日曜日の朝ミーティングで、西村さんと話をした。先週、一日授業見学させてもらった西村さんの授業から考えたことをやりとりする中で、気付いたことがあった。
西村さんの授業は、国語も、算数も、社会も、総合も、そして数学者の時間もすべて一貫した子どもの活動が中心となる授業構造となっていた。これは、子どもたちにとってはとてもわかりやすく、学びやすいフォーマットになっていてとてもいい。
一方で、僕はそういう授業のつくりをあまりしていない。算数では普通に一斉授業を週4回やっている。ただし、その学習経験をつかって周1回の数学者の時間で使ってもらうかんじだった。
どうして子どもに任せることを少なくしているんだろう。なぜ自由進度学習とかしないのだろうか。
僕の授業は、カリキュラムを自分で編める自由裁量が大きい面もあるが決してそれだけが一番の理由ではなさそうだ。
たぶんそれは、子どもに任せておくだけでは「もったいない」な部分があるんだと思う。この感覚はきっとどの教員にもありそうだ。
僕ももう12年以上前になるが、単元を子どもにまかせる学び合いに注力しているときがあった。ばんちゃんの授業を福島へ見学しにいき、それこそ、3学期の学習単元すべてをまるまる子どもたちに渡して取り組んだこともあった。あれは刺激的すぎだ。
けれども、今はそういうことをしていない。唯一その取り組みは計算技能の習熟場面に限定してしまっている。
僕が「もったいない」、つまり自分でやりたい部分、一緒に子どもたちと考えたい、学びたい部分、それは学習内容を子どもが自主的にカバーすることだけでは足りないことなんだと思う。
例えば、算数でいえば教室の数学的文化とか算数キーワードとか、共通限言語を共通経験から学んでいきたい。それらは「メタ認知」の学びのことだと気がついた。
メタ認知といったより高次の学習の作法について、学級全体で整えながら進めたい。そういう考えが僕の中にあるんだと気付いた。
学習内容をただカバーすることに限って言えば、子どもに任せることの方が効率いいし、そのノウハウもそこそこ持っている。
内容は教科書を読んだり教え合うことで、その関門を適度に設定しておけば、その学習内容を理解できる所に到達しやすくなる。学び合ったその分、探究の時間も確保することが容易となる。
そしてそういうつくりに教科書はなっている。注文つけるなら、教科書の巻末にでも答えだけでものせておけば満点だ。
けれども、子どもに丸投げ任せではできない(と思っている)ことがある。例えば算数の「メタ的な学び方」でいうならば、
・予想を捕まえる
・多面的に考える
・問題を簡単にしてみる
・パターンを見つける
・自分をうたがう
など、ミニ・レッスンだけではサポートしきれないことがある。まぁ、これは僕の子どもを中心として授業の力量が低いからしかたのないことで、今できることをやるしかないのよね。
西村さんが、子どもとのカンファランス場面の中で子どもにこういわれた。「先生に聞かれること(先生の質問)がいい」と。これはまさに「先生」役割は、思考を高みに飛躍させる存在だとひらめいた。
僕は、よくいえば柔軟性をもって一斉指導の問題解決学習によって、メタ認知を効かせるような、学び方を学ぶといった学びではないだろうか。だから今日も僕は算数の時間に多面的、多様性をもって考えることをしつこく要求している。
西村さんとの対話は僕にとって熟考を求められるのでとても刺激的でおもしろい。また続けていきたい。