほとんど知らなかったけれど、海の美しさと洞窟のアドベンチャーに魅了されてしまった。

旅といっても浜辺にテントを張っての野宿旅でしかない。そして食べたいものを焼いて食べる。控えめに言ってサイコーじゃん。

この暑さ、なかなかしんどく夜のテントは地獄だったりもするけど。でも、それがなんだか楽しい。

「今日はどこにテントを張るのか」「あそこは水場があって便利だ」「ここは海がキレイだけど、満潮時には波にさらわれる」「氷は買ったか?」「黒糖焼酎はうまい」などなど、つねに考えながら島中をうろうろする。

途中で、キレイな海があれば素潜りするし、うまそうな店をみつければビールを昼間から飲む。観光地は時間があまっている人のやることで、僕らは生活するのに忙しいのでほとんどスルー。

なんでこんなおもしろいこと、みんなやらないんだろう。

なるほど。体力だな。遊びには、すべてをかなぐりすてて遊びに没頭できるだけの体力が必要なのだ。

こういった無茶な遊びは体力こそ一番必要になる。身体にタフさがないとすぐに気持ちも弱気になって、ゴージャスなホテルでパーリーナイトに逃げてしまう。

いい大人の僕だって、じつはお金はありあまるほどあるので(言ってみた)、わざわざこんなに体力使うようなことはしなくてもよいのに、と思うことはある。けれども止められないんだよね。こういうのが楽しいんだよ。

「明日はどこにいるんだろうなぁ。。。」って海をぼーっと眺めているとき。そして、「明日は無事に寝泊まりできるのだろうか、雨が降ったらしんどいな」

この不安になる感じがたまらなく好き。こういうときに、自分は何を感じ、考えたりするのか、試されている気がするから。日常にはない非日常をあじわっているのがアドベンチャーかもしれない。

地元の人に教えてもらった珊瑚が恐ろしくキレイなところに潜った。念願のウミガメをふれ合うこともできたので、大満足だ。

そして、これ以上もぐったら戻れないと思うところまで攻めてみたら、背中にヒレをもったフカと出会ったてビビって窒息しかけた。こういうひりひりするようなリスクテイクがたまらなく好きなのね。アホだなこりゃ笑。

真剣に遊んだ方が、パフォーマンスたかまるじゃん。大人こそまじめに遊んだほういい。遊ぼうって決めないと遊べない。そして遊ぶためには体力づくりが必要だ。

来年はどこで何をしているのかなぁ。一緒に冒険する体力ある人、募集中!

旅の同胞、K2が撮ってくれました。

乗せてもらうはずのウミガメは、主を忘れて速攻、竜宮城へ

考えるのがめんどくさいという子から考える、「答えのある問題」と「答えのない問題」

年度の初めに数学者の時間をはじめると、たまに出会うのが「考えるのが面倒くさい」といって、手がとまっている子だ。

数学者の時間では、「良問」と呼ばれる問題を扱っている。すぐには答えが求められず考え方や答えが多様で、パターンが隠れていて、なによりも自分にも出来そうと思わせておいて、なかなかできない、やってみると深まりがあっておもしろい問題のこと。

考えるのがメンドーなその理由をよくよく話をきいてみると、「塾でやっていることとちがう」「すぐに答えがでないからおもしろくない」ということのようだ。

一方で普段、「こういう問題、頭ひねるからおもしろい」「練習っぽくないから好き」などと算数が苦手な子ほど、よくできてしまう逆転現象が生まれる。また、塾には通って徹底して勉強している全国トップレベルの子からは「こういうのはおもしろい。塾ではやったことがないから」と夢中になって、くやしがっている子もいた。

この違いは何だろう。

考えることがメンドーと言っている子によく共通しているのは、中途半端に塾に通ったり、家庭学習で繰り返しドリル練習を訓練している子だったり、いずれにしても何かを達成して身につけるために、「答えのある問題」をたくさんこなしている子が多い。

