立川志らく「師匠」から学びの本質を知る

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明日から入試。なかなかタフな日程が続く。英気を養うため、今日はのんびりと家で読書。昨日、新宿の本屋でたまたま手にした本がおもしろすぎて一気に読み終えてしまった。

しばらく落語を聞きに行けてなかったので、約束していた人と会う前に落語関連の本を探そうとふらっと本屋に寄った。

ちなみに新宿の本屋でいうと、僕は新宿紀伊國屋よりも新宿ブックファーストのほうが好き。あの本の杜に迷い込む感じがとくにいい。

しめしめ、立川流の本が新しく出版されていた。

立川志らく『師匠』

立川談志にたいする愛が語られている本だった。本の帯には「師匠のことは大キライ」とかかれているのが立川流。

以前、読んだ立川談春の『赤めだか』には、立川談春は志らくのことを、かなりはなもちならない奴だったと読み取れた。一方、志らく『師匠』からは談春こそ芸はするどいが、怠惰な奴だと仕返しされていた。

兄弟弟子のやりとりが本を通してやりあっているのが特におもしろい。

同じ修業時代でも、師匠である立川談志から厳しく育てられた談春と、天才とほめそやされて育った志らくの別々から、今はなき立川談志の破天荒さがたちあがってくる。

立川談志の修業時代の徒弟制度からは「学びの本質」について考えさせられることが多い。

弟子は、全てにおいて師匠の一挙手一投足すべてに気をつかわなければならない。その気迫が本から伝わってくる。

自分が談志を師とあおぐならば、その談志の意図とは関係なく、全てが修業となる。弟子は、勝手に何かを学んでしまっている。それほどアンテナを張り巡らし、常に師匠と一緒にいる。

この「しまっている」のが学びの本質が凝集されているのではないか。自分はこの師から学ぶと決めたら、もう学びは勝手に駆動してしまう。

談志は自分では抱えきれなくなった弟子たちに「築地に行って修行してこい」と命じる。その無理難題に談春ふくめ3人の弟子たちは文句をいいながらも素直に従う。なぜならそれが徒弟制だからだ。師の言うことは絶対である。この築地修業時代のくだりは談春の『赤めだか』にくわしく、とくにおもしろい。

しかし、志らくは「それはいやだ」と師に背く。落語家になるために修業しているのに、なぜなら魚屋になりたいわけではないからだ。気骨のあるとはこういうこと。あの立川談志を前に、そうそう言えない。だから談志に愛された。

「築地に行ってこい」といわれ、一方はこれも芸の足しになる、修業なのだと思って素直に行く。もう一方は断る。断るとなるとその理由を考え、思考が回せざるをえない。

同じ場面に立たされても、人はまったく違うことを考え、行動し、育っていく。学びってそういうもの。あこがれる、ほれこむ、この人から学ぶ、と思えたならばすなわちそれが学びとなって起動する。そういう学びが芸の世界にある。

落語が好きだ。

古今亭志ん生、古今亭志ん朝といった人気どころはききやすく、好きだ。しかし、立川談志をきいてしまうと志ん朝には物足りなさを感じてしまう。

今はやはり立川一門が好きだ。あの立川談志の毒ある口調、そして人の弱さを肯定してくれる落語が。志らくを聴いていると、談志のものまねが実にうまい。乗り移っているようにも聞こえる。

YouTubeでいくらでも過去の名演技を見られるこの時代はありがたい。この秋、しばらく落語にふけようかとおもう。

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