それはどういうことなのだろうか。
僕はよく自分の歩き方を他の人に真似される。今朝も同僚に「こうでしょ?」とやられた。また、僕のいないところで、子どもたちもその真似をしているようだ。
取り立ててそんな特徴があるわけではないと自分では思っている。ただ「ゆっくり」なだけだ。
昨日なんて妻が持っているスーパー袋を持ってあげようと声をかけようとしたが、追いつけなかった。そして振り向きざま一言「おいてくよ」。競技種目が違いすぎる。
なにも最初から僕はゆっくりではなかったはず。
以前、公立学校で勤務していたときの市内の全体研修会の中で、ゲストだった諸富義彦さんがこんな話をしてくださった。
「教育相談の本質はゆっくり歩くことです。教員がトローンとしているのがいいんですよ」
会場はどっと笑っていたが、僕は「なるほどな」とひそかに思った。
やはり相手の心にチューニングするためにはまず、自分自身の身体が開いていることが前提だ。その受ける姿勢をつくるためのゆっくりさ。そう解釈した。もしかしたら違うかもしれない。
スキの多さ、ムダの多さ、そういうものこそ、日々を豊かにしてくれる。それを体現するのが僕にとってはゆっくり歩くことだったのだ。
果たして、これが教育相談にどれだけ効果的に寄与しているかはわからない。けど、僕はそれが自分にとっての癒し、身体をゆるめること、つまりは教育相談になっていると思う。
そして、僕は今夜も妻の横においつけず、後ろ姿を眺めながら歩いている。