世の中には、「答えのある問題」と「答えのない問題」がある。答えのある問題は、正答と誤答しか存在せず、自分の意見をも必要はうまれない。答えがあるから、効率よくてっとりばやく正答を調べてみつけてしまえばよいとなってしまう。あぁ、数学者の時間以外、そういう授業ばかりをしていないだろうか。自分にはねかえってくる。。。

一方で「答えのない問題」は、答えがないからこそ、自分の意見や考えを求められる。そして、答えがないことは、間違った意見も正しい意見も存在せず、多様な意見や考えが許容される。

しかし、数学者の時間で扱う良問はどうだろう。たとえば、「川渡り問題」や「食料問題」などは、「すぐに」答えを導けるような問題ではないけれども、答えはある。しかし、意見をもつために考えなくてよいかというと、そういうことではない。自分の考えをもたなければ、そもそも正答へもつながらない。

人が考えるという作業を考えるとき、この「答えのある問題」と「答えのない問題」という二分に無理があるのではないか。そして、「ある」と「ない」のその間があるのではないだろうか。

「答えがあるけれどもない問題」ととりあえず名前をつけておこう笑。これはまた継続して考えていく必要があるから。

結局、考えるのがめんどくさいという子はその後どうなっていくかというと、やっぱり考えるようになっていく。それはどうしてかというと、学校の教室という力が働くから。僕はここに最近、「中動態」という概念をもちこんで教室をながめてみることで、お互いの主体性や思考を創発させる効果がみてとれることがあるんじゃないかとわかってきた。場が持つちから。それにはいくつかポイントがあって、「ひらめきの授業」としてブログにもまとめている。

なんだか、このブログ自体が答えのないポストとなってしまったけれども、まぁそれでいいと思う。あーだ、こーだ、思考しているその筋道を忘れずにのせておくことも大切な思考のひとつの表現ということで。こういうのをプロセスエコノミーというらしい。これは完成物だけでなく、そこに至るまでの過程に価値をみとめ、そのプロセスを示すこと。

結局、考えることを要求しない授業をやっていると、子どもたちは「いいね/わるいね」のただの反応しか起こさなくなってしまう。教室がSNS化した反応の渦になってしまう。自分の意見をもつためにも、考えるというメンドクササに向き合う必要がある。

今日は終戦記念日。平和の今、周りに流されずに自分の考え、意見をしっかりもって生きていく人になるためにも、考えることから逃げ出してはいけない。

算数・数学はアート

算数・数学はまさにアートと言えます。数学は単に公式を覚え、それをそのまま適用することではありません。数学が実用的に社会に役立つからといって、それが数学の本質を表しているわけではなく、それは副次的なものに過ぎません。

画家がキャンバスに絵を描き、詩人が言葉で詩を編むように、数学者は抽象的な概念やアイデアを紡ぎ、「パターン」を創り出す存在です。問題解決に向き合っていると、最初は見えなかったものがあるとき突然、その美しさと単純さが見えてくることがあります。その問題に隠れているパターンを見つける作業は、創造的な解決が生まれる瞬間であり、これはアートそのものです。

まるで短歌を創作するように、数学者はその過程で美しい説明を生み出します。数学は「説明のアート」とも言えるでしょう。自ら質問を投げかけ、予想し、発見し、失敗し、そして最終的に自分の説明や証明をまとめるプロセスは、まさに創造的なアートの一部です。

もし、能力を高めるためだけに、あるいは公式や解法技術を身につけるためだけに算数・数学を利用しているのなら、それはこの世界が持つ創造的な自由や驚き、魅力、その喜びを教えていないことになります。

もし、算数・数学の本質的な面白さや挑戦する価値を含めた教育が行われれば、数学に対する見方が劇的に変わるはずです。「数学者の時間」には、その可能性が大いにあります。数学が持つ「アート」としての魅力を再発見し、それを体験することで、数学の新しい側面が明らかになるのです。

