問いの暴力

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きかれたら、答えなければいけない。

本当はこたえたくないことなのに、考えたくないことなのに、ふれてほしくないことなのに、心がざらつくような問いをなげかけられることがある。

矢継ぎ早に質問して、話の筋道が少しでもちがうと論破しようとする人もいる。

無理に答える必要はなりはずなのに、きかれると、なんだか答えなければいけない気持ちがしてしまう。

問いはときに暴力的だ。

難しいのは、フィードバックとして、直接、まちがっているところを指摘するのではなく、改善点を質問としてなげかけること。これは僕自身もよく使ってしまう。

相手との関係もあるかもしれないけど、回りくどくきくのではなく、率直にきけばいいと思う。「あなた、チャックが開いていますよ」と。

問うことが悪いのではなく、問いは相手に考えてもらえるような「あいだ」を与えてくれるよさがある。ただ、そこに、問われたい、もしくは問われても受け止めようと思えるような「問いの主体」を問いかけられた人がもっていられるといい。

問いには、自分もちゃんと向き合って、考えたいと思えるものかどうかということが大事だと思う。

だから、問いにはそのとき、そのとき、拒否権があっていい。こればっかりは問わないと、相手にとっての問いになっているかどうか、わからないからだ。相手が何に傷つき、何を触れてほしくないのかは、きいてみないとわからないことも多い。

そして、考えてみたくなったときに、その問いをちゃんと引き取っていけばいい。その瞬間で答える責任はだれにもないはず。

そう考えるふしがあるから、僕はいろいろ質問されても、スルーしてしまうところがあるんだと思う。

自分も相手も大切にする問いとは、どんな問いなんだろう(自問)?

こういう靴下のときには問わないで、指摘もせずにそっとしておいてほしいです。
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