算数授業をやっていて思うのは「まちがえ大歓迎!」「まちがえるからこそ賢くなる」みたいなキレイゴトを唱えて通用するのは、中学年までだろう。
高学年の子どもたちになれば
「わざわざ間違えるリスクはとりたくない」
「恥ずかしい思いだけは、なんとしてでもさけなければ」
となっていく。これはこれで正常な発達段階。
でも、やっぱりまちがえをしているときが、一番、脳みそをつかっているといった研究結果も示されている(Jo Boaler「Limitless Mind: Learn, Lead, and Live Without Barriers」)。その価値をいくらインストラクションしたところで、実際にわざわざ間違えをさらそうとする子は少ない。
アメリカ実践ではこういう間違えの価値を契約的に扱って、その文化を育てようとするアプローチが多い。でもこれって、なかなか実感と経験が伴わない心理主義的なアプローチであって、通用しづらい。だって、大人の僕でさえも間違えることの価値を知的に知ってはいるが、わざわざその間違えをさらそうとすることはあえてしない。したくない。そういう契約文化も日本には薄い。
じゃ、どうやって、まちがえを歓迎する学級の文化をつくることができるのだろうか。
このあたりのことをずっと課題と感じていただけに、先日LAFT研修で井本さんからの話にヒントとなる言葉がたくさんあった。
「算数ができる子というのは存在しない。解法のプロセスそのものがその子である。結果が正解したとかどうでもいいことであって、教師がこの子どものプロセスを見て取ることがとても大事である」
「(どんな解法であっても)ありのままを認めるということ。すると、子どもは穏やかになる。結果(正答)を求められると、緊張してしまう。プロセスを自分でふめると子どもは穏やかになるし、今ある手持ち(の知識で)でなんとか解決しようする」
まさに、ここだ。まちがえや失敗を推奨する文化には、あっている/まちがっているとかの評価軸を一度脇に置いておいて(KAIもそうだが、この外からの要請に忖度しない所が強い)、その子の考えてきたプロセスを「それおもしろいな」と認め、おもしろがれること。そういう子どもの側に立とうとしているサポーターとしての教師がいることが必要だった。
これって、算数数学だけに限ったことじゃない。
そうなると教科を越えて、どんなときでも関わり方は同じとなるはずだ。しかし、教師だって人間、常になんでも子どもの何かに興味をもてるわけではそうそうない。そのためには考えるに値する教材の準備が必要であるし(それがあって教師自身も興味関心がもてるはずだ)、それがあっての子どもたちの授業への本気の食いつきが生まれてくる。これはお付き合いレベルの授業では決して生まれないことだろう。
この自分なりのプロセスを踏むことは、その子らしさを発揮できていることに他ならない。評価されることを怖れている子は、なかなか自分なりの試行錯誤ができないし、わざわざ、よけいなことをしようとしない。
子どものプロセスをしっかりみること。
それに興味を持って励まし、価値づけること。
かかわるとは、こういうことだったのだ。
「子どもが、自分の考えを出したその瞬間をみつけて、教師がニコっと笑う。子どもは小さく喜ぶ。自分を出しても平気だと安心し、心がほぐれていく。すると、少しずついきいきと穏やかになっていく」
そして、井本実践では、この一対一の安心してまちがえることができる関係から、学習集団の中に共有する場をつくっていく。人は教師から学ぶよりも、子ども同士の群れの中から学ぶことのほうが多く育っていくからだ。
井本実践では、NHKプロフェッショナルにもあったように、だれかの「スーパー誤答例(自信をもって回答した解法)」をプリントアウトして配布する。すると
「なんでちがうの!?あってるじゃない!」
と本気で考え始めていく。
自分のままで考えたことが、他の人を動かすとはこういうことだ。そして、まちがえを承認されたってことでもある。これが、自分のありのままが人の心を動かし、人のありのままに心を動かされる文化となっていく。
こうやって心を動かす授業が練り上げられていく。僕のうすっぺらの「まちがえをベースに授業ができるといいな」という思いは打ち砕かれ、教材を仲介とした、人と人との関わりに還元されていく教育のスケールの大きさを知ったのだった。
「まちがえを歓迎する文化をいかにつくるのか」という問いは、「できる/できないの評価判断を保留して、そのプロセスに興味関心をもてるのか?」という問いこそが、ふさわしい問いだと気付けた。
僕らは子どもたちに、能力的にできることを期待しがちなため、この評価判断を保留することがとても難しい。そのための「子どもに期待する姿」や「考えるに値する教材」、そして「子どものプロセスをみる」ことだったりしながら、できる/できないといった、二分世界からの評価判断を越えていくことができるんだとおもう。