といったことを今朝、原稿に書いてみた。

なんのために算数・数学するのかは、成績や進学、学校世界の中でつい見失いがちになってしまうので、自分の中の原点、指針としてここにのこしておこうと思った。

長ーい道のりだなぁ。

表に出てこない沖縄

上間陽子さんの話を聞いた。沖縄の少女たちが抱える性被害の実情と教育の話。涙ぐみながら話す姿と時折見せる、行政への怒りのキーワードに心打たれた。

内地で生活していると、沖縄の綺麗なところしかみえてこない。その表になかなか出てこない悲しい話は知らないことばかりだった。

重いテーマだけに、後味はずっと心が重かった。事前に、沖縄の先生たちからは「上間さんの話は大事、ずっしりと重い」と聞かされていたが、まさにそのとおりだった。

あまりにも衝撃をうけ、そういう支援をしている仕事と今の自分を比べてしまう。果たして自分は今の仕事をライフワークとして本当に良いのだろうか、私学である一定層の子どもたちと関わることにどう向き合っているのか、何か突きつけられるような気がした。

もちろんどこで生活、仕事していようとも、どのような背景をもつ子どもたちであったとしても、様々な課題を抱えていることは変わらない。そして、私学ならではの彼らの挑戦やその難しさ、その成長や幸せに生きることを支援することは、重要な役割にちがいない。

どこに課題意識を設けるのか。様々ある中でも、上間さんがその問題に辿り着いたその物語ももう少し聞きたかった。改めて、著書を読んでみよう。

その後、またまた薦められた「ふーちゃんぷる」を食べ(こういうときは地元の人に言われるがままが正解でしかない)、あまりのおいしさに心を少し立て直せた。麩は鯉のエサにはもったいないことを反省した。

午後は僕の役割である「数学者の時間」の話も終え、居酒屋に流れ込む。やはり宴会最後は「カチャーシー!カチャーシー!」とみんなで立ち上がって沖縄民謡を愉快に踊った。憧れていた飲み会のシチュエーションだっただけに興奮した。

そして、夜はいつまでもしっぽりと泡盛飲みながら、沖縄の研修のこと、学びのこと、語り合えるいい夜だった。

さて、次は島へわたって、いよいよ夏休みの真ん中に突入。

沖縄で学ぶ

沖縄の研修旅行が始まった。朝4時起きして羽田から沖縄へ。

一年前に京都で長瀬さんに「沖縄行きたい。沖縄の先生たちと研修できたらいいね」と何気ない一言から始まった研修会。一年かけて、長瀬さん、沖縄の有志の先生たち(この人たちがほんといい人たち!)と開催することができた。この長瀬さんの学びの場をつくるプロセスはほんと勉強になる。ガッツがちがう。

そしていよいよ沖縄の先生たちと出会い、そして日本各地から来た先生たちとの出会いが始まった。僕は1日目の学びの場づくりをまるっと任されている。

お互い知らない、リアルで会ったことのない人同士だから、緊張感もただよう。僕はこの最初のこのぎこちない感じがとても僕は好きかも。この気持ちどんなふうに変わっていくのか、その場を参加者一人ひとりがどうやってつくりだしていくのか。

いろんな先生たちとつながるためにたくさんPAをやった。課題解決のアクティビティまで達成することができ、笑い、距離もグッと近づいた。それから一気にカレーを作ったり、それぞれの学校の話をしたり、裸足で全力バスケをやったり。

夜はキャンドルファイヤーは沖縄式火の神を体験したり、火を前にそれぞれの教育感をしっとりと振り返ってみたり。最後には「島人ぬ宝」を歌う。本場の指笛や合いの手がライブで盛り上がる。控えめに言ってサイコーの1日だった。

