僕は週5回ある算数授業をいろいろ使い分けている。
4回は通常のカリキュラムをベースに僕がそのときに子どもたちにあった問題を作ったり、見つけたりしながら、全員で考えるいわゆる「一斉授業」を基本としている。
そして金曜日はおもいっきり考えることを楽しむ時間として数学者の時間を設定している。それはいわゆるワークショップ授業。
こないだ、学年の先生が「あの算数授業を本にすれば売れるよ」と教えてくれた。僕は数学者の時間を本にするつもりはあっても、通常の算数授業を書籍化する考えは全くなかったから、驚きとともに、ミリオネア・ビッグチャンスかも!笑 だれか僕からノートを元に書き起こしてくれるライターをやってほしい。
けれども、全員で考える一斉授業ばかりではなかなか進まないことがある。それは、計算の習熟。
算数授業では、様々な「考え方」を子どもたちとケンケンガクガク話し合う。一つのことを様々な角度から立体的にみることでそれこそ「概念」を獲得することができる。
先日読んだ研究結果に、概念にまで昇華された知識は脳の中で圧縮してしまわれることを示されていることを知った。一方で概念にまで磨かれていない知識は脳の中のスペースをふんだんに占め、活用することが難しくなるようだ。
“脳は概念のみを圧縮することができるが、規則や方法を圧縮することはできない(グレイ&トール)”
つまり、算数が得意だなって思う子の共通する特徴は、一つの解法だけではなく「多様な」考え方で考えることができる。一方、算数が苦手だなって子に共通する特徴は学んだことを抽象化された概念にできずに、いわゆる手順、やり方、計算方法に固執してしまう。
同じ計算パターンの問題が出てきたときは解くことができるが、ちょっと応用になると太刀打ちできなくなってしまう。それは学んだ知識が概念化されていないからだ。
となると、じゃぁどうやって概念化していけばいいの?ってなるけど、桑子敏雄『何のための「教養」か』には、
“教養とは、すぐれた選択を導く総合的、統合的な知であり、思慮深さである”
として、「しっていること(覚えていること)」「わかっていること(説明できること)」から、実際に「できること」にしていかなければならないとあった。僕はこのできるようにするための「算数・数学する」時間が必要だと考えている。
同書では、「できるようにする」ためには、プロジェクト学習が効果的で、学習者が理想を追求する中で、一人ひとりがよりよい選択をする思慮深さ(フロネーシス)を学ぶリアルな学習を推していた。
なるほど、ここにも学習者自身のエージェンシー(主体性)が発揮されることで、自分の意図によって学んだことを活かしてできるようになっていく道筋がみえてくる。
僕はその際、その「できること」に向けて知識を働かすためにも、日常の授業を多面的に、多様に考える算数・数学経験があってこそだと思う。ひとつのことをじっくりと、ゆっくりと様々な方法で「多様性」ある解法が必要だ。図、式、グラフ、表、さらには「ものづくり」や「半具体物をつかう」ことなんかに可能性をみつけようとここ数ヶ月いろいろ試している。
ただプロジェクトすればいいとは思っていない。「できるために」に使える知識に磨いてくためにも、ひとつのことをゆっくりといろいろな方法で考えること。こういう経験なくしては、ハイマール(這い回る)になるんじゃなかろうか。
今日、書きたかったことは、その多面的に考える授業だけでもだめで、ちゃんと習熟する練習時間をとってあげることがやっぱり必要だってことだったんだけど。まぁいいや笑。