10月の早朝はもう肌寒くなり、フリースを羽織ってトレーニングに通っている。子どもたちの制服も夏服から冬服へ衣替えがはじまった。みなれなかった紺色の制服が新鮮にうつる。
ところで、制服ってなぜあるのだろう。
公立学校で勤務しているときは、みんなそれぞれ「いつもの」服をきていた。別に気にもならなかったし、それが自然なことだと思っていた。学年があがるにつれておしゃれしてくる感じもまたかわいかった。
今の学校で勤務するようになって、最初、制服がまぶしく見えた。どうも制服を着ている子どもたちは、不思議とおりこうさんに見える。これはおもしろい効果だとおもう。
実際はかなりやんちゃで、ランドセルに入っているのは弁当箱と池ポチャ用の着替えと体操着ぐらいなのに。落ち着いた清楚な子どもとはほど遠いひざっこぞうをすりむいている昭和のにおいもする。
制服効果なるものがあるようだ。海外からの教育視察団は日本の何をもってかえるのかというと、制服だそうだ。制服は集団を統治するのに効果的だとか。なるほど、中高になるとそういうみえない意図があるのかもしれない。
一方で、制服は貧富を隠してもくれる。毎日同じ服をきていても誰からの何も言われない。ひとつ役にも立っている。
しかしだ。男子は半ズボン、女子はスカートというのはなんとも時代錯誤だと思う。最近では、卒業生たちの中でもスカートではなくパンツをはいている子もいる。男子だとか、女子だとかで着るべき服を着て異する必要はないはずだ。
気になって中高の先生に尋ねてみたことがある。ジェンダーの問題からかと思いきや、理由は動きやすいからだそうだ。僕は機能性の問題だけでも選択できるのはいいと思った。
実際に、本校の幼稚園でも制服をやめた。それは、「着替えの時間がもったいないから」だ。この理由とてもいい。とくに幼児にとってどんな時間を優先するのか、よく考えたい。生活練習をするよりも、たっぷりと遊びの時間をすごさせてあげたい。そんな願いが伝わってくる。
今日の運動会練習の後「イガせん、なんでこの紅白帽子って赤と白なのさ」と文句をいってきた子がいた。たしかに、べつにどんな色でもよさそうだ。運動会の紅白対抗をさわやかな緑と青にしたっていい。
すきな服を着て、おしゃれをしたい人はするし、気にしない人は制服きたっていい。そんなゆるやかな感じでいいんじゃないかな。
