ルーブリックを示すことって、学びを仕事化してしまわないの?

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今朝、恒例の「数学者の時間」zoom早朝ミーティングがあった。そこで、出した話題がずっとモヤモヤしているので、書き出してみる。

話題は評価のことだった。ワークショップ授業は形成的評価がキモ。そして、自己評価の実践をもっと厚くしていくために、パフォーマンス課題をもとにしたルーブリックの扱いに話が及んだ。

僕は、ずっと以前から、ルーブリックを作るときに違和感を感じていた。これは自由進度の学習計画表(特に計算領域の練習)をつくるときも同じように感じてるのだけれど、「学習することは一つずつ塗りつぶしていくように、仕事化、タスク化されないか?」ということ。

ルーブリックや自由進度の計画表を示すとき、「これからやる学習は、みなさんはここまでやればいいんですよ」と言ってしまっているのではないか。そういわれているような気がしてしまう。もし、まちがっていたら、率直に教えてほしいです。ソレチガウガナと。

もちろん、学習者にとって、具体的にどんな学習目標で、それがどんな評価規準/基準となるのか共有し、見通しをもって学習に取り組むことは、いいことだと思うし、現に、僕も定期的にやっている。

しかしだ。

やればやるほど、なんだか、学びってこういう達成課題のようなものになりさがってしまっていいのだろうか。そもそも学校という構造そのものがそうなっているのか。出発点が子どもになく、カリキュラムにあるような印象をうけてしまう。

僕が思う学びって、もっと、勉強をやることと、やらないことの間にあるような、そこでうまれてくる教室のハプニングや子どもの文脈、勉強が得意な子やそういう子だけではない、いろんな中間的な何かから生まれたりして、そこで育っているものだと思う。決して、教科だけで人は育っていない。

このあたりは、もっと遊びと学びのこと、今、しぜん広場で遊び続けていることなど、もっとそういう実践の意味を言葉にしていく必要がありそう。引きずって考えていこうとおもう。

じゃぁ、今やっている「数学者の時間」って、目標や計画や見通しがないのだろうか。いやいや決してそういうわけじゃないし、綿密に準備していることもちゃんとあるし。

では、何があると数学者の時間なのか? 

そう質問されてみるとふたつだけのことだと考えた。一つ目は、ミニ・レッスン、ワークタイム、振り返り/共有のサイクルがあるワークショップ授業であること。二つ目が問題解決のサイクルを使って算数・数学していること。この二つが原則となる。

それ以外はけっこう自由でもある実践であるため、実践者の数だけのワークショップが生まれると考えている。これはとてもいいことだと思う。やり方に固執せず、どういうあり方がベースとなっていれば、数学者の時間とよべるのだと、明確だから。

やっぱり、教えることは、大切なことに絞って少ないほうがいい。このあたりのバランスをとれるようになれば、タスク化したこなす学習とちょっと距離をとれるのではないだろうか。

40年ぶりに、ゲームの攻略本を買ってみた笑。これまでずっとネット情報オフで遊んできたゲームが、なんだかこの続きはただの作業ゲーとなってしまった。これって同じこと?

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