何よりもホスピタリティー溢れる沖縄の若い先生たちのエネルギーを感じた。こういう研修を積極的につくろうと何かを変えようとしている思いが伝わってくきた。

僕も地元に学びの場をつくる端くれとして感銘を受ける。「来年もまたやろう」と言葉を聞ける度に、ここでできることの可能性が広がり、想像してしまう。人と人がつながることで、何かが生まれていく、そのプロセスの中にいる面白さを感じている。これから、まだ会ったことのない先生たちとの交流、そしてそれが沖縄の子どもたちに還元されていくことが楽しみとなった。

さて、今日も研修は続く。僕の時間は「数学者の時間沖縄バージョン」。『「問う力」を育てる理論と実践』の道田泰司さん、『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』の上間陽子さんから、しっかり教師の成長プロセスや私たちの知らない沖縄のことを学ぶ。この場にいる人たちと学びを更新していきたいと思う。

それにしてもルートビアはサロンパスの味?がするなぁ。沖縄の先生がキョーレツに薦めてくれるので、思ったよりも美味しく飲めた。案外、いいかも。

かりゆしはやはり正装だった。沖縄県民は誰もがみんな2着持っているらしい(市場調査3人)。今日、僕もかりゆしを着て一緒に研修に臨もうとおもう。今日も沖縄の研修が始まった。

ナゴヤ・オープン・キャンパスにて「数学者の時間」

八ヶ岳合宿も終わり、ようやく夏休みがはじまった。休むヒマもなく名古屋市教育委員会主催ナゴヤ・オープン・キャンパスへ。研修の一コマを担当させてもらってきた。

名古屋市は早くから先進的な教育に目を付け、多様な教育実践で知られている。今回もその流れをくみ、様々な教育実践者の講座が主催され、僕自身が参加したいものがたくさんあった。そんな仲間の1つに加えてもらったのは大変、光栄なことだった。

そして、驚いたことにこの研修にはすでに1年ほど前から声をかけてもらっている。その時点では何を発表するのか全くきまっておらず、何をやってもよいとのこと。今一番、興味のある「数学者の時間」について報告することができたことは本当によい経験となった。

慌ただしく研修の時間は過ぎてしまったけれども、終了後に何人かの先生に声をかけてもらい、新しいつながりもうまれた。また、別のところに呼んでくれることにもなったのも嬉しい。

ほんと、算数って楽しかったりするので、そういう考えるおもしろさが広がっていくといいなと切に思う。

何よりも嬉しかったのは、数学者の時間の同じ研究仲間であるが、ガモちゃんが研修先にサプライズで顔出してくれたことだ。こういうことって励みになって、ほんとに元気がでた。ありがたいなぁ。

また、名古屋に前乗りして、KAIさんと2人で赤ちょうちんの居酒屋でしっぽりと酒を飲んだのもよかった。あまりにもビルとビルの間すぎで見落としてしまいそうな店だったが。

当日の打ち上げにもお邪魔させてもらい、ふだん会えなそうな先生たちとも会席できたのも嬉しい。

「また、来年も!」と言ってくださったので、もしまた引き続きあるようだったら、今度は、じっくりと3時間1本勝負でやりたいなぁ。

今回、80分で「数学者の時間」を体験してもらったが、あまりにも短すぎて僕がしんどかった。知識は伝達するものじゃない。けれども時間がないとどうしても、知識の導管モデルになってしまう。

できれは、本物の数学者のように数学体験をしてもらうことに加え、僕は最近こだわっている社会構成主義的な知識の創造をじっくりと経験してもらいたい。知識は実体ではなく、その場にいる人たちとの相互関係でつくりあげていくものであり、その文化的な実践として、教育に腰をすえてやっていきたい。

さて、明日は4時起きで沖縄へ。今度は沖縄の先生たちと新しい出会いがある。名簿をよくみると近所に住んでいる人も参加するのもまたおもしろい。

その後は少し南の島を巡りながら激しくアドベンチャーしてこよう。無事に帰ってこれるだろうか。さて、いよいよ夏休みがはじまるなぁ